ロマンチスト・ダーリン 02
「尚人……」
 二人きりのときにしか聞かせない甘ったるい声で、迅は尚人を呼んだ。耳元を唇で擽って、もう一度愛おしさを込めて呼ぶ。
 手先から足先まで行き渡るような充足感に包まれた尚人はついつい状況を忘れてしまって、口付けを強請った。
「ん、……う」
 柔らかく落とすような、触れるだけのそれを何度か繰り返す。焦れったさに舌を出せば迅の手が怪しく腰を撫ぜて、気が付けば手に握り締めていた拳銃は取り上げられてしまった。
 油断をしていた。慌てた尚人が取り返そうとしても、ほんの少しの身長差が仇になって届かない。おまけに不埒な動きで弄る手に動きを制されてしまう。
「これは没収な」
「迅!」
「本気で撃つつもりじゃないんだろう? こんなことしなくても、誤魔化さずに説明してやる。少しは落ち着け」
「……っ、最低! どうせ仕事だって言うんだろ。わかってるから聞きたくないね。仕方ないことに喚いたってなんにもならない」
「ふうん、わかってるじゃないか」
 あやすように尚人のハニーブラウンの髪に口付けた迅の気障ったらしい行動ときたらもう。苛立った尚人は思い切り力を込めた踵で迅の弁慶を蹴り上げた。
 瞬間、痛みに悶絶して蹲る迅の姿が見ることができたから少し胸もすく。ほんの少しだけ苛立ちも緩和された気分だ。
「とりあえずその女臭い身体で僕に触れないで。吐き気がしそう」
「……はあ、仕方ないだろ。急に入ったんだ……」
「あいつは」
「……清重か? 清重が断ったからな、俺んとこにきた。まあ訳あり物件だったし、丁度人手もなかったからな」
「フフ、お仕置きが必要だね? ちょっとあれの面貸してよ」
「やめろ。清重には向いてねえんだから仕様がねえだろ。……悪かったって、そう拗ねるな」
 尚人に伸ばした手は無残にも良い音を立てて振り払われた。迅は深い溜め息を吐くと未だ痛む弁慶を擦って、懐から煙草を取り出す。完全に拳銃を返すタイミングを逃してしまったが、今返して発砲でもされたら堪ったものでもないからまあ良いか。
 迅はじじっと燃える煙草を肺いっぱいに吸い込むと、吐き出した。
「尚人」
「煩い。黙って座ってな」
 ふんっとそっぽを向かれる。手元に酒がない所為か、余計に苛立ちを露にしていた。触らぬ神に祟りなしというように、それなりに放置すれば寂しさに耐え切れなくなってデレてくるのだが、それだと余計に悪化する可能性もあるから選択もしにくい。
 迅ともあろう男が、尚人相手にここまでへりくだってご機嫌を伺うなんて落ちたものだ。恋とは本当に厄介である。プライドを投げ捨てるのが厭わなくなるほど、惚れ込んでしまっているのだから。
「……機嫌直せよ。ちょっと触った程度だ」
「フフ、聞いてないしそういうの。僕に関係ない」
「関係あるだろ? 尚人、時間まだあるか? なあ、こっち向けよ」
 尚人の細腰を引き寄せて、首元に顔を埋めた。そっと拳銃を握らせてやれば驚いたように振り返る。だけどもう発砲する気はないようだ。大人しくそれを見つめると懐に直し、ぐいっと迅の身体を押し退けた。
 それで引き下がる迅ではない。尚人以上に強い力で抱きしめる。腕の中に閉じ込めれば不安で泣きそうになった瞳が迅を見上げた。
(綺麗な色だな……)
 尚人の蜂蜜がかった瞳の中に、情けなくも顔を崩して笑う男の姿がある。広域暴力団清滝組の跡取りであろうとも、この瞬間は恋人に適わない甘過ぎるただの男になる。
 睫がしとやかにぱさぱさと何度か上下した。不安定な尚人は追い詰めるまで口を割らない。心の内を言葉にしない。そうすることは簡単だったが、それで傷を増やす尚人が迅は許せなかった。
