例えばこんな日常
 夏真っ盛りの午後。 とあるマンションの一室に、不穏な空気が漂っていた。
 お互いにお互いの存在を無視して冷戦状態を繰り広げているのは望月と凛である。 春から望月が大学進学をすることをきっかけに同棲をし始めた二人。 和泉も、と誘ってはみたのだが素気無く却下され二人ということになってしまった。
 それでも嫌な訳ではない。 望月と凛は学力の差があるために大学が離れ離れになってしまったので、これはこれで嬉しい同棲だったのだ。
 小競り合いのような喧嘩は幾たびも、大きな喧嘩は数回か、そんな程度の距離を保ちつつ同棲生活を送る二人にとってもはや喧嘩は日常茶飯事のようなものでもあった。
 元々穏やかな望月は喧嘩をあまりしない。 だが凛の我儘過ぎる要求に痺れを切らして怒ることだけは多かったのだ。
 同じ兄弟でも和泉の我儘ならどんなものでも受け入れている望月であったが、凛が相手になるとどうもそれを受け入れることができない。 対等にと考えている故に、ぶつかり合うのが原因なのだろう。
 だけどそれも愛の形だ。 与えるだけの存在の和泉と、与えてもらう存在の凛。 どちらとも違った意味で、望月にとっては特別な存在であった。
 しかし、だからこそ八つ当たりのような凛の我儘に、望月は絶対に折れないと誓ったのである。
 普段は隣に住んでいる和泉と和泉の部屋に入り浸っている吉原の可愛らしい諍いの声が響くこのマンションであったが、今回は凛と望月の張り合うような声が響いていた。
 ことの発端は少し前、凛がリビングで原稿をしていたときに戻る。
 二人が付き合って同棲したからといえど、普段からべたべたいちゃいちゃなどの接触はほぼゼロであった。 やることはやっているのだが、どちらかというと付き合い方は気の合う親友同士のようなものであるのだ。
 一定の距離を保ちつつの付き合いの方が二人の性に合う。 だからこの日も久々の休みというのに凛は趣味の同人誌の原稿を描き始め、望月はテニスのラケットの手入れをしていたのだった。
「あー無理、もー無理」
 先程からぶつぶつと呟いているのは凛だ。 原稿用紙を睨みつけながら苛々と貧乏ゆすりをしている。
 幾ら趣味といえども創作をするにあたってスランプなどはある。 凛はそのスランプの真っ最中だったのだ。
 絵が安定しない、エロが物足りない、キャラが掴めない。 そんな理由でなかなか筆が進まないことに焦燥感を募らせる。
 夏のビックイベントでスペースをとっている現状、原稿は仕上げなければならない。 締め切りも間近、遊び惚けていた凛はいつもぎりぎりにならないと原稿を仕上げることができなかったのだ。
 それに被害を被ってきたのは望月である。 毎回夏は凛の原稿の手伝いをさせられていたのだ。
 しかし現状は下書きの段階である。 アシスタントのスキルはあろうとも、絵を描くスキルがない望月には手伝えることなどまだない。 ペン入れから初めて望月の出番がくるのだから。
 望月は嫌な予感がするのをひしひしと感じながら、なるべく刺激をしないようにと無視を決め込みテニスラケットに手をかけた。 だが機嫌の悪い凛は望月がなにをしていようと関係などない。
 手当たり次第にあたりたいという思いが爆発すると、立ち上がって癇癪を起こした。
「締め切りまで時間ねえのになにしてんの!?」
「……はあ?」
「これ仕上げなきゃいけねえじゃん。お前はなにしてんの!?」
 完全なる八つ当たりだ。 今の段階では望月がなにもできることなどないと知っていつつのその発言。 望月にどうしろというのか、なにもすることなどないくせに。
「なにって……下書き終わったんすか」
「まだに決まってんだろ!? 俺がこんなに切羽詰ってんのにお前は暢気にラケット弄りかよ!」
 いつもより荒い口調で癇癪を起こした凛は机の上の画材道具を床に放り投げると、望月に拾えと命令してきた。
 毎年この時期になると原稿が間に合わないだとか、スランプだとかで荒れる凛を宥めてはきたものの、いつもなら緩和をしてくれる役割の和泉も側にいたのだ。
 和泉が嫌々ながら凛に甘えて望月が褒めちぎって宥めることで、凛が落ち着いて原稿に取りかかるのを見てきていた。
 だが今はそんな和泉もいない。 望月の逃げ場もない。 この部屋は凛のものでもあり、望月のものでもあるからだ。
