たとえ、ここに永遠がなくても
 じっとりとした、どちらかといえば気分のあまり良くない視線を感じる。尚人は些か不機嫌に、表面だけは飄々としたまま慣れない清滝組本家の廊下を歩いていた。
 尚人と迅が恋人同士にあたるという情報は公然の秘密だった。もちろんそれは両家の中だけであり、世間体からいえば極秘にもあたる。こんな身分にいれば己の弱みがなにになるのか、嫌というほどわかっている。
 だがお互いそこまで弱くもない。ある程度の身分にいるからこその力もあるので、それは危惧すべきところではないのだ。
(……ほっんと、気分最悪)
 吐き出したい気持ちを抱えたまま、尚人は先ほどの出来事を思い返していた。
 ことの発端は三雲組本家組長による有難迷惑な提案から始まった。清滝組本家組長と違い、三雲組本家組長即ち尚人の父は尚人と迅の交際に反対を示していなかった。仕事を全うするならば、好きにしても良いと言う。
 だが迅の父は頑固頭な所為も手伝ってか表立って口酸っぱくいうことはないけれど、どちらかといえば否定的な立場だった。
 それ故その悩みをいつでも抱えていた尚人に、尚人の父が少しずつ認めてもらおう作戦というくだらない提案をし、それを実行するためにこんな清滝組本家くんだりまでわざわざやってきた。
 なんとも馬鹿らしい。名目上は三雲組本家組長から清滝組本家組長への献上菓子を、三雲組本家若頭である尚人が代わりに届けにきたということだ。献上菓子を届けた最初こそ柔軟に対応してくれたが、話題が迅との交際のことになると直ぐに難色を示される。
 このままでは埒もあかないしどの道結局はこうなるのだ、そう思った尚人は次回へと持ち越しを決めて早々帰ることに決めた。
 だがここまできた尚人の度胸を認めたのか、正式に暫く滞在していても良いというお許しを清滝組本家組長直々からいただいたので、尚人はこうして清滝組本家の廊下を歩いていた。
「坊ちゃん、空気が悪いですね」
 一歩後ろに尚人を護るようにして控えている四柳の言葉に頷いた。三雲組本家若頭の護衛が四柳だけというのも頼りない話だ。兄弟盃を交わしたとはいえど、相容れるはずのない清滝組本家にいるのだから。
 だけど外に戻ればそれなりの人数は待機している。中に入ることを許されたのが四柳だけだから仕様もない。
「どうしましょう。帰るのなら連絡を入れますが」
「……義親父直々に許可をいただいたからね、早々帰れはしないよ。フフ、迅の部屋でのんびりしておこうかな。じゃないと体裁もない」
「それを敢えて狙ったんでしょうか……」
「さあ? フフ、ほんと食えない人だ。僕には到底扱いきれないね、流石」
 飄々としていても、心は大荒れだ。それも仕様がない。清滝組本家での尚人の立ち居地とは中途半端なものなのだから。
 三雲組と違って清滝組は少々閉鎖気味であり内々の結束が異常に強い。盃をしていようとも外部のものに対し、大っぴらに快く迎え入れることをしない。
 特に尚人など組長派からしてみれば大事な跡取りを骨抜きにした外部の組の若頭というイメージしかないのだろう。それ故このようなあからさまな視線も致し方ないと思っている。
 尚人を快く迎えてくれるのは、やはり迅周辺の人だけだ。それだけでも素晴らしいことだろう。道徳にすら反旗している恋なのだから。
 空気の悪い場に尚人が晒されても帰ることは許されない。組長から許可を得た手前、迅に顔を合わせるまで帰れないのだ。遠慮という形で帰ったとしても、それは組長の意を組まなかったとみなされる。
 全く厄介な世界である。尚人はふつふつと沸き上がる苛立ちを必死で押し留めて、迅の部屋へ向かう。何度も足を運んだお陰か随分と馴染みのできた襖を躊躇することなく開けた。
 迅は未だ仕事をしている。帰ってくるまでの数刻ここで大人しくして待っていよう。幸い中枢より離れたところに迅の私室があるので、万が一大喧嘩してドンパチやる騒ぎになっても気付かれにくいだろう。
 そんなことを思いながら中に入った尚人を、見知らぬ客人が出迎えた。
