六本木ハニー 02
「なんでここにいるの!?」
 見慣れ過ぎた顔に僕のポーカーフェイスが崩れる。予想できたことなのに、選択肢にすら入れていなかったことを後悔した。
 ことの始まりは少し前、改めてホストクラブ『エデン』に出勤したときのことだ。
 顔合わせをすっぽかしてしまったため、打ち合わせをする暇なくいきなり出勤となった。きりきりと働く訳でもないし、働くことは予め決定していたことだったので途中までは上手くいっていた。
 定例会議で良く顔を合わす組員でもあり『エデン』のオーナーでもある川中(かわなか)さんと、元六本木NO1ホスト騎士(ないと)さん。流石元NO1とだけあってか、騎士さんは三十路近いといってもオーラが強く、とても煌びやかな男だった。
 正直言うとあまり好きなタイプではないけれど、表面上は僕の上司になるのだ。それに唯一三雲組組員以外で僕の素性を知る男なのである。
「じゃあ尚人さん、でしたね。源氏名どうしますか?」
「えー、迅が良いかなって思ってるんですけど」
「迅、ですか……残念ながら被ってるんですよね。他のないですか?」
「ええ、じゃあナオで良いです」
「うん。決まりですね。ナオくん、一ヶ月よろしくお願いします」
 そう言って笑って手を差し伸べてきた騎士さんの顔が胡散くさいったら。
 オーナーが言うから雇っただけの価値しかないのだ、僕には。ノルマも出勤態度も接客も、なにも文句など僕に言えない。上司であって、上司でない。騎士さんが僕に逆らえることなどないのだ。
 渋々手を差し出して、表面上の握手だけを交わした僕は川中さんの顔を見て苦笑いを零した。
 一応下っ端として入店した僕だが、扱いはVIPだ。好き勝手して良いと言う川中さんの言葉に騎士さんは不満げな顔をしたが、給料を支払う訳でもないのでとやかく口に出すことはない。
 なんだか居心地の悪そうな職場だな、なんて思いもしたけれど、好きなだけお酒が呑めるのだから悪くない。それに社会勉強だ。
 既に心が傾き始めた僕に、騎士さんが、あ、と声を上げると僕に手招きをした。
「ナオくん、そういえば君と同じような新人が昨日入ってきたんですよ」
「え?」
「知り合いじゃないですか? そっち関係の人って言ってたし、オーナーにも話が通じてるみたいですからね。あ、紹介しておきますね」
 かつかつ。靴音が響く。騎士さんがドアノブを回していたが、僕は既にその顔を知っている気がした。
 小さく開いた隙間から見える顔にやっぱりという思い。僕は言葉さえ紡ぐことができなかった。
「迅くん。君と一緒で、期間限定でホストをしてもらう子ですよ」
 したり顔で僕に向かって手を上げる迅に、ああくそったれ、なんていつにもなく荒げた文句を心で叫んだ。
 最近大人しかったのも、四柳と密通していたのも、父の顔がにやけていたのも、全て全てこれが原因だったのか。
 迅の性格を考えたらわかったじゃないか。僕を独りにしておくはずがない、と。こんな職場なら尚更見張っておきたいのだと。三雲組と清滝組の関係は良好だ。父さえ手を貸せば、こんなこと簡単に想像がつく。
 だけど僕は叫ばずにいられなかった。
「なんでここにいるの!?」
 優雅な立ち振る舞い。いつも無造作にかき上げただけのオールバックも、今はぴっちりと綺麗に撫で付けられている。
 艶を消したようなブラックスーツと、冷たい印象の顔が相俟ってお世辞抜きにしても格好が良い。流石僕の男だ。ではなくて。
「迅……? どういうこと、説明してよ」
「尚人、元気にしてたか?」
 手の先が触れた。指先に騎士のような口付け。迅は上目遣いで僕を見やると、抱き寄せた。
「相変わらずだな。白スーツは卒業したんじゃなかったのか?」
「フフ、ホストっていえば白スーツじゃない? じゃなくって、ちょっと、迅!」
「心配だったんだ。そう言えば満足か」
「あーはいはい、そうだったね。迅はそういう男だって忘れてたよ」
「俺の執着心を見縊らない方が良いぞ、尚人。まあ本当はお前を働かせないように働きかけたんだがな、意外と上手くいかなくて。仕様がないからこの選択肢なんだ」
 頬に手をかけ唇を奪おうとする迅の顔を押し退けると、意気揚々としていた唇を摘んだ。
「迅? 僕と、迅は新人ホスト。今から僕はナオだからね。お触り禁止」
 そうくるのなら、僕だってやり方がある。迅にばかり主導権を握らせているたまでもない。
 変な顔になった迅を笑ってやると、僕は唖然としている騎士さんを促して初仕事に取り掛かるのであった。

 ホストクラブ『エデン』。在籍ホスト100名近く。皆騎士さんに憧れているホストである。
 一階が女性専用フロアと、バーテンとの会話を楽しむ男女兼用のバーフロア。二階が男性フロアと、男女兼用のVIP席。
 どちらとも働くという器用なことができそうにもなかった僕は、取り敢えず客層を見て二階を選んだ。
 というのも、張り合いのために高いお酒を頼む女性の遊び方が嫌いなだけなのだ。ホストならではのシャンパンに僕の食指は動かない。専らワインを好む僕にとっては嬉しくないのである。
 がやがやと、煩く騒ぐ一階席の音が漏れる二階席。シックなピアノの音が聞こえる店内は薄暗く、エロチシズムなムードが漂っていた。
「ナオ、あんまベタベタされても触らせるな」
「……なんで迅も二階にいるの」
「ナオと一緒にいられるからだろう?」
「つーか、仕事は?」
「若衆に任せてある。そのための若衆だろ?」
「……もう、良い。話すのも疲れる」
「まあまあ、そう言うな。仕事が一緒だなんて、なかなかない機会だろ? 俺は結構楽しんでいるんだけどな」
「……フフ、口ばっか」
 顔を近づけて唇を寄せようとする迅に、寸でのところで止める僕。
 待機場では異様な雰囲気とともに僕たち二人取り残された空間で、客がくるのを待っていた。
 二階在籍ホストとの顔合わせのときオーナーが皆に言った言葉に、良い顔をするホストなどいないだろう。ヘルプをしない。先輩ホストもつけない。社会勉強で働きにきている。
 そんな新人ホストの僕と迅。誰が友好的に接してくるのだろうか?
