ロマンチスト・ダーリン 05
 額に鋭利な釘をトンカチで打ち付けられているような酷い頭痛で目が覚めた。喉の奥がひりひりと痛む。声を出そうにもなにかが張り付いているかのようで、声が出せなかった。
 全身が怠慢で億劫だ。やる気を根こそぎ奪われたかのような倦怠感。身に覚えがあり過ぎる感覚でもあった。
 尚人はべったりと引っ付いている迅を確認して、はあと大きな溜め息を吐いた。
(……記憶がない、っていうのは語弊があるか……)
 大体の予想は打ち立てることができるが、細かなことに関してはさっぱりだ。尚人は珍しくも酒に溺れた所為か、昨夜のことを思い出せないでいた。
 思い出すまでもない記憶だろう。尚人にとってはよろしくないものでしかない。だけど思い出せないというのも、なんとなく癪に障るし気にもなる。
 うっすらと大まかなことが尚人の脳内へとリフレインする。羞恥プレー並みの行動を取った。
 やっぱり思い出さない方が正解なのかもしれない。迅にあれこれからかわれることが目に浮かんで、尚人はやり切れなさに項垂れた。
 嬉しい言葉をもらった。嫌というほど愛された。身体中に口付けられて、隅々まで求めてくれた。欲した分だけ返してくれた。言葉にすらできない尚人の感情を掬い上げて、行動にしてくれたのだ。
 迅にしかできない、尚人の拠り所。それにどれだけ救われたか。
 素直に言葉にすることはできないけれど、感謝はしている。だからどれだけ頭痛が増そうと指一本動かすのが億劫でも、二度寝してしまいたいほどに不調でも、今回だけは目を瞑ろう。
(……迅、だから早く起きて僕のこと見てよ)
 尚人を守るように抱きしめて眠っている迅の表情はここから見えないけれど、規則的に動く心臓や穏やかな寝息は感じることができる。
 体温だけじゃ、存在だけじゃ、物足りない。もっともっと、欲しい。その綺麗な瞳に映っている己の姿を、早く見たい。
「迅、……ねえ、迅ってば」
 ゆっくり待つなんてできなかった。数分も持たなかった。尚人は掠れ切った声で迅を呼ぶと、気だるい腕を動かして迅を揺さ振った。
 ううんと唸るだけの迅だったが、尚人みたいに寝汚くはない。数回呼んだだけで目をぱちぱちと動かすとくあ、と欠伸を漏らした。
「……んだ……、どうした? 怖い夢でも見たのか?」
 眠そうな瞳に尚人を映した迅は、優しく髪の毛を撫ぜ付けると抱く力を強めてくれた。尚人はそれに内心こっそりと喜ぶものの、吐き出した言葉には賛同しかねる。
「フフ、馬鹿にしないでくれる? 怖い夢を見て震える歳じゃない」
「……随分と不細工な声だな、お前」
「誰がこんな声にしたと思ってんの。ふざけてる訳?」
 力の抜け切った指で頬を強く抓れば、流石の迅も覚醒したようだ。痛い痛いとわざと痛がってみせると尚人が悪戯できないよう深く抱き込んだ。
 顔を首に押し当てて、全身で体温を分かち合う。寝起きのぬくぬくとした人肌に触れて、夢見心地のような気分でいた。
「迅ってば! 苦しい!」
「んー……?」
「もう、聞いてる!? っていうか今何時? 仕事の時間じゃない?」
「大丈夫。午前は休みだ。もうちょっと余裕もあるだろう」
「……聞いたの」
「ああ、そりゃな。お前のことなんでも把握してないと気が済まないんだ。尚人は? 俺のこと、気にしてくれているか?」
「フフ、さあ? 迅なんて二の次だね。僕は僕が一番だもの」
「可愛くねえな。ま、そういうことお前らしいわな」
 ぐ、っと力が強まって隙間すらなくなった。再び夢へと誘われるのかと思いきやそうでもないらしい。迅は尚人を抱いたままベッドトップに置いてある煙草を引き寄せ火を点けた。
