六本木ハニー 04
「っくしゅ」
 静寂たる部屋に漏れたくしゃみ一つ。慌てて口を押さえてみるも既に時遅し、呆れたような怒ったようなそんな色を秘めた瞳で四柳に睨まれてしまった。
 あの日、迅と路地裏でセックスをした。最初は軽い気持ちで直ぐに終わるだろうなんて安易に考えていたけれど、いざセックスを始めてしまえばもう止まらなかった。
 埋めるように補うように、そうしていたのは初めだけ。快楽に陥落して、深くまで求めてしまえば時間など直ぐに経過する。そうして気付いた頃には、屋根で身体を隠していたはずの僕はぐっしょりと濡れており、ずっと雨に晒されていた迅は滴るほど濡れていたのだった。
 熱が冷めれば身体に寒気が襲う。嫌な予感をお互い感じながらも早々ホテルへとしけこんではみたが、結局翌日体調を崩すというはめになってしまったのである。
 その経緯を知った四柳からは大目玉を食らった。散々こってりと絞られたあげく、部屋に軟禁までさせられたのだ。
 症状がましだということで軽い仕事だけを任されたものの、そろそろ退屈なのも本音であった。
「坊ちゃん、その手はなんですか」
「フフ、ほら、ウイスキー飲んだら身体が温まるって言うでしょ?」
「駄目です。ホットミルクに一滴程度ならこの四柳も目を瞑りますが、直接飲むとなれば話は別です。第一ですね、本来なら布団で大人しくしているべきなのですよ。風邪を引いているという自覚はありますか?」
「……暇」
「そうおっしゃるから書類整理を任せたんじゃないですか。これ以上文句を言うようでしたら、強制的に本家へと送りますよ」
 暖房で温められた室内、毛布に包まりながら僕は舌打ちをすると手に持っていた書類をばさりと机に放り投げた。
 基本現場で働いている僕は書類関係など好きではない。ちまっこい字を目で追うのも疲れるし、なにが否なのかもさっぱりだ。四柳の仕事の手伝いなどしたくもないのに、これしかやらせてもらえない。
 身体はだるいが、手持無沙汰なのである。この程度の風邪なら、全然平気なのに。
「ホストは? ホストも駄目?」
「駄目です。風邪を悪化させたいのですか」
「……そんな、たいした風邪じゃ」
「良いですか、坊ちゃん。坊ちゃん同様はめを外した迅さんは現在高熱で魘されています。そうなりたいのでしたら、四柳も止めませんがね」
「あ! そう、じゃあ迅はどこで療養してるの?」
「……清滝組系列のホテルに滞在していると、聞いております。弱っているときに奇襲でもかけられたら堪りませんからね」
「フフ、四柳! 準備して!」
 意気揚々と立ち上がった僕に、溜め息を零した四柳。ふらりと身体が傾いたような気もするがここは気力で持ち堪えた。
 せっかくの長期休暇のような時間だ。普段できないことを思い切りやろうじゃないか。
 最初から言うつもりだったのか、僕がこのような行動に出るとわかっていたのか、それとも僕の我侭に逆らえないと知っているのか、四柳は渋々と携帯を取り出すと最後の念を押した。
「ホテルに軟禁ですからね。風邪が治るまで、仕事もしないでください」
 迅がいるなら平気。そう言った僕に四柳は少しだけ嬉しそうな顔を見せると、次にはいつも通りの強面に戻り僕を抱き上げたのであった。

 無茶をしたことは認める。確かに、嫌な予感はずっと感じていたのだ。悪寒ともいうべきだろうけど。
 四柳に抱き上げてもらったといえど、外の空気や車移動、人と接したり歩いたり、そんなことを一時間しただけで熱がぐっとあがってしまったようだ。
 地に足がついているのに、ついていないような感覚。悪酔いしたときの酩酊感に良く似ている。
 チーン、という音と共に降り立った部屋が慣れ親しんだもので安心したのもあるのだろう、僕は自分がなにを言っているのか理解もできないまま取り敢えず四柳の腕から抜け出し、わあわあと喚いてみせた。
「ワイン! ワイン飲む」
「坊ちゃん、駄目です。ほら、起き上がってください。迅さんの部屋まで後少しですよ」
 床に寝そべってばたばたと足を動かす僕に呆れた四柳が手を貸そうとするが、それを払い除けただワインと叫んだ。
 壁に沿うようにずらりと並ぶのは、ホテルきってのSPと見知った顔ぶれ迅の若衆だ。迅が弱っているからだろうか、いつもより厳重な警備である。
 SPは顔色一つ変えずその場に立ったまま微動だにしないが、若衆は流石に気を使ったのか、四柳に手を貸そうとして僕を起こそうとしてくる。
 その中の一人、特に見知った顔に僕はにへらと頬の筋肉を緩めると手を差し伸ばした。
「清重ぇ! ワイン持ってこい!」
「え、えー! 俺っすか!」
