六本木ハニー 03
 人間、習慣ついた生活を変えることは難しい。そうしみじみと実感したのは、ホストを終えた後のふとした瞬間だった。
 ホストの仕事は楽しい。期間限定ということと、オーナーと知り合いということ、本格的にしている訳じゃないっていうことで気が楽なだけかもしれないけれど。
 厄介なお客にはつかないし、普段会話することがないような人といろいろな話をする。それは知識が増えるということでもあるし、世界が広がるということでもある。
 本当のことを言えば高いお酒を見返りもなく裏もなく会合でもなく奢ってもらえるということが、一番の楽しみなだけなんだけども。
 だけどそんな素晴らしい環境であるはずなのに、なんだか僕はどこか落ち着かなくって、ホストの仕事はあまりしないでいた。
 根っからのヤクザ人間なんだろう。高校を卒業してから今の今まで仕事仕事で生きてきた。毎日が仕事のようであって、休みのようでもある。そんな人生。
 僕がいなくたってやっていけていると報告をもらっていても、自分の目で確かめないと気がそぞろになる。
「坊ちゃん、お待ちください!」
「四柳、先週言ってた六本木のマフィアリストはできたの?」
「あ、ええ、纏めてありますが……って坊ちゃん、今は休暇なのですから、こちらの方は四柳と若衆に任せてですね」
「フフ、仕事してないと落ち着かないんだよ。……ちゃんと新宿のことも考えてるし、ホストだってそれなりにやってるんだから気にしないでよ」
「坊ちゃん……」
「それに迅だってあまりこないし? やっぱり僕はこうしてる方が性に合ってるよ」
 煌びやかな箱の中で、むせ返るほどのアルコールと煙草の匂いに塗れてお喋りをするのも悪くはない。
 だけども僕には、漆黒の闇の中で人に蔑まれるような仕事をしている方が合っているかもしれない。
 やめたいと思うことは何度もあったけど、それでも最後には戻ってきてしまう。敷かれたレールの上だろうが、僕の意思で歩いているのだ。
 仕様がない、そう言いたげな四柳は目尻に皺を寄せて薄っすらとした笑みを浮かべると、僕の手に資料を手渡した。
「じゃあ坊ちゃんには休んでいた分、きびきび働いてもらいますね」
「あ、でも今日は」
「わかってますよ。坊ちゃんのスケジュールは把握しております」
「流石、四柳」
「まだ時間はあるのでしょう? それまで、資料の整理でもしましょうかね」
 時計を見た僕はそれに頷くと、どどんと積み上げられている新宿区内水商売店舗の詳細を記載した紙に手を伸ばしたのである。

 本当のことを言うと、ホストがつまらない。そんな理由ではなくって、迅と顔を合わせることが多くなったのが嫌なだけなのだ。
 僕たちはきっとつかず離れず、そんな距離を維持している方が良い。僕はそう思っている。
 会えば会うほど依存度が高くなって、離れたくなくなって、別れる時間を惜しむようになる。触れた分だけ胸が軋むような、そんな痛みがするのだ。
 本当は、……なりたい未来さえ言葉にするのが怖い。叶えられない未来なら、思うことすら、辛いんだ。
 資料を捲くる手が止まる。静寂たる空間に小さく響いた電子音。ふ、と顔を上げれば小雨降る闇の中に、僅かな光が見えた。
「……四柳。送りは良い」
「じゃあ誰かに送らせましょうか?」
「いや、歩いていくよ。……もう迎えにきているみたいだし」
 その言葉に四柳も窓の外へと視線を向けた。
 ちかちか光る僅かなオレンジと、雨に消されていく煙。姿を隠す傘さえ、迅らしい色をしている。闇に溶け込むような黒。世界は黒なのに、迅だけが光って見えるのは、そうきっと。
「後は頼む。帰りは明日になると思うから、直接本家に帰るよ」
 差し出された傘を拒むと、僕は不思議そうな顔をしている四柳を尻目に事務所を出た。
 雨を凌げるほどではない屋根の下、迅は傘を差して煙草をふかしている。僕が降りてきたとわかっていても視線すら向けない。
 敢えてそうしているのだったら、僕だってそうしてみよう。
 そんな気持ちで雨の中一歩を踏み出せばすかさず頭上に傘が差し出された。
「濡れるぞ。傘はどうした」
「生憎事務所に置いてなくてね、まさか雨が降るだなんて思ってなかったから」
「しけた事務所だな」
「フフ、銃だったらあるんだけどね」
「……まあ良い。ほら、行くぞ」
 掴まれた腕を引っ張られて、元から一つだったかのように肌を触れ合わせて歩く。大きめの傘といっても、大の男二人が入れば小さくなってしまうもの。
 繁華街を反れてしまえば案外人気のない大都市を、僕たちはゆっくり歩幅を合わせて歩くのだった。
 行き先は、決まっていない。
