最果ての国
 嵐の前の静けさも過ぎ去り、今はただ絶望に嘆く人々の心の叫びが世界を有しているかのような空気だった。
 豪華な装飾に縁取られた窓枠から、平和だったはずの街を見下ろすのもきっと今日が最後だろう。己の持ち物であったはずの全ての領域に、見知らぬ誰かが乗り込んで辺りを支配している。
 ここはもう別世界。昨日までの古巣を想う気持ちもない。ただただ悲しいと、心がさざめいている。
「……呆気ないものだな。所詮はこの程度か」
 身一つあっただけで十分なのか、はたまた違う作為が動いたのか。どちらにせよもうその意味も理由もなくなった。終焉を恐れる子供のような純粋さもない。
 ロイスは少し伸びきった銀髪を掻き上げると、彼の人を待ってなにもせず、ただ惚けたように視線を外に投げ掛けた。
 世界から見れば大きな出来事でなくとも、この土地に根を張って暮らしていればそれは世界を揺るがしても良いと言えるほどの大きな戦争が起きていた。終わりが近い、いや終わった戦争だ。
 ロイスが暮らす国と、隣の国の戦争。きっかけはなんだったのだろうか、私利私欲に塗れた事情があったのだろう。お互いの国が一歩も譲らない主張はやがて膨れ上がり、国を率いて国民を巻き込んでの戦争へと発展した。
 互いとも意見は譲らない。領地が欲しい。軍事力を拡大したい。国交を盛んにさせたい。金が欲しい。そんなものだ。所詮、強欲尽きがたい。
 身の程を理解してから挑めば良かったのだ。最もこうなった今ではなにを言っても無駄に終わる。
 なにを隠そう、ロイスはこの国の第一王子だった。しかも嫡男はロイスのみといった王家にしては珍しい事情もあった。どうしてだかロイスの兄妹は妹ばかりで、男は産まれなかった。
 だがそれも今日までの話。簡潔に言えば負けた。ロイスの国は、隣国に敗戦した。呆気なく。
(元々、わかってたしな。こうなることは)
 今更青くなったり悲しんだりしている余裕もない。戦争を始める前からわかりきっていた。何度も現王である父に申し立てをした。どちらかといえば新緑が豊で農業が盛んな自国は戦争をするのには不向きであり、隣国に比べれば軍事力が確実に劣るから負け戦だと。
 だけど王はロイスや大臣の意見を無視して突っ走った挙句、負けた。唯一の救いは国民を巻き込んだとなれど、死者は兵士だけに留まったということだろうか。
 城を囲まれ、籠城するにも資源が少なく国民を犠牲にする訳にはいかない。軍事力も資金も底を尽き、なす術もなくなった。おろおろとする大臣に身を縮こまらせ恐怖に戦慄く女王と妹姫の前で、現王である父は重く固い口を開いた。
「負けだ。……この国は、負けた」
 嗚呼、と嘆く声がそこかしこから漏れ出し悲しみに染まった城。最低限の武装をして城に堂々と入ってきた隣国の兵士に、王は両手を挙げて降参を申し出た。
 月夜のない日のこと。その日の内に連れて行かれた王は国民の前で斬首された。この大罪ともいえる戦争を引き起こしたことに対する贖罪だ。罪を被って、許しを乞う。それが戦争の終わらせ方だった。
 それから城は静けさを取り戻した。負けたのだ。この国も城も隣国のものとなった。女王と妹姫は命だけは助かり、国外追放されたがどこかでひっそりと生きていくのだろう。国民は王が代わっただけで生活になんの影響もない。心まではわからないが。
(そうして、俺は……?)
