あいしてるって、言って!
 清滝組系列の某高級ホテルにある最上階のスウィートは、いつしか迅と尚人が逢引きをするためだけに使われていた。関係者なら誰もが知り得ることで、故に尚人が単独で訪れても易々と入れることができる仕様になっていたのだ。
 迅が尚人のために年中おさえてある秘密の部屋。
 そんな場所に尚人が訪れたと連絡が入ったのが二時間前、急にいなくなった清重からSOSの電話があったのが一時間前、そうして現在辿り着けば尚人の足元で顔を真っ青にしながら倒れている清重と頬を赤らめてふらふらしている尚人がいた。
「だから、ワイン風呂はやるなって言ってただろうが!」
 響くのは迅の怒声だけで、それを聞いた尚人も流石に耐え切れなかったのかソファへと項垂れてしまった。
 ワイン数十本を使って作られたワイン風呂を見て迅は眉を顰めた。薄めもしない純度100%の風呂は楽しむというよりその場にいるだけで頭痛ものだ。温められたことによってアルコールの匂いと成分が蒸発し、口内へ入れていないのに酷い酔いを誘う。
 案の定酒に弱い清重は早々にダウンし、アルコール中毒の尚人でさえも屍のようになってしまっているのだから始末に負えない。
 迅も酒に耐性はあるものの尚人ほど強くないので、噎せ返るアルコールの匂いに吐き気を催して頭痛を併発してしまった。なんというべきか正直一分でも吸い続けていれば立っていられないほどの濃厚さだ。
(これは、きついな……)
 呆れてものも言えないがこのままの状態で放置することもできず、迅は盛大な溜め息を吐くと諸々へと連絡を入れた。
 ホテルの従業員にワイン風呂を綺麗に洗い流してもらい匂いの除去も頼んだ。清重は迅の若衆に回収させて尚人はソファへと寝かせる。
 やっと話せるようになった尚人から事情を聞けば、この部屋にワインを持ち込んだのがバレたら怒られるとわかっていたので暇そうな清重を捕まえてワイン風呂を作ってもらったらしい。一応清重が手配して製作したので尚人がやった訳ではないという逃げ道のつもりだったようだ。
 全くもって屁理屈ばかり考えるのだからどうしようもない。それを呑まなかっただけでも上等なのか。首元に冷やしたタオルを当てれば、尚人がううんと唸った。
「はあ、凄くくさかったね」
「……だからするなって前にも言っただろ? どうしてお前は同じ繰り返しをするんだ」
「だってしたかったんだもん」
「だもんじゃないだろ」
 ごつりと拳骨してやれば痛いと叫んで身体を丸める。拗ねているようにみせておいて、実のところ本当にしたかったのか残念がっている様子がまた面白い。
 突拍子もないことばかり考えつく男だ。迅は尚人の柔らかな髪の毛に鼻先を埋めると、口づけするように耳元で囁いた。
「で? 世間でいうところのワイン風呂用意したけどどうする」
「え、良いの? 迅、珍しいね。僕の我儘素直に聞いてくれるなんて」
「別に珍しくない。条件つきだからな」
「……すけべ!」
「なに想像したんだよ。まあ、大体外れでもないがな」
 ちゅと耳を食めば尚人は嫌がった素振りで緩い抵抗はするものの、よほどワイン風呂に入りたい理由でもあるのか迅の出した条件に渋々頷いて了承してくれた。
 とはいっても一緒にワイン風呂に入るだけで、セックスまで強要している訳じゃないというのもあるのだろうけれど。

「あ〜幸せ。フフ、堪んないね、この感じ」
 ふんふんと珍しく上機嫌で鼻歌を口ずさむ尚人の正面に迅は呆れ顔で身を沈めていた。二人仲良く猫足バスタブのお風呂に入るなんてどれくらい久しぶりだろうか。