「……お前誰? ここは迅の部屋だぞ。下っ端が気安く声もかけねえで入れる場所じゃねえだろうが、ああ?」
 喋り方こそ口汚くて野蛮な感じがするものの見目はそうでもなく、金色の長髪を後ろに流し尚人を睨みつけてくる様はどちらかといえば美人という形容詞が似合う、細作りな筋肉を持った美丈夫だった。
 見目のことなどどうでも良い。尚人だってそれなりという自負はある。ではない、一体どういうことなのだろうか。一瞬惚けた尚人であったが直ぐに気を取り直すと、勇んでいる四柳を制止して声をかけた。
「あんたこそ誰? 僕の知らない顔だ」
「そりゃ知らねえだろ、普通。つーか誰だって」
 尚人に対し直ぐ苛立ちをみせるこの男は迅以上に短気なのではないだろうか。尚人を蔑むような態度に四柳がふるふると震えた。尚人こそ表面は普通にしているが、今直ぐこの男をぶっ飛ばしてやりたいほどの怒りはある。四柳とは意味が違うけれど。
 どうして迅の部屋にいるのか。こんな男の存在など尚人は知らされていない。少しの黒い雨が、尚人の心に降る。
「おい、なんか言えよ!?」
 立ち上がって勇んだ男に四柳が応戦しようとした最中、慌てた様子の清重がやってきた。
「朝妻(あさづま)さん! ストップストップっす〜! その人、組長の許可得てここにいるんすから下手なことせんでください!」
「あっ!? 親父の!?」
「……フフ、残念? 清重、お前が止めなかったら今直ぐ撃ち抜いてたのにね。間が良いんだか悪いんだか」
「姐さん!? じょ、冗談っすよね!? そんなことしたら俺が兄貴に殺されるっす!」
 尚人のジェスチャーに頷いた四柳は一歩下がると、迅の部屋前の待機に切り替えた。なにも言わなくてもわかる四柳とは違い清重はおろおろするだけだし、朝妻と呼ばれた男は理解すらしていない。
「清重、二人きりにしてくれる? 話したいこともあるし、聞きたいこともある。良い子にできるね?」
「え、あ、で、でも……」
「心配なら迅に連絡すれば? とにかく出てって。良い? どんな音がしても入らないこと。僕が助けて、っていうまでだよ。勝手に入ったら……わかってる?」
「……はい」
「四柳にもよろしく」
 有無を言わさず清重と四柳を部屋から出した尚人は後ろ手に襖を閉めると、朝妻を振り返ってにっこりと作り笑顔を浮かべた。妙な空気感である。あっという間に、気が付けば二人きりだ。
 朝妻は居心地悪そうに煙草に火を点けると、ソファに踏ん反り返った。
「で? わざわざ二人きりにしてどういう訳よ。お前迅のなに? 親父絡みってことはヤクザか? 清重の態度からしてみればそれなりの立場なんだろうな」
「さあ? あんたこそ誰。朝妻って聞いたことないけど、二次団体の人?」
「……プライド高そうだな、お前。俺は清滝組本家相談役んとこの次男坊っつったらわかるか? 訳あって母親の性名乗ってっけど、ヤクザではねえわな。跡継ぎでもねえし? ヤクザ家業には変わんねえけど」
「フフ、ああそういうこと……? あんた、迅の幼馴染ってやつだ」
 尚人は湧き立つ苛立ちを抑えようと極めて冷静に努めていたつもりだった。人を食っているかのような、朝妻のすべてが気に食わない。いや、それは建前だ。迅に関わるから、気に食わない。
 尚人が紹介されていない、ヤクザ絡みではない迅の知り合い。見ていればそれなりの仲に思う。わざわざ友達など紹介する言われもないから今までこうして過ごしてきたが、尚人以上に迅を知っているのだという存在が耐えられなかった。
 本当に狂っている。尚人は自嘲すると身体を朝妻に向けた。
「言う気になった? お前なんて言うの」
「フフ、僕に向かってそういう生意気な口の聞き方する人も珍しいな」
「どう見ても俺のが年上だろ!?」
「精々三つくらいじゃないの。ま、良い。僕は三雲尚人。迅とはそうだね、五分の兄弟盃を交わしたっていう……関係かな。正式にいえば三雲組本家若頭だよ。ここにいる理由、おわかり?」
