恋に溺れる
 大きな仕事から解放されたときのすがすがしさといったら、なんと言えばいいのだろうか。叫びながら走りまわり、床をごろんごろん転がってなにかを無性に叩きたくなる。そんな気分になるのだ。尚人は更にそれプラスアルコール。赤ワインならなおよし。品質は問わない、とにかくワインであるのなら叩き売りの安いものだっていい。
 ばれたら大目玉を食らうのでポチに協力を仰いでこっそりと買い込んだ。だって四柳も迅も煩い。清重だってなにかあれば尚人を裏切って迅の味方につく。尚人の言うことを聞いてくれるものは、ポチしかいないのだ。
 電気を落とした自室でワインのコルクを開ける。襖から漏れる光はまだ日中だと教えて、倒錯的な状況に連れて行ってくれる。ああ、ああ、久しぶりの至高のワイン。そう思って栓に口をつけようとしたやいなや、般若のような顔をした四柳が部屋に入ってきた。
「坊ちゃん!」
 ワインよ、さらば。ドクターストップがかかっていたでしょう、と耳にタコができるくらい聞いたお説教とともにワインは没収されてしまった。せめて一口くらい、なんていう甘えも許されなかった。
 自分の肝臓が悪いことなど百も承知だ。だがアルコール中毒患者にアルコールを絶てということがどれほど酷なことかわかっているのだろうか。尚人が恨みがましい目で見つめてみるものの四柳は絆されてもくれなくて、最終的には坊ちゃんの身体が心配なんですと泣かれてしまった。
 まったくもってどいつもこいつも大袈裟にするのだから、尚人のしまりも悪い。これでは本当に呑めなくなるではないか。
 尚人は仕方なく今日くらいはやめておこうかと殊勝になってみるものの、仕事が終わるまで耐えていたのだ、これでも。頭を掻き毟りたくなるほどの禁断症状に苛まれると、どうにもこうにもいかない苛立ちを無理矢理呑み込んだ。
 仕事に忙殺されていれば忘れることができるものの、大きな仕事を終えたご褒美に親父から休みを与えられた。二日間だけだったけれど、なにをしてもいいと言う。
 ああもうそうなれば、残りは一つしかない。尚人は愛車である真っ白のベンツをポチに運転させると、例の場所へと向かった。
 尚人の唯一無二の恋人がいる場所、清滝組系列の最高級ホテルのスウィートルーム。尚人と迅が逢引に使う場所である。お酒の代用になるのは迅しかいない。迅がいれば、尚人はお酒なしでも生きていけた。
 だからこそ、迅がいないとどうしようもないのだ。
 お昼過ぎに到着した尚人は、ホテルの受付で既に迅が昼前から滞在していることを聞かされてびっくりしてしまった。今日会う約束などしていなかったし、尚人の休みも知らないはずだ。なにしろたまたま今日片付いただけで、いつ終わるか予定も言っていなかった。
 驚きを目の当たりにした尚人に清滝組の組員がこっそりと教えてくれる。なんでも昨日の晩から迅は兄弟杯をした叔父貴分の接待をしていたらしく、相手が酒豪故に酒を散々呑まされたそうな。それは朝まで続き、許容範囲以上の酒でグロッキーになった迅使いものにならないからここに非難してきたとも。
 流石に迅を哀れだと思ったのか、今日一日は清滝組からも正式な休みを与えられたらしい。
 なんともまあお誂え向きのシチュエーションではないか。尚人は意気揚々とエレベーターを上がると、迅と会えることに胸を高鳴らせた。
 だって久しぶりの逢瀬なのだ。どんな顔をして会おうか。驚かせてやるのも悪くない。尚人は自分が酒酔いをすることが滅多にないために失念していた、迅がどんな状況であるかを。
 扉を開けた瞬間にむっと篭もるアルコールの匂いにぐっと息を詰まらせた。酷く魅惑的な香りだ。お酒が呑みたくなってくる。禁酒していた故に敏感になっているのだ、この鼻は。
「迅? いるの? 僕がきたよ。返事くらいして」
 電気はついていない。カーテンの引かれていない全面硝子から光が零れて、部屋を明るく照らしていた。迅はまるで誰かに襲われたあとのようにカーペットに寝転がると、うんうん唸って身体を丸めていた。
