人ならざるものの力が働く古都京の外れに、地図にも載らないような小さな神社があった。かの昔は旅人による参拝でそれなりに賑わっていた境内も、時代と共に人の足が遠退いて今や廃墟と化していた。
願いすらされなくなった土地神はそっぽを向きどこかへ消え、まさに神も人もいない存在すら意味のない場所になってしまった。だが無人となった潰れかけの神社をそれでもと未だに守る二匹の狛犬がいた。
右の獅子像阿形は口を開け、左の狛犬像吽形は口を閉じている。その姿は全国に分布する狛犬に共通するものであった。
古ぼけた石の像、どこにでもある狛犬。時と共に風化して消えゆくその姿ではあったが、人ならざる京の夜にひっそりと息を吹き返し碁盤の目を徘徊していることは狛犬しか知らない。そしてその目的が眷属の理由ではなく遊ぶためということも。
子の刻が訪れると同時に石の像であった獅子像阿形の東雲(しののめ)が人の形へと姿を変えた。愛らしい耳と尻尾が出てはいるものの人そのものの姿に、それを見た人はざぞかし驚くことだろう。腕を伸ばして息を吐き切ると座り台から降りた。
「おい、八雲(やくも)! いつまでその姿でいるのだ。あんたもいい加減その姿はやめたらどうだ? どうせこの神社は一年通したって誰もきやしない。ばれないってことよ」
その問いかけに沈黙を徹していた狛犬像吽形の八雲も仕様がなしといった風に人の姿に変化した。
「……お主はどうしてそんなに人に化けたがるのか、わらわには理解もできぬ。勤めを立派に果たさぬからこんな辺境な地へ追いやられるのだぞ」
「あんただってそうだろう? 私と対になってとんだ災難だったな。あんたの技量じゃもうちょっと名の知れた神社に派遣されたものの、私の所為でこんな体たらくだ」
「別に恨んではおらぬ。こちらの方が気も楽だ」
「そーかいそーかい、じゃ遠慮なく遊ばせてもらうとしよう。辰の刻には戻る!」
言うが早いか東雲は意気揚々と空へと駆けると名もなき神社から姿を消してしまった。残された八雲は座り台に腰かけたまま深い溜め息を吐く。こないとわかっているが人がきたらさぞかし驚くだろう光景だ。右の狛犬は存在しておらず、左の狛犬は人に化けている。
(……東雲が羨ましい。どこへだって行ける足を持っていて)
古びた着物を翻し、八雲は己の足を撫ぜた。飛んでいける足も力もあるが呪詛が張られてしまったようにこの場から動けずにいた。己の意思ではどうも動かない。
目を閉じれば今でも鮮明に浮かんでくるのは色褪せることを知らない思い出ばかり。色めいた八雲の心を揺さ振って居座っている。忘れることすらできず、記憶だけが八雲を縛りつけていた。
東雲や八雲といった一般的な狛犬は獅子像の阿形と狛犬像の吽形という形にわかれていた。お互いに対となる存在を見つけて、全国の神社や寺院に派遣される。
たまたま八雲の相性が狛犬始まってのろくでなしと名高い東雲と良かったためにこんな辺境の地へと飛ばされてしまったが、今ではそれも良かったと思っていた。最初こそ、地獄だったが。
派遣される神社や寺院の位が高ければ狛犬の位もあがる。そう考えれば東雲も八雲も最低位だった。
(……東雲と違って、あのお方の獅子像阿形は最高位だった)
ぶわりと心を占める鮮やかな姿。色とりどりの着物に身を包んで冷たい印象ともとれる綺麗な顔立ちをみせ、少し釣り上がった瞳に八雲の姿が映ったときなんて心臓が跳ねる思いだった。
予想よりも低い声が紡いだのは極楽へのお誘い。だけど八雲は断った。不相応過ぎて、恐れ多かったのだ。
たった一度だけだ、その姿を見ることができたのは。だけどそれ以来忘れられない。今でなお八雲の心を縛って忘れさせてくれない恋に落としたのだ。
日本最古の東寺の狛犬に倣って、東寺を元としたそこの狛犬は現在あるものでは一番美しい造形をしていた。有名である地主神社の門番を任せられている狛犬獅子像阿形に、八雲は想いを寄せていた。
「……ああ、名も呼べぬ」
声に出してしまえば愛おしさで胸が張り裂けそうだった。差し出された手を振り払ったのは八雲なのに、それでも未練がましく追い縋ってしまう。
呼んでしまえば最後、恋に狂ってしまいそうだった。
八雲は空を見上げると真上になった満月を瞳に映した。月夜に晒されて金の髪がよりいっそう光る。紅い瞳はなにを映すのか、八雲は己の容姿を想像すると息を漏らした。美しくとも、有り触れた美しさなら平凡に変わりない。それすら超越した想いの形は、存在すら危ぶむほどの美貌だったのだ。