 余裕ぶってみせてはいるが、腸が煮えくり返っている様子が朝妻にも伝わった。どうやら尚人は随分とご機嫌が斜めらしい。それらしい理由がわからなかったが、朝妻は口笛を吹くと煙草を揉み消した。
「へえ? お前が噂の三雲尚人、ね。迅のイロ、情夫ってやつだろ? なあ」
 軽い挑発だった。小奇麗に澄ましている尚人が、どんな風に怒るのかを見てみたかったという理由もある。
 じいと朝妻が視線を送る尚人はなにをするつもりなのか部屋を見渡して数歩歩くと、酒棚を見て口端をニィと上げた。嫌な予感がする、と朝妻が思うよりも早く尚人は拳を握り思い切りその酒棚を叩き割った。
「おい……っ!」
 その行動には、流石の朝妻も閉口せざるを得ない。なにしろ素手で酒棚を覆っている硝子扉を割ったのだ。
 襖の奥の気配がざわつく。尚人の優秀な調教のお陰か声もかけない側近はさぞかし苦労をしているのだろう。朝妻は呆れ帰ると、ポタポタと血を流している握り拳を見つめた。
「あまり舐めた口を聞かないでもらいたいね」
「……了解。お前頭可笑しいんじゃねえの」
「フフ、そう? 僕は足りなかったものを補充したかっただけ。それ以上も以下もない。気にし過ぎだよ、この程度」
 乱雑にぐちゃぐちゃになった酒棚から尚人は目ぼしい酒を取り出すと、不服そうにしけてると呟いた。尚人の手には高級ウイスキー。酒をあまり嗜まない迅が、それでも楽しみにと大事に保管しておいたものだ。だからこそ鍵付きの酒棚に入れていた。
 尚人が無理に硝子扉を割った所為で無残な姿になってしまったが、迅にとっては安全なはずの自室がまさかこのような形で崩されるとは夢にも思っていなかったはず。
 血を垂れ流しヤクザには似使わない白のスーツを赤に染めて、尚人はあろうことかウイスキーの蓋を外すとそのまま口を付けて飲み込んだ。
「……ほっんと可笑しいんじゃねえの? 異常だな、お前」
 呆れたような、蔑んだ瞳。尚人は笑うと首を傾げた。
「僕のことなにも知らないくせに、知った風に言うのはやめてくれる? 中途半端なあんたに言われたくもないね」
「……どうしてそう好戦的なんだよ。てめえんとこの組は温厚派だろ? 俺は敵じゃあない」
「味方にはね。グレーのあんたに、優しくするいわれはない。兄弟分は迅だ。あんたは赤の他人だね」
「そうかよ。……ほんとあいつ趣味わりーな。高慢ちきで我儘でちょ〜ぜつめんどくさそうなタイプ。なあ、永遠って信じてるか? そんなもんねえよ。崩れ去るね。っていうかそれじゃあ捨てられんじゃね」
 ぴくり、と尚人の眉が動く。顔色一つ変わらなかった尚人の仮面が少しずつ剥がれてきている。朝妻は調子に乗って言葉を上手に舌に乗せた。
 売り言葉に買い言葉だ。尚人から仕掛けたんだ、文句もないだろう。迅から言われていたことなんてすっかり忘れた朝妻は余裕ぶって立ち上がると、血を流しウイスキーを握っている尚人の手首を握り締めた。
「なあ? お前迅の何番目? 何人目? セックスなんて知りませんって顔しておきながら迅とはヤりまくってんだろ。あいつ色情魔だからな、それこそ相手は大変だろ?」
「……なにが言いたい」
「ハーフか? お前。その中性的な顔じゃあ男釣るのも簡単だろうな? あの側近も誑し込んでんじゃねえの? ハハ、言い返しもできねえのか」
「下種野郎が考えそうなことだ、低能にもほどがある。僕を怒らせたいだけ? もうちょっと頭を使って言葉を選びなよ」
「ハ! 随分余裕だな? 図星か? なあ、お前迅の相手してんだったら俺の相手もしろよ。そういうの、お得意なんだろ?」
 朝妻の瞳が色を帯びる。尚人のことをそういった目で見ている色だ。ぞわり、と背筋をかけた悪寒は全身に広がって鳥肌となる。
 セックス対象として見られている。頬に触れた手が熱を持って、尚人はフラッシュバックする光景に呼吸が狭まった。狭い部屋、動かない四肢、打たれた安い薬、腐ったような匂い。光るのは、欲に塗れた男の視線。
(ヤらなければ、ヤられる……?)