「ちょっと、迅? なにしてんの」
 呆れたように近付けば、迅の身体が少し揺れる。側にしゃがみ込めば噎せ返るほどのアルコールの匂いがした。これは相当呑まされたようだ。なんとも羨ましい。
 酷く顔色が悪い迅の頬をぺちぺちと叩く。押しあげるように開いた瞼は尚人の姿を目に入れると、どちらかといえばげっとしたような表情になった。
「ちょっと、僕がわざわざ迅に会いにきてあげたんだからそんな顔するのやめてよね」
「……偶然だろうが。尚人、悪いが、今日は……構ってやれそうに、ない」
 息も絶え絶えだ。迅はうう、と唸ると口元を押さえて仰向けになる。
「どんだけ呑んだの? 甲斐性ないね。男なんだからもっとお酒に耐性つけないと」
「お前が、つけすぎなだけだろ……ちゃんと、禁酒してたのか?」
「フフ、してなかったと思う? してるに決まってるじゃん。だから迅に会いにきたっていうのに、つれないよね。ま、いいけど」
 迅の腹の上に馬乗りになる。苦しげな声はあげたものの、抵抗する素振りはない。好きにしてくれと四股を投げだす迅もなかなかに珍しい姿だ。
 普段ならば少しでもこんな体勢を取ろうものなら襲いかかってくるか発情するかしていたのに、反応する気さえない。それもそれでつまらないのだけれど。尚人は迅の顔の横に手をついてゆっくりと顔をおろすと、唇が触れあうほどまで近付いた。
「迅ってば」
 瞼が少しだけ震えるものの、瞳は見せてくれない。とうとう返事すら億劫になったのだろうか。それならばせめて瞼くらい開けてほしい。
 尚人はつまらなくなって唇に甘えるように唇を擦りつけてみるものの、迅はぴくりとも動かなかった。
「勝手にキスするよ? ねえ、いつもみたいに僕のこと襲わないの。襲ってもいいよ」
 唸るような声が迅の唇から零れた。言葉にもなっていないそれがなにを指し示すのかまったくわからない。ここまでくれば迅がどれほど重症なのか尚人にもわかってくる。あまりアルコールに強いといえない迅は、それこそ二日酔いというか悪酔いしてしまったのだろう。酒に酔ってからが長いと言っていたが、尚人から見れば弱いも同然だ。
 一体どれほどの酒豪と呑んだのやら。是非とも尚人が呑んでみたいものだ。だけどせっかく迅と愛しあえる時間ができたタイミングで、迅を不能にした罪は重い。
「……もう、せっかく会えたのに」
 聞こえてもいないだろう本音を零して、尚人は迅の下唇を甘く噛んだ。ちゅうっと吸いついて舌先でくすぐる。唇を割って口腔へと忍ばせてみるものの、迅はぴくりともしない。
 ふんわりとアルコールの香りが漂う。いつもは煙草くさい迅の口の中がアルコールに塗れている。尚人は変な気持ちに包まれて、瞼を開けると迅の顔を見ながら深い口づけをした。
 いつもならばセックスの最中に舌を入れてみろよ、そんな風に催促でもされなければすることのないキスを自主的に、しかも恥ずかしがることなくしているのに、迅はやはり反応すらしてくれない。
 固く閉じた歯を抉じ開けることができなくて、舌を絡ませたかった尚人はつまらなくなると舌を引き抜いた。温度差が激しいキスは好きじゃない。やっぱりキスされる方が好きだ。
「迅、ねえ、起きてよ」
 両頬を掴んでみるものの、限界を迎えた迅は喋ることすらなくなった。半分睡眠、半分泥酔しているのだろう。着替えもせず、ベッドにもいかないだなんて相当きていた証拠だろう。
 尚人は心持ち寂しさを覚えると、胸板に頬をくっつけてごろりと甘えてみせた。
 大きな仕事を終えたのだから、迅にいっぱい愛してもらえると思っていた。こんなにも側にいるのに迅は生きた屍みたいで動いてくれない。それでも体温が感じられて、隣にいれるだけでも幸せなのだろうか。
 仕方がない。たまには面倒でも見てやろうか。真っ青になっていく迅に、尚人は口元を緩めると額に口づけを落とした。
 いつまでも我侭ばかり言っている恋人ではない。あれほどまで融通が利かない恋人の姿を見せているのは迅に甘えている証拠なのだ。最も迅ならそれも、わかっているだろうけれど。