 直ぐに鼻につく匂いが立ち込める。煙草を吸わない尚人にとってはよろしくのない匂いだったが、迅を連想させてくれる匂いでもあったので文句は言わなかった。
 本当なら尚人も対価として酒を要求するところではあるのだが、如何せんあまりよろしくのない体調だ。できればなにもしたくない。どうせ午後からは嫌というほど動き回らなくてはいけないのだから、今だけは子供のようにされるままでありたかった。
「なあ、尚人」
 迅の方だと思っていたが、実際夢へと誘われていたのは尚人の方だ。うつらうつらしていた脳に迅の声が響く。
「……ん、なに……」
「お前賭博の勉強でもしてるのか、昨日そっちへ行ったんだろう? 成果はどうだった」
「あー……フフ、どうだったっけ。忘れちゃったっていうより遊んでただけだよ。本当は勉強するつもりだったんだけどね、あいつ煩いから」
「……あいつ?」
「三雲組の関西本部だよ。うちのとこ賭博系では神戸が総本家でね、そこで勉強してた兄弟分が今度はこっちにくることになったんだ。元々は大阪にいたんだけど、フフ、なんでか東京で学びたいっていうから」
「……へえ、それでその兄弟分が働く賭博場で遊んだっつーことか」
「三雲組本家の跡取りが通達もなしに行けば勉強どころじゃないんだって。フフ、でも楽しかったよ? 迅も今度する? 賭博」
 寝惚け眼はどこにいったのか、尚人はきらきらと目を輝かせると迅の腕から抜け出して上に寝転がって乗っかった。煙草を落とさないよう気をつけた迅は尚人の腰に手を回し、抱き止めてやる。
 甘えるように胸元に手を這わせて顔を上げた尚人は、如何に賭博場で負けから勝ちに上がったのかを熱弁し始めた。
 あげだしたらキリがない。尚人はギャンブルもアルコールも大好きだ。根性も曲がってるし我儘だし自己中心的だし派手好きで後先考えず大胆なことばかり。だけどそういうところが、堪らなく可愛いと迅は思う。
 全くもって趣味が悪い。目に入れても痛くないとはまさにこれだ。
 未だに上機嫌で唇を忙しなく動かす尚人に、徐々に痺れを切らした迅は煙草を灰皿に押し付けると両頬を押さえた。
「尚人、俺といるときに他の男の話をするなんて度胸があるな」
「は、はあ? 馬鹿じゃない! 兄弟分だって言ってるでしょ」
「誰だろうと関係ない。今する話じゃないだろ?」
 そういえばむすっと顔を不機嫌にさせた。尚人の言い分もわかる。楽しかったこと、凄かったこと、感情が激しく揺さ振られたことを迅に逐一報告して聞かせたいのだ。
 迅にだってそういう感情はあるし尚人の気持ちもわかっていたつもりだが、ほんの少しの嫉妬と悪戯でそう言ってみた。
 案の定口を貝のように閉じた尚人はふいっと顔を背けると、迅の頬を強く捻った。
「いっ……!」
「わからずや。もう良い!」
「尚人、冗談だろ? そんな顔するなよ。なあ、言ってみただけだ。でもそう思ってるのは嘘じゃねえよ。俺のことだけ考えてれば良いのにって、そう、な……」
 尚人を抱きしめたまま体勢を入れ替えて、下敷きにした。覆い被さるようにして強く抱きこめれば抵抗が激しくなる。そんな尚人を大人しくさせる技も、迅しか知らない。
 首筋に顔を埋めて白い肌をべろりと舐めた。耳につく高い声が直ぐ傍で聞こえる。そのままきつく吸い付いてキスマークを付ければ、朝から嫌だと抗議の声が上がった。
「じ、迅っ! これ以上したら仕事できな……ッ」
「わかってる」
「こ、この手は? フフ、したらどうなるかわかってるよね? 僕だって大人しくしてる人形じゃないんだからね!」
