「ねえ、アンバー。セックスしよう」
何度目になるお誘いになるのか。色っぽくしなを作っても、際どい格好をしても、アンバーに通用しないことはわかっていた。ゆっくり少しずつ、そんな決意をしたこともあったような。だけど流石にアメジストだってとっくの昔に限界を迎えていた。
最後までとは言わない。触れあうくらいは、せめてそれくらいはしても良いのではないだろうか。性に翻弄されているアンバーが見たいというのが本音ではあるけれども。ああそうだ、アメジストは淫らになっているアンバーが見たい。
「いやよ」
アンバーは読んでいる書物から顔もあげずに、素気無くそう言った。
「ちょっとは考えてくれても良くない? 愛してるも言ってくれないし!」
「あら、そうだったかしら。でも私たちには私たちなりの付き合い方があるでしょう? 時間は腐るほどあるんだから、焦らないでいきましょう」
「最もらしいこと言うのならせめて俺の顔を見て言ってくれない?」
ちりちりと身を焦がす欲情に何度眠れない夜を過ごしてきたと思っているのだ。もとより性欲のためではなく、誰かに必要とされている実感がほしくてセックスをしていたアメジストは、アクアマリンのような色情魔ではなかった。それでもやはり欲というものは溜まるし、心を傾けている人が側にいるのなら尚更だ。
涼しげな面容のままきらきらと輝いているアンバーは、今日も神聖過ぎるほどにうつくしい。アメジストは惚れ惚れしながらアンバーに近付くと、膝に手を置いて下から顔を覗き込んだ。
「少しだけ、ねえ」
顔を近付けて唇をくすぐる。触れる程度のあまえたそれは振り払われることもなく、アンバーに受け入れてもらえた。
息を乱して頬を染めて、皮膚を火照らせているアメジストとは対照に、アンバーは顔色一つ変えず目を開いたまま、舌を絡ませようとしているアメジストを見下げている。
この温度差に泣きたくなること、何度目か。それでも優しげに頬を撫ぜてくれるその仕草だけで、アメジストは簡単に心臓を溶かしてしまうのだから訓練されてもいる。
「は、……あ、アンバー」
耳を塞ぎたくなるくらいあまえた声。アンバーの読んでいる書物を奪ってベッドに放り投げ、膝の上にいそいそと乗りあげた。大きくてゆったりしたソファは元来一人用のものではあるが、こんな風に向かい合って座れる程度の余裕があるものでもあった。
手触りの良い生地に包まれてゆっくりと沈む感触を味わっていれば、アンバーのきれいな蜂蜜色の髪がさらりと肩から零れた。
「あなた、我慢するって言ったばかりじゃない。堪え性がないのね」
「……だって、愛しているなら触れたいって思うのが当然だろ?」
「残念ながらその当然は、私には通用しないわ」
「じゃあ、セックスは我慢する。代わりに触ってよ。ねえ、だめ?」
アンバーの聖なる指先が、欲望を認めたアメジストの下肢に触れるという想像をしただけで駄目だ。堪らなく甘美なる世界へ連れて行ってくれる錯覚さえ覚える。
アメジストがアンバーに身体を擦りつけてお願いとしつこく言い募れば、盛大な溜め息とともに背中をばしりと叩かれた。
「ほんとうにしつこいのね、あなた」
「気持ち良いことを、アンバーとしたいだけだよ」
「触るだけよ」
呆れたようなアンバーの表情。今はそれでも良い。もしかしたらアメジストの性に触れて、アンバーの中に眠る性が刺激されるかもしれないだろう。うつくしい顔立ちを崩して、欲情に塗れたいやらしい表情。ああ、どんな風にアンバーは変わるの。想像できないからこそ焦がれて、そうして求めて、ほしがりになってしまう。
期待を膨らませた下肢は既に反応していて、アメジストは戸惑うアンバーの指先を大胆にも導いた。犯してもらいやすいように今日は衣服の裾をわけるだけで、脱がないでも致すことができる格好をしてきたのだ。もちろんアンバーはそんなこと、知りもしないだろうけれど。