 それからの尚人は四柳が見ようものなら涙を流すんじゃないかってくらい甲斐甲斐しく動いた。重い迅の身体を、床から一番近いソファの上に寝かせる。本当はベッドがいいのだろうけれど、そこまでは運ぶことができなかった。
 それから堅苦しいスーツを脱がせて、なるべく楽な格好にさせてやる。水で濡らしたタオルで首元と額を冷やし、部屋の換気をしてアロマオイルなど焚いてみた。
 いまいちこれで合っているのかどうかわからないが少しだけ顔色を緩和させた迅を見る辺り、なかなかに悪くはないのかもしれない。
 冷やした水をテーブルに用意し、尚人は迅の顔を見つめながら、うつつと船を漕いでいた。
 これでも尚人だって仕事に精をだして走りまわっていたのだ。溜まっている疲れも相当なもので気力だけで動いていたらしい。なんだか眠くなってきた。
 床で眠るのはあまり好きじゃないなあなんてぼんやりと思っていれば、尚人が握りしめていた迅の手がぴくりと動く。眠気もあったため俊敏ではないが視線をゆうるりと迅に向ければ、むずがるように瞼を開いた。
「……気持ちわりい」
「起きたの?」
 コップに冷やしてあった水を入れて手渡す。少しなまぬるくなっていたが起き抜けには丁度いいのかもしれない。迅は身体を起こすと尚人の手からコップを取り、飲み干すように喉元へと流し込んだ。
「頭がんがんする……あー、ひっさびさにあんな呑んだな……。もう暫く酒は呑みたくねえ」
「羨ましい話だけどね、僕からしてみれば。……っていうか僕とお酒呑んでくれないのに、そういうのは呑むんだね」
「しょうがねえだろ。仕事なんだから。お前は一緒に呑まないっていうか、禁酒しているだけだろうが」
 ふらふらとしながらも意識ははっきりとしているようだ。尚人をじいと見つめると、手招きをした。犬猫じゃないんだからと思いつつも今の迅の現状を鑑みれば動くのも億劫なのだろう。
 仕方ないと装った風にソファに乗り上げ、迅の膝に向かいあわせで座った。なんだかんだ言いつつ、迅に構ってほしがっていたのは尚人の方である。
「キスしてくれてたな」
 指先が唇をなぞる。少しささくれだった指の腹の感触がくすぐったくて、尚人は身体を捩ってしまった。
「……してくれる? キス」
「今日はやけに素直だな。なんかあったのか?」
「別になんもないよ。フフ、ちょっとね、たまにはいいでしょ?」
 アルコール断ちしている禁断症状を埋めてくれるのは迅の唇と、指と、愛情だけ。それがないと直ぐになにかに溺れたくなってしまう。どの道依存しなければ生きていけない体質になりつつある尚人にとっては、なにかが欠けてもいけない。
 頑張ったご褒美がほしいのだ、とどのつまり。迅から漂うアルコールの匂いにあてられて、凄く堪らなくなっている。なにも考えられなくさせてほしい。
 違うな。迅にどろどろにしてほしいのかもしれない。億劫そうにしてみせたものの、尚人の世話を焼くことがきらいではない迅はそれこそ渋ってみせたが、それも数秒とてもたなくて尚人の背に指を滑らせた。
「目、瞑れ」
 魔法のような言葉に従う。もったいぶって瞼をおろせば、急いたように迅が唇をくっつけてくる。荒々しい口づけだ。想像以上に熱をもっている舌先が唇をなぞって、尚人の背筋にかけるような電流が走った。
 ざらつきがある舌の表面を擦りあえば、知らずに欲情してしまう。性的なものを彷彿とさせるものだから仕方がないけれど、そうそうに火をつけられてしまったことに悔しくも思う。
「ん、ぅ、……っ」
 最初こそ競いあうように舌を絡めてみたものの、過ぎれば巧みな動きに翻弄されてなすがままになってしまう。尚人は迅に背中を支えられたまま深い口づけを受けると、うっとりとしたように頬を紅潮させた。
 口の端から唾液が零れる。窓から差す外の明かりだけの薄暗い部屋で、潜めるような口づけをしている。いやらしく大胆に舌を使って、快楽を与えられているもののどこか神聖な空気でもあった。