「ああ、わかってる。……尚人」
 愛しているも、大好きだも、可愛いも、愛おしいも、全部全部心に閉じて唇に乗せて伝えた。触れるだけの口付けを何度も落としては角度を変える。触れ合うだけの、たおやかな愛撫だ。
 抵抗や拒絶が徐々に緩む。愉悦に溶かされるというよりはうっとりと酔っているかのような、そんな尚人は目を閉じると迅の首に手を回して更にと催促をするのだから止められない。
 いっそうのことこのままセックスになだれ込んでも文句もないだろうとわかっていたが、この空気を優先させた迅はただ柔らかな口付けだけを繰り返した。
(くっついたまま離れなけりゃ、尚人の不安も減るんだろうけど……それじゃあ触れ合ったときの幸せを教えてやれねえからこの形なんだろうな)
 掌で頬を撫ぜて、肌を弄って、強く抱きしめたまま何度も口付けを交わす。
 時計の針が止まった。変わらない平穏な空間の中そうやっていつまでもベッド上で戯れていた二人を切り裂くのは、遠慮がちになった携帯だった。
「……くそ、タイムリミットか……」
 迅が呟いた言葉。慌てて携帯を取れば時刻はすっかり午前を過ぎて、いつの間にか過ぎ去っていた時間の早さにあと少しだけと思うのは温もりが恋しく感じられるからだろう。

 不機嫌な表情はどの理由からなのか。まみえた瞬間から不機嫌だったから粗方迅関係なのだろうと推測していても、迎えに行ったタイミングが悪かったからというのも外せない。
 四柳はむすりと黙ったままの尚人を見て、そう思案させた。
 遠慮はしたのだ。午後になってもなんの連絡もない二人に時間など気にせずにいるのだろうとわかっていても、待ってくれないのが仕事だ。起きているという予測を立て、待てるぎりぎりの時間まで粘った。
 そうして尚人へと電話をかけた四柳なのである。もちろん行くという用件だけ伝え、その後三十分も遅れで到着すれば不機嫌な尚人と苦笑いの迅。ことのあらましを聞く時間もないまま四柳は尚人に手引かれ、迅への挨拶もそこそこにホテルを後にした。
 後日こっそりとお礼の電話を入れようと四柳がそう心で決めれば、バックミラー越しに尚人と目が合った。
「坊ちゃん、どうかされましたか?」
「ワインは」
「今から関西本部と会合が入っております。その支度があります故に本家に戻りますがワインなど口にしている時間などございません。それに会合になれば嫌っていうほどお酒が呑めますよ」
「げえ、今日だったっけ……関西本部の幹部苦手なんだよね。フフ、っていうか目上の人がいるときに優雅に酒なんて呑んでらんないって……わかってる?」
「ええ、立場では坊ちゃんの方が数段上なんですけどねえ」
「四柳!」
「まあとにかくお医者様からも言われてるんですからアルコールは暫く控えてください」
「フフ、僕が大人しく言うこと聞くと思ったら大間違いだからな!」
「はいはい。肝に銘じておきますよ」
 大人な態度の四柳は動揺することもなく真面目にハンドルを握ると、着実に本家へと車を走らせる。尚人は良い遊び相手がいないことに唇を尖らせると、座席に深く座った。
 こんな倦怠感を引き摺ったまま関西本部と昼から会合だなんて真っ平ごめんだ。だけどそれも立派な仕事の一つ。重要度は高い。酒なんて呑んでられる暇もなく、嫌味をのらりくらり交わしてこちらの都合の良い風にことを進め、なめられないよう気を付けなければいけない。
 全く嫌な仕事が入ったもんだ。幸せ過ぎた時間の対価ともいうのか。
(……フフ、ほっんと気に食わない!)