 思えば随分と面倒臭い相手を恋の片割れに選んだものだ。尚人より顔が良いやつも、人が良いやつも、探せばたくさんいるだろう。尚人以上に愛してくれる人もいるはず。それでも迅が愛したいと思う相手が尚人なのだから、仕様がない。
 たとえこの先どんな姿形になっても、尚人がどんなに面倒臭い無理難題を押し付けてきても、迅はそれを受け入れるのだ。
「尚人、こっちを」
 顔を見合わせて話がしたいと、言いそびれた言葉は形にならなかった。
 緩く空いた隙間から手を伸ばした尚人は迅の両頬を持つと柔らかな口付けを落として、迅が怯んだ隙に身体をぐいっと押し退けた。
「フフ、残念。タイムリミット」
「……尚人」
「僕は迅と違って真面目な仕事があるからね。これから行く予定なんだ」
「当て付けか? 俺も好きでした訳じゃない。この家業じゃ仕方がないだろう」
「とにかくその臭い匂いなんとかして? じゃないと僕に指一本でも触れたら、今度は本当に撃つよ」
 バンッと指で撃つ真似をしてみせた尚人に、迅はこれ以上手を伸ばすことができなくなり片手で顔を覆った。
「本当にお前は厄介だな……」
 だけども尚人の震える指先や、落ち着かない視線、悪くなった顔色から察するに理解したい気持ちと攻め立てたい感情が織り交ざって葛藤をしているのだろうことがまざまざとわかるからこそそれ以上突っ込むこともできない。
 高いプライドがある、お互いに。尚人も、迅も。踏み込んでほしくないと存外に言っている尚人の中にずかずかと入っていけるほど、無神経な訳でもない。
 どうせこの様子じゃ煮詰まった際に尚人から寄ってくるのだろう。それを待つしかない。
 嫌だと、声高らかに叫んで責め立ててくれれば、迅ももう少し尚人の心中を察してどうにかしてやることができるのに。
 深い溜め息を吐けば尚人がびくりと震える。伏せがちだった瞼を押しやれば、こちらを窺う視線とかち合った。
「……もう、行くのか?」
 煙草の煙が辺りを覆って拡散していく。ほっと安堵の息を出した尚人は偉そうに口端を歪めると、可愛らしくも首を傾げた。
「さあ? どうしてほしい?」
「どこの仕事だ」
「裏賭博。勉強しようと思ってね。フフ、でも僕はやるならやっぱバカラかな。どどーんと派手に稼ぎたいよね」
「金に興味がないくせに良く言う」
「いっぱい稼いだら迅のこと一晩買ってあげようか?」
「いらん。買う方が性に合ってる。それより尚人、何時に終わる? 時間あるか?」
 伸ばしかけた手が引っ込んでいくのを目の当たりにして、尚人はむっと眉間に皺を寄せた。
 触られるのは嫌だ。誰かの名残が残るその肌で触れられるのはとてつもなく気持ちが悪い。だけど伸ばそうともしないで諦めてしまうのも、癪に障る。
 尚人は己でも仕様がないな、とほとほと呆れると待っているであろう四柳が乗っている白のベンツを見た。
「……フフ、どうだろ? わかんない。気が向いたら行くよ」
「はっきりしろ。曖昧なのは好かん」
「待っててよ。僕が行くかもしれないし、行かないかもしれない。それでも待ってて」
「なんでそんなことを……これるのなら連絡しろ。迎えに行く」
「嫌だ。くるかもわかんない僕を待ちぼうけする迅が良い。そうじゃないと会わない!」
 尚人のヒステリーが始まった。こうなるともう手がつけられない。迅はそうそうに諦めると、はいはいとおざなりに返事を返す。
「わかったわかった。待ってる。くることを願って待ってれば良いんだろう」
 そう言えば花が綻ぶような笑みを浮かべる尚人の、精神がどうなっているのか知りたいくらいだ。だけどこんな奇天烈な性格も危なげな姿も迅の前だけだからこそとわかっているから、ついつい甘やかしてしまうのだろうけれど。
 黙って煙草を吸う迅に、尚人はひらひらと手を振るときた道を戻っていった。
「今度一緒に裏カジノ行こうね。絶対負けないから」
「へーへー」
