「起きろ。オミ、朝日だ」
膝に乗る重みが表面から伝わって、ありもしない温もりを伝達する。人工的に作られた風がオミの髪を撫ぜ、さらりとなびかせた。それは柔らかいものという認識。
じじじ、とショートする電流回路。オミは一度だけ体をびくつかせると、まるでなにごともなかったかのように瞼を押し上げた。
「……いかれた」
「そう」
「やっぱ自分で充電するとうまくいかねえなあ。俺もソーラー電池搭載してくれりゃさ、ちっとはエコになんだけど」
「意味などない」
「やっぱそう思う? 太陽が人工じゃ無理だよなあ」
オミの視線が遥か遠くに向けられる。同じように視線を向けた先には、今か今かと待ち侘びるようゆっくりとした動きをみせていた太陽があった。
境界の狭間で顔を出す眩い太陽は直視しても触れても影響がない。全てが造りものの世界、人工都市において本物はなに一つとして存在などしていないのだ。
頬を撫ぜる風も、草木生い茂る森も、出たり入ったりする太陽や月も、暑さも冷たさも、街に広がる人影も、オミも、全てが本物ではない。
この人工都市がいつできたのか、なんのために造られたのか、それを知るものはいない。オミを膝に乗せて無機質な瞳で街を見下ろす#0でさえそれを知らないのだ。
最初で最後のアンドロイド。それが#0であり、ゼロである。
アンドロイドとは無機的人造人間であり、見てくれは限りなく人間に近いが感情は限りなく機械に近い存在だ。感情チップを埋め込まれているといえど、飽くまでそれは機械であり、ゼロにとってはプログラムでしかない。
それに比べこの人工都市を徘徊する人影のほとんどはバイオロイドであった。
アンドロイドとの違いはいろいろあるが、一番は有機的人造人間であり、見てくれも感情も限りなく人間に近い存在ということだろう。
昨今のテクノロジーは急速に発展をみせ、今や機械なしの生活など成り立たないほどまでになっている。
行き過ぎた研究によってクローンよりも有益な人造人間を作り出すことに成功した人類であったが、それはバイオロイドにとっては破滅への道だったのである。
生まれたときからこの人工都市にいるゼロと違い、オミなどのバイオロイドは人間社会で生まれた。己がなんのために造り出され、なんのために動いているのかそれを知っている。バイオロイドは、存在理由を知っているのだ。
一言で言うなら生物兵器。戦争のための、道具。
より精密に、より精巧に、そうして造られたバイオロイドの研究は大成功をおさめた。だがあまりに完璧過ぎたそれは人々を畏怖させるものでしかなくなり、いつしか不要となったバイオロイドは人工都市に隔離されてしまったのだ。
ここがどこなのか、いつ終わりをみせるのか、それすらわからぬままゆったりと流れる時に身を任せてあり続けるバイオロイド。最後の楽園ともいえるそこは終わりくる世界を待つ場所なのであった。
「お、風に変化が出たな。もう直ぐ朝だ」
オミの言葉にゼロは顔を上げた。境界線では太陽が顔を出す。AM6:00、変わらない世界で変わらない時間。四季もないこの場所でゼロの心を揺れ動かす唯一のもの。
何色もの色が混じって世界を染める。それが造られたものとわかっていていても、ゼロは美しいと感じた。この感情は感情チップではない。ゼロの心だ。
「オミ」
「ほら、見ろよ。花が赤に染まった」
二人を囲むようにして咲き乱れるは白の花。月明かりの下では青白く、太陽の下では真っ白く、日の出の瞬間は真っ赤に。変化を見せる花はオミのお気に入りだ。
「ああ、染まった」
「お前の瞳も、赤に染まるな」
滑らかな動きをみせた指先がゼロの頬にかかる。触れられていると回路で伝わる信号。チップの中に記憶された繰り返しに、ゼロは瞼をおろした。
「ゼロ、……」
オミの声質の周波に変化が出た。幾分か上擦ったそれが耳に届くと同時に、唇に微かな感触。
ただ触れ合うだけの行動の意味を問うても、オミは誤魔化すだけで答えてはくれない。ゼロが理解しないと駄目だと、課題を与えるだけなのだ。
柔らかいそれが、離れていく。理解を上手にできないままもう一度触れ合わせてみれば、少しだけ感情チップが乱れるような感覚がした。
「じゃあまた明日な、ゼロ。ちゃんと充電しておけよ。お前は俺らと違って脆いんだから」
けらけらと笑って立ち上がったオミはそのまま丘を下るよう中心部へと駆けていった。
中心部に聳える焼却炉に、理由もなく通い続けるオミ。そこには全てを溶かすものしかないと知っても、オミは消え逝くバイオロイドを見送るためにそこに通い続けた。
自ら活動を止めるということができないバイオロイドとって、唯一消えることができる方法。体を溶かしてしまうことだ。