「硬いわね、ここ」
「ん、ね、アンバー、そのまま触って」
下着を穿きさえしないアメジストにはなにも触れず、既に硬くなったそこをやんわりとアンバーの指先が包んだ。じんじん疼いて少し湿っている欲望の塊。きっとアンバーはなにもわかっていないはず。こんな風になったことがあるのかさえ不明だ。
荒い息を零して、アメジストはアンバーの肩に頬を寄せた。
誰かは虚しいというかもしれない。ひとりだけ熱くなって、熱をあげて、欲情しきっている。アンバーといえば涼しげな顔のまま義務的に指を滑らせては、アメジストの言うことを聞く人形に徹している。
「ン、っん、ふ」
冷たい指先が熱い下肢をくすぐって、ぬめった音をさせながらゆるりと上下に扱いていく。最初こそ戸惑いがあった動きも要領を掴んだのか、アンバーは機械的に同じ動きをしてみせた。
指で作られた輪が、絶妙なしめつけでアメジストの下肢を刺激する。上手も下手もないその動きに堪らなく感じて吐息を零すアメジストは、アンバーの瞳にはどう映っているのだろう。
はしたないと蔑むのだろうか。ちっとも熱くならないアンバーの身体に身を寄せて、アメジストはぎりぎりと心臓がしめつけられる痛みを覚えた。
「ぁ、あ、アン、バー」
どうしてなんて、問うても答えはわかっている。もとからアンバーはずっと興味がないと言い続けていた行為だ。アメジストが無理にさせているだけで、義務感からしか付き合ってくれないこともわかっていた。
アンバーの一番大切な心臓をもらっている。それがなによりもの幸福に繋がると知っていたのに、どうしても欲というものがうまれてしまった。
手っ取り早い愛の確認を、アメジストは知らなかった。身体を抱き合うこと以外で愛していると実感できる行為を、知らなかったのだ。
いつだって素っ気なくて、愛しているも言ってくれなくて、口づけだってアメジストから強請らないとくれない。触れてもくれないし、構ってもくれないし、抱きしめてもくれない。そんな宝石とわかっていて愛したのはアメジストだ。ああだけどね、時折どうしようもなく寂しくなるときがある。
「アメジスト、震えているのね。すごく身体が熱いわ」
「きも、ち、いいの」
「濡れてきているものね。びくびくしてる」
「あ、アンバーは、し、したく、ならな、い?」
伸ばした指先で、アンバーの下肢にそっと触れてみる。服越しではあったものの、平淡なそこは熱さえもちえていなかった。
「まだそういう気にはなれないわ。でも、あなたのそういう顔を見るのは嫌じゃないかもしれない」
琥珀色の瞳が近付く。キスをするでもないくせに間近でじいと観察するように見つめられながら下肢に触れられて、アメジストは羞恥から沸きあがる快楽に鼻に引っかかったような声を零した。
ああ、と喉に詰まっては、嬌声となって耳をつく。汗が滲んで脳が白んで、なにも考えられない。
くるしくてあつくて、どうしようもない快楽の狭間に溺れているというのに、アメジストに触れる指の冷たさに時折現実に引き戻されもする。
それでも愛している宝石に触れられる喜びに勝るものなどなにも存在していなくて、アメジストは緩やかな刺激をもたらしてくれるアンバーの指先にびくびくと腰を震わせると、かろうじて耐えていた白濁をアンバーの手の中で吐き出してしまった。
「く、っ、ぁ、あ」
びゅくびゅくと先端から零れた飛沫がアンバーの指先を白く汚す。ここのところ胸がいっぱいでろくな慰めもしていなかった白濁はねっとりと濃く絡まると、長い時間をかけて少しずつ解放された。
肩で息をして、汗を滴り落とす。アンバーの肩に額を乗せて目を瞑れば、頭上で小さく笑う声が聞こえた。
「熱いのね、アメジスト」
穢されたこともないのだろうアンバーを穢してしまった罪悪感がふと沸いてくる。やはり酒などに頼って自分を煽ったのが間違いだったのかもしれない。