 小雨といえど降っていると煩わしいものさえ、今だけはこんなにも愛おしく思う。肩が熱い。迅の体温が、僕には熱い。
 燻らせた煙と、雨の匂い。目線を落とした迅とぶつかった視線が逃げるように彷徨った。
「……なんだ」
「特になにもないけど、……フフ、こうやってるとさ、少し変な気分になる」
「変な気分?」
「小さい世界が、あるみたい。この傘の中だけ、違うように感じない?」
「抽象的だな。俺には理解できないが……なんとなく、わかるような気もするな」
 傘に触れていない手が、僕の頬を擽る。雨の気配で冷たくなった指先に思わず身を引いてしまった僕が戸惑うように手を重ねれば、冷たかった手が温かくなるような、そんな気がした。
「ホストも、意外と楽しいものだな。俺の性には合っていないが」
「フフ、迅は出張ホストの方が合いそうだよ」
「おい、もうそういうことはしていないって信じてないのか?」
「してたら脳みそ銃で打ち抜くから安心してよ。迅は息すらしていないね」
「……過激だな」
「フフ、愛だよ。愛」
 冷えた指先に口付ける。なにもひとひとと忍ぶ狂気を持っているのは、迅だけではない。
 迅までホストをしたのは誤算だった。まさか迅が本気でするだなんて思ってなかったのだ。僕の出勤に合わせるのは構わないのだけれど、迅が優しく誰かに話している姿を見るだけで気が狂いそうになる。
 きっと迅も同じ。だからこそ、忠告の意味を込めてやり続けるんだろう。
 だからこそ僕は潔くやめる決断もつかないまま、だらだら続けているのだ。期限前にやめてしまえば、そこで僕の負けのような気がして。そんな気がするのだ。
 それをわかっているからこそ、迅も言わないのだろう。
 意味有り気に含まれた瞳が細くなる。迅は好色を持った指先を僕の口腔に押し込めると、ぐるりと掻き回した。
「その顔、誘ってるのか?」
 頷くように目を閉じてみれば、傘の落ちる音がした。
 小雨だった雨が強まって、ぽつぽつと僕たちの身体を侵食していく。色の濃くなったスーツが重みを含んだ。
「……尚人」
 引き抜かれた指と同時に、珍しく綺麗に結んである迅のカラーネクタイを引っ張る。
 背中に回された腕で距離がなくなって、僕たちは唇を重ねた。
「ん、っ」
 焦ったような口付けが行動にも移り、迅は僕を抱き締めたままじりじり歩を進めると上手く路地裏まで誘導した。
 少し屋根があるそこは多少雨が凌げるようにはなっているが、壁側に僕を押さえつけている迅の背中にだけ冷たい雨が降り注ぐ。
 だけれど、冷えた壁に押さえつけられ、貪るような口付けをされている僕が温かいかと言われればそうでもなく。
 それが、理由だったのだろう。それを、理由にしたかったのだろう。
 スーツに手を入れられたことに対して抵抗を見せることもなく、その行動の意味を知っていても僕は敢えてそれを受け入れたのだ。
「じ、ん……っ」
 シャツ越しに伝わるのは久しぶりの温もり。そうとなぞるような手付きで横腹を撫ぜると、ゆったりとした動きで僕を焦らした。
 植えつけられた迅との悦楽は、そういう瞳で見つめられるだけで反応するようになっている。
 興奮しているのかお互いの息は荒く、ここが外だと理解していても制御する力にはなりえない。
「健全な付き合いは、やっぱり無理だな」
「フフ、だから最近我慢してたの」
「お前が、……前に手を繋いで帰っただろう。そのときのお前が幸せそうだったからな、たまにはそういうのも良いかと思ったんだ」
 言って照れたのだろうか、迅は顔を隠すように僕の首筋に埋めると、最後はぼそぼそと呟くようにそう言った。
 僕がアルコールに逃げているのだと言うのなら、迅は人肌に逃げているのだ。お互いが足りないなにかを埋めようとして、少しの現実逃避をする。
 それでもお互い一緒にいれば、安定していけた。埋めていけた。それは至極極楽のようでもあり、地獄のようなものである。
 抱き止めてくれる身体を掻き抱いて、夢中で唇を貪った。欲しいと叫ぶように伝えれば答えてやると叫ぶように返される。
 迅の震えた指先が僕のズボンのジッパーを下ろし、もたげていた自身をきつく握り込めた。既に濡れそぼっていたそれを馴染ませるように滑らかな手付きで上下に動かされ、僕からはくぐもった声が漏れる。
 いつ誰が裏路地にやってくるかもわからないといった緊迫感も相俟ってか、いつもより身体が敏感になっていた。漏れた吐息さえ首を擽られれば熱い色に変わる。
「は、……ぁ」
 もし、ここに敵対している組織がやってくれば僕たちは一発で終わりだろう。
