Halley Merry
 坊ちゃんは働きすぎです。そう言われて無理矢理休みを取らされた今日、奇しくもクリスマスイヴだった。
 世間が年末にかけて忙しくなるのと同様ヤクザ家業も年末は忙しい。みな内々の仕事に追われ、まともに休みも取れない状況だ。それは四柳も、父も、僕も、みんな同じだった。
 だけど危機迫った顔で僕に休みなさいと詰め寄る四柳の顔を見て、ああそうだった、なんてどこか懐かしい気持ちになったのだ。
 もう過ぎてしまったといえども、十二月は僕が弱くなる日だった。
 迅と出会ってから毎年一緒に過ごした。区切りをつけないと、そう思っていてもなかなか改善できない僕の弱さを、迅は補ってくれた。だから忘れてたんだ。迅が隣にいることに慣れ過ぎて、一人で過ごす時間を。
「……迅」
 ガラスに指を這わせて、迅の名をなぞらえる。ネオン輝く大東京のどこかに迅はいるのだろう。
 急に休みですと言われ本家を追われた僕は、明日まで本家の敷居を跨ぐことを禁じられた。
 僕のためとわかっていてもぴしゃりと閉じた扉にもやもやとして、四柳なんか放っておくと意気込んで新宿歌舞伎町に行けば、そこも四柳が手配したのか奔走する若衆に今日は休みですと言われ追い出された。
 父に電話で助けを求めてみても、今日は母とデートだから忙しいと言われ切られる始末。
 数少ない僕の友人、といっても同業者だが、に電話をかけてみても皆この時期は忙しいのかまともに相手もしてくれない。
 第一クリスマスイヴに休みだと言われても急過ぎる。なにもできないじゃないか。
 店はどこも満員だし、移動するにしても人が多過ぎてまともに進まない。今から一人でホテルを取ろうにもこの時期に取れるホテルなんてまともなものがない。
 僕はクリスマスイヴに一人きりにさせられたのだ。
「四柳め……」
 ぼうっとしていても埒があかないので寒空の中一歩を踏み出してみるが、宛てなどない。クリスマスイヴに過ごしたいと思う相手、……迅は今頃なにをしているのだろう?
 あの日は僕のために休みを取ってくれる迅も、忙しいクリスマスに休みを取ることはできない。だから僕と迅はクリスマスを一緒に過ごしたことがなかった。今までは忙しいから気にしてなかった。そう今日までは。
 子供の頃は母が小さなパーティをしてくれて、父と三人でクリスマスを祝った。
 大人になるにつれ次第にしなくなっていって、僕も仕事に追われるようになり、クリスマスはただの金の成る日という認識に変わっていった。
 ぽっかりと空いた時間に、欲求が膨らむ。ふいに休みが取れたからって現金なものだ。
 つい、と伸びた携帯電話で慣れた番号を呼び出す。何度目かの呼び出し音が鳴った後、耳に馴染む声が届いた。
『……尚人?』
「なにしてるの?」
『あ? なにがだ』
「仕事? 新宿で仕事してる?」
『いや、今日は本家の方だな。舎弟の一人が凡ミスしたお陰で糞忙しい……』
「フフ、迅の教育が足りてないんじゃない?」
 ぱらついた雪が頬に当たって、冷たさを感じた。宛てもなく歩き出した足は迅の言葉に落胆しているのか、それでも少しの望みを持つ。
 三半規管を揺るがす迅の声は、止まりそうだった僕の心を動かすのには十分なのだ。
『……お前は? 尚人はなにをしてる』
「フフ、なにしてると思う?」
『仕事じゃないのか? さっきお前んとこの若衆の一人がこっちに挨拶しにきたぞ。声をかけようかと思ったんだが、余りに急いでる様子なのでやめておいたが』
「……今は一人。今日休みをもらったんだ」
『あ? おい、尚人、何故それを早く言わない』
「だって、別に迅と一緒に過ごす予定もなかったでしょう? あ、信号が変わる。迅、メリークリスマス」
『おい! お前今どこにいるんだ! 誰かと過ごすのか!?』
「フフ、秘密」
 ごちゃごちゃと叫ぶ声を無視して電話を切れば、また直ぐに携帯が鳴った。電源を落としてしまえばもう、迅との繋がりはなくなる。
 どこか少し楽しんでいたかった僕はマナーモードにすると、青になった信号へと踏み出した。少しでも繋がりがある場所へ、そう僕は清滝組が所有するホテルへと移動したのである。
 本来ならば予約で埋まっているはずの最上階のスウィートルーム。だがこの部屋は僕専用のものとなっていた。
 いつからか僕のためだけに空くようになったこの部屋に、僕一人が訪れれば支配人は心底驚いていたがにこやかな笑顔をみせてくれると案内をしてくれた。
 ガラス張りになった壁はきらきらと輝く大東京を展望でき、恋人と過ごすのならさぞかしロマンチックなのだろう。
