滑るような触れ方で頬に指先を乗せる。口うるさく動いていた唇が止まって、ほんのりと朱を浮かばせた。粗暴なくせにそういうところが初心だからいけない。
腰を引き寄せて顔を近付ける。薄づきの唇を食めば、ひくりを震えて肩にしがみつくように手を乗せられた。これ以上のことなんて腐るほどしているというのに、一体いつになったら慣れるのやら。
「ルビー」
あまい声音で呼びかければ、ルビーはもうどうにでもしてくれといった風にとろかせた瞳をみせてくれるのだ。それはきっとエメラルドの前でしか見せることがない表情なのだろう。ほんの少しの優越感を覚えて、もう一度口づけた。
色気がないと散々言われているようだが、エメラルドには十分な色香を醸しだしているように見える。それは傾倒し始めている欲目からなるのだろうか。内々に複雑な感情が鬩ぎあっているために正式な言葉にしたことはまだないが、それでもルビーはしあわせそうな顔をして隣にいてくれた。
「……あまえてんの?」
寝台の上で、なにをするでもない戯れだ。既に散々愛しあった身体は心地よい疲労に満たされている。愛しあう関係ならば互いの相性が悪いとしても反発する力は少ないと聞いた。高級宝石として多大なる力をもって生まれた以上、やはり相性のいい悪いはでてくるもので、殊更ルビーとエメラルドはよろしくのないものだった。
かといってそれが弊害になるかといえばそうでもなく、思いやりひとつで補えるというのだから不思議な話だ。
それでも最近はセックスするよりも、あたたかな体温に包まれている方が安堵を覚える。もっともそんなことなど言えないし、言ってやるつもりもないけれど。
「エメラルド、かわいい」
あやすような手つきで髪を撫ぜつけられた。紆余曲折あっていいところにおさまってからどれくらいの日数が経つのだろう。皆に怪訝そうにされながらも、うまくやっていけていたと思う。
「ほんとうにお前は趣味が悪いね」
「……何度も聞いたってば。エメラルドこそ趣味が悪いって言われるだろ?」
「それは否めないかもしれない。ああでも、サファイアはきれいじゃない?」
「俺は?」
「お前がきれい? 笑わせたいの」
「またそんなこと言う! 嘘でもいいから言ってくれてもいいじゃん」
「きれいって言われても喜ぶような性格じゃないでしょ。……もういい。眠る」
「あ、なあ、エメラルド」
なにかを言いかけたルビーではあったものの、エメラルドがあまえるこどものようにルビーを身体の中におさめてしまったので、仕方がないと小さく笑うだけに終わった。
このときなにがあるかと聞いておけばよかったのだろうか。エメラルドの意識は混濁していた。ルビーのあたたかな体温を抱いているすぐに眠くなってしまう。言いかけの言葉が気になったものの、睡眠をとってしまったのだ。
夢の中まであたたかい。ルビーがすっかりとエメラルドの心臓に居座るようになってどれくらいか、エメラルドにとって予想にもしていなかったことが起きた。
目覚めから違和感があった。一緒に眠った次の朝はいつも小うるさいルビーの声で起きていたものの、今日ばかりはそれがない。どころか抱いている身体もない。抱き寄せた腕は透かしをくらって、寝惚け眼で寝台の中を探ってみるものの手に触れるのは冷たいシーツの感触ばかり。
おかしいなと思いつつゆるりと瞼を開けば、そこに広がるのはなにもない白の世界だった。
「……ルビー?」
寝汚いエメラルドは起きるのが苦手だ。ぼんやりとする頭を抱えてなんとか身体を起こすもののつらくてまともに瞼も開けられない。がらんどうとした部屋には誰もおらず、緑玉のカーテンの隙間から眩しいほどの太陽の光が差していた。
ルビーがいない。そのことにエメラルドは少なからず動揺を覚えていた。
一体どこに行ったのだろう。部屋に戻ったのだろうか。しかしいつもなら戻る場合でも声をかけてから戻る。ならば来客があって外に出たか。いやそれもないだろう。ルビーがこの部屋にいる限り、誰もエメラルドとルビーを訪ねてこない。緊急な招集があったか。それでもルビーはエメラルドに声をかけることは忘れないだろう。
ということは愛想でも尽かしてどこかへ行ったか。はっきりしない曖昧なままのエメラルドに見切りをつけたか。
「そんな馬鹿な」
ことあるはずがない、と言い切れないほどにエメラルドもルビーに依存をしていた。
ふらふらする身体を押さえて寝台から抜けだす。ぐちゃぐちゃの寝衣じゃととてもじゃないが外にではでられない。ああそういえば何日くらい引きこもっていたのだっけ。
カーテンをざっと開けば太陽は既に真上にのぼっていた。いくらなにもやることがないとはいえ、自堕落な生活だ。
エメラルドは急いで身支度を整えると、誰が見てもうつくしいとこぼすような姿になって部屋を出た。外の空気は相変わらずねっとりとしていてエメラルドの肌にはあわない。根っから引きこもり体質なのだろう。ルビーとこんな関係になる前までは、のべつ寝所でセックスばかりしていたのだから。
