ロマンチスト・ダーリン 01
 すっかり失念していた、そう表現するのがぴったりであろう。あの行動ほど後悔したことはないと、迅は後になって思った。
「兄貴〜! 待ってくだせえよ〜!」
「歩くのが遅い。第一お前がメンテしたいと言ったからわざわざ俺が付き合ってやってるんだろうが」
「へへ、そうでやしたね。でも初めてなんで緊張するっすね〜兄貴はしなかったっすか?」
「あー……な、まあ、昔はいろいろと荒れてたからな。……これも仕事の内だ、遊びじゃないことだけは念頭に入れておけよ」
「はいよ!」
 いつになく気合いの入った清重に、迅は些か不安を覚えたものの文句は言わず口を噤んだ。おつむが足りない清重ではあるが、悪い奴ではないのだ。根は良いし、仕事だって覚えが早い。普段はこんなへらへらして馬鹿みたいでも、緊急時になればヤクザらしい顔付きにもなる。
 だからこそ迅は清重がしたいという仕事を教えることになったのだが、よりによってメンテとは、なんだなという気分だ。
(そういや尚人と付き合ってからはこっち方面もご無沙汰か……まあメンテぐらいじゃ怒りはしねえと思うんだがな)
 闇夜に溶けるブラックスーツ、迅が歩けば大概の人は振り返る。明らかに筋のものだとわかる容姿もさることながら、やはりオーラというべきか端正な顔付きに見惚れる女は多い。
 そんな憧憬される瞳に慣れ切っている迅は胸ポケットから煙草を取り出すと、清重より先に火を点けた。
「今日は風俗っすか?」
「いや、本音のところもう風俗は俺らがメンテしなくても別に困りはしない」
「じゃあなにを……ま、まさか男とか……! 俺男だけは勘弁っす! 許容範囲外っす! 勃たねえと思うっす!」
「あのな……仕事だと言ってるだろう」
 呆れてものも言えない。迅はどうするか、と立ち止まると辺りを見渡した。
 関東屈指の繁華街歌舞伎町、酒を飲むだけのキャバクラから始まり触ることができるセクキャバ、抜いてもらえるヘルス、最後までできるソープなど。例を挙げたらキリがないほど夜の店が密集している。
 清滝組管理のものから、三雲組、二次団体、三次団体、小さいながら他の組など。
 最近になって素人も手を出しやすい世界にはなったものの、やはり大本を辿ればヤクザ管理の職業というべきところがまだ多い。店の提供や営業管理、土地のみかじめ料や護衛など様々だ。そうしてこの中に、滅多にないがメンテという仕事が舞い込む。
「迅さ〜ん! うちの店寄ってってくださいよ! サービスします! 良い子揃えたんで見てくれないっすか!?」
 ふ、と視線を上げれば清滝組が管理する中でも老舗のソープの店長が手を上げて迅を呼び込んでいた。ここの店長は昔迅の若衆の一人だったが今はどうしてだかこの店のオーナー兼店長として居座っている。本人曰くこっちの方が性に合っているとのこと。
「今日は遠慮しとく。仕事があるんでな」
「ああ、残念っす。じゃあまた今度こっちにも顔出してくださいよ!」
「わかった」
 軽く手を上げて歩みを進める。そう、今のやり取りこそメンテの仕事だった。
 メンテとは名の通り女のメンテナンスをすることだ。最近になってブランド物が欲しいだのホストに貢ぐだの、そんな軽々しい理由で夜に身を落とす女が多くなってきたが未だ本人の意志など関係なく売られてくる女もいる。
 そういった女は当たり前だが望んできた世界じゃないから抵抗も嫌悪感も人一倍強い。そんな女をヤクザ仕込みの愛技で陥落させて落とすのがメンテという仕事だった。
 女にとっても快楽に身を落としたほうが苦痛も少なくて済むし、店としても売り上げが上がるので一石二鳥でもある。ほとんどがソープや遊郭、AV女優に売られてきた女だ。
(最近はそういうのもねえしな……)
 そう、でもそれは昔の話でもある。最近こそ迅がわざわざ出張らなくても店のオーナーなり店長なりが大概メンテをすることが多い。昔は迅も下っ端だったので否応なくメンテをしていたが、この地位になればわざわざするような仕事でもなかった。
