僕は微笑った。
滝を連想させるほどの強い雨の音が辺りを響かせる。
四柳に言われて、真っ赤の傘から真っ黒の傘に買い換えた。
最近はなにかと物騒で、三雲組を潰そうと躍起している小さな組の動向に目を光らせていた。
日本でも最大だと言われるほどの勢力を持つ三雲組を潰せるのは、兄弟盃を交わした清滝組しかいない。
だがその清滝組も今や三雲組と兄弟関係にあるので、暫くは安泰かと思われた。
しかし所詮ヤクザの世界だ。
いつどこでなにが起きるかなど、誰にもわからない。
こうやってぼんやりと過ごしているが、常に死と直面している世界。
僕も鈍い訳ではない。
三雲組を潰せなくとも、僕や三雲組の幹部を殺せば多少は組が揺るぐのを相手も知っている。
いつもより地味な服を着て、いつもより地味な車に乗って、いつもより多い人数で視察を行う。
四柳が持つ真っ黒の傘の中。
少し肩が濡れながらも気にしない素振りを見せ、僕に笑いかける四柳。
キィンと張り詰めた空気、身構える組員、笑顔を絶やさない四柳。
僕は微笑った、けども、微笑えてなかった。
「若、雨もますますきつくなっております。視界も悪いですし、このまま視察を続けてもこちらの不利になります」
「……そうだね。引き上げようか。でも、……フフ、もう遅いかな」
「ッチ、厄介な……。気付かれましたか……」
素人が歩きそうもないひらけた路地裏。
軒並みの風俗店が輝く表通りとは違い、ゴミなどが散乱する裏通り。
組員を引き連れて歩くのが仇となったのか、物陰からこちらの様子を伺う複数の人気がした。
こちらより人数は少ないが命を捨てる覚悟できているのだろう。
相手が放つ殺気がびしびしと伝わってくる。
いつ出てくるかもわからない状況で、こちらも下手に動くことはできない。
組員が一斉に僕を取り囲むように立つと、四柳は懐から拳銃を取り出した。
念のためと僕も取り出した愛用の拳銃。
これを握るのはいつぶりだろうか。
日々鍛錬は欠かしたことはないが、実戦となると久しい。
手にしっかりと馴染む感触が、今は違和感を覚えるだけだった。
じり、と足を一歩進める組員。
相も変わらず雨は強くなる一方で、視界は悪く、小さな物音もかき消してしまう。
先に焦れたのはどちらの方か、勢い良く飛び出してきた相手が合図のように物陰からわらわらと人が出てきた。
その数、六人。
三雲組の若頭の僕を狙うには少々頼りなさを感じた人数だったが、僕はそれを特に変に思うこともなく、組員に合図を送った。
「殺したら、だめだよ」
こちらに向けられる拳銃。
相手は確実に殺す目的でそれを向けている。
殺さないのはただの偽善ではなくて、情報を聞き出すためだ。
ドドド、と滝のような雨が降り注ぐ。
視界も悪いし匂いや音も消す、だが悪いことだけではない。
パンッ、と大きな音を響かせて弾を出す拳銃も、この雨の音に混じって消されていくのだ。
硝煙もかき消され、真っ赤な血も流されていく。
僕を守るようにして囲む組員の中、ただ激しさを増す戦闘に目を向けるだけ。
負けることはない、勝つこともない。
薄らと消えかける日。
きっといつもより気が抜けていたのだ。
建物の中からこちらに向けられている拳銃までには気がつかなくて、それを理解したのは雨の音と混じって遠くで聞いた発砲の音。
腹部が急に熱くなって、どろりと流れた血に僕は撃たれたのだと、気がついた。
きっとスーツが黒だから気がつくのが遅れたのだ。
血さえ見せない黒色。
僕が膝をつくのと同時に四柳が建物の人物を撃ちぬいた。
「若っ! 若、若!」
「っ、……いってぇ……」
「申し訳ございません! 気がつくのが遅れました!」
「フフ……僕、も、だよ」
「若、喋らないでください。今すぐ搬送いたします。敵は残りの組員に任せますので」
四柳がなにかを言っているが、途中までしか聞き取ることができなかった。
思うように手を動かすことすらできない。