見知った顔ばかりとすれ違う。この時間帯じゃそれもそうか。エメラルドになにか話しかけようとしていたものばかりだったが、エメラルドはすべての視線から逃れるように無視を決め込むと、最初から目的である人物を探した。
ルビーが逃げ込む場所など二ヶ所しかない。サファイアか、ダイアモンドか。どちらもエメラルドから訪問しにくい相手ではあったものの四の五の言っていられる状況でもない。
運よく出会えればいいが、そう思っている矢先にできれば避けたい人物が向こう側から歩いてきた。かつていちばんセックスでお世話になったアクアマリンを引き連れて、説教をかましているのはサファイアだ。エメラルドが人生をかけてこれ以上とない愛を捧げた相手。
とはいっても完璧に一方通行な上にサファイアからはとことん嫌われていた。それもそうか。仕方ないことをした。
過ぎてしまおうかとも思ったが頼みの綱がサファイアなのだから背に腹は変えられない。エメラルドは心の中で息を吸うと、サファイアに視線を向けた。
「サファイア」
てっきり無視をされるとばかり思っていたが、どうやら話を聞いてくれる気はあるようだ。顔に嫌悪は浮かんでいるものの立ち止まってくれた。横に立っているアクアマリンは気まずそうにしていたが。
こうしてサファイアの前に立ったのはどれくらいぶりだろう。以前はしつこく付き纏って愛だのなんだのと迫っていたがおかしな話だ。あれほど激情を募らせていた相手だというのに感じるのは懐かしさばかり。愛していた感情は過去の産物となったのか、心臓の表面がざわりと騒ぐものの、心までは奪われなかった。
ああそうか。心変わりをしてしまったのだ。狂おしいまでに傾倒していた。すべてだった。死んでもいいくらいに愛していたのに呆気ないものだ。寂寥ばかり募らせるもののこの痛みも悪くはない。エメラルドは怪訝そうにしているサファイアから視線を外すと、息を吐いた。
「……なに?」
「ルビーを知らない?」
「は? え? ルビー?」
拍子抜けしたのだろう、なんだか情けない声だ。サファイアは瞼をはちはちとさせると、おっかなびっくりといったような表情になった。
「ルビーを捜しているんだけど」
「……変わったな」
「で、知ってるの?」
「っていうより聞かされてないの? ルビーは公爵夫人に呼ばれて宝石箱の外に行っている。直ぐ帰ってくるとは思うけどね」
「……宝石箱の外に?」
「さっきダイアモンドが言っていたから確かな情報だろう。いつ決まったかは知らないけど、緊急ではないと言っていたね」
サファイアの言葉に、エメラルドはようやっと合点がいった。そういえば昨日の夜、ルビーがなにかを言いかけていた。それはつまりそういうことなのだろう。でもだったらどうして行く前に一言告げなかったのか。なにも姿を消すようにいなくならなくても。
エメラルドは心臓がゆるやかにしめつけられる痛みに眉を顰めると唇を噛んだ。釈然としない。ダイアモンドやサファイアよりも、あとに知らされたこの気持ちをルビーはわかるというのだろうか。
「……ありがとう」
エメラルドの言葉にサファイアが瞠目してみせた。アクアマリンも気持ち悪いと言いたげな表情だ。失礼な。エメラルドはサファイアに触れようとしたけれどやめておいた。少しの接触でも嫌がるだろう。
するりと横を過ぎれば、サファイアが振り返る気配がした。
「ルビーのこと大切にしてるの?」
老婆心だろうか、きっと内心では反対しているに違いない。きっとサファイアは死ぬまでエメラルドのことを憎むだろう。それ相応のことをした自覚もある。
だけどルビーのしあわせがなにかはわかっているらしい。愛されている。エメラルドは手をひらりと振ると、ルビーの部屋に向かった。
ああもう、どうにもこうにも腹の虫がおさまらない。自分はこんなに心の狭い宝石だっただろうか。そうだ。狭い宝石だった。
ルビーの部屋に勝手に侵入するとそのまま寝台に寝転んだ。一応それなりに見目を整えたのだが、ルビーがいなければ意味がない。気付けばこんなにもルビーのことばかり考えている。
どれくらいここを空けるのだろう。いつ帰ってくるのだろう。わからなければエメラルドとて不安になる。特に依存していたからこそ余計にだ。いちいちエメラルドの愛は重苦しいとは思うものの、こういう愛し方しかできないのだから仕方がない。
愛を与えて、与え返してもらうことはエメラルドにとって初めてだった。渇望していた。かつては一身にサファイアに捧げていたその感情も、気付けばルビーに矛先が向いている。あいされたかった。その願いを叶えてくれた。それだけじゃない、あいさせてもくれた。
「ルビー、早く帰ってきてよ」