「もう一度、会いたい……」
月の化身のような姿だった。対の吽形狛犬像は太陽のような化身で、二つ揃うと本当にお似合いで己となど想像ですら立ち並ぶことがおこがましくて恥ずかしい。
視界に入るは美しい月で瞳を閉じれば真っ暗な闇。そこでしか会えない、夢の形。八雲が自嘲すれば、それに返るような笑い声が聞こえた。
「何奴……っ!?」
慌てて佇まいを直せば、あろうことか東雲の台座にたった今まで想いを馳せていた地主神社の獅子像阿形がいた。極彩色の着物を身に纏い真白の髪をかき上げながら真っ直ぐに八雲のことを見ていた。
「あ、……お、お主様は……出雲(いずも)様……」
「久しぶりよのう。よもやこんな辺境の神社くんだりまで飛ばされているとは知りもしなかったぞ」
「は、はあ、その、実力です。わらわはこの神社が性に合っているようです……それより出雲様はどうしてこのような地へ?」
「うぬに会いにきたといえば信じるか? 八雲のことが、忘れられなんだ」
顔を顰めてそう紡いだ出雲の表情の切なさといったら、見ている八雲まで胸を鷲掴みにされるような感覚だった。
だけど紡いだ言葉のなんと浮世離れしたことか。戯言にしては面白くもなく、本音にしては有り得なさ過ぎる。どちらにしても八雲はどんな反応をして良いものかさっぱりわからず、ただ曖昧に頷いた。
第一にどうして出雲のような立派な地位にある獅子像阿形がこんな神社にいるのか、それが不思議でならない。
おんぼろの廃墟に似合わない華美な見目だけが、月のようにぽっかりと浮いて見えた。
「出雲様……その、そのようなお戯れは……」
「うぬはわらわが浮世人だと申すのか?」
「そ、そんなこと滅相もない! ただ、わらわでは……釣り合いませぬ。理由もないままそのようなことを申されても、ただただ唖然とするほかにございませぬ」
「では理由があれば良いと」
「……出雲様、それも……」
「うぬはどうしてほしいのじゃ。わらわは言っておるだろう、初めて会うたときからうぬに惹かれていると。わらわの金の瞳とうぬの金の髪も、まるで惹かれ合うために誂えたものとしか思えぬのだ」
歯の浮くような台詞に、たじたじと申し出を断っていた八雲の頬に朱が差した。思い焦がれていた相手からそのように褒められて求愛されたのでは、こうなるのも頷ける。
出雲と八雲が初めて会ったあの日は、まだ八雲が神社の眷属狛犬にもなっていなかったときだった。
その頃からなにかと一緒に行動を共にしていた東雲に夜の遊びに誘われ、京の街をそれとなく目的もないまま徘徊していた。清水寺から地主神社へと差しかかる古風な道に少し気持ちが浮ついた八雲は、体の相手を見つけた東雲と別れ独りで散策をした。
人がいない境内はしんと静まり返っているが、豪華絢爛な建物を見ながら歩けば極彩色の世界へと連れていってくれる。知らずの内に高揚していた八雲は、側に近付いていた気配に気付けなかった。
『うぬはどこの眷属じゃ? それともまだ見習いか』
凛とした声が響く。八雲がはっとして辺りを見回すが誰もいない。訝しげに思えばまた声が聞こえる。
『上じゃ、上。うぬの仲間じゃ。わらわの名は出雲、地主神社の獅子像阿形の狛犬じゃ』
上を向けば狛犬がぐにゃりと形を変えて人に成り代わり地上へと降り立つ。極彩色の着物を纏い白の髪を靡かせ、こちらをじいと見る瞳は金の色。美し過ぎる顔立ちは生きたものとは思えないほど冷たくも見える印象だった。
見惚れていたのかもしれない。八雲は声を出すこともできず、出雲が近寄ってくるのをただ見つめていた。
『慣れぬ匂いがするの? 良い匂いじゃ』
『な、なにを……っ』
気がつけば距離がなくなって、出雲に抱きすくめられていた八雲は慌てて手を突っぱねるもののびくりともしない。そのまま温かな腕の中、優しい締めつけを味わうとかっと体が火照っていった。
『うぬの名が知りたい。なんという?』
『わ、わらわですか? わらわは、八雲……眷属先が決まったばかりの狛犬見習いです』
『ほう? じゃあ今日は観光ということか。珍しいのう。こんな地も意外と同属はこぬからわらわも出歩いてばかりいるのじゃ』
そうっと壊れものに触れるかのように頬に指を滑らされて、八雲はびくりと身を竦める。触れられた先から熱が広がって、己の体なのにいうことを聞いてくれない人形のようだった。
(な、何故だ? どうしてこんなに熱いのだ? 胸が痛い……なぜ……)