 入った当初後ろから抱きしめようとした迅を尚人は変態だのスケベだの散々罵って、結局は折れた迅が向かい合わせになるということで落ち着いた。釈然としないが後々ということで今は良い。
 極限に薄めたというよりはほんの少しだけ入れたワイン風呂は薄く赤色が広がるだけでそこまで強い匂いもしない。念のために換気もしているし、水も持ち込んでいる。
 尚人はヘアバンドで髪の毛を上げると、炭酸水をワイングラスに注いで煽るようにして口に含んだ。
「随分とリラックスしてるな」
「最近ちょっと面倒な仕事多かったしね、たまには休みたいじゃん」
「お前の場合身体より肝臓を休めた方が良いと思うぞ。この間とうとう医者を泣かせたらしいな。早死にしたくないんなら暫くは控えろ」
「言われなくても禁酒してるよ。っていうより四柳が呑ませてくれないんだもん……迅もケチだよね、僕がお願いしてるのに」
「馬鹿か。俺が呑ませる訳ないだろ」
 息を吐いて迅がそう言えば、尚人は子供っぽい仕草をしてみせる。べえと舌を出したその顔に欲情したといえば怒られそうなので、それは心の中にしまっておこう。
 迅は気を紛らわせるために尚人の足首を掴むと、膝を立てた己の腹部辺りに引き寄せた。
「ちょっと、やめてよ」
「手持ち無沙汰だし、良いだろ」
 やわやわと凝り固まった筋肉を揉むようにふくらはぎを柔らかくすれば、尚人の緊張がふっと途切れて力が抜けていく。どうも性的なものに対し信用を得られていない迅は、尚人に急な接触をした場合嫌がられる場合が多い。
 尚人とて迅にしたいとねだることもあるが、大抵は迅がむらっときてそのまま襲いかかり嫌だといっても解放しないことが多いためにセックスに対しては喧嘩をすることもある。
 だけれどそれでもなんだかんだ言いつつ成り立っているのはそこまで嫌がっているということでもなく、そういった態勢をとって己への性の逃げ道にしているということはわかっていたので迅が気にするようなことでもないのだ。
「あ、……そこ……」
 はあ〜と至極幸せそうに息を吐いて頬を緩めた尚人の無防備さに、迅はじわりじわりと侵食してきた悪戯心に歯止めをかける。
 なんだってこんなに尚人は可愛いのだろうか。まさに目に入れても痛くないとはこのことか。
 仕事面ではそれなりに衝突して汚いことや目を背けたくなることもあるが、それはお互い様で踏み入れて良い領域でもない。それを踏まえた上でプライベートになると尚人がここまで迅に気を許してくれるというところが堪らなく良いのだ。
 相手を殺せる距離にいることこそ、言葉のない告白にも聞こえる。きっと迅の脳も相当いかれているに違いない。
 踵を固定して足先を掴みぐるぐると回す。ううと唸った尚人がワイングラスを置いた瞬間、迅はぐいっと足を手前へと引いた。
「じ、ん……わっ」
 そのまま足の親指を口に含んでぺろりと舐め上げれば、ひくりと足先が震えた。
「迅! そういうことはしないって約束したでしょ!」
「別にこれはセックスじゃないだろ? ちょっとした戯れだろうが」
「舐めるのいやらしい!」
「そう思うからいやらしいだけだ。なあ?」
 尚人の頬が赤く染まっていく。丹念に舌を這わせて舐め上げれば、尚人の喉の奥から堪え切れずに漏らしたような甘い吐息が漏れた。
「ン、……くぅ……」
 人差し指を唇で食んで声を抑え、瞼を強く閉じているさまが酷く官能的だ。汗と熱気で湿った髪は首筋に張りついて、白い肌には水の珠が浮かんでいる。