 がらんどうとして、隣国の兵士が牛耳る城の王室に独りぽつねんと佇んで待ち人を今か今かと待っている。
 こうして景色を見るのも、王子である身も、平和呆けした身体も、全部今日でおしまいだ。嫡男であるが故に行き着く先などわかっていた。
 本当ならば王と一緒に処刑されるはずの身が、傷一つなく、拘束される訳でもなく、監禁されることもなく、こうして自由に王室に留まれている理由など一つしか思い浮かばない。
 戦争に負けたのが一昨日。王が処刑されたのが昨日。そうしてロイスの運命がわかるのが今日。
 カツンカツン、と優雅に石の上を歩く音がする。柔らかなカーペットが道の真ん中に鎮座しているというのにも関わらず敢えてそれを外して歩く奇行ものなど独りしかいない。
 一際派手な音を立て扉が開かれた。ロイスがそちらを向けば、案の定金髪を靡かせて早くも王者の風格を身に纏った美丈夫がそこに立っていた。いつまで経っても色褪せない美貌と凛々しさ、そうして肉食獣を彷彿とさせる笑みで名を呼ぶ。
「ロイス、迎えにきたぞ」
「……相変わらずお前は派手だな、クロウ。次期王ともなる身がこんな軽々しく負け国の王子に会っても良いものか? なにをするかわかったもんじゃないぞ。もうちょっと危機感を持つんだな」
「ふん、今更だな。それにわかっているんだろう。俺がここにきた理由など」
「わかりたくもないな。……本当にお前は物好きな奴だ。捨て置けば良かったものの」
「つれないことを言うなよ。俺がどれだけ説得したと思ってるんだ。……ああ、そんな嫌そうな顔をするな。綺麗な顔が台無しだぞ」  大雑把に歩いてみせたクロウは後ろ手に扉を閉めると、ロイスに近付いた。碧眼を持つ両者の視線が交わる。
 一方は深い海を表したかのようなディープブルー、もう一方はどこまでも続く広い空を連想させるスカイブルー。どちらとも美しく、そして儚い輝きを放っている。
「ロイス」
 一歩分の距離を置いて、クロウは立ち止まった。グローブを嵌めたままの手を上げ、ロイスの頬に触れるのを戸惑っているかのような仕草をしてみせる。
 自信満々ないつもの態度からは想像もつかない躊躇いだ。だけどロイスはそんな態度を取る心境をわかっていたからこそ、己から近付くこともしなかったし遠ざけることもしないでおいた。
 触れることのない空いた距離が寂しいと、思うことしかできないのだ。
「……名を、呼ばないでくれ」
 悲痛なまでの声で、切なく戦慄いた唇で、愛情をひた隠しにした瞳で求めないでほしい。もうそんな資格など、いや最初からない。
 ディープブルーの瞳を閉じたロイスに、クロウは掌をぎゅっと握り締めた。剣を振り回すための指先がロイスに触れるのを躊躇う理由はやはり、この指が剣を握ることしかできないから。
「もう触れる権利すらなくなったか?」
「国同士の戦争だ。俺たちにはなんの罪も意味も理由も、ない。なにもない。そうだろう」
「感情論ではな。だが現実問題そう簡単なことではないだろう? この戦争によって、お前の身が左右されるのはわかっているはずだ」
「最初から覚悟の上だ。……は、残念だったな、クロウ。無駄足ってとこだ」
 しっかりと意思を宿したロイスの瞳にクロウは歯噛みすると、壁を背にしているロイスの横に手を置き石作りのそれを叩いた。グローブを嵌めているから直接的な被害こそないものの、相当痛いはずだ。だけどクロウは顔色一つ変えず、両腕の中にロイスを閉じ込める。
 近過ぎる距離。触れないままの空気が余計に寒々しく感じられて、こんなにも近いのに息すら感じられるのに、遠過ぎる距離に思えて仕方がない。
 互いの間にある感情が叫び出す。どうすることもできない世界の不条理さに、嘆くことすらできないのだ。
「無理を言ったんだ」
「そうだろうな。……クロウの父上殿は優し過ぎる。だがそのお陰で国民は助かった。感謝する」
「そうじゃないだろう。お前の話をしているんだ、ロイス。俺がどれほど説得したのかわかっているのか? 嫡男であるお前を、第一王子であるお前を、唯一の王子であるお前を! ここの残して生かしておいたことが、自由にさせておいたことがどんなことかを!」
「わかっているさ。負け国の王子を取り囲んだ城といえど放っておくなんて奇特ものだなと思っていた」
「そうだ。いつ牙を向くかわからい反乱分子になりかねん存在だからな、お前は。現王の嫡男が生きているという事実だけで、この王家を愛した人がお前を持ち上げ戦争をまた始めても可笑しくないんだぞ。王子というのはそれほどの力を持っているんだ」
「だから可笑しいと言っているだろう。どうして俺を生かしておくんだ」