理由のわからないものに支配されていく恐怖。八雲は出雲から目を逸らすと、蚊の鳴くような声で抵抗を露にする。
『おやめ、くださ……』
『どうして? うぬが気に入った。わらわの夜伽をしてくれぬか?』
『よ、夜伽と……申されますか?』
『今夜の愛い人よ、わらわに愛されてほしいのじゃ』
それはとても魅力的なお誘いだった。八雲のどこを気に入ったのか、出雲は夜伽を是非にもと乞う。出雲ほどの美貌なら八雲程度の美貌など目にも留まらないだろうに、それでも綺麗だと褒めてくれた。
思わず頷きそうになった己を慌てて叱咤して食い止める。一時の極楽に夢を見れば、永遠の地獄を味わうはめになってしまう。それなら失意でも良いから傷が浅い内に終わらせてしまいたかった。
八雲はこの瞬間に己の感情に気付いていたのだ。たった一目で落ちた恋など、誰が信じるのだろう。
『……申し訳ございませぬ。わらわはもう帰らなければ』
時刻は寅の刻。夜明けには余裕のある時間だったが、八雲はそうっと出雲の体を押し返すと距離を取った。
『麗しい出雲様、またどこかでお会いすることがあったならば是非にも』
『八雲や、待っておくれ。うぬはどこの眷属になるのじゃ? そう言うのなら教えてたもれ。会いに行こうぞ』
『さあ、わかりませぬ。八雲はどこかの神社でひっそりと狛犬として立派な勤めを果たしてみせましょうぞ。嗚呼、出雲様、お元気で。お主様の一夜の愛い人果たすことができませぬが、夜伽にと選ばれて嬉しゅうございました』
差し伸べられた手からひらりと逃げて、八雲は足早に地主神社をあとにした。眷属先は決まっていたが到底言えるような環境でもなく、未練を断ち切りたいこともあったので言わずにいたのだ。
言ったならば、毎夜会いにきてくれるのではないかという言霊に縛られ生きていかなければならない。その地に縛られなければならない。だが現実はそう変わらなかった。
今度は世に出れば出雲と関わってしまうのではないかと、怖くて怖くて動けずにいた。篭もっていれば安心だと思っていたのだ。
(嗚呼どうして、どうしてわらわなどお探しになったのか。こんなみすぼらしい狛犬など、お主様には釣り合いもせぬのに)
懐かしい記憶がぶわりと蘇った。八雲も出雲も考えるのはあの夜のこと。あのとき出雲の手が八雲の手を掴んでいたならば、また違った未来になっただろう。
あのときどうしていれば、あのときこうしていれば、もしかしたら、なんて仮定の未来など思い浮かべてもなんにもならない。気を取り戻した八雲は咳払いした。
「わらわは、……出雲様の一夜の愛い人にはなれませぬ」
「では一夜でなければ良いのか? わらわはうぬがほしい。許されるのなら、永久にじゃ。嗚呼、忘れられず恋焦がれたわらわの気持ちも理解しておくれ。こんな立場にいるから信じられぬというのなら、うぬが信じるまで毎夜通おうぞ」
台座から降りた出雲は八雲の側に寄ると、下から見上げながら八雲の手を取った。日中は石になっている所為か、人型の手はあまりにも白い。出雲は傷一つない八雲の甲へと口付けを落とすと、握り込んだ。
「い、出雲様……そんな勿体ないお言葉、わらわには身に余ります」
「八雲よ、今ここにいるのが立場など関係ない男ならば受け入れてはくれるのか?」
「……それは」
「地主神社獅子像阿形の八雲としてここにきたのではないのじゃ。うぬに惚れたただの男としてここにいる。それだけじゃ駄目だろうか……? あの夜は誤解されるような言い方をしてしまったが、わらわは戯れで夜伽を申すような男ではないことだけは信じておくれ。うぬに一目惚れしたのじゃ、そのような不躾な誘いしかできんかった」
必死になって八雲へと言い募る出雲の言葉に嘘偽りはないだろう。月夜に映える金の瞳は雄弁にものを語っていて、目は口ほどにものを言うとは言うけれどまさにその通りで、八雲の揺れる心を突き刺した。
手を取ってしまえばきっと戻ることはできない。けれど想い合っているのに否定するのも可笑しな話で、実感が沸かないのも事実。おそるおそる触れ合えば、花が綻ぶような笑みを零された。
「出雲様……わらわもずっとずっとお慕いしておりました……。幾夜も、お主様のことを考えておりました。だから実感がないのです……少し、時間をくださいますか?」
「いつまでも待とう。うぬがわらわのことを信じてくれるまでは」