 店長にさえ良い印象を持たれていない時点で終わりだ。友好関係を築くことよりお酒を呑むことを優先させた僕は、客につくまでひたすら迅のじゃれつきを交わしていたのであった。
「じゃあナオくん、迅くん、席についてもらいますね。あ、心配はしなくて良いですよ。先輩ホストの接客を真似してみるだけでも良いですから。そう硬くならずに、ね? 頑張ってください」
 騎士さんに背中を押され一歩を踏み出せば、知らなかった世界。管理する側から、管理される側へ。
 わくわくと楽しげに笑った迅の背中を叩くと、僕もつられて笑った。短いけれどホストとして働ける時間。ただのしがらみのない人へと、なれる瞬間。
「あんまベタベタするんじゃないぞ」
 迅の忠告を後ろに、僕は指定された場所へと行くのであった。
 初めての客は、ホストクラブ『エデン』の二階でのNO1ホストのお客さんが連れてきた友人であった。
 通常ホストと違い、男性用ホストはシステムが違っていた。初回来店時に指名ホストを決めなくて良いようになっているのだ。もちろん永久指名制度もない。
 その代わりに客は必ずボトルを下ろさなければならない。しかし売り上げは店のものだ。ホストは指名客がおろさない限り、ボトルのバックは入らないのである。
 ホストにとっては厳しい条件かもしれないが一階と違って固定給があるので、それほど稼がなくても良いけれどきちんとした給料がほしいという人向けのシステムなのであった。
 客にとっても指名をしなくて良いというのは利点が良い。のらりくらりと交わしながら、いろいろなタイプの子と会話ができるのだから。
 男性専用だからゲイが多いのかな? なんて思ってもいたけれど、実際はこのシステム制度のお陰で気軽に友人みたいな会話を楽しむだけのノンケ客の方が多いのだ。
 ホストというイメージを覆す、新たな店だった。
「ナオくん、なに呑みたい? 今日が初出勤なんだってね。お祝いに好きなもの頼んで良いよ。っても俺のお金じゃないんだけどさ」
「誰のお金?」
「ああ、ほら、NO1の子指名してるやつ。ここ、あいつの奢りなんだ」
「フフ、奢りなのに僕に呑ませても良いの?」
「まあ……あいつ社長だし、良いんじゃない? ね、ほら、なに呑みたいの」
 初めてのホストクラブ体験ということでテンションが可笑しいどこにでもいるサラリーマン風の男は、僕にメニューを押し付けるときらきらとした瞳で見つめてきた。
 社長が連れてきた仲間は全部で六人。それら全て奢りだというのだから、相当な金持ちなんだろう。
 金を持っている僕には差して惹かれるものはないが、その太っ腹精神は尊敬するかもしれない。
 メニュー片手に嬉しそうにはしゃぐ男に、僕もにこやかな笑顔を向けると、やっとという実感を噛み締めた。
 お酒を呑むために働きにきたようなもんだ。そうこなくっちゃ意味がない。
「じゃあ、僕シャンパンタワーならぬワインタワーがしたい」
「そんなのできるの?」
「さあ? できるんじゃない」
「良くテレビでやってるやつだよね! 俺も見てみたかったんだよな〜。じゃあそれ頼もう!」
「フフ、ありがとう」
 手を合わせて喜んでいるフリ。僕はすかさずボーイを呼びつけると、この人の気が代わらぬうちにワインタワーを頼んだ。
 使用したワインはロマネ・コンティ85年もの。最も高いとされているワインだ。それがこんな店にあったこと自体驚きだが、その高級ワインでやってみたかったシャンパンタワーならぬワインタワーができたのも幸せの一つである。
 盛大なるコールとともに注がれる光の中に放つ異色の赤。僕はうっとりと頬を染めると、早く早くと心を急かしたのである。
 それからは、めちゃくちゃだった。
 取り敢えずロマネ・コンティ85年ものなどそうそう呑める機会がない。僕は駄々を捏ねてそのワインを独り占めすることに成功すると、上機嫌でそれら全てを呑み干した。
 上質なレストランでソムリエに注がれたワインも舌を唸らせるものがあるが、僕には安っぽく野蛮な呑み方の方が美味しく感じられる。
 学生のような一気コールを受けながら、もう一本高級ワインと名高いシャトー・マルゴー90年ものをボトル一気したのである。