固体から液体に変化をみせ、全て消えていく。そうしていなくなるバイオロイド。
一体、一体、日々確実に消えていくバイオロイドを見てオミはなにを思うのだろうか。己の存在理由も消滅理由も見つけられないゼロにとっては、それが酷く有意義なものにみえた。
AM3:00、ゼロが意図を持って活動する時間である。
ゼロを造り出した科学者が誰なのかは知らない。オミはゼロのことを最初で最後のアンドロイドだと言った。それはつまり、ゼロ以外にアンドロイドを造る気がないということなのだろう。
修理の方法も、行動の意思回路も、全てが不透明のゼロは非常に脆く、危うい存在であった。そういつ止まっても可笑しくはない。
人間がいないこの人工都市で故障をするということは、即ち人間界における死を意味する。最も死を恐れる存在はこの人工都市には存在などしていないが。それはゼロもオミも、例外ではなかった。
ただ、気がかりなのはお互いの存在だけだ。感情チップに埋め込まれたものなのかもしれないが、ゼロはオミの姿を見ると安堵のような気持ちを覚えるのだ。
ゼロが動ける時間はたったの四時間。AM3:00からAM7:00のみ。
どうしてその時間なのかわからないが、ゼロは毎日繰り返される日常を飽きともせず今日とて同じことを繰り返そうとしている。
「ゼロ!」
焼却炉から真っ直ぐ歩いたその先にある平たい丘。一面白の花で囲まれたその場所は、花以外なにもありはしなかったが、オミがいるだけで特別なものに見えた。
「オミ、ショートしてない」
「ああ、今日は充電してきたからな。そう毎日へまするかって」
「そう」
「ゼロは? 悪いとこねえ? お前だけアンドロイドだから、俺不安なんだよな。いつ止まっても可笑しくねえんだし」
「わからない。大丈夫」
「え〜不安。でもいつも通りだから安心。さ、ほら! いつもの」
オミが嬉しそうに綻ばせた表情。ゼロは催促されるまま花畑に正座をして座り込んだ。
とすん、という衝撃が膝にあたる。オミはゼロの膝に頭を乗せると、下からゼロの表情を覗き込んだ。
「オミ、元気ない」
ゼロの一言にオミはしゅんと項垂れると、心苦しそうな声音を出す。どこか空元気だったオミ。不安を隠しきれなかったのか、震えるようにゼロの手を握り締めた。
「……昨日さ、結局三体のバイオロイドが消えていったんだ。説得してみたけど、……無理もねえなあ。バイオロイドにだけ聞こえるんだ。世界の終わりの音。もう直ぐ、消える音。この世界が消える音が、するんだ」
「そう」
「……それにさ、その消えたバイオロイド全員が俺と同じ品番でさ……そりゃ遺伝子はちげえけど、やっぱさ、いつか俺もって考えちゃったな。そういう行動回路が埋め込まれてるんじゃねえかって」
オミの製品番号はDH-S/03だ。DHが生物兵器、03がコードネーム。そしてSの部分がオミのいう品番。共通したバイオロイドにしかわからない数字の羅列に隠された意味。消えることのない理由。
オミは苦しげな表情をすると、手を伸ばしてゼロの頬を撫ぜた。
「ゼロ、もうこの人工都市も終わりが近い。バイオロイドの数も残り数体だ」
「そう」
「……俺が消えたら、お前はどうなる? どうする?」
「わからない。同じ行動をする可能性が高い。AM3:00にここにきてオミを待つ。AM7:00に活動を止める。繰り返し」
「一緒に溶ける? そうしたら一つになれるかな」
「わからない。アンドロイドも、溶けるのか」
「さあなあ。ま、もう溶けることなんてできねえんだけどな……暗い話はやめよ。俺はゼロがいるだけでいーや」
酷く幸せそうな表情。オミの持つ感情思考回路とゼロの持つ感情思考回路の違いは大きい。全てを感情チップで補っているゼロにとって、遺伝子操作で造り上げられたオミの感情の全てを把握することなどできないのだ。
感情は機械で造れない唯一のもの。ゼロになくて、オミにあるもの。
ゼロはオミの頬に手をあてると、滑らすようにラインを撫ぜた。
ゼロが取る行動も、ふと沸いた感情に似たものも、なんとなくい続けてしまう理由も、感情チップで操作されているとは思いたくない。反する心もそれらで操作されているなど思いたくない。もしかしたらそう思うことも、操作なのかもしれないけれど。
ゼロは震えた睫を下ろすと、なびく風を感じようと意思を止めた。
「オミ、今日はどんな世界」
「そうだな〜ちょっと寒い、かな。あーっと、風は少ない。太陽出たら温かくなると思う。それと〜風は少ないけど、花の匂いは凄く強い。人間界で言ったら春が近いかな、なんて。四季なんてないけどさ」
「そう。そんな世界なのか」