どんどん重くなる身体と、沈んでいく意識。
注意を怠っていたのは四柳や組員だけの責任ではなくて、僕の失態も大きい。
このまま目覚めないのか、また目覚めるのか、今の段階ではなんともいえないけれど、死ぬ訳にもいかない。
僕を慕ってくれる若衆や、僕を守ってくれた四柳、僕に期待をしている幹部に、僕を後釜にしたいと思っている組長。
それに僕を愛していると言った迅のためにも、死ぬことだけは許されなかった。
ああ、そうか、そういえば、喧嘩をしたのだった。
きっかけはなんだったのだろうか、それさえも覚えていないほど些細なことだったことのように思う。
昨日はいつもと同じで、また喧嘩して仲直りして、そうすることができるのだと当たり前のように思っていたのだ。
こういうことになるのだったら、謝っておけば良かった。
後悔先に立たずとは良く言ったものだな。
フフ、といつものように笑ったような気がするけれど、それは気の所為だろうか。
必死で繋ぎとめていた意識も、振り払うように離されてしまい、僕は一人暗闇の中へと落ちていったのだった。
ふ、と小さく震えたような気がした睫に、僕は抗うことなくゆっくりと目を開いた。
真っ白な部屋の中で点滴に繋がれて眠っていたようだ。
拳銃に撃たれて運ばれたのだから、病室には豪華な花も果物もなにもない。
仕切られたカーテンの向こうに僕を守るようにして立っている組員の気配だけで、他はなにもなかった。
意識を取り戻したかといっても直ぐに動くことはままならない。
話は聞いていないが、腹部を撃ちぬかれたのだ、軽傷ではないのは確かだ。
ずきり、と痛む腹部にじんわりと滲む脂汗。
僕はなんとか声を出すと、組員に四柳を呼ぶことを命じた。
意識が戻ったのが嬉しいのか、そいつは少し涙ぐみながらも慌てた様子で病室を駆け出していった。
それから幾分か経った頃、物騒な物音を立てて病室が開く音がした。
気配からして数名分あるそれが仕切られたカーテンを開くと、無様な顔を見せてくれたのだった。
「若っ、申し訳ございません!」
組長でもある父がけじめとして命じたのだろう。
四柳の顔は殴られた故に腫れ上がっており、そのとき同行した組員も同様に制裁を受けたようだった。
一人、お留守番をしていたポチの顔は綺麗で、だけど泣いたのか目が腫れていた。
一斉に土下座をする四柳と組員。
本当はこういうことをさせたい訳でもないが、縦社会が厳しいヤクザの世界だ。
僕は特にそれを止めることもせず、ただ見つめるだけ。
制裁を欲しがっていることは目に見えてわかったが、制裁をしないのが僕の制裁でもある。
ふるふると震える組員に視線を移し、口を開いた。
「……今回のことは、僕の不注意もある。だから制裁はしない。だけど、けじめもある。四柳は休暇を返上して現場を見ること。そしてその他は一ヶ月、僕が指定した仕事をこなしてもらう。詳細は後日、ということで顔を上げて」
父がこの場にいたらきっと甘い、と叱られてしまうのだろう。
現に四柳も組員も居心地が悪そうにこちらを見ている。
だけども完全に組員たちの非ではないことで、きつく言うこともできない。
あのとき、僕は他のことも少しながら頭の中にあったのだ。
責められるべきは僕自身にもある。
きっと本家に帰れば組長から僕に制裁がくだされるのであろう。
暫くはベッドから動けそうにないが。
立とうとしない四柳と組員に合図を送ると、しぶしぶ腰をあげる面子。
仕事が溜まっているのだろう、長居はできそうにもない。
ポチを残すことをすると、四柳と組員は僕に頭を下げてカーテンの向こうへと消えていった。
騒がしかった病室も閑散として、気配は僕とポチだけになった。
「ポチ、説明してくれる?」
「今から組に連絡がいくようです。一応、尚人様が撃たれたことは極秘のことになっていますので、三雲組でも上層部しか知りえない情報です」
「……フフ、僕を撃った奴は?」