 それに仕事で女を抱くよりは、遊びで抱いた方が気も楽だ。
 先ほどのように誘われたり、迅指名で直々に依頼がきたりすれば出向くもののそれも皆無となった。
 本番まではしないから気が楽だが、あまり尚人に顔向けできるような仕事もないのでできれば控えたい。静の一件のようになるのはごめんだ。前技だけでも気が引ける。
 清重も一度経験したいというだけだろう。迅は良い店はないものかと思案すると、立ち止まって顎に手を置いた。
「兄貴?」
「……ああそういえば、今度裏で出すビデオの子が売られてきたという話があったな」
「へえ〜なにやらかしたんすか?」
「母親の労費だ。皮肉なもんだが売ったのも母親でな……歳は十六」
「げえっ……」
「これが現実だ。やるか? 他に適任がいるから遠慮しても構わんぞ」
「うう〜やっぱり俺は良いっす。メンテ諦めるっす! ちょっときついっすね、その仕事」
「所詮ヤクザだしこういうもんだろう。覚えてもろくなことない仕事だ、清重には土台向いてねえだろうな」
 軽く笑って些か小さい頭部を撫ぜれば、清重は少し残念がっていたがほっとした笑みを浮かべた。だから迅もつられて安堵した。このときは平和だった。一本の電話が鳴るまでは。
 惜しくも清重が辞退したそのメンテがまさか迅にまわってくるなど、知り良しもしなかった。
 最後まではしない。それは男優の仕事だ。迅がするのは初めにある程度の恐怖と快楽を植え付ける手伝いのような仕事。優しくはしないが陥落させる程度の触れ合いは必須で、迅は汗一つ掻かないし脱ぎもしないが、触れることは事実。
(……ばれないと、良いんだが……)
 飽くまで少し触る程度のそれを尚人がどう受け止めるのか、迅はそればかりが気がかりであった。

 一方、尚人は苦手としている書類仕事と向き合っていた。昔良き人情派のヤクザとして生きていけるのならそれほど良いこともないが、そんな生温いことは言ってられない現実だ。
 口には出せない犯罪行為を大いにやってのけるのが尚人の仕事なのである。
 ヤクザの仕事はそんな犯罪行為から、こんな真面目な書類仕事まで様々だ。IT関連やこういった細かい仕事が嫌いな尚人は机に向かって五分で根を上げた。
「四柳! この書類纏めておいて! 僕出掛けてくるから!」
「坊ちゃん……まだ五分も経ってないでしょう? もう少し粘ってくださいませんか。それにその書類は坊ちゃんの捺印が必要なんで、坊ちゃん以外ができる仕事ではありませんよ」
「フフ、判子押すだけならポチでもできるでしょ?」
「確かに。ですが目は通していただきますよ」
「……四柳!」
「それにポチをメンテに行かせたのは坊ちゃんでしたね」
「あー……そういえばそんな仕事押し付けてたっけ……だって僕にきたんだもの。そんな仕事したくないし汚いじゃん。どこの骨かもわかんない女に触れるなんて虫唾が走るね。四柳も駄目だよ、僕のなんだからメンテはさせないよ」
 無邪気に笑った尚人の左手にさっと視線を巡らせれば案の定、四柳に見つらない程度の小さなウイスキーが握られていた。しまったと思うものの残りはもう少ない。
 らしくない発言をしたと思えばこれか、もしかしたらポチをメンテにいかせたのも酒に酔って言った可能性が高いな。そこまで思って四柳は溜め息を吐いた。
 尚人のアルコール依存が治るとは到底思ってはいないが、それでも年々増え続ける量に四柳の胃痛も比例して増していくのだ。
 迅と出会ってからというものの強くなったのだか、弱くなったのだか良くわからない。だが尚人に大切な人ができたことは確かだった。それだけでも人間的に進歩したものだろう。
 幼少時代から尚人を見続けてきている四柳は、あの忌まわしい事件を思い返して、成長したものだと少し寂しくも思うのだが。