急激に冷めていく熱にアメジストは唇を噛みしめると、無性に泣きたくもなった。
あのあとアンバーの手をきれいに処理したアメジストは、やはりどうしようもない遣る瀬無さにすっかりと意気消沈してしまうと、虚しさに潰れてしまいそうだった。
僅かに期待を抱いていたのが悪いのかもしれない。自信があった訳ではないが、もしかしたら熱くなったアンバーとそういうことをするのではないか、なんて思ってしまったのが運の尽き。
アメジストの痴態に興奮するどころか流されてもくれなかった。アンバーは涼しい顔を崩さずに、書物の続き読んでも良いかしら、なんてのたまったのだから余計にだ。
堪え切れずに泣き出したアメジストに、アンバーは冷静になってそういう約束だったでしょうと言う。それでもあんまりだ。関係は日々変わり続けていくものだから、約束だって変じることがあっても良いはず。
ぼろぼろと涙を零してこどもっぽさを露にしたアメジストが、八つ当たりのようにクッションをアンバーに投げつけて馬鹿と罵った。すっかりと止まった涙をだけ見てアンバーは蔑むように笑う。
「あら、嘘泣きだったの? 軽蔑するわ」
愛もない言葉じゃないか。それですっかり冷戦状態に陥ってしまった、というよりアメジストが勝手に不貞腐れて、アンバーは動じることもなく興味なさげに書物を手にしている状況を作りあげてしまった。
嘘泣きでもなんでもない。ただアンバーに愛してほしかっただけ。そうだ、もっと愛していると実感したかった。鍵だけじゃ、側にいるだけじゃ、我慢できない日だってある。
ベッドに顔を埋めて時折アンバーの方をちらりと見て誘い受けしてみるものの、本の虫になったアンバーは気にも止めてくれない。セックスしてくれなくても良いから、ごめんねと、キスひとつで浮上できるのに。
アンバーに恋をして知ったことは、アメジストが面倒くさい性格をしているというところと、アンバーが淡白過ぎる性格だということ。相性は最悪なのじゃないだろうか。それでも離れられないのだから始末に終えない。
アメジストはぐずぐずと腐っていてもどうしようもないので、少しだけ頭を冷やすために隣の部屋に行こうと足を進めた。アンバーの世界を凝縮したといっても過言ではない、アンバーの宝石が散りばめられた、ひとりが入れる程度の小部屋がある。アメジストのお気に入りでもあるその部屋は二人が喧嘩をしたとき、とはいっても一方的にアメジストが怒っているだけなのだが、そんなときにアメジストが篭もる部屋としても使われていた。
本当は部屋を出て行くほどの豪傑さをもっていたかった。浮気してやるだの、愛してくれる宝石のところへ行くのだの、言って追いかけてもらうことを期待したい感情はあっても、もし顔さえあげてくれなかったらという恐怖に二の足を踏んでしまう。
それにもうアメジストはアンバー以外に愛されたいとも思わない。アンバーだからこそ、愛されたい。
誰かに依存してしまうと恐怖すら覚える。信じていない訳ではないが、不安なのだ。
少し腫れぼったくなった瞼を擦って、アメジストはベッドからおりると、小部屋に続く絨毯を踏み鳴らして華奢なドアノブを掴んだ。
キィ、と扉が開く音とともに鋭い声がかかる。え、と思ったアメジストが顔をあげれば、殊更焦ったようなアンバーがアメジストを後ろから抱きしめて扉をばたりと閉じてしまった。
「あなた死にたいの?」
怒りさえみえる声に、アメジストは目を真ん丸くさせたままアンバーを見上げる。呆れたように髪をかきあげたアンバーは窓の外を指差すと、見なさいと言った。
「まだ日中よ? あなた太陽の光の中で生きられないじゃないの」
「そ、れは、そうだけど」
「前にも教えたでしょう。満月がのぼる裏側の日中は日光浴をするために太陽を取り込むから、あの部屋には入らないって約束したの覚えていないの?」
