六本木ハニー 01
 内密の話がある。そう言われ、僕は父に呼び出された。
 いつかの日を想起させる呼び出しに少なからずどきりとした僕は、強張った面持ちで父の私室へと向かう。
 父は曲がりなりにも全国を取り仕切る三雲組のドンだ。重々しいほどの厳重な警備に居心地の悪さを覚えながら、私室へと繋がる襖を開いた。
 そこには惨憺たる面持ちをした父が鎮座していたのであった。
「のう、尚人。そう緊張するな」
 僕に気付いたのか、ふと表情を緩めそう言った父。しかし表情からしてあまり良い話だとは思えない。
 ばくばくと嫌な心臓の鳴り方だ。ぎゅっと手を握って、きっちりと正座をし、背筋を伸ばした僕に父は幾ばくか和らいだ声音を出すと手招きをした。
「今は父としての顔だ。敬意もいらん。いつものように父さんと呼んでくれ」
「……では、父さん、お話とはなんでしょうか……?」
「実はな、尚人。……お前に休暇をやろうかと思うてな」
「休暇? ですか」
「といっても仕事はしてもらう。というより仕事だのう」
 そう言うやいなや父は資料を取り出すと、僕に手渡した。
 じんわりと手に汗が滲む。それと同時に、父は真面目な顔になると口を開いた。
「父さんはな、清滝の坊との関係に反対はしておらん。父さんも母さんと結婚するとき、周りに随分と言われたものだ。お前と坊じゃ世継ぎはできんが、それも追々どうにかしようと思っておる」
「……はい」
「だがな、お前はこの三雲組の跡取りには違いない。それだけはどうにもできんのだ。そこでだ、尚人。お前にそろそろ六本木を任せたいと思ってな」
「六本木ですか?」
「ああ、まあだが今回は麻薬ルートや外マフィア、密輸などの仕事はやらんで良い。雰囲気や内情把握、流れなどを目で見て大体で良いから掴んで欲しいだけだ。言うならば社会見学だな」
「ではこの資料は……」
「ああ、それは関係ない」
 え、と思い顔を上げれば強面の顔がふんわりと緩む。まるで悪戯が見つかった子供のように唇に人差し指を当てると、にっこりと笑ったのだ。
「言っただろう? 休暇だと。それは表向き、お前が拠点を置く場所の資料だ」
 そう言った父に説明を求めれば、それは確かに僕にとって休暇のような仕事であった。
 表向きは六本木に拠点を置き、六本木の内情を調べるという仕事なのだが、この場所なんと新規オープンさせたホストクラブなのであった。
 水商売といえばヤクザの専売特許とも言われる。シマ内での場所代を徴収したり、経営に乗り出してみたり、全ての水商売に関わっている訳ではないがなんらかしら関わっていることが多い。
 最近になって減少の一歩を辿ってはいるが、まだまだヤクザに頼る店も存在しているのだ。
 そんな中、水商売に力を入れている三雲組が今月頭にオープンさせたのがこの変り種のホストクラブだった。
 三雲組直系の二次団体の組員がオーナーを勤めるこの店、経営自体は堅気のものである。堅気といっても昔六本木で不動のNO1の名を欲しいままにしていたホストなんだけども。
 そのホストと手を組んでオープンさせたのが、女性用と男性用を兼ね備えたホストクラブ『エデン』である。
 オーナーは店がライバル店に妨害されたり、嫌がらせを受けたり、ホストの身の安全、裏切りなどをした場合の制裁を全て担う。その代わり店から凌ぎ代を徴収するのだ。
 利害一致の契約。表向きは堅気の店、裏ではヤクザの店ということだった。
 代表が元六本木NO1だったため、妨害が多いと考えての策だ。もちろん知名度があるから凌ぎ代も期待できる。
 そんな店に、僕がホストとして出向するのが今回の仕事であった。
「もちろん一回も出勤しなくても良い。期間は一ヶ月。真面目に六本木視察するなり、ホストで働いてみるなり、遊び倒すなり、お前の自由にして構わん」
「しかし、それでは僕の仕事が滞ってしまいます」
「なんのための若衆だ? ポチも、若衆も、一ヶ月尚人が抜けたらなんにもできないような奴なのか? そうじゃないだろう?」
「……そうですね。彼らは、頼りになります」
「なら話は決まりだの。お前も名の知れた人物だ、念のため四柳を同行させる。それと偽名を使え。オーナーには話が通じておる。もしホストをするなら、中小企業の社長の息子が社会見学のために期間限定で働くという設定を使うと良い」
「ありがとうございます」
 父に深くお辞儀をして、僕は資料を手に立ち上がった。僕の心は決まっている。この仕事をしてみたい。ホストをしてみたい。というよりお酒を死ぬほど呑みたい。
 そんな僕の不埒な気持ちが伝わったのか、父は険しい表情をすると一言だけ僕に釘をさしたのである。