 考えている暇がなかった。気が付けば尚人はウイスキーを持っていた手を無理に振り上げて朝妻の頭部をそれで殴りつけた。
 TVなどで良く見る飴瓶で殴ったのではない。本物の瓶だ。それは凶器となって朝妻の頭部を襲い、粉砕するとともにだらりと額に血が垂れた。何針も縫う怪我を負わせたことに、尚人は微塵の後悔もなかった。
「ぐぅ、うあ……っ」
 ただ気持ちが悪かった。崩れ落ちた朝妻を冷静に眺め、尚人は残ったウイスキーの破片を朝妻に投げ付けた。
「アハッ、ごめんね? 手が滑っちゃった」
「てめ……っ」
 頭を押さえつけてふらつく朝妻が立ち上がり、尚人の胸倉を掴もうとした瞬間襖が勢い良く開いた。
 尚人の忠告を無視できる人物など一人しかいない。案の定怒りに染まった迅は部屋の惨状を見ると、驚いてはみせたものの盛大な溜め息を吐いた。
「宮(みや)! 一体お前はなにをしたんだ!」
「はあっ!? 俺かよ! この惨状見ればどっちかっつーと俺が被害者じゃねえのかよ!」
「どうせくだらん挑発でもしたんだろう。お前の悪い癖だ。尚人が理不尽にこんなことする訳……はあるかもしれんが、きっかけはお前以外考えられないな」
「チッ! 別になんもしちゃいねえよ。ったく胸糞わりい……あーぜってえこれ切れた。おい、医者呼んでこい」
「自分で行け。清重! 宮を連れてけ」
 襖の奥でこっそり様子を窺っていた清重はびくびくしながらも頷くと、部屋に入って苛立ちを露にさせている朝妻を誘導した。
 その間尚人は黙ったままのお人形さんのようだ。瞳になにも映さないで、ただただ真っ直ぐ前を向いていた。
「……迅、お前相当だな? てめえら二人頭いかれてんじゃねえの」
「安い挑発の代償だろ」
「あーそうですか。ったく……日を改めてくるわ。てめえに用事あったんだがな? こんなんじゃ無理だ。じゃあな。高慢ちきなお嬢さんも、お元気で」
 朝妻さん! と清重に窘められながら朝妻は不機嫌そうに部屋を退出していった。あっと言う間の出来事だった。
 襖奥で未だ待機をしている四柳に迅は簡単な言付けだけいうと、暫くの間二人きりにしてもらうことにした。長丁場になりそうだったからだ。
 朝妻は気付いていたのだろうか。お人形のような尚人の顔色が真っ青なことに。震える手先はアルコールが切れたという理由だけじゃなくトラウマを刺激したからということに。
(いや気付く訳ないな。……面倒なことをしてくれたもんだ)
 朝妻に悪気はないとわかっていても、迅の怒りは治まりそうもない。昔から挑発を好む朝妻と、身内以外に対し高圧的な態度をとる尚人を鉢合わせたら少なからずこうなることは目に見えていた。
 清重から連絡を受けたときは、肝が冷えたかのような思いだった。
 これ程度で済んで良かったのか、ここまできてしまったのか。迅は溜め息を吐くと朝妻のことは一旦置いておいた。次に会ったときに報復をすれば良い。それだけは忘れずに。
「……尚人」
 名を呼べば少しだけ瞳に色が戻る。迷子の子供のような瞳で迅を見ると、唇を噛んだ。
「……アルコールが切れたのか? そうまでして呑みたいなんてお前には呆れるな。俺の部屋をこんなにしてくれて……それにこのウイスキー高かったの、お前知ってるか? 大事に呑んでたやつだ」
「そう」