 僕はそれを望む気持ちも憧憬する気持ちもないけれど、迅が側にいるのならそういう時間も過ごしてみたいと思う。
 結局、僕は迅に依存しているだけなのだ。酒も迅がいるなら我慢できた。睡眠を取るのだって迅の側なら安心して眠れる。
「迅、迅……」
 迅はいない。迅がいない。
 温もりも匂いも気配も、迅を感じさせてくれるものも、なにもないこの部屋。それでも迅と僕の部屋ということで縋った僕はどんな顔をしているのだろう。
 いつからこんなに弱くなった? 仕事をしているときならば、なにも考えなくてすむ。三雲組の若頭でずっといられるのなら、迅なんていらない。
 だけど僕は三雲尚人でもある。ただの尚人の僕は、迅がいないと息もできない。
 はくはくと空気を求める金魚のように口を動かすと、たった一人の名を僕は壊れた人形のように呼び続けた。

 ブーブーと断続的に鳴るバイブの音で目が覚めた。液晶に映る迅の名が今だけは虚しく見える。
 電波で繋がる声ならばいらない。この手を触って抱き締めてくれないのなら必要ではない。
 異常なほどの着信履歴を残す携帯の電源を落とすと、僕はワインクーラーへと行った。だがそこはこの間の悶着があった所為か鍵がかけられており、その鍵は迅が所有しているのだった。
「フフ、しまったな」
 ガチャガチャと音を立てて開こうとしてみるもびくともしない。仕様がなしにワインを飲むことを諦めた僕は、酒棚と冷蔵庫からアルコール類を適当に取り出すとガラス張りの壁へと移動した。
 一歩踏み出せば外に出られてしまえそうなほど綺麗なガラスは、そこに存在を感じさせはしない。
 手を伸ばして触れてみても、冷たい感触が指先を襲うだけ。親しくなっても、側にいても、触れられない迅の心のようだ。
 見えるはずもないのに僕はここからなら迅が見えるんじゃないかってそんな気がして、ガラスの向こうの世界に視線を向けると持ってきた酒に手を付けたのである。
 ビール、チューハイ、焼酎、スコッチ、バーボン、ウイスキーなど、僕の好みの酒ではなかったがそれでもないよりはましだ。震えてきた手で焦ったようにプルタブを開くと、喉に馴染む味を噛み締めたのである。
 そこから、記憶が曖昧だった。ただぼんやりと外を見つめながら酒を煽るだけの時間。一人で、ただ一人で過ごす時間。
 こんなことならば休みなどいらない。欲しくなどなかった。それでも、四柳は言うんだ。休めって。
 ただ人より少しだけ精神的に参っているだけなのに、甘えさせてくれるその心が僕には痛い。重荷になんてなりたくないのに。
 足に絡まった懺悔の念がまるで蔦のように身体中を支配していくような、そんな気分だった。
「迅……会いたい」
 蔦を切ってくれるのは迅だ。僕を守ってくれるのも迅だ。
 大きくなり過ぎた存在は、僕の一部になっていた。必要不可欠な存在になっていた。
 あの時、出会わなければ今頃僕はなにをしていたんだろう? もっと強くなれていた? それとも、弱くなっていた?
 アルコールを浴びるように摂取しても止まらない身体の震え。次第に気が遠くなっていくような気もする。
 普段はワインだけを飲む僕であったが、今回は学生ノリのようにちゃんぽんをしてしまったから胃が受け付けなかったのだろうか。むかむかとする胃に、ぼんやりとする視界。
 このまま泥酔してしまえれば、明日になってくれる。そう思って目を閉じてみたが聞こえた足音にはっと目を開いた。
 大きくなる靴の音は、迅だ。迅が会いにきてくれた。
 身体が思うように動かない。迎えようとしてみたけれど、迅がくるのを待っているかのように身体は動いてはくれなかった。
「尚人!」
 バタン、と大きな物音を立て開いた扉。近付く足音に、感じられる気配。迅の香りがする。
 ふいに抱き締められた身体中から迅に触れたような気がして、僕は初めて呼吸をすることができた。
「じ、ん。迅……」
 僕を掻き抱くように抱擁してくれた迅の指先にキスを贈れば、無理に迅の方を向かせられてしまった。
 ハアハアと息荒く、薄っすらと汗を掻いた迅は余程急いできたらしい。忙しい時期なのに抜け出せたことに少々驚いた僕は迅の頬をなぞると、アルコールで掠れた声を出した。
「フフ、探してくれたの?」
「……と言いたいところだが、支配人から電話があってな……。まあお前の声の様子がいつもより悪かったし、急に休みだなんて主張するから心配してたんだ。どうして電話を切った」
「声、聞きたくなかったから」
「お前なあ……会いたかったんだろう? どうしてそれを先に言わない」
「フフ、だって、迅もそう思ってくれないと会う意味ないでしょ?」
「会いたいに決まってるだろう。だから必死で探したし、心配もしたんだ。仕事だって」