 言葉にしなくてもわかっていたが、言葉にせずにはいられない。こんなことになるなんて想像にもなかった。そういえば嘘になるだろう。心のどこかでわかっていたのだ。クロウの気持ちも行動も、こうなるってことも。
 だからこそロイスは暴れもせず、大人しく王室に留まって待っていた。必ずくるであろうクロウを。ただひたすらに待っていたのだ。
 案の定瞳を瞠目させたクロウは唇を歪めると、唸るように声を放った。
「それを望まぬお前に言えというのか!」
「望む望まないの問題ではない。クロウ、お前も次期に王へとなってこの両国を統べる立派な存在になるんだろう。美しい伴侶をもらって、愛らしい子供を抱いて、豊かな国を眼下に敷いて……老いていくお前の姿を見られないのだけが心残りだな」
「ロイス、……どうしてそこまで想っていながらその決断しかできないんだ。問題こそあれど手を取って歩ける未来を俺は用意したんだ。誰にも邪魔させない、文句も言わせない。唯一望んだ願いなんだぞ」
 懇願するように体勢を折ったクロウは、額をロイスの肩にあてると縋り付くように懇願してみせた。
 いつも威風堂々として人を従えさせるほどの空気を持ったクロウが、ロイスの残酷過ぎる我儘一つでここまで憔悴しきっている。国も立場も全てを投げ打ってでも願ったのだろうそれを、ロイスは素直に受け取ることができない。
 所詮は産まれ落ちた瞬間から、王子として生かされたときから、決まっていたことなのだ。
 同じ立場だったら、一昨日までのロイスだったら、きっと頷いていたんだろう。クロウはきっと周りの猛反対を受けてここにきたはずだ。その意志を汲み取って、素直に膝を付いていたに違いない。
 だが事情が変わった。ロイスの国は戦争に負け、王は責任を取って斬首された。そうなれば必然と嫡男である王子もそうなるべきだ。
 くだらないと一蹴りしてしまいたいプライドを持っているのは腐ってもこの国最後の王族の意地からなのか、ロイスは縋り付きたくなるほど震え出した腕で、後生だといわんばかりにクロウを抱きしめた。
 大きくて広い背中。見たことなどないが、勲章でもある傷がたくさん連ねられているのだろう。終ぞ褥を共にすることはなかったがこれで良かったのだ。どの道生きていたとすれ、同性という点からすれば跡取りなど望めもしなかった。
「クロウ、すまない」
 懺悔をするような祈りに似た言葉はクロウにどう届いたのだろう。思い出を上げられるほど成熟しきってはいない子供の心が、保身に走る。所詮はクロウのためと言いながら、己のためだ。これほどまでに愛おしく感じる人を放っていくのだから、ロイス自身も未練など持ちたくなかった。
 潔く去れれば良かったがそんな勇気もない。願うのは、愛しい人との最期の逢瀬だった。
「……後生の我儘だ、聞いてくれるな?」
「ロイス、ならば俺の後生の我儘も聞いてくれ」
「それは無理な願いだ。クロウ、愛おしい恋人の願いを聞いてもくれないのか?」
「こっちの台詞でもあるがな。それに夜伽もなければ口付けさえしたことのない俺たちを、恋人とお前はそう呼ぶのか」
「心さえ通っていればもう恋人だろう? 例え身体がなくなっても、触れることが終ぞなくても、心はいつでもお前の側にあるのだから」
 小刻みに震え出した指先に叱咤をして、もう味わえないであろう背中を掻き抱いた。服越しからでもわかる隆々とした筋肉も、見目通り温かな体温も、ふわりと香る匂いも、刻み付けていきたい。覚えておくことはできないだろうけれど、その瞬間まで五感全てをクロウで満たしたいとここにきてロイスは強く想った。
 全てを諦めた感情は、この瞬間まで眠っていただけに過ぎないのだ。齎された悲報の日からロイスは待っていた。終わるその瞬間が近いことを理解していたからこそ、クロウがロイスの元にやってくるのを待っていた。
 きっと悲しませるだろう。一生の傷を負わせるかもしれない。それでもどうしようもない現実になってしまったことは、運命を恨むほかない。
 何事もなく平和なまま生きて、戦争も起こらなければこんな風に触れ合うことはなかった。互いの気持ちを知っていても口に出すこと自体が禁忌だったから、そ知らぬふりをして胸の痛みを抱えて、皺がれた老いがくるまで秘めて墓に持って行ったのだろう。
(皮肉なものだな。……こうならなければ、口に出すことも許されなかった)
 叫び出したかった感情を、クロウに対して抱き続けていた愛情を、今の際になって言うことができた。それがロイスの後悔だったから、もう残すものはなくなった。ロイスを構成する感情のほとんどをクロウに託した後は、入れものを壊して無に帰るだけ。
 背中から指先を滑らせて肩を持つ。名残惜しそうに首筋を撫で頬を持って泣き笑いを一つ。しっかりとした体型に合わず震えているクロウの両手を持つと、腰に差している剣をしっかりと握らせた。