「坊ちゃん、そんな我侭ばかり言っていると怒りますよ。仮にも三雲組の顔なんですから、もう少し自覚を持った行動をしてください」
「あ! ああ……むり……そんな急に」
 うっぷ、と口元を押さえる僕もなんのその、四柳は僕を米俵のように担ぎ上げると、荒々しく開いた扉の中へと入っていったのである。
 中は流石に迅のプライベート空間だからか、護衛の数も少なく、清滝組関係の人しかいない。奥に続く扉の向こうがベッドルームで、きっとそこには迅しかいないのだろう。
 既に連絡を受けて僕がくることを知っていたのか、護衛たちは四柳に軽く会釈をすると僕の引渡しについて簡単に会話を交わしていた。
「ワイン! ねえ、ワインは!? ワインがないぃー!」
「坊ちゃん、静かにしてください。酒類などは全て撤収いたしました」
「えぇえぇえ! なんで、なんで!? ワインがないとっ! 死んじゃうう!」
「死にません。坊ちゃん、貴方まさか酒を呑んでないでしょうね? ちょっとテンション可笑しいですよ」
「ああああ! 無理っ、吐くうう」
 うう、と呻きながら床に蹲って懲りずにワインと叫んだ僕に護衛も四柳も最早打つ手なしというところか、誰も構ってくれなくなってしまった。
 風邪を引くと人肌が恋しくなる。まさにその通りだ。
 ただなんとなく、叫びたかったり、暴れてみたかったり、そんなことをしてしまう。堪った鬱憤を晴らすかのように、再び構ってくれるまで訳のわからないことを叫んでいれば、奥の扉がバーン! と大きく音を立てて開いたのである。
「うるせえんだよ! こっちは風邪でしんどいっつうのになに揉めてんだ!」
 いかつい風貌に似合わず、額に貼られた冷えピタが可愛い姿の迅の登場だ。これでパジャマを着ていたら最高に可愛いのに、残念ながらバスローブである。あんなものを着ているから治る風邪も治らないんじゃないだろうか。
 僕は赤い顔をして荒い息を吐く迅を見た瞬間、頭ががんがんするのを無視して迅に飛びついたのである。
「じーんー!」
 お互い高熱故に触れ合った肌が熱い。汗でべたついた身体も気持ち悪い。だけどどこか安心のする匂いに、僕はうっとりとすると眉間に皺を寄せた迅の身体に擦り寄ったのである。
「迅! 迅! じんじんじん!」
「うるせえ! 耳元で喋るな! っう、大声出したから頭に響いたじゃねえか……」
「うう、吐くう……迅、吐く」
「つ、か、離れろ……熱いんだよ」
「駄目だ、フフ、磁石になった、……から、吐く……」
「おい、尚人、今は、……構って……やれ、ね、あーったまいてえ」
「じんん……吐く、よ、ね、吐くから、受け止めて」
 あ、駄目だ。もう駄目だ。そう思った頃には意識はブラックアウトして、散々暴れたお陰かすっかり気分の悪くなってしまった僕は迅が叫ぶのも無視して思い切り吐いてしまったのである。
 後で聞いた話、迅も律儀に受け止めようと両手を差し出したものの、がんがんとする頭に耐え切れなくなったのか僕の吐瀉物を受け止めた後、倒れてしまっただとかなんとか。

「あつい」
 からからにしゃがれた声で吐き出された言葉に、僕は重くなった瞼を開いた。
 ぴったりとくっつているのは迅の身体。どうやらあの後、丁重に扱ってくれたのか僕の服も迅の服も新しいものになっており、今は仲良く二人で同じベッドに寝ていた。
「じ、ん、起きたの」
「起きたのじゃない。お前が、起きたんだ」
「……フフ、迅」
「お前が離れなかった、らしいぞ。だから、一緒に、いる訳だ」
「でも、どうせ、最初からそのつもりだし」
「……どうせなら、風邪じゃないときにしてほしいものだな」
 ふう、と溜め息を吐いた迅が再び寝ようと瞼を閉じるから、僕は心寂しくなって迅の身体に乗りあがってみた。
 普段迅に良いように弄られている僕でも、正真正銘の男だ。華奢な訳でもないし、小さい訳でもない。上に乗れば十分重いのである。風邪なら尚更。
 ずしり、と全体重がかかったことで迅は呻き声をあげると、押し退けるように僕の身体をおろそうともがいた。
 だが風邪を引いている所為で力が出ないのだろう。上手くおろすことができず、次第には諦めたのか僕の背中をぽんぽんと叩くとくっきりと眉間に皺を寄せたのである。
「重いぞ、尚人」
「んー」
「正直言うと、うざい」
「フフ、嬉しいくせに。いつも上に乗れって言うじゃん」
「それはセックスでの話であって、なにも風邪のときに身体に乗り上げられて嬉しい奴がいるか。第一熱い、重い。息もできない」
「うそ、できてる。ねー迅! ワイン! あ〜ワイン!」
「煩い。耳元で喋るな……頭に響くだろ。というよりこんな状況で良く酒が呑めるな……」