「硝子を手で割るなんて馬鹿か、お前は。こんなことをするのなら撤去だな……いや、防弾硝子にしなきゃいけねえな」
「もうこないからその心配もないね」
「……尚人、震えてるぞ。アルコール、持ってきてやろうか」
 血に染まった尚人の手を迅は柔らかく包んだ。しゃがんで視線を合わせて、優しく笑ってやれば尚人はくしゃりと顔を歪めて俯く。
「……ウイスキーは、好きじゃない」
「ワインばっか呑んでてもつまらないだろう」
「フフ、ポリフェノール取ってるの。健康に良いかもね? 迅より……長生きするんだから、僕」
「肝臓は休ませてやれ。今日は禁酒だ、わかったか?」
 ふるふると首を横に振って、尚人はぎゅっと掌を握り返した。尚人の温度がゆっくりと迅に伝わる。繋がる。温度が、心が、触れ合った。
 息を吐いた。全身を巡る血が尚人の体内を巡って元の場所へと辿り着く。何万回もの繰り返し、変わることもなく変えられることもなく。小さな小さな気配を連れてくる迅の手を見て、尚人はくぐもった声を出した。
「セックスは嫌い」
 唐突のない言葉であったが朝妻がなにを言って尚人を挑発したのか容易に想像できる辺り、迅も尚人との関係が浅い訳でもなければ朝妻のことをわかっていない訳でもない。
 朝妻は尚人が性的嫌悪を人一倍強く抱いていることを知らないのだ。普段なら危惧すべきことではない同性間のことなら尚更だ。
「……セックスを好きだと言った覚えは、ない」
「勝手に言わせておけば良いだろ」
「こんなの、……迅だから」
 矜持も捨てた。底に未だ眠るトラウマを燻る行為は迅だからこそ許しているのだと、朝妻に言うのは簡単だったがそれを理解してもらうのはきっと難しいことなのだろう。
 依存よりも酷い関係で繋がっているこのどうしようもない糸は二人にしか理解できない。狂っていようとも、壊れていようとも、後戻りもできないし今更やめることもできない。
 この仕様がない衝動を上手く言葉にできない、それがもどかしい。尚人はぐ、っと唇を噛むと空いた手で迅の胸を叩いた。
「今度会ったらぶっ殺してやる」
「……手加減はしてくれ。あんな奴でも一応は腐れ縁だ。俺からきついお灸据えといてやる」
「頼りにならないね。僕を侮辱した罪は重いよ。それに知らされていなかった人物だ、とことん興味もある」
「ああ、そうだったな。今更だが改めて紹介するか? 報復も素手なら好きにしてくれても構わんが」
「フフ、だめ。眉間撃ち抜くまで気がすまない」
 手で銃を象った尚人は迅の眉間を撃ち抜く振りをすると、歪な形で笑みを乗せた。作り笑いとは程遠い、必死で自然な笑みを作ろうとしているきらいがある。迅が部屋に入った頃より落ち着いているように見えて、それは酷く悪化していた。
(……朝妻は俺が始末するか)
 不安定な尚人の一番抉ってはならない場所を容易に弄った罪は重い。精々後悔するまでわからせてやろう。
 未だ記憶に縛られる尚人の手先を引き寄せ、震えを止めようと口付けを贈る。さすれば伏せがちだった瞼が開いて尚人の蜂蜜色の瞳とぶつかった。
「そっち? フフ、ね、こっちにして」
 珍しくも身を寄せてきた尚人に、迅は躊躇いをみせることもなく寧ろ好都合だといわんばかりに顔を近付けると唇に唇を落としてキスをした。