 足の親指と人差し指の間に舌を差し入れ、くちゅりと音を響かせた。そのまま歯を立てて爪ごと甘く噛めば尚人の顔が左右に揺れて嫌だと声を出した。
 この動作はまるで性的なものを刺激するかのような、そんな愛撫に近いものではないか。そう尚人の心が言っているのが聞こえてきそうだ。だってこの動きは迅が尚人に教え込んだ性技の通りなのだから。
「どうした? 尚人」
 足先から唇を離して解放してやれば、尚人は直ぐに身体を縮こめて俯く。
 阻まれていた距離を詰めて尚人に近付けば身体が緩く震えるのが目に見えてわかった。
「もしかして、興奮したのか?」
 頬に手をあてて引き寄せる。桃色に染まった頬がなによりの証拠で、潤む瞳と一文字に結ばれた唇がまた迅の欲を擽った。
 尚人が頑なに拒むのなら、尚人から懇願されるような状況を作るまでだ。後でいくら罵られようとこの瞬間さえ勝ち取ることができるのならばなんだって良い。
 所詮はどんな理由だってこじつけて尚人とべたべたしていたいだけなのだから。
「いやだって、言ったのに……」
「むらむらしたんだ」
「フフ、いつもでしょ? ほんと性欲しかないんだね、迅ってば」
「愛あってこその、だろ?」
「愛がないんなら、今ごろ左胸に穴あいてるよ」
 迅の頬に尚人の両手が添えられた。ゆっくりと引き寄せられ尚人から口づけられる。どうやら相当効き目はあったらしい。
「……どうしてほしい?」
「キスして。濃いやつ。いっぱい名前も呼んで」
「なんでもしてやるよ」
 尚人が迅の首に手を回したのが合図になったのか、迅はそのまま尚人の背に手を回して唇を重ね合わせた。
何度も唇をつついては離れてを繰り返し、お互いの気持ちを高めていく。戯れるようなそれに笑んでいたのも少しだけで、次第に物足りなくなって舌で唇を舐めれば尚人は素直に口を開けてくれた。
「ん、じん……もっと」
 迅の舌が中へ入る前に尚人の舌が誘って迅の舌に絡まってくる。くちゅりといやらしい粘着質な音を立てて触れ合った舌からはびりびりとした甘い電流が走った。
 ぼてっとした肉厚の舌を引っ張って、柔らかく食む。尚人が微かに震えて鼻に抜けるような声を出した。
「痛かったか」
「んん、いたくない」
「じゃあもっと? 尚人」
 ん、と頷いた尚人を見て迅は柔らかく笑んだ。いつもこんなに素直ならてこずらないものの、じゃじゃ馬な尚人も可愛いから捨て難い。病的なまでに酒に溺れて苦しんでいる姿ですら抱きしめてやりたくなる。
 結局のところ尚人であればなにをしていても可愛くて、抱きしめたくて、食べてしまいたいのだから同じか。
(……やけに甘いな、今日は。酒に酔わされたか? 俺も)
 無性に子供のように可愛がりたくなった迅は、本能のまま尚人の髪の毛をくしゃくしゃと掻き回すと、子供にするようにむちゅうと強い吸いつけのキスをした。
「尚人」
「なに、迅」
「呼んだだけだ」
 尚人が嬉しそうに笑むのを見ているだけで、迅までつられて口端が上がるような気がするのだから本当に恐ろしい。どうも己のいうことをきかない身体が畏怖のようなものに苛まれているような気がするものの、尚人の影響ならば致し方ないと思えることもある。
 尚人こそ迅の一挙一動で揺れ動いたりするのだから正にお互いが合わせ鏡のようだ。
 だからきっと心臓が煩いほどにばくばくいうのも、叫びだしたいほどのこの感情の揺れも、潰すまで抱きしめたいと思ってしまう腕の衝動も、窒息するまで塞いでいたいと騒ぎたてる唇も、ぜんぶ一緒の共有財産なのだろうか。
(ああ、もう)