 無防備な姿で二人くっついているのだから、直ぐに仕留められるはずだ。そうなった場合は腹上死になるのだろうか? なんてそこまで考えて馬鹿らしくなって、僕は笑った。
 そんなことある訳ないのに。望んでもいないはずなのに。少しだけ期待してしまった自分が、本格的に泥沼にはまっているような気がして。
 くつくつ、と笑いを耐えた僕に怪訝な表情をした迅が目線を下げて僕の顔を覗き込んだ。
「なに笑ってるんだ」
「フフ、別に。ねえ、早く続きしないの」
「……ここで最後までするか?」
「たまには良いんじゃない? どうせ、誰もこないよ」
「自棄に積極的だな……嫌いじゃないが。濡らすものはあるか?」
「焼酎ならあるけど」
「……お前は……、……もっとまともなものを持っておけ」
「フフ、ローションなんて持ち歩かないでしょ。迅は持ってないの?」
「……まあ、良い。なんとかなるだろ」
 ぐい、っと口腔に突っ込まれる迅の指。その意図に気付いた僕はできるだけ丁重にそれを舐めあげると、唾液を絡ませるように舌を動かした。
 意思を持って動く指に、それに応えるようにして蠢く舌。いつもより自ら進んで行為に没頭している僕は迅にはどう映っているのだろうか。
 中途半端に脱がされたズボンとパンツ。迅の膝で割るように足を開かされ、間に入ってきた指が秘部をつい、となぞればそれだけできゅうっと縮こまるように反応した。
「はや、く」
 誘うように腰を揺らす。ぐ、っと中に押し込められた指の感触は久しぶりだ。間が空いてしまえば直ぐに硬くなってしまう入り口はそれでも迅を覚えていたのか、さほど抵抗することもなく受け入れた。
 ずるずると中を這い回る指先。冷たかった迅の指が、中の熱さに溶かされるようにして温かくなる。
 焦らされている訳でもないけれど、いつになく焦れったく感じた指の動き。求められれば求められるほど怠慢に受け入れてきただけで、なにもしなかった僕とは違う。
 少し寂しかっただけなのだ。そう、たったそれだけ。
 指の動きに合わせて腰を振る。荒くなった迅の吐息に返すように耳元に唇を寄せて、息を吹きかけた。半分甘く、半分辛く。耳たぶを噛んでやれば迅の身体がふるりと震えた。
「もう、いれてよ」
「……尚人? お前、変だぞ」
「フフ、僕から求めたら変だっていうの」
「なにか隠してるんじゃないだろうな」
「そんな器用な真似はできないよ。ほら、……」
 スラックスを押し上げている迅自身を布越しに撫ぜつける。どくりと脈打ったそれを取り出すようにジッパーをジジジ、と下ろせばどこか癪に障ったのか乱暴な手付きで振り払われてしまった。
「尚人、俺は主導権を握られるのは好きじゃない」
「いつもは積極的になれとか言うくせに?」
「お前は俺の下で良いようにされてたら良いんだ」
「なにそれ。フフ、勝手なんだね」
 む、と拗ねたような子供の顔。いつもより甘えん坊になった迅はごろりと身体を擦りつけてくると、自ら取り出した自身を僕の自身に擦りつけるようにした。
「尚人、後ろ向け」
「キスできないじゃん」
「後ろからでもできるだろ。お前身体硬いんだから、この体勢じゃ無理だろうが」
 渋々、従うように後ろを向けばお尻にぬるぬるとした感触。迅が欲しくて、疼いている秘部に宛がわれたそれ。催促するみたいに一度腰を振れば、快楽に順応な迅は焦らすことも忘れて中へとぐっと入ってきたのである。
「あ、あぁ……っく」
 やはり慣らしが不十分だったためそこはきつく、ぴりぴりとした痛みを齎すが、前立腺を擦りあげられて直ぐにそんなことも感じられなくなった。
 壁に押さえつけられて、後ろからがんがんと突かれる。雨は冷たいはずなのに、吐く息も身体も心も全てが熱い。迅に触れられている場所は火傷しそうなほど。
 ただ、ごりごりとしたなんの変哲もない冷たいだけの壁に息を吐くのだけは好ましくない。後ろを振り向けば僕の意図に気付いてくれたのか、迅が優しくキスをしてくれるものだから僕はほっとした。
 触れている壁の感触は手に痛いけれど、仕方ない。僕の身体がもう少し柔らかかったら、お互い見詰め合って口付けて真正面から抱き合えるのに。
 ああ、やっぱり外じゃなくって、ベッドの方が十分獣になれるのだ。
 だけどそれでも、なんだか無性に迅を欲したのは僕である。心が寂しくって、いや、ただ、無心に甘えたかっただけなのかもしれない。
 ホストをして、新たに触れた迅の顔に、僕は一つの恋を落としたのだ。
 結局はなにをしたって、ああ、こんなにも求めてしまう。僕のアルコール依存に勝てる迅の存在の大きさをしみじみと思いながらも、甘えながら求めてくる迅に僕も甘えてみたのである。