「ああ、ゼロもわかる? 毎日変わりない世界だって言うけど、少しずつ変化はある。ゼロが一緒にいるからかもな、こうしていることが幸せって言うんだ」
「幸せ。オミは、幸せ」
「ゼロも幸せ、だったら良くね?」
にっこりとオミが笑った。オミの世界とゼロの世界が通じる。一つになる。交わって、決して溶けることのない世界が一つになる。
「ああ」
オミの頬を撫ぜていた手を強く握るオミ。先程まで幸せの色を湛えたはずのオミは幾分か暗い影を表情に落とすと、ゼロの指先に唇をつけた。
「今日は、ゼロとずっと一緒にいても良いか?」
「構わない。けど、何故」
「……焼却炉を見る理由がねえから」
「どういう意味だ」
「焼却炉の温度が下がってきているから、もうそろそろ止まるんだと思う。ま、まだ数日猶予はあるだろうけどさ、バイオロイドも……ほとんどいなくなったし。それなら少しでもゼロといたい」
視線を中心部に向ける。いつも青光りしていた焼却炉は今日も変わりなく青の光を纏わりつかせ、存在を主張していた。
オミの言った言葉が理解できなかった。先ほどもう溶けることができないと呟いた言葉に意味があったのだろうか。
「何故わかる。変化は見られない」
「わかるんだよ、不思議と。なんでかなあ、理由は上手く説明できねえけど。ただ、少しずつ下がってきている」
「そう。なら消えるのが近いということか」
「かもな。……人間の考えていることがわからねえ。俺も元は人間だったのにな」
「オミ、消えるなら一緒か。一緒、一緒が」
「……ゼロ?」
「オミ、わからない。ただ、わからない。オミ」
「……そう深く考えんな。終わりは近くてもよ、消えるときまで一緒だよ、ゼロ。じゃ、俺は寝るからまた起こせよ。後何回朝日を一緒に見られるかじゃなくて、明日も朝日を一緒に見たい、そう思ってれば良い」
オミは不安らしい。いつもより不安定なオミは確かめるように、一つ一つ言葉にすると目を閉じた。この光が最後なのか、この時間が最後なのか、少なからず終わりが近いことはわかっていても理解だけはしたくないようだ。
全ては造りものでしかないけれど、ゼロの思考回路に生まれつつあるものだけは造りものと認めたくなかった。
そうして、幾日が経った。
オミが危惧した通り、毎日一つずつ世界の色が消えていった。
止まった焼却炉、止まった風、止まったバイオロイド。消えていく世界に、生まれるものはなにもない。全てのものが消えれば、この人工都市も消えていくのだろう。
果たしてそれを、ゼロが見届けるのかどうかは定かではないが。
少しずつ壊れていくオミを間近にしてもゼロにはなにもしてやれることなどない。一日たった四時間しか活動のできないゼロには、ゼロの眠っている間のオミなどわからないのだから。
AM3:00、ゼロは行く。もう動けないほどにショートしたオミを引き摺って、丘へと上る。
「ゼロ、……ゼロ」
「オミ、今日の世界はどんな世界だ」
ゆったりと身体を横たえた。いつも通りオミの頭を膝に乗せる。オミはゆっくりとまるで息を吐くかのようにノイズ交じりの声を出した。
「風は、止んだ。世界に、光が消えた。……終わりが、近い。けど、ゼロ、お前がいるなら、始まり、だ」
「花は。オミの好きな、花に匂いはあるか」
「……そう、だな。匂いは、ある、かも」
じじじ、嫌な音がする。エネルギーの消えた世界でオミは動くことができない。消費しないよう電流回路を制御してもいつか底はつくのだ。そしてそれは、ゼロも同じ。
ただオミより丈夫なのか、長いだけなのか、アンドロイドとバイトロイドの違いなのか、ゼロには終わりの兆候すら見えない。充電ができていないのに動いているゼロ。誰よりも脆いはずだったゼロが、動いている。
「ゼロ、……俺、は、眠る。朝日が出たら、お、こせ、よ。一緒に、見よう。世界が、染まる、んだ」
「ああ。赤に染まる」
「……お、やすみ、ゼロ。また、後で」
バチバチと、火の粉が舞った。オミはヴィンという音を立てると瞳を真っ暗にさせ、落ちるよう眠りについていった。
重みが増した膝。ゆっくりと回る世界。ゼロの膝に頭を乗せるオミ。二体だけの世界。
全てが消えても、変わらない景色は長い時間をかけて色に変化をもたらす。ゆっくりと、ゆっくりと、空ける空に顔を覗かせる太陽。
オミの起きる時間だ。
いつも通りオミを揺さぶる。毎日繰り返された習慣。これからもきっと続く習慣。ゼロのエネルギーが尽きるまで繰り返される習慣。変わることのない習慣。
ゆさゆさ、揺れる。オミはなかなか起きない。ぴくりとも動かない。ゼロは焦れて声に乗せる。早く起きるようにと。
「起きろ。オミ、朝日だ」