短い逢瀬でも、出雲は通うと言う。八雲のように期待すらされていない無人の神社の狛犬ならば姿が消えていても驚く人はあまりいないが、出雲のように大きな神社ともなればそうそう抜け出すことはできないだろう。
人の出入りがない深夜といえども、そこに仕える人が存在している。精々こっそりと、子の刻から辰の刻辺りが限度なはずだ。それも毎夜ともなればかなり厳しいだろう。
それでもとなお募ってくれる出雲に、八雲は愛おしさでどうにかなってしまいそうになると自ら台座を降りて出雲の胸に飛び込んだ。
「出雲様、わ、わらわも……会いに行きます故に」
とくりとくりと音を刻んだ心の臓、いつかの日は逃げてしまった腕に舞い戻ってしまった。これでもう八雲は戻れない状況にはまり込んでしまった。後悔はするかもしれないが、それでも良いと思える言葉をもらえた。
(……信じても良いと、……そう申されたから)
おそるおそる腕を背中に回して、擦り寄った。匂いや体温を忘れないように。もっともっと感触を覚えたい。愛おしい人に触れられた喜びは行動という形となって八雲を大胆にさせる。
先ほどまではあんなにも薄暗い気持ちを抱いていたのに、たった一言でこの有様か。調子の良いことだ。
八雲が顔を上げると頬を赤らめている出雲と目が合った。
「うぬは、思ったよりも大胆なのじゃな……想像よりも愛おしいぞ」
「出雲様……もっともっと……触れて、くだされ」
頬を滑った指が顎にかかった。夜伽はできないが口吸いならば、と期待してしまう浅ましい感情をそれでも受け止めてくれるのだろうか。全身で受け入れるにはまだ怖くて、だけど確かな証拠もほしいという欲張りだ。
「うぬが望むのならば、いくらでもわらわが叶えようぞ。やっと再会できたのじゃ、夜明けまではわらわの腕の中にいておくれ」
距離が狭まって零になる。そうと愛しむように触れた唇の温度は温かく、胸に染み入るようにして幸せが広がっていった。
八雲はまさかこんなことになるとは想像もしていなかったが、幸せとはこんなにも温かいのかと知ることもできた。一歩踏み出すだけで世界は変わって見える。それも教えてもらった。
ただただ触れ合って抱きしめて、呼吸を与えて奪われて、体温をわかち合う。言葉もなく存在を知るためだけに二つの影はずうと寄り添ったまま夜明けを迎えた。
名残惜しむばかりだが、刻がきてしまえば出雲は寂しげに俯いて約束を落として消えていった。今夜も必ず、と。
短い時ではあったが八雲にとっては忘れられない一時だった。しかしそれも思い出ではなく約束となる。数刻すればまた会うことができるのだという喜びにも繋がった。
浮ついて熱を燻らせたままぽうっと台座に座って記憶を思い返していた。触れた唇の感触や指先など、思わず頬を染めれば怪訝そうな声がかかった。
「八雲? あんたまだ石に戻ってなかったのか?」
朝帰りだろうか、よれよれになった東雲が名もなき神社の台座に戻っていた。
「ああ、東雲か……お盛んなことだな。お主が羨ましい」
「はあ? 意味がわからん。というよりまだまだ遊び足りないのだけど太陽では上手く化けることもできないしな。仕方ない、戻るか」
「もう直ぐ夜明けだな」
「全く暇なことこの上ない。あーあー、夜が早くこないものか」
「……そうだな。わらわも、待ち遠しい」
珍しい言葉に東雲が瞠目するが、八雲は知らぬ振りをして狛犬像吽形へと姿を変えた。石になってしまえば口も聞けない。東雲は追及を夜にすることにすると、八雲に倣って獅子像阿形へと戻った。
すれば神社も元の形へとおさまる。土地神もいなければ人さえこない仕事のない狛犬の出来上がりだ。こうして何百年も守り続けていく。神社が存在する限りは。
(出雲様……わらわは、もう、お主様の思うまま。地主神社は恋の成就に効くと聞いておるな……今夜辺りこっそりと参拝して参ろうか)
平和なことばかり考えながら眷属しているのでは出世にはほど遠い。それでも幸せには変わりないのだから、八雲には到底関係のない話だろうが。
今日も日が落ち亥の刻過ぎれば闇が動き出す。人ならざるものが人の命を芽吹かせ、碁盤の目を徘徊するのだ。人を襲う訳でもなく、悪戯をする訳でもなく、人と同じように恋したものへの愛を囁きに人の姿を借りて。
闇の世界に尋ねてみればわかるだろう。名もなき神社の狛犬がこっそりと姿を消していることを。有名な神社の狛犬も忽然と姿を眩ましていることを。そのときは逢瀬をしているのだ、愛おしいものへ愛を語りに。狛犬も、恋をする。