 あまりの呑みっぷりに客とホストはどっと沸いたが、零下を思わせるように不機嫌になったのが二名いた。言わずもがな同じ席についていた迅と、ボーイとして潜入した四柳である。
 気分良く高級ワインメドレー。そんな気分に浸っていた僕は気前の良い社長の許可を得ると、シャトー・ペトリュス89年ものを頼もうとした、のである。
 そう、そこで耐えられなくなったのかにこやかな笑顔で席にきたボーイならぬ四柳に引き取られてしまい、僕のホスト一日目は呆気なくも終了してしまったのであった。
「坊ちゃん! 呑みすぎないよう言ったでしょう!」
「あーもう〜四柳!」
「なんですか?」
「シャトー・ペトリュスが逃げたじゃないか!」
「……いくらでも呑めますでしょう?」
「フフ、わかってないなあ。慣れない環境、人のお金。そんな状況で呑むシャトー・ペトリュスはさぞかし美味しいと思わない?」
「思いません。大体坊ちゃんの肝臓は20代と思えないほど老化してるんですからね、医者からも言われてますし、ほどほどにしてもらわないといつか病気になりますよ。それと、明日から暫く一日グラス3杯程度で終わらせてもらいますからね」
「ちょ、ちょっと!」
「今日のお仕事はここまでです。一応歌舞伎町の方の現状と、六本木の現状をまとめたものをファイルにしてありますので、お暇があれば目を通してくださいね。では四柳はまだ仕事がありますので失礼します」
 言葉を紡げぬまま颯爽と言いたいことだけ言って部屋を出て行った四柳を尻目に、僕は独りバックルームに取り残された。
 扉の向こうではわいわいと騒ぐ声。手には四柳が渡してきたSDカード。
「フフ、仕事だって……? 気分じゃないよ」
 目の前にあった大きな魚を逃した気分だ。僕はSDカードをポケットに入れると、ごろりとソファに寝そべった。
 ああ、もっと、呑みたかった。シャトー・ペトリュスなんてそうそう呑める機会もない。赤好きの僕にとっては、大切な魚だったのに。
 ぐちぐち言いながら、不貞寝をする僕は迅に起こされるままぐっすりと寝ていたのであった。

「お前本当に続けるのか」
 初出勤が終わった。規制が厳しい昨今、ホストは二部制だ。まだ暗いというのに一時閉店した店を出ると、僕と迅は肩を並べて徒歩で帰っていた。
 寒さで凍えた息が凍る。擦り合わせた手を、ベタにも掴んできた迅は体温を分け合うかのように握り締めると至極真剣な顔でそう言った。
「一応ね」
「楽しかったのか。そういえば、お前あの男とべったりしてたじゃないか」
「べったりっていうほどでもないでしょ。それにお酒が呑めるからやる訳であって、特に楽しいとは思わないよ」
「じゃあやめろ。酒なら俺が呑ませてやる」
「フフ、そういう訳にはいかないよ。こんな時間も、……今しか味わえないし。ホストじゃなくたってなんだって良いんだ。ただ、しがらみがいらないのなら、こんな感じだったのかなって、そう思えたら」
「尚人」
「迅、人生は変えられないけれど、寄り道ならできるでしょ? 今だって、……ね」
 送ります! そう大袈裟に言った組員に制止をかけて、僕と迅は二人きりで人通りのない住宅街を歩いていた。
 都会の空には星がない。自然がない。
 それでも、人混みでも、住宅街でも、どこででも、二人きりで手を繋いで歩けるということ自体が僕らにとっては新鮮そのもののことなのだ。
「……敵わんな。仕様がない。もう少しだけ付き合ってやろう」
「フフ、付き合ってなんて頼んでないよ」
「寂しいなら寂しいといえば良いものの。今日だってちらちら見てたしな?」
「迅こそ。一緒にいたいなら一緒にいたいって言えば良いじゃない?」
「可愛くないな」
「可愛くないよ」
「……減らず口」
 塞いでやろうか。こっちの台詞だ、馬鹿。
 飲み込まれた言葉は唇に。今日一日我慢させていた口付けは普段より濃厚。差し込まれた掌の温かさに中和されて、頬が熱を持つ。
 真っ赤に染まるのは、なんの所為?
 ひちゃり、という小さな音と共に酒にも迅にも酔った状態の僕は求められるままの熱を与え返すと夢中になったのである。