 口を尖らせて携帯を弄繰り回している尚人を見ると外の仕事が本当に好きらしいと窺える。四柳はこうして落ち着いて仕事をする方が性に合っているので本当に尚人とは気が合わないなと再確認もした。それでも好きだから、どこまでも着いていくのだけれど。
「……迅さんですか?」
 吐くように言った四柳の言葉を、尚人はばっさりと否定した。
「馬鹿、違うよ。フフ、迅ってば今頃なにしてるんだろうね? 浮気とかしてたりして〜そんときは誰に咎められることなく撃ち殺してあげるけど」
「坊ちゃん」
「冗談だってば。それに迅は浮気しないし。……まあ、メンテならするのかもしれないけど」
「迅さんの立場で今更メンテの仕事もないでしょう。指名されればあれですが……ま、ないと思いますよ」
「フフ、ね、四柳、僕飽きちゃったから外回り行ってくるね。裏賭博の様子も見ておきたいし、いずれ総本家の神戸の賭博も勉強しに行かなきゃね」
 尚人の言葉に四柳はおや、と片眉を上げた。敷かれたレールであれど今まで否定的だったのに、少し肯定的な意見が出たことに驚いているのだ。
「坊ちゃん、跡を継ぐ気になられたんですか?」
「フフ、元々そういう将来でしょ。僕もそろそろいろいろと学ばないとなって思ってるんだよ。……親父は優しいから、強要はしないけどね。でも妹に迷惑も掛けたくないし、僕なりに頑張ってみるよ。あ、これ秘密だからね」
 遠慮がちに笑うように言った尚人の見慣れない表情に、少しだけ四柳は心許ない気持ちを抱くとええと頷いた。
 成長していくことに老いていくことに、一抹の寂しさは拭えない。いずれ立派な背中を見せてくれるであろう尚人を思うと四柳は目頭が熱くなった。
 三十半ばだというのに随分と涙腺が弱くなったものだ。馬鹿にするような尚人の声にからかわれながら、やはり側近ということもあって四柳はぶうぶう言う尚人について外に出るのだった。
 もちろん隠れて持ち込もうとしていたワインは没収した。
 いつもよりは地味と思われるブラックスーツを着込んだ尚人だったが、そのスーツには派手な銀のストライプが入っていた。身体のラインに合わせて作られているからそれなりに格好良く見えても、尚人のように派手派手しくなければ失敗は免れない格好である。
 相変わらず趣味の悪い、という突っ込みをする尚人の相方はどこにいるのやら。尚人の愛車である真っ白のベンツを四柳に運転させると、後部座席で優雅に鼻歌を口ずさんだ。
「ご機嫌ですね。どこに行かれるか決めたんですか? 賭博場に直行します?」
「……まだ良い」
 腕時計に視線を落とした尚人はそう言った。時刻は午後七時をちょっと過ぎたところ。裏賭博を見学するには些か早い時間であった。
「迅のいるところに連れてって」
「坊ちゃん私は三雲組所属の坊ちゃんの右腕を勤めさせていただいております故に、迅さんのスケジュールを緻密に管理はしておりません」
「フフ、言ってみただけ。新宿に寄せてよ、そこらへんにいる若衆捕まえたら吐くでしょ」
「……あまりことを荒立てないでくださいよ」
「大丈夫大丈夫。ちょっと迅に会うだけだって。もう三日も顔見てないし」
 バックミラーで尚人を確認すれば、震える指先で膝小僧を掴んでいた。ここにないアルコールを求めているのか、そうではないのか四柳にはわからない。
 だけどそろそろ対処をしないと支障が出てくるだろうと、きっと尚人が誰よりも理解しているはずだ。
 口寂しそうに爪を噛んで、流す視線は窓の向こう。彷徨う手はなにかを探している。じいと見ていたことに気付かれたのかミラー越しに目が合って四柳ははっとした。
「……フフ、心配いらないって。本当に大丈夫だよ」
 尚人の大丈夫が大丈夫だったことなんてないのに、そう言い切られては信じるほかない。
 四柳は仕方ないといった風に肩を竦めると、バックミラーから目線を外して車を新宿方面へと走らすことに専念した。

 物事というのは上手い具合に重なって起こることが多い。それを理解もしていない二人は車中でばったりと出くわしてしまった。