 理不尽かつ横暴なあたり方に望月は溜め息を吐くと、テニスラケットを置いた。 凛は暴れるだけ暴れてみせるが望月に手を出さない辺りはマシなのだろうか。
 しかしこの性格や行動を治してくれない限り、同棲していくうちにストレスも溜まる。 望月だって聖人君子ではない。 苛々するときもあれば怒るときもあり、落ち込むことだってある。
 和泉に対しては全てを受け入れる立ち位置の望月であるが、凛に対しては対等であり支え合うような立ち位置であるのだ。 凛の我儘や癇癪を受け入れて宥めるだけでは、どうしようもいかない現実があった。
「いい加減にしてください! 大体遊んでたあんたが悪い! 俺は何度も原稿大丈夫っすかって聞きましたよね!?」
「そんなの聞いてなくね!? つーかなに? 反抗すんの? お前は黙って原稿手伝ってりゃ良いじゃん!?」
「っ、そんな言い方がないでしょーが! 第一凛さんは我儘過ぎます! いい加減俺も黙ってられませんよ!?」
 まるでマングースとハブ。 睨み合っていたかと思うと、堰を切ったかのように口論が激しくなった。
 お互いに手を出さない代わりにものに当たりまくる二人。 言い争いはもちろんのこと、ものが壊れる音までする。 ここまで大きい喧嘩は年にニ、三度ぐらいだ。
 和泉や吉原みたいに乙女的なノリがない分、二人の喧嘩は言葉の殴り合いのようなものになる。 男同士の雄々しい衝動が、ものにあたるということで表に出た。
 あまりに凄まじい物音に驚いたのか、玄関先からばたばたとする足音が聞こえてきたが今の二人にとってはそんなもの気に留める程度でもなかった。
「あ、兄貴!? 柚斗も! な、なにしてんの!」
 視界の端では驚いたような表情を浮かべる和泉と、絶句している吉原の顔が見えたが二人は止まらなかった。 止られなかった。 この苛々は治まる術を知らない。
 なにもできずに呆然と立ち尽くす和泉と吉原を尻目に、望月と凛の喧嘩はデットヒートするばかりだ。 しまいには和泉の方にまで被害がいきそうになるのを吉原が庇って端へと避難させる始末である。
 壊れる食器の音やめちゃくちゃになる部屋の惨状に和泉は目をしばたかせながら吉原の腕を掴んだ。
「と、止めなきゃ……」
「いや、お前が止めんのは無理だろ」
「で、でも」
「毎度のことなんだろ? それに良く言うじゃん、夫婦喧嘩は誰も止めないって」
「夫婦喧嘩は犬も食わない!」
「……そう、それそれ」
 和泉と吉原がなにをしても止まる気配などない諍い。 今の二人にはなにもできることなどないのだ。 それをわかった二人はメモを書き残すと、大人しく部屋を退出した。
 明日か今日の夜には元通りになっているのだろう。 それを信じて部屋へと戻ったのである。
 だが余りにも煩い言い争いや破壊の音に耐え切れず、部屋を飛び出して和泉が怒鳴ったのは言うまでもない。 それで喧嘩は収まったものの、今度は冷戦状態に突入してしまい、二人はお互いを無視するといった結果になったのであった。

 それから数時間。 望月も凛も一言ですら言葉を発しなかった。 荒れ果てた部屋も片付けせず、目さえ合わせない。
 喧嘩前のようにテニスラケットを手入れする望月と、原稿をし始める凛。 ただ静かな部屋にその物音だけが響いた。
 凛の原稿の終わりはまだまだ先が長いが、望月のテニスラケットの手入れなど直ぐに終わってしまう。 例によって手入れし終わったテニスラケットをしまうと、望月は辺りを見て溜め息を吐いた。
 毎度のことながら荒れ果てた部屋を掃除するのに骨が折れる。 それに心配してきてくれた和泉と吉原にも謝罪を入れなければならない。
 凛は相変わらず不機嫌なままだし、このままでは一人で片づけをしなくてはならない。 やる気が一気に削げ落ちる。
 だが変なところで几帳面な望月は荒れ果てた部屋というのが我慢ならなくなって、仕様がなしに一人で片づけをし始めることにした。
 どうせ凛も下書きが終われば大人しくなってペン入れを頼んでくるのだ。 それまでは冷戦状態で頭を冷やし、お互いに関わらない方が吉なのだ。
 そう思いつつ片づけをし始めた望月を、凛はちらりとだけ見るとまた原稿に目を向けた。
「……片付けなくても良いじゃん」
「このままじゃ生活できないでしょうが」