「尚人、飲み過ぎるなよ。あと、清滝の坊にもよろしくな。わしは応援しとる。今度、尚人の父として酒が飲みたいから付きおうてくれと言っといてくれ」
 朗らかに笑った父を背に、僕は部屋を出た。資料を片手にスキップしそうなほど嬉々とした様子に幹部が何事かと尋ねてきたが、僕は誰にも言うことなく自室へと戻ったのである。
 最初の父の顔があまりにも惨憺たるものだったので不安だったが、いざ話を聞いてみれば僕の憂いは綺麗さっぱりなくなった。あの顔も母が帰省で本家にいないから、寂しいとのことだったのだ。
 そうなれば話は決まりだ。裏もない。父として、僕にくれた休暇のような仕事。全うしてみせる。
 この世に生を受けてから三雲組の跡取りとして育ててもらってきた手前、他の職業を経験できる機会なんて滅多にない。お酒を呑めば呑むほど褒められる職業なんて天職に違いない。
 嬉しくって舞い上がる僕に、四柳もしっかりと釘をさしたのだ。
「週休二日制で、その二日間は休肝日とすること。それと迅さんには報告すること。少しでも無理だな、って思ったら相談すること。わかりましたか?」
「フフ、やだって言ったら?」
「坊ちゃん!」
「……わかってるよ、もう。四柳は冗談通じないんだから」
「念のため、私の方から迅さんに連絡しておきます。それと、六本木の視察は私の舎弟を使ってある程度調べさせますので、ご安心ください」
「僕も見なきゃ駄目でしょ? 週一程度には真面目に働くよ」
「……私はなんだか不安です」
「フフ、大丈夫だって」
「坊ちゃん、絶対に絶対に絶対に呑みすぎないでくださいね。ワインでもなんでも一日一本までですよ? それ以上は駄目ですからね。寧ろお酒をあまり呑まれませんようご自愛ください」
 懇願するように頭を下げた四柳に僕も四の五の言えなくて、取り敢えず頷いておいた。
 迅が常にお客さんとして僕の隣にいてくれるのなら、お酒も呑まなくて良いんだけど。だけどそうそうそんなことありもしないから、結局はお酒に逃げてしまうのだろう。
 いつからか日常の一部となってしまった習慣はそうそう止められはしない。
 楽観視してしまう自分の性格上、きっとまた煩く言われるんだろうな、なんて思いながらも僕は早くも新しい仕事のことで頭がいっぱいだったのである。

 それから直ぐに僕は迅とのデートを取り付けた。本来なら黙っておいてやきもきする迅を見ていたいのだけれど、そうすれば前のように迅が暴走するに違いない。
 それに四柳が言うと言った手前、僕から言わないと迅が拗ねるのだ。
 久々に会うということでいつもより機嫌が良い僕は、仕事を持ち込んできた迅を快く向かい入れると部屋へと案内した。
「もうお前の部屋のようだな」
 苦笑い一つ。清滝組管理下にあるホテルのスウィートルーム。通称僕の部屋だ。
 手馴れた様子で冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、迅はそれをテーブルに置き、持ってきたPCを開いた。
「尚人、すまないが日付が変わるまでは仕事がある。この部屋にいるが、仕事をするので構ってやれない」
「フフ、別に良いよ。僕は僕で好き勝手するから」
「……いやに素直だな」
 訝しげな表情をしながらも、迅は余程切羽詰っているのかPCの前に座るとカタカタとキーボードを鳴らし始めたのである。
 ヤクザだってIT関係に精通している。僕にはさっぱりわからない世界だが、迅は新しい仕事に取り組んでいるのか意味のないように見える数字の羅列を見て熱心に悩んでいた。
 迅といるときは、なるべくお酒を呑まない。そう約束させられた所為か、この部屋で呑めるお酒なんてない。
 僕は暇潰しもなくうろうろとしていたが結局は飽きてしまって、真剣な顔で液晶を見つめる迅にごろごろと纏わりついたのである。
「迅、面白い話があるんだけど聞きたくない?」
「ああ、後で聞こう」
「フフ、今じゃないと教えない」
「そうか。残念だ」
「……知りたくないの? 僕のことだけど」
「ああ、知りたいな」
「大事な大事な話なんだけど?」
「そうか、俺も大事な仕事中だ。終わってからにしろ」
 いつもなら僕が甘えてみせる仕草にでれっとする迅も、今は全く反応を示さない。寧ろ邪魔だと言わんばかりの態度だ。
 絡み付く僕の腕を鬱陶しそうに払い除け、視線は液晶に固定されたまま。そこまで無視されれば、意固地になってまで構ってほしくなるのが僕の性。
 後ろからという作戦を変更させると前へと回り込み、迅の腕に擦り寄った。
「しないの? セックス」
「0時を越えてから十分堪能させてもらう予定だ」
「今しよう。今直ぐにしよう? ねえ、迅」