「あ……ごめん。すっかり忘れてた」
「心臓止まるかと思ったじゃない」
「……心配したの?」
「当たり前でしょう。アメジストは私のことなんだと思っているのよ」
ドアノブから手を離して、向き直った。顔色一つ変えないとばかり思っていたアンバーが心配を滲ませているのを見て、アメジストは胸を単純にも高鳴らせてしまった。
どうしようもない恋をしていると思う。たったこれだけで浮上できるお手軽な恋だ。
他の誰かと愛しあえていれば、もっと幸せを感じることができたのだろうか。答えは否。アンバーでなければいけない。
アンバーに思い切り抱きついて猫なで声をあげた。やはり淡白で潔癖でどうしようもないアンバーを愛せるのも、そうしてアンバーに愛されるのも、アメジストしかいないはず。
「ベッドに連れてって」
「仕方ないわね。もう機嫌は直ったの?」
「直ってないよ。アンバー、キスならしてくれるんでしょ? いっぱいキスして」
「随分と現金なのね、あなた」
「少し、嬉しかったから。……だって、アンバー俺のこと見ててくれないと思ってた。でもちゃんと見てたから気付いたんでしょ?」
しゃらりと重たげなアンバーの衣装が音を立てる。いつ会っても完璧なまでの禁欲さを醸し出しているアンバーの衣服は、堅城さを出し過ぎて逆にいやらしくも見えた。アメジストだけかもしれないが。
軽々と抱き抱えられたアメジストはやや乱暴にベッドの上に落とされると、圧しかかってくるアンバーを見つめた。
このシチュエーションだけを切り取れば、なんて都合の良い解釈ができるだろうか。襲われているような状況にどきどきと心臓を動かしては、なにか言いたげにしているアンバーの唇に指先をあてた。
「愛している以外、言わないで」
言ったこともないだろう科白をそう簡単に言ってくれるような宝石だったのならば、苦労もしていない。案の定アンバーは言葉を噤むと、黙ったままゆっくりと唇を近づけてきた。
世界中の宝石と比べたって、アンバーよりきれいなものなど存在しない。微かに零れた日の光によって輝きを増すアンバーは、光の中でこそうつくしく際立つ宝石だ。
その宝石を掌中におさめている。触れることを許されている。こんな風に、キスをされている。
「ん」
愛していると、言ってくれたらなおよし。それでも言わないからこそ焦がれては、また同じような喧嘩を繰り返して、どうしようもなく腐っていくのをアンバーがきれいに整えてくれるのだ。
ちゅ、と啄ばむように唇がアメジストの上唇をくすぐる。触れるだけというよりは戯れるようなこども騙しのキスに、とろけるような表情をしてみせたアメジストはうっとりと瞳に色を溶けさせて、ベッドに沈んだままアンバーに触れた。
「アメジスト、これで満足かしら?」
もちろん満足な訳がない。
するりと悪戯めいた素足がアンバーの腰に伸びて、絡みつくように巻きついた。ぐっと身体を固定すればアンバーにも意図が伝わったらしい。咎めるような視線を向けてくる。
「だーめ。ねえ、せめて十分くらいは愛してよ。キスで我慢するから」
「アメジスト」
「俺のこと、愛してくれているんでしょ?」
書物なんて触らせない。琥珀色の瞳にはアメジストだけを映していれば良い。なにも見ないで聞かないで触らないで、アンバーの世界はアメジストのためだけにあると言ってほしい。
血液、細胞、心臓、ぜんぶアンバーにあげるから、十分間くらいは時間をくれたって良いじゃないか。
「……ほんとうに、仕方のない子ね」
ああ、と呆れてみせたアンバーのやわらかな表情に心を砕かれて、アメジストは甘美な世界にひたすら浸されていくのであった。
瞼をおろして唇を閉ざし、手に触れる形を確かめながら愛しているの一言を待っている。ああ早く、その愛をアメジストに渡しておくれよ。