「放置で良いっしょ」
「……そんなこと言って、いつも片づけさせるの凛さんでしょーが」
 凛の言葉の裏に隠された意味を知らない望月は、ただ淡々と片づけをし始める。 凛は冷戦状態だとわかっていていても、ついつい気になってしまい視線を望月に向けてしまった。
 望月が掃除している場所はキッチンである。 そこにはいろいろなものが乱雑として壊れていたりするのだが、今回は食器も割ってしまったために硝子類などが多いのだ、
 素手でそれを拾っている望月に内心はらはらしていた凛の杞憂が当たったのか、望月は手を切ったらしく小さく声を漏らした。
「っ、たー……あー、もう、……」
 血の出た指先を見つめて苛立たしげに髪を掻き毟る望月。 凛は慌てて立ち上がると望月の近くまで寄った。
「……だから、そこは掃除機とかほうきで良くね?」
「大きなやつは拾わないと駄目でしょ」
「……怪我すんじゃん。つーかしたっしょ? 危ないから、やめとけよ」
「なに? 心配っすか」
「……しちゃ悪い?」
 望月に近寄るために一歩踏み出した凛は、足の裏に鋭い痛みが走るのを感じた。 慌てて足を上げて見てみれば、大きな破片を踏んだらしい。 靴下にじんわりと血が滲んでいた。
 望月同様大きな舌打ちをすると、むしゃくしゃと髪をかき回した。
「自分で言っておいて怪我っすか」
「……うるせー! あー、ったく……こんな部屋散らかしたっけ〜」
「……まあ周り見えてなかったすもんね」
「蓮ちゃん、怪我してなかった? 蓮ちゃんきたのわかってたけど、構ってらんねーかった」
「吉原先輩が庇ってたみたいですし、大丈夫っすよ」
「……ふーん、……」
 お互いにお互いの怪我したところを見て、ふっと力が抜けた。 そして自然と浮かぶ笑み。
 先程まで馬鹿みたいに苛々していたり暴れていたりしたのが嘘のようだ。 喧嘩をしたことで妙にすっきりとしてしまった。 散らかった部屋を見るとどうしようもなくなるけど一体感も生まれるのだ。
 そして自然と言葉が出た。
「柚斗、ごめんな〜。下書き終わりそうだしさあ、……ペン要れしてくれる〜?」
「良いっすよ。俺こそすんませんでした」
「……まーその前に片付けすっか〜」
「怪我は放置で良いんすか」
「女じゃあるまいし、放っとけば治るっしょ〜?」
「足なんすからせめて絆創膏ぐらい貼ってくださいよ。床に血痕つく」
「……あー、そっか〜」
 妙に脱力した気分で救急箱を取り出す凛と、ほうきを取りに行く望月。 今回の喧嘩は大爆発をしたのにも関わらず、仕様もないきっかけで直ぐに沈着することとなった。
 元を辿ればあの凛が沈黙になど耐えられるはずがないのだ。 早くても夜中には終わっていたのだろう。
 先程とは違って穏やかな沈黙が流れる部屋で、二人はちまちまと片づけをすることにした。
 今回の喧嘩で壊したものを二人で買いに行こう。 明日も休みなので明日が良いかな。 そんな風に頭の切り替えができていることに望月は忍び笑いをすると、クッションを拾った。
「柚斗」
 呼ばれて凛の方を向けば悪戯っ子のような笑み。 なんだか可愛く見えて、望月は破顔した。
「なんすか」
 ちょいちょいと手招きをする凛。 手にはなにも持っていない。 部屋もまだ半分しか片付いていない。
 望月は不思議に思いながらも凛へと近寄ると、その側まで寄った。
「これからもよろしくね〜」
「……はあ?」
「コミケの売り子頼むよ〜?」
「……はあ」
「原稿徹夜すっからさ〜」
「……はい」
「今日はすき焼きが食べたいな〜」
「……はいはい」
「明日は焼肉が食べたいし〜、し明後日はしゃぶしゃぶとかさ〜」
「……肉ばっか」
「お前が好きだし〜」
「……はっ?」
 思わず凛の顔を見ようとすれば、予想外にも直ぐ側にあった。 そのまま唇を塞がれるという、凛にしては珍しく甘いことをしてきたのだ。
 これが凛の本当の謝罪の仕方だと知ったのは、凛と付き合うようになってから。 凛の我儘は理不尽だと自分でも気付いているのか、愛想を尽かされないか不安らしい。
 だが望月は懐が深いのである。 そんな程度で嫌いになどなったりしない。 なにをされても最後の最後に許してしまうのは、愛の所為でもあるのだ。
 仕様がないなあ、という表情を見せる望月に二人は笑うともう一度キスをしたのであった。