本人に言ってやればまた泣くのだろうか。それともうそ臭いと吠えるのだろうか。どっちでもいい。無性にルビーに触れたくて仕方がない。どうにかしてくれ。
エメラルドはぐだぐだと溶けた感情を持て余しながら、ルビーの寝台で丸くなった。
ルビーが帰ってきたのは、太陽が二回も上にまわってかたのことだった。
きらきらと輝くグリーンの世界にいたくなくて、ルビーの部屋に篭城を決めた。ごうごうと燃えるような炎の色ではあったものの、エメラルドにとってはどこか心地がいい。ぬくもりを欲するこどものようにただぐうたらと寝台の上でものいわぬ物体のように呼吸をしていれば、急いたような気配とともに扉が開かれた。
「エメラルド!」
大きな声をださなくても距離はないのだから聞こえている。エメラルドは眠り過ぎてすっかりと冴えている瞼を開くと、ルビーがやってくるだろう方向を見つめた。
床を蹴る音、荒い息遣い、なんら変わりのない姿を見せたルビーは寝台の上でぼんやりとしているエメラルドを見ると怒鳴りつけるように寝台の上に乗っかった。
「なにしてんだよ! 自分の部屋に戻れよ!」
「……第一声がそれ?」
「エメラルドただでさえ影響されやすいんだから、ああ、もう、やつれてんじゃん! この部屋に閉じこもっていたって、なんの得にもならないだろ!? 弱っていくだけなんだから!」
「ルビーの気配がある」
「は?」
「なんでなにも言わなかったの」
ルビーの手首をぎゅっと握れば、戸惑ったように見下ろされた。シーツに顔を半分埋めているエメラルドはルビーにどう映るのだろう。自分でもこどもっぽい行動をしているとわかっている。だけどどうにもこうにも感情が暴発して言うことをきかないのだ。
久方ぶりに顔を見られてうれしいと思う半面でやっぱりなにも告げられなかったことに苛立ちも覚えている。エメラルドはルビーにとってのなんだというのだ。ルビーの中でいちばんではなかったのか。
「あーっ、と……ごめん。言おうとしたんだけど……」
「うそ」
「嘘じゃねえって。でもエメラルド寝ちゃったし、朝も起こすのは悪いかなって……もうちょっと早く帰れると思ったんだけど意外と長引いてさ、……心配した?」
「してない」
「だよなあ」
さみしげに笑うルビーにも、やっぱりほんの少しのむかつきが湧いた。悪いのはエメラルドだ。愛の始め方からして最低なものだった。散々サファイアの代わりをさせておいて、代わりにならないと突き放して、ルビー以外の宝石とセックスもやめないで、ずたずたに傷つけた。崩壊寸前まで追いつめた。それでもルビーはエメラルドをあいしていると言った。
絆されたのは、いいやそんなルビーにエメラルドだって恋に落ちたのではなかったのか。ルビーがエメラルドをあいしてくれるのと同様に、あいしているのではなかったのか。
そこまで想われていない態度をとらせるのはエメラルドの態度の所為だ。わかっていつつも、素直になれないエメラルドはいつまでも前までのような態度を変えられずにいる。
むくりと身体を起きあがらせた。目線が同じになったことで、ルビーが不思議そうな瞳をエメラルドに向ける。
「エメラルド?」
伸ばした指先で引き寄せた。腕の中に閉じ込めて抱きしめれば、なるほど馴染むような体温が広がる。ここ数日ずっと欲していたものだ。
どうにもこうにもならないくらいにはルビーに惚れ込んでいるらしい。たった数日姿を見ないだけでこのざまか。呆れたものだ。
「ルビー、さみしかった」
「……へっ」
「俺をひとりにさせるなんてお前はとんだ罪作りだよ。せめて一言言ってくれないと。サファイアからお前の行き先を聞かされた気持ちがお前にわかる? すっごくむかついた」
「え、エメラルド?」
「なにその顔」
「だって、え、そ、そういうの、え? なん、なに言ってんだよ。冗談か? 熱あんの?」
信用されていないにもほどがある。これでもあいしていると言ってきたつもりなのだけど、なにも伝わってはいなかったのだろうか。エメラルドはむっと眉間に皺を寄せるものの、あたふたと赤くなって慌てるルビーの姿に絆されてやることにした。
すっかりと夢中になってしまっている。ルビーの粘り勝ちというのかな、こういうのは。
両頬を包んで正面から顔を覗き込んだ。男らしいと称される顔がとろけてあまくなる。ルビーはエメラルドの前だけで、かわいい宝石になるのだ。
「あいしてるんだから、当たり前でしょ。ルビー」
口づけひとつとともにそう言えば、ルビーがもっている色以上に真っ赤になってしまった。ああだけどエメラルドの耳もあつい。負けず劣らず赤くなっているのだろうかと思うと死にたくなったけど、きらいではない。なかなかに悪くはない心地だ。
これからはもっとあまやかしてやろうか。余所見もできないくらい、腕の中に閉じ込めよう。エメラルドはそんなことを思った。