 性的なものを擽る余裕もない。迅はむちゅむちゅといった子供のような口づけを尚人に何度も何度もけしかけると、愛おしいのだという感情がおさまってくれるまで尚人を押し倒す容量で貪り続けた。
 何度くっついては離れるを繰り返しただろうか。最初は良いようにされていた尚人も次第にうざったくなったのか飽きたのか、いい加減にしてくれというように抵抗をし始めた。
 そろそろ痺れがくるだろうことは想定内だった迅は潔く唇を離すと、尚人のおでこにこつりと擦り合わせた。
「も、しつこい! 迅の所為で、唇じんじんするんだけど……」
「なにそれ、ギャグ?」
「違う! 今日の迅しつこすぎじゃない? 疲れた」
「嫌じゃなかっただろ?」
「……さあ? どうだろうね。っていうか禁煙してる?」
「ああ、煙草の匂いか?」
「今日はしないね。いつもくさいのに」
「くさいはないだろ。そういうんならお前だってアルコールくさい」
 むにっと頬を抓って引っ張れば、報復だというように頬を抓り返される。二十も半ばになった男二人が風呂でするような行動ではない。傍から見れば馬鹿っぷるそのものだ。
 そんなことには気付きもしない二人は思う存分頬を抓り合う。
「迅ってばほんと子供っぽいよね。で? なんで煙草吸ってないの」
「子供っぽいのはお前だろ。なんとなく本数減らしてみてるだけ。清重も煩いしな」
「ちょっと僕が言ってもきかなかったのに清重が言ったらいう通りにするの?」
「そういう訳じゃねえよ。タイミングっつうものもあるだろ?」
 過ぎた言葉と後悔しても既に遅く、尚人は膨れっ面になるとふんと言ってそっぽを向いた。やきもち焼きなところもまた可愛いといえば可愛いのだけれど、今はそんなことに時間を使っている余裕もない。
 なんだってさっきの子供騙しのようなキスですっかり迅の下半身は応戦状態に入ってしまっているのだから、なんとかして尚人もその気にさせないといけないのだ。
(我儘なお姫様の機嫌を直すのも楽じゃないな)
 苦笑いを零し、迅は尚人の耳元に口を近付けて魔法の言葉を落とした。きっと尚人にしかきかないであろう、馬鹿げた魔法だ。
「尚人は俺の禁煙手伝ってくれないのか? お前にしかできないことなんだけどな」
「……はあ? なに、禁煙って手伝うもの?」
「なにぶんずっと吸ってたものがなくなる口寂しいんだよ。尚人」
「フフ、そういう魂胆? ほ〜んと迅ってばどうしようもない性欲魔人だね。僕が騙されるとでも思ったの? ずっとキスしてほしいならそう言えば良いじゃん。してやらないこともないけど」
「へえ? 本当か?」
「嘘、だめ。してあげない。僕のキスなしで禁煙がんばってよ。成功したらね、なんでも言うこと聞いてあげる」
 つい、っと寄せた唇を人差し指でいなされる。尚人は小悪魔のように笑みを象ると迅のおでこに柔らかな口づけを送った。
「あ、でもどうしてもって言うなら……僕のこと抱いても良いよ。セックスしたいんでしょ? 迅の、おっきくなったもんね」
「じゃあどうしても。……って言っても条件つきだろ? なにがお望みですか」
 ちゃぷり、とお湯が音を立てて波を打つ。淡い赤色の湯船の温度はすっかりと冷めて今は互いの体温が一番の熱。
 ぴたりと密着する肌と肌、尚人は迅の耳に唇を寄せると小さな小さな声でお願いごとを囁いた。セックスするのには相応しい言葉であり、迅の愛着心を擽るのにも最適だ。
 とりわけいうのであれば可愛い言葉に弛緩してしまう迅の頬がなんだか遣る瀬無い幸せのような形でもある。
 本当に尚人には滅法弱いと、そう思わされた瞬間でもあった。
(あいしてるって、言って!)