 それからどれくらい経っただろう。反応するのも疲れてぐったりとしてしまった尚人は、唇が解放される頃にはぷっくりと唇を腫らし、じんじんと疼くような熱をもっていた。
 はあ、はあ、と扇情的な息を唇から零し唾液でつやつやと唇を光らせるさまはいやらしくもある。迅が唾をごくりと呑む気配を感じて顔をあげれば、酷くみっともない表情をしている尚人が迅の瞳に映っていた。
 発情しているのだろう。セックスにトラウマをもっているといっても、迅の前では無意味なものにしかならない。むしろ迅相手だと発情するくらいだ。
 尚人は珍しく誘うように迅の唇を噛んでその先を催促してみるものの、迅は困ったように尚人の背をきついくらいに抱きしめるだけで。ううと唸ると胸元に顔を押しつけてきた。なんだか幼子が甘えるような仕草で、愛らしくなってしまう。
「なに、迅ってば変なの」
「……勃たねえから、それ以上煽んな」
「え? あ、ええ、ああ、……嘘? 迅もしかして不能になったの?」
「な訳ねえだろ。酒の呑み過ぎだ。深酔いしたら勃たなくなんだよ。お前には縁のない話かもしれねえが」
「ちょっと、僕がいつも勃起してるみたいに言うのやめてくんない? 迅ほど性欲強くないんだけど」
「あーあ、中途半端に弄っても挿れられねえんじゃ逆にきついしな」
「迅がでしょ? 僕はそれでもいいんだけど」
「しかも珍しく尚人が発情してんのに勿体ねえ……くそ」
 くぐもった溜め息が胸にかかる。酷く熱くて、その温度にくらくらとしてしまいそうだ。迅の旋毛を見ているとなんだか穏やかな気持ちもなって、尚人は迅の頭をぎゅっと抱き込んだ。
 セックスする気満々だったけれども、しないでいるのならこうしているだけでもいい。迅には言ってやらないけれど、尚人としては構ってくれるだけで十分なのだ。
 相当悔しいのかぐだぐだ言っている迅の頭に頬を寄せて、尚人はアルコールの匂いしかしない迅から、迅の匂いがする箇所を探し出した。こう見えてやっぱり会いたかったのは事実なもので、体温と体温を合わせていると酷く安心する。気を張った生活から開放されていくようで尚人はあたたかな息を吐いた。
「どうせ夜になれば襲ってくるんでしょ? フフ、それまで僕がその気でいたらシてあげる」
「……それまでこの酒の酔い抜けるといいけどな」
「大丈夫。その気にさせてあげるから」
 まだいささか酒に酔わされているのか、眉間に皺を寄せる迅の鼻先にかぷりと噛みついた。少し肌がびくりと震えるものの、驚きはしていないみたいだ。なんといっても、抵抗する気力もないのだろう。
 いつもいいように翻弄されている身としては、精力尽きた迅で遊びながら甘えるのもなかなかに面白い。きっと迅とて尚人のアルコールの発散場所になれるのならと思っている部分もあるのだろう。
 少しずつ互いのなにかが溶けて、混ざり合っている。ひとつには決してなれないけれど、離れることもない。離れられるはずなんてないのだ。
 夜になればいつものように色情魔になって襲われるかもしれない。ああでも、それの方がいい。なんだか調子が狂ってしまう。違うな、きっと、乱暴にされたいだけ。
 迅にだけ発情しているこの身体は迅が足りていないのだ。アルコール以上に禁断症状の強い迅の両頬を掴むと、触れるだけのキスをしてやった。
「手始めになにする? フェラしてあげてもいよ」
「……、性質悪いよな」
「フフ、おしおきする? それでもいいけど」
「無理。下手に手出したら俺が苦しい」
「わがまま」
「お前にだけは言われたくねえっつの」
 鼻をきゅっと摘まれて、そのまま唇で唇を塞がれた。酸素の道がなくなってしまう。溺れそうだ。呼吸ができないキスに尚人はくらくらと酸欠になってしまうと、迅に溺れてしまった。
 ああもう、甘ったるくて息もできやしない。尚人はもっともっと今以上に甘やかしてほしくて、ベッドでしてほしいなんて、毒のような台詞を吐いた。早く、ねえ、愛してよ。迅に溺れてどうしようもない。