 膝に爪を立てる。嫌なことばかり。あんなにむしゃくしゃして胸が痛くなって、嫉妬でどうにかなってしまいそうで、引き摺っていたばかりの感情は綺麗になくなっている。昨日のうちに迅が消してくれたのだ。
 代わりに落とされたのが身体の疲れだけというのだから、本当にやってられない話だ。なんだかんだいって、迅にベタ惚れしている証拠ではないのか。
 だけどそれも悪くない。不安もない。恐怖も。ただ愛しさが募るだけの、穏やかな気持ちになっている。
 尚人は昨日と同じままのスーツに鼻先を押し当てた。自分の匂いに混じって微かに香る迅の香水と煙草の匂い。胸がきゅうっと鷲掴みにされるような感覚だ。
 さっき別れたばかりなのに、もう会いたくなってくる。
 迅に悪戯メールでもしようか、と取り出した携帯。右のポケット、尚人が手を差し入れればカサリと紙の感触がした。
「……ん? なにこれ……」
「どうかされましたか?」
「いや、こっちの話。気にしなくて良いよ」
 尚人は四柳に気付かれないよう紙をこっそりと広げると、書かれてある文字を目で追った。
(今回のメンテナンスで不具合、遣り残しなどがございましたら直ぐに駆けつけますのでこちらにご連絡ください……ってこれ……フフ、ばっかじゃないの!)
 押し殺した声が喉から漏れる。四柳は敢えて気付かないふりをしてくれたようだが、元々掠れ切った声で押し殺すように笑えば不気味でしかないだろう。
 これをどんな表情で迅が書いたのかと思うだけで駄目だった。
 案外馬鹿なことをしてくれるものだ。こういうのを世間ではロマンチストというのか、気障というのか、馬鹿というのか、気持ち悪いと蔑むのか、それは送った側と送られた側の感情と関係によって変わってくるのだろう。
 どんな理由をもってこれを書いたのか知らないが、尚人がどう感じると思ったのかそれが気になる。
「……しかも有効期限まであるんだ?」
 右下の隅っこに、本日を含め一週間以内と書かれてある。メンテを受けたのは尚人だけじゃなく迅だってそうなのに、そのことはすっかりと忘れているか。
 ああでも、面白い。迅がこうするのなら、尚人はどうしようか。
「四柳、一週間以内にどの日でも良いから夜の時間空けれる? 僕のスケジュール、把握してるでしょ」
「ええまあ、最近の仕事量を考えれば可能ですが希望の日はございますか?」
「できれば早めが良い」
「かしこまりました。直ぐに調整しますね。……なにか用事でも?」
「フフ、ちょっとね、メンテナンスのやり直しだよ。やぶ相手だと面倒だから仕様がないね、ほんと」
 嬉しそうに笑った尚人から全てを理解した四柳はそうですね、と相槌を打つと尚人のスケジュールを脳内へと並べ立てた。できるだけ早めと言っていたが、今日明日の方が良いのだろうなと。
「ご機嫌ですね」
 尚人にそう語りかける。迎えに行ったときの不機嫌はどこへやら、180度別人だ。
「そう? ああ、そうかな? フフ、どうだろうね。楽しみが一個増えただけだよ、四柳」
 掌の紙を丁重に折り畳んでポケットに再びしまい込んだ。メンテの予約はぎりぎりまでしないでおこう。きっと携帯を片手に迅は待っている。それがわかるからこそ、尚人は焦らすのだ。
 焦れて焦れて、携帯ばかり見つめれば良い。いつ鳴るのか待ち侘びれば良い。馬鹿なことをした迅は、それこそ面白いほどに尚人の予想通りのことしてくれるのだろうから。
 あれでいて本人はロマンチストのつもりなのか、てんで笑わせる。尚人にはあれぐらい馬鹿なのが丁度良いのかもしれない。
(迅、死ぬまでメンテの予約は僕だけだからね。それを肝に銘じておくこと)
 会ったらそれも付け加えよう。ロマンチストを見習って契約書も用意しようか。迅が触れても良いのは尚人だけ、そうして尚人に触れて良いのも迅だけ。
 なんて迅がどんな表情をするのか、見てみたいだけだ。
 ポケットで紙がカサリと鳴った。文字は色褪せないまま、尚人の脳内へインプット。電話のコールを待っている迅へ、早く吉報を届けたいと逸る気持ちを押さえて尚人は微笑った。まだまだ電話は鳴りませんよ、と。