 さざめいていた心が落ち着きを取り戻す。何事もなかったかのように、しこりを消していくように、尚人のお人形さんのような顔色が人間味を帯びて赤く染まった。アルコールの匂いのしない尚人に触れて、迅も同じような少しの紅を灯す。
「ねえ、迅? 僕は迅と出会ってから精神的に随分と弱くなったよ。弱みもできた。逃げる場所ができた所為かな? 些細なことでどうしようもなくなってしまうことが多くなったね」
 迅を軽く押した尚人は迅から一歩の距離を取ると、血塗れた手を見てそう言った。
「だけどその分、誰かに殺される訳にはいかない理由ができた。自分自身にすら殺されてはいけないと。前までは死ぬことも運命なんだと、そう割り切っていたんだけどね」
「ヤクザ家業だしな、いつ死ぬか俺にもわからん」
「そう、でもね、駄目だ。命に永遠なんてものはないし、不老不死でもない僕は誰かに心臓を撃ち抜かれただけで簡単に死んでしまうような人間だけど、それでも死ねないという気持ちがリアルになった」
「……お前を殺すのは、俺だろ?」
「狂ってるね、ほんと。どうしようもないって、この関係はお互いを駄目にするだけだって、知ってる? 弱くなった。依存した。世界が染まって、変わって、迅中心になった。全てを捨てても良いくらいにはね」
「珍しいな、お前がそんな熱烈な告白をするなんて夢でも見ているようだ。いや、……殺されるのは俺か?」
 手を伸ばせば抱きしめることも触れることも簡単にできてしまったが、敢えてそれをしない二人は平行線のまま交わらない距離で互いを見つめた。
 す、っと伸ばされた尚人の手が迅の胸ポケットを探って煙草を取り出した。目でそれを追うだけの迅は動かないまま、一本抜き取られるさまをただ見つめている。
 灯された火が色をつけて煙を吐き出す。尚人は迅が愛用している煙草を吸うと、少し咽て眉間に皺を寄せた。
「不味いなら吸うな。勿体ない」
 呆れてそう言うものの、尚人はなにを考えているのかまた口に咥えると迅を見て不敵に笑う。
「フフ、ね、迅? そういえば朝妻の野郎が言ってたよ。僕たちの間に永遠ってあると思う?」
「永遠だと? 随分ロマンチックなことを言ったんだな、あいつは」
「そんなものありもしないのにね。僕が縋っているとでも思ったのかな? フフ、ばっからしい。言葉に頼るようじゃ程度も知れてる」
 半分近く吸った煙草に飽きたのか、尚人は迅の口に突っ込むと背を向けた。いつもはしない迅固有の香りが尚人からふわりと匂いだって、それにらしくもなく迅は懲りのない欲情を覚える。
 頼りのない細い肩、俯き加減の頭部、尚人は今なにを考えているのだろう。言葉にする前に尚人が遮った。
「……だけどね、何度も繋いだ手や繰り返ししたキスの記憶は、僕の中では……。そういうのって、ねえ、フフ、僕の方が程度が知れてるのかな」
 代用でも良い。ありもしないものに縋るよりは、目の前にいる幸せを掴むほうが合理的だ。
 言葉に不安を出さない尚人ほど頼りないものもなくて、迅は苦笑すると下げていた手を上げた。遠慮はもうしない。狂っていようと、可笑しいと蔑まれても、それでも手放せないのだからもうどうしようもないのだ。
 二人一緒ならばきっとそこが地獄でも。
「たとえ、ここに永遠がなくても……俺はお前がいるのならそれが全てだ、尚人」