「無駄だ。尚人、俺は仕事があると言ったな。今日のお前は変だぞ」
「フフ、だって、たまには甘えたくなるじゃない」
「そうじゃないだろ? お前に俺の意識が向かないのが気に食わないだけだろうが」
 パチン、とデコピンをした迅に僕はむっと眉に皺を寄せると迅の鼻をぎゅっと摘んだ。
 予定が大幅にずれた。第一久しぶりの逢瀬に仕事を持ち込む迅が悪い。お互い忙しい立場だとはわかっているものの、僕はこういう性格なので僕中心で物事を考えてしまうのだ。
 キーボードを打つ迅の手を掴むと、薄く開いた唇に自ら口付けた。
「聞かないと、後悔するよ」
「……なんだ? そこまで言うんだったら、それなりの話なんだろうな」
「フフ、僕ね、今週から六本木に移動になったんだ。って言っても一ヶ月なんだけど」
「ほう、お前も六本木任されるようになったのか?」
「でもね、仕事はホストなんだ」
 そう言った瞬間、迅の顔が止まった。スピードを上げて脳内で情報処理をしたのか、機嫌の悪そうな顔つきになると僕の頬をがっと掴んだのである。
「おい、どういうことだ。ホストだと?」
「しかも女性用ホストだけじゃなくて、男性用ホストもあるらしいよ。フフ、僕が汚い親父にセクハラされたら、迅は焼いてくれる?」
「そうじゃないだろ、尚人! 詳しく説明をしろ!」
 さっきまで仕事のことしか頭になかったくせに、迅はとても現金だ。だけど嫌な気はしない。寧ろ気分は良い。
 迅が僕を求めてくれているという実感で包まれた僕は、いきり立つ迅を宥めるように優しく髪の毛に手を差し入れると己の方へと引き寄せた。
「一応、内密の仕事なんだけど」
「尚人、お前最初からそのつもりだったんだろう」
「フフ、だって、迅が余所見するから悪いんじゃない」
「お前なあ……それで? 説明してくれるんだろうな」
「説明もなにも、僕は一ヶ月だけホストクラブでホストとして働く。それ以上に説明なんてある?」
 挑戦的な瞳で見つめれば、迅は盛大な溜め息を吐いて、僕を腕の中にしまってくれた。
 迅の匂いと、煙草の匂いが入り混じる。愛おしさに胸がきゅっとして、僕は背中に手を回すと迅との距離を0より近いマイナスにした。
「……気が、狂ってしまいそうだ」
「フフ、そこまで嫉妬してくれるなら本望じゃない?」
「尚人、客の前に出るな。お前にホストなんて似合わない」
「でも仕事だからね。安心してよ、迅。僕はお酒が呑みたいだけ。仕事中に誰に咎められる訳もなくお酒が呑めるなんて天国じゃない。それにたまには、若頭も捨ててみたいって思ってたからね」
「どこのホストクラブだ?」
「きてくれるの? じゃあ条件つけるからそれにして。それ以外できても接客しないから」
 悪趣味な僕の条件に迅は渋りをみせたものの、躊躇いがちに頷くと承諾してくれた。目立ってなんぼの世界だろうとも、ホストより目立つ迅が客としてきてくれるのなら僕の楽しみも増える。
 口では渋々といった形で許可をもらったけども、迅は納得などしていないだろう。きっと四柳に取り下げるよう連絡を入れるかもしれない。
 迅がこんなにも僕を縛り付けることが、僕にとっては最高の幸福なんだ。
 生きる意味も、生きる意志も、全部支配してくれれば、僕は迅だけ考えて生きていける。だけどそうもいかない現実だからこそ、僕は縛られることに悦を見出すのだろう。
 まだ言い足りない迅が文句を紡ごうと口を開くのが見えたが、それ以上言わせないよう唇で塞ぐと首に手を回した。
「フフ、0時越えたらどうするんだったっけ? ねえ、迅」
 ちらりと時計の針を見た迅。短針と長針が12でぴたりと重なっている。
 シンデレラならさようならをする時間だ。彼女は解けた魔法に悔いているだろう。だけど僕と迅の魔法は解けない。ガラスの靴は持っていないから、ずっと側にいられるんだ。
「……覚悟しておけよ。今日の俺はしつこい」
「いつもじゃない。ねえ、迅、一色にして。なにも考えられないように、さ」
 差し詰め、解けるとしたら僕の場合魔法じゃなくてアルコールなんだ。なんてロマンもくそもないけれど、僕にはぴったりじゃないか。
 アルコールを摂取していない分、迅が欲しくなる。迅が僕の逃げ場になる。いや、迅が僕の帰る場所なのだ。唯一無二の、僕のもの。
 噛み付くような口付けを皮切りに、深くソファに沈んだ僕。頭上にはぎらついた瞳をしている迅がいる。
 明かりはそのまま、液晶画面には意味のない数字。僕と迅は一つになる。新しい仕事の幕開けには、幸先の良いスタートだ。
 迅に嫉妬をさせるという僕の密かな計画は成功したものの、その代償も大きかった。翌日になれば痛む腰に身動きが取れず六本木への顔合わせに支障が出たのだった。