「ロイス、人質のような生活になるかもしれない。世間から隠さなければならないから日の目を見ることもないだろう。それでもお前と共にありたい。そういう布石は用意した。王への嘆願も許された。頷くだけで、良いんだ」
「断る。クロウ、俺にもちっぽけだが王家としてのプライドがある」
 そう言えば情けなくも眉を下げて頼りない子供のような瞳をさせたクロウに、走馬灯のように蘇るのは幼き記憶。立場上そうそう会える訳ではなかったから、秘密裏に逢瀬を繰り返しては子供のようにいつも口喧嘩ばかりしていた。
 内に蠢く想いを吐露することができないからこそ違う形で表してきた。二人が得意とする剣を取って、交え合わせる。言葉が足らなくとも剣を通じて伝わる真剣な感情が心地好かった。
 殺傷能力の高い武器を扱うからこそ神経が研ぎ澄まされ、一秒足りとも気が抜けない。張り詰められた極度の緊張状態で互いだけを求める強過ぎる感情が、とてつもなく身体を焦がして胸を熱くさせた。きっとこんな気持ちにさせてくれる相手など二度とまみえないだろうという確証だけを持って。
「いつものように手合わせはしてやれないな。……クロウだけが剣を振るうのでは、手合わせにならない」
 交えることもできないまま、だけどあの真剣な世界はしっかりと刻まれている。
 金属音が擦れる独特な音が静かな部屋に響いた。鞘から抜いたクロウの剣は相変わらず本人同様派出で美しく、強さを誇っている。
「ロイス、これでお前を俺に絶てと言うのか? 愛するお前を、この二人で交えた剣で……」
「俺はもう生きるつもりはない。王……父のように首を晒され見世物にもされたくない。自害も、王子である俺がするべき行動ではないんだ。お前に繋がれて、一方的な愛で生かされるのも嫌だ……同じ世界にはもう立てないんだ、だったら、だから……お前の手で、クロウの手で終わりたい」
「……愛してるんだぞ。愛しているお前を……殺せなどどうしてそんな残酷なことが吐ける!」
「後生の願いだ、クロウ。惨めな思いはもうたくさんなんだ。生きているのが辛い。だったら最期は幸せでありたいんだ。愛されながら、終わりたい……」
 頬を伝った温かいものは、どちらから流れ出たのだろう。床に染みを作って静寂を齎した。
「側で生きろ、ロイス」
「ここまでだ」
「隣にいてくれ」
「もう眠りたい」
「頑固だな」
「……愛しているよ、クロウ」
「……初めて言ったな、その台詞。ずっと……、焦がれてた。聞きたかったんだ、愛していると、愛しているお前から」
 クロウは息を吐くように静かに笑うと、皮のグローブを脱ぎ捨てた。床に放り投げ、なにも纏わない指先でロイスの頬を優しく撫ぜる。濡れた箇所を何度もなぞれば、くすぐったそうに目を細めた。
 片手で頬を包んで目を瞑らせる。クロウの意図がわかったのか、僅かに上気して染まった頬は息衝いている証拠。クロウはどうしようもない悔しさに唇を噛むと唾を飲み込み、全ての不条理と感情を嚥下した。
 これから先、もうなにがあってもクロウの感情は揺さ振られることなどないだろう。たった今ロイスの心を託されたのと引き換えに、クロウの心はロイスに連れて行かれるのだ。
「ロイス、……約束だ」
 軽く触れ合うだけだった。音もない。触れたかどうかでさえ夢現のような、そんなたおやかな口付けが終わったのと同時に、ロイスの唇から一筋の赤が伝い落ちた。
 クロウの掌に感じるのは、肉を絶つ鈍い感触。愛剣を用いて愛する人を絶ったという、どうしようもない現実。
 苦しいだろうに、解放されたことへの安堵なのか穏やかな顔をして膝を折ったロイスをクロウは抱き寄せた。溢れ出る血がクロウを染めても、瞬きをしている内は温かな入れものなのだ。
「ク、ロウ……」
「目覚めたら続きをしよう。……今度はお前も剣を持ってこい。一方的な手合わせはもう、二度とごめんだからな」
 ああ、と掠れた声は声にすらなることなく空中へと消えて行った。クロウの腕の中で力をなくしたロイスは閉じた瞼をもう震わせることもないままほんの少し冷たくなって、ほんの少し軽くなった。
 心が、連れて行かれる。きっと今の気持ちを表すのなら、その表現が合っているように思う。
 クロウは血で塗れたままの手でロイスの両頬を掴むと、瞼に口付けを送った。もう二度と開くことはないが、その奥にある海に似た深い青が幸せに染まっていたら良いとそう願わずにはいられない。
 願いを叶えたのだ、ロイスの願いを。だから次にまみえるときはクロウの願いを聞いてもらわなければならない。だからそれまで、暫しの休戦。
「おやすみ、ロイス」