 四柳の小言を聞き流し、後生の願いだと頼み込んで入手した缶チューハイを飲みながら窓の外に視界を流していた尚人は、ゆっくりと進む迅の車と擦れ違った。
 ばっちりと目が合う。迅も気付いただろう。
「四柳!」
 全てを言わなくても尚人がなにを望んでいるのか把握していた四柳は無言で車を停止させた。
「ここで待ってて。直ぐ済むと思うし」
「は、一回本家に戻って待機しなくてもよろしいので?」
「フフ、あっちも車ってことはそれなりに忙しいんでしょ」
 尚人の舌には美味とも感じないが、それでも内々から起こる震えを止めてくれる役割は持っている缶チューハイを片手に車を降りた。相手方も尚人が降りるとわかっていたのか、白のベンツより少し先に止まった車から迅が出てきた。
 スーツの種類はあれどかっちり着込んだ尚人と違い、迅はシャツとズボンだけといったラフな格好だ。これから仕事という訳ではなさそうだし、仕事帰りとも思えない。遊びの途中か? 尚人は迅が駆け寄るのを見ながら立ち止まった。
「……尚人?」
 迅は気だるげに髪をかき上げて尚人に寄った。消された汗の匂いと、焚き込められた香の匂いと、きつい香水にむくむくと湧き上がる疑心。尚人は持っていた缶チューハイをべこりと凹ませると迅の後ろに待機している清重をぎっと睨んだ。
「……迅、その格好はなに」
 清重は目に見てわかるほど慌てると車へと逃げ込む。手に上着も持ってなかったから、そもそも今日は仕事で出かけたのではなさそうだ。もしくは途中で脱ぐような仕事をしたか、だ。
「ああ、……これ、か……これな」
「スーツの上着はどうしたの。本家に用あるんじゃないの? っていうか仕事は? この時間にその格好……今どんな仕事抱えてるのか聞いてなかったね、そういえば」
「いや、仕事ってほどの仕事じゃない。……急にな、ちょっと」
 明らか目に見えて困った表情をしてみせた迅は顎に手を置くと、尚人を見下げた。
 数センチの身長差がもどかしい。迅は辺りを見回してきょろきょろすると、尚人の両頬を持って引き寄せた。
 掌にじんわりと広がる尚人の温かみ、いつもより匂わないアルコールは摂取量の少なさを教えてくれる。おそらく缶チューハイなら、と許可をもらったのだろう。
 迅は目尻が下がるのを感じながら、尚人に顔を寄せた。
「なんだと思う?」
 人気がないのを良いことに、唇に軽くちゅっとしてみせたご機嫌取りのような態度にもう聞かなくても尚人は全てを理解した。
 久しぶりのキスがこんな形なんて、残念でならない。どうせならもっとロマンチックにいきたい。だけどこうすればロマンチックじゃなくて一気にサスペンス。それも悪くないかもしれない。
「フフ、こんなので僕がごまかされるとでも?」
「別に深い意味などない。キスがしたかっただけだ」
「う、そ、つ、き。正直に言わないと撃つよ? 人気なくて良かったね。フフ、キスもばれないけど殺しもばれない」
 ゴリ、っと迅の腹部に嫌な感触がする。おそるおそる視線を下げてみれば、そこには尚人愛用の拳銃が迅の腹に押し付けられていた。器用にもロックは外されている。
 両手に収めた尚人の顔はいつも通り大変可愛らしく、迅を誘惑するにはもってこいの拗ねた表情だ。似合わず唇を尖らせているのがまたギャップで堪らなく良い。
(……だが、こっちのギャップは勘弁願いたい)
 早く言えといわんばかりに押し付ける拳銃の感触が地味に痛い。表情と行動の間逆さに、迅ははあと溜め息を吐いた。
 デンジャラスなところも受け入れて愛しているけれど、もう少しだけ聞く耳も持ってほしい。全てに罪悪感がないと言い切れないところがまた迅をよりいっそう深みに落とす。
 誤魔化しても無駄なら言ってしまえれば良いのだけれど、なかなか口を開けない迅はご立腹の尚人にもう一度だけ誤魔化されてはくれないであろう口付けをした。