 くるであろう確立八割、こないであろう確立二割っていうとこか。迅は尚人が見ているとわかっていたからこそ、その場で佇み車が完全に視界から消えるまで見送った。
 今日の尚人はいつもに比べれば地味な方だ。奇抜なスーツの色じゃなかった。銀のストライプが些か派手かとも思われるが、やはり裏賭博に見学に行くことも兼ねて多少なりとも気を使っているのだろう。
 それにしてももう少し車種を変えるとかしないものなのか。真っ白のベンツだなんて本当に趣味が悪い。車は国産車に限る。
 ジジジと根元まで燃えた煙草を捨てて、おろしたての革靴で踏み消した。
「清重!」
 大きめの声で呼べば、運転席から清重が顔を出す。
「はい! 呼びやした!?」
「お前なにラジオ聞いてんだ、音漏れてんぞ……今は良いが現場ではしないでくれよ」
「へえ、すいやせん……あ! それより姐さんは帰ったんで!?」
「ああ、な……ご立腹つーか、ばれるもんだな。本当にそういうとこ嗅覚が良いっていうか、侮れねえ」
 迅は己のスーツを近づけて匂ってみるも、それらしき匂いは一切しなかった。チェーンスモーカーに近い迅なのだから汗や香、香水より煙草の匂いの方が際立ってそれらを消してくれると思ったのだが尚人には通用しなかったみたいだ。
 とはいっても多少後味が悪かっただけでそこまで踏み込んで触れた訳ではない。メンテをするより、その後に行った件の風俗店で倉庫の掃除を手伝ったことの方が時間を使ったのだし。
 だけどメンテをしたことは事実。言い訳がましく汗や香は風俗店で移ったものだと言うのも、なんだかプライドが邪魔してそうそう言えもしない。
(……しかし、大丈夫か? あいつ)
 尚人が精神的に滅法弱いことは嫌というほど理解している。どうしようもないくらい、迅に依存しているということも。それでもアルコールに勝てないのだからアルコールの偉大さを改めて実感せざるを得ない。
 どの道尚人がホテルに入るのは数時間後だろう。それまでぶらぶらして時間を潰そうか。尚人がこなければこないで、PCを持ち込めば仕事もできるし一晩くらい外出しても困る年齢でも立場でもない。
 問題はアフターケアだ。尚人のご機嫌取りとでもいうのか、尚人のことだけを考えていたとアピールしつつ、甘やかして安心させる言い訳をしなければならない。最悪据え膳を食わされて放置というのも考えられる。
 本当に尚人は嫉妬深いというか、迅のように直接的に嫉妬を露にせず陰湿な形で表すから厄介だ。それでも好きという感情に揺らぎがないから相当惚れ込んでいるのだろう。
「兄貴?」
「……ああ、すまん。考えごとをしていた」
「これからどこ行きやすか? 姐さんは追いかけなくても良いんで?」
「尚人とは夜合流する予定だ。だから最後に件のホテルに寄せてくれれば良い」
「へい、じゃあそれまではどうしやしょう」
「急ぎの仕事もねえし、……暫く風俗系は勘弁願いたい。尚人を真似て賭博でも行くか?」
 パチンコを回すような素振りで手を動かしてみれば、清重はぶんぶんと顔を横に振った。こう見えて清重はギャンブルが嫌いなのだそうだ。ヤクザ家業だというのに。
「金がもったいねーっす! そんなんなら俺は宝くじ買いやすね〜夢のドリームジャンボっすよ」
「今更二億程度手に入れたって仕方ねえだろ。使い道もねえしな」
 行き着く先が途絶えてしまった。迅は取り敢えず車内に入ることに決めると、ぎらぎら光るネオンを背に歌舞伎町を後にした。
 仕事があるようなないような曖昧な世界に身を置いているといっても、いつ死んでも可笑しくはない。少しくらい休んだってさぼったって、咎められもしないから良いだろう。
 迅は流れる景色から目を背けると、暫しの休息を取るようにそうっと瞼を閉じた。