「呑めて、ない。あー……アルコール切れたら、動かないよ。僕はね、燃料で動いてるからさ、フフ、ワインスタンドで補給しないと〜動きません! 1ℓだけでびゅーんて、動きます」
「……煩い。早く寝ろ。そんで風邪治せ。お前といると治る風邪も治らないような気がしてきた」
 口元を迅の掌で覆われる。ふがふが言葉を紡いでみても、全て掌の中へと吸収されていく。
 頭はがんがん煩いし、関節はぎしぎしと痛む。動くのさえ億劫になるし、身体中発熱しているかのように熱い。実際発熱しているんだけども。
 だけどそれでもナチュラルハイなのか、喋っていないと不安になる。僕は迅の掌をべろりと舐めると、慌てて手を引いた迅の顔もべろりと舐めたのである。
「おい……尚人」
「セックスしたくなった」
「勃たないだろうが、もういい加減大人しくしてろ」
「フフ、迅ってインポ?」
「……お前はなにが望みなんだ」
「構って」
「……じゃあ、構う代わりにお前もなにかしてくれるのか? 交換条件じゃないとな」
「良いよ。フフ、なんでも言って」
 その言葉に迅の瞳がきらりと光った。これはろくなことを考えているときの瞳だ。
 だが僕にとっては迅の言葉は全てだ。迅を失うこと以外なら、なんでも良い。それが迅の望みならば、僕は喜んで身も捧げるだろう。
 風邪のときに弱っている姿も、甘えたくなることも、子供みたいになるのも、迅だから見せるのである。
 わくわくと迅の頬を両手で掴んで覗き込む僕に迅も少し気分が良くなったのか、僕の頭を子供に対するように撫ぜると言ったのである。
「ホストはやめること。やっぱり良い気はしない。仕事だろうがなんだろうが、お前は俺だけに愛想を振り撒いてたら良いだろ」
「えー、お酒、呑めるのに。迅、わかってないな〜」
「尚人」
「……じゃあ、僕のお客さんになってくれる? ワインタワーも白でしたいし、シャンパンも見てみたいし〜、ホストっていう雰囲気も良いよね〜」
「なんでも叶えてやるだろ。ホスト一晩貸し切ってやるから、あの店はやめろ」
「フフ、じゃあ迅も。迅も僕だけのホストね」
「ああ」
「あー……休暇の意味、終わったじゃん」
「どうせ元からそんなに行ってないんだから影響ないだろ。お前は俺の言う通りにしてろ」
 くい、っと髪の毛を引かれる。待っていましたといわんばかりに僕は唇を尖らせて、迅の唇と重ね合わせた。
 唇も、舌も、口腔も、全てが熱い。触れる先から熱が広がって、迅と僕が一つに溶け合えるかのような錯覚に陥った僕は珍しく主導権を握ると力ない迅の舌を押し退け、迅の口腔を荒々しく貪ったのである。
 時折に苦しげに寄せられる眉間だとか、風邪の所為で紅潮する頬だとか、苦しそうに呻く声が可愛いなんて思ってしまった僕は正直言うと調子に乗ったのかもしれない。
 酸欠気味になったので舌を抜いてみれば、迅も酸欠になっていた。ぜえはあと荒い息をすると、僕の頭を思い切りごつんと叩いたのであった。
「いってええ」
「尚人!」
「たんこぶ、できた」
「できる訳がないだろう。ああ、もう、いい加減にしろ。お前といると、本当に疲れる」
「……いらない? うっとおしい? ……迅」
「……そういう、意味じゃないだろ。尚人がいないと、俺も生きていけない。だがな、それとこれは別だ。お前はいるが、少し大人しくしていてほしい」
 そう言って、最後の力を振り絞ったのだろう。迅は僕を抱き締めたまま身体の向きを変えると、無理矢理僕を身体の上から引き摺り落としたのである。
 だがそれでも、僕は迅の腕の中だ。多少抱き締める力が強いから苦しい気もするけれど、これは僕にとって幸せなことなのでもう文句は言わない。これ以上口をついて愛想を尽かされたら本末転倒である。
「……迅、治ったらワイン風呂に入って、フフ、そこでセックスしよ」
「……治ったらな」
「あ、純度100%ね」
「そんな風呂に入ったら悪酔いするだろうが。尚人、10%までだ」
「ケチ。フフ、経済力ないと僕を養っていけないよ」
「お前を迎えると財政破綻しそうだな……」
 ぼそぼそと、スローテンポで交わされる内容のない会話。あれが良い、これが良い、それは駄目だ。なんて語っている内にも瞼は重くなって、僕は身体中迅に包まれたまま夢現の状態。
 結局はホストをした! という気分にも浸れず、なんだかんだ言いつついつもと変わらない日常。迅と、過ごした時間だけが増えただけなのだ。
 あやされる腕で、僕を包み込む。なにもないことが幸せなのだと、しみじみと実感する幸せの途中。目が覚めたときもこうしていられることを願いながら、抗うこともなく僕は瞼をしっかりと閉じたのである。