「良いよ、そういうの。もう、良い」
 不安を取り除くように甘く言葉にする迅の唇を手で押さえると、僕はにっこりと笑みを作った。
「タイムリミットは知らない方が良いでしょ? 僕がいないときに帰って。こうして、会えただけで、僕は十分だから」
「珍しく可愛いことばかり言うんだな。いつもの憎まれ口はどうした」
「フフ、誘ってるの。ねえ?」
 首に手をかけ引き寄せてみれば、迅はそのまま僕を抱いてベッドまで連れて行ってくれた。
 クリスマスを心待ちにするほど綺麗な心はもうなくなってしまった。それでも心が選ぶ人と、クリスマスに会えることがこんなにも満たしてくれるものだなんて迅がいなければ知ることもできなかった。
 指が、目が、唇が、僕を愛していると告げている。
 身体の震えは止まった。アルコールも飲みたくなくなった。だけど少しワインを欲している。そんないつもの僕だ。
 身体を絡めて、心で繋がって、迅が愛してくれるから、僕も愛している。
「尚人、メリークリスマス」
 耳にかかる甘い声音。返すように唇を重ねた。
 いつものように性急にことに及ぼうとする迅の身体を、僕はいつもより素直に受け入れたのだった。
 四柳の言った通り、僕は相当疲れていたらしい。数回迅と身体を重ねただけで早くも限界だったようだ。
 ずしりと重くなった身体に圧し掛かったままの迅は柔らかく笑うと、汗で張り付いた僕の髪を指で退けた。
「尚人? もう寝るのか」
 寝たら迅は帰ってしまう。次に目を開いたら、いなくなってしまう。
 そんなのは嫌だ。だけど目が重いのはどうしようもない。僕は抗うことができなくて、だけど最後の足掻きというように迅の身体を抱き締めるとゆっくりと意識を失っていったのだった。
 それは寂しくもあり、心地好くもある。そんな眠りだった。

 夢を見た。そこにはサンタがいた。
 僕はサンタを信じるほど子供じゃない。そう言いたいのに何故か言葉が発せない。
 幼くて少女のような、だけど少年のサンタは可愛い顔で嬉しそうに僕を祝ってくれると光の球体を手渡してくれた。
(これはクリスマスプレゼントだよ)
 そう言って消えていくサンタ。僕の手には光の球体。温かくて優しい球体。
(メリークリスマス)
 脳内に響いた高い声音に、僕はハッとして目を開けた。朝日が眩しく、目を突き刺すような痛みだ。
 迅がいない朝ならばこないでほしかった。なんて思いつつ横を向けばそこには見慣れた胸板。
「……迅?」
 僕を抱き締めたまま子供のような寝顔を晒すのは、確かに迅だった。だけどどうして迅がまだここにいる? 仕事ではなかったのか?
 おそるおそる触れてみれば心臓が上下に動いている。ニセモノではない。本物だ。
 いまいち実感が沸かなかったが、迅は僕と一緒に一夜を過ごしてくれたようだ。この忙しい時期に。
「サンタ……から? フフ、いやだな、まさか……」
 夢じゃないか。そう呟いてみたけれど、それは声にはならなかった。
 迅が目を覚ましたらしく、眠そうな顔で僕の鼻を摘むと煩わしそうな声を出す。
「まだ寝てろ……時間はあるんだ……」
「ねえ、仕事は? 朝だよ。早く行かないと駄目なんじゃないの」
「今日の夜まで休みだ。休みをもらったんだ……お前もだろう?」
「そ、うだけど」
「じゃあまだ一緒にいられるな、尚人」
 あどけない少年のような笑み。ここにいるのは清滝組跡目の清滝迅じゃない、ただの迅なのだ。僕と同じ、ただの人間。
「……フフ、そうだね。まだ一緒にいられるね」
 夢だったら困る。そう思ってしまった僕はなるべく起きていようとそう決めると、再び寝ようとした迅の顔をじいと見つめたのだった。
 あの夢が本当で、この現実はサンタからの贈り物なのかもしれないなんて子供のようなことは言わない。
 だからきっと都合の良い夢を見て、そうしてたまたま迅が側にいてくれるだけに過ぎないのだ。
 だけど少しだけなら、サンタからの贈り物だったなんて思っても良いだろう? 迅に言う訳もなく、僕の心の中だけの秘密。言葉にしてしまえば醒めてしまいそうなほど、拙い記憶。
 僕は温かみを感じる肌にこれ以上ないほど安心を抱くと、少しばかり甘えてみた。
 迅が起きたら本物のクリスマスプレゼントを強請ろう。迅が到底用意などできない代物を強請ろう。そうして迅を困らせてやるのだ。そんなもの用意などできるか! と。
 だけど迅は、僕の本当に欲しいものをいつだってくれている。願わくは少しでも長く共にあり続けるように、そう願う僕が欲しているものは今側にいるからそれ以上はなにもいらないのだけれど。