 結局なにをしかたと問われれば、なにもしていないと答えるのが妥当だろう。尚人が見学に行った裏賭博に赴く手も考えたが、あれでも本気で勉強をするようだから邪魔をするのも忍びない。
 かといってじいと待つのは迅の性分でもない。大人しく犬のように待っている性格ではないのだ。
 どうせならあっと言わせるようなドラマめいたことでもしようか、そう思いいろいろ揃えてみたものの尚人に失笑を買いそうな代物でもあった。
 今更乙女のようなロマンチックなことを大の大人が、しかも迅のようないかつい男がしてもなんだかなというものもある。
(笑顔見せてくれないだろうか……見たいだけなんだがな)
 なんて言おうものなら笑われてしまうだけ。頭でも沸いた? なんて大笑いされそうだ。
 面白くって笑う顔、楽しくて笑う顔、それらも捨て難いほど魅力的ではあるけれど、照れたようにはにかんだ笑み、思わず零れてしまった笑顔、そんな尚人の表情が見たい。
(……いや、どうかしている。頭沸いたか? 俺)
 ベッドに腰掛けて顔を手で覆う。項垂れて吐いた溜め息は誰が拾ってくれる訳でもなく、ただ響くだけだった。
 いろいろと用意してしまった。尚人の好き嫌い抜きにして、機嫌が直りそうな代物を。もちろんアルコールではない。気障ったらしい代物ばかりだ。
 派手好きな尚人のことだからこういった派手なサプライズが好きなんだろうと勝手に決め付けて、本当は迅が楽しんでいただけ。こうすれば喜ぶかもとか、こんなことをしてあげたいとか。
 守らせてくれるような弱い立場の相手ではない。迅と同等の立場で、腕力の差こそあれど守ってやらねばと思うようなか弱い存在ではないのだ。
 それでも、そうわかっていても、本当は弱い尚人を抱きしめて甘やかして守ってやりたいと思ってしまうのは迅のエゴなのか。
 無造作に放られた花束に目をやる。ベタにも薔薇。流石に百本は用意できなかったが嵩が大きいために本数が多くなくてもかなりボリューミーな花束になっている。抱えでもしたら前が見えないくらいには。
(こんなものいるのか? くそ、やり過ぎた)
 後悔しても遅い。真っ赤な薔薇だとベタ過ぎと笑われそうな気がしたから、敢えて青に染めてもらった薔薇の花束が余計に気恥ずかしさを際立たせていた。
 別に用意などしなくても良かったのだ。尚人は薔薇が好きでも花束を好んでいる訳でもない。迅の勝手な押し売りだ。かなり恥ずかしい。
 だけど今までろくな恋愛をしてこなかった迅は、大切にしたい恋人の喜ばせ方がわからなかった。世間に乗っ取って取り敢えず有名かつ気障ったらしい行動を真似てみたものの、実践するとなると顔から火が出そうになる。
 シャンパンと指輪を用意していないだけましなのか? そういう問題でもなかろう。
「……これでこなかったら、とんだお笑いだな」
 自嘲気味に笑った迅の声がスウィートルームの一室に響く。清滝組管理下にあるとあるホテルのスウィートルーム。半永久的に尚人と迅が逢引するためだけに、押さえている部屋。
 尚人が独りで使うときもあれば、迅が独りで使うときもある。それでも互いに互いの想いが強く残り過ぎている所為で、集中などできもしないが。
 そこかしこに残る愛しい片割れの存在に、心がそぞろになるのだ。会いたい、会いたいと。
 尚人はくるだろう。そういう奴だ。迅を限界まで焦らせるとみせかけておいて、尚人が我慢できるぎりぎりまで引き伸ばしているだけに過ぎない。
 別世界に繋がる扉が開くのは、短針が真上をとうに通り越した頃合だろう。
 迅は胸ポケットから嗜好品である煙草を取り出すと火を点けた。明日は午前中だけ休みを取った。たまには気長に待つのも悪くない。
 こうしてゆっくりと尚人のことを思う時間の過ごし方も、悪くはないとそう思うのであった。