「その場にいた者は全員捕らえましたが、尚人様を撃った者は生きてはおりません」
「そう」
「……心配しました。四柳さん、……泣いてました」
「フフ、可愛いでしょ。本当だったら、四柳も組員も、今回のことで降格されると思うんだけど、ね。でもやっぱ手放したくないから」
「四柳さん、……後で呼んでおきましょうか?」
「今は良い。きっと自分を責めてるんだろうし、ちょっと様子見てみるよ」
「わかりました。……あと、あの、清滝さん、が、……」
言いにくそうに口籠らせるポチ。
ポチの話から推測すると、兄弟でもある迅にも連絡はいっていないのだろう。
そうなると僕と連絡が取れない状況になっているはずだ。
撃たれてから何日経ったのかは定かではないが、数日でも連絡が取れないと口煩い奴だ。
なんらかのアクションは見せているはず。
いつもなら喧嘩をした翌日には仲直りをしていたのだから。
僕の様子を伺っているポチに目を移すと、小さく微笑んだ。
「……迅にも、秘密?」
「はい……。極秘らしいです」
「僕、いつになったら退院できる? つーかどれくらい寝てた?」
「三日間です。退院は三週間を目安にしているらしいですが、暫く自宅療養とも言ってました」
「……じゃあ、ずっと、会えないんだ」
「……あの、伝言、しましょうか?」
「フフ、いっそ放置ってのも良いんじゃない? ちょっとお灸据えようかな」
「というより、なんで喧嘩したんですか?」
「秘密」
にっこりと微笑んで、僕は視線をポチから外した。
息を吐くのさえ痛みを伴う今、口を開くのが億劫になる。
それを感じ取ったのか、ポチは軽く会釈をするとカーテンの向こうに消えていった。
迅と会わない期間は一ヶ月。
連絡さえ途切れた僕を大人しく待つのか、それとも他の人に手を出すのか、結果はまだ見えない。
だけども少しだけ試してみたくなった僕は、迅と距離を置くことにした。
突拍子もない行動に理解を示してもらおうとは思わないけれど、期待するのは勝手だろう。
そっと目を瞑り惰眠を取ることにした僕は、強制的に与えられた休暇に甘えることにした。
問題は迅だけではないのだけれど、今だけはゆっくりとなにも考えずに過ごしたい。
ほんの少しだけ、一般人になれたような気がして僕は緊張の糸を自ら切ったのであった。
それから三日間、簡単な検査と術後の経過を見ながら安静に過ごしていた。
三雲組が管理している病院ということで自由も利くし、それに要が働いているので久しぶりに面会も果たすことができた。
顔を合わせなかった時間だけ要は成長を遂げており、今や立派な看護師だ。
相変わらずの説教に懐かしさを感じながらも、僕は療養場所を雲見病院から三雲組本家へと移した。
案の定、帰るやいなや絶対安静だというのに父である組長への面通しが行われた。
傍らに付き添う四柳とポチのいつにもない余裕のない表情。
顔を青褪めさせながら僕の一歩後ろに腰を降ろして、じっと組長の言葉を待っていた。
「尚人、よう帰ったな」
ずらりと並ぶ組員。
その奥に鎮座する組長としての威厳は大きい。
圧倒的な威圧感の中、僕は痛む腹に耐えて頭を垂れた。
じんわりと滲む汗にじくじくと傷が広がるような感覚。
若頭というポジションについてから、初めて犯した失態にどういった態度を取って良いのかわからずに、ただただ組長の言葉を待った。
撃たれたのだから被害者だ、という言い訳は通用しない。
如何なる場合でも隙を見せず、堂々たる態度で振る舞い、三雲組の看板を背負っている自覚を持たなくてはならない。
小さな頃から教えられていたことだったが、今回のことで組長の顔に泥を塗ってしまう形となった。
あんなに大勢連れていたのに、少数の相手に負かされたような結果だ。
相手の組員は全員捕獲したといえど、若頭である僕を撃ったという功績は消せない事実。
情報が漏れていないから良いというものの、もし漏洩していれば三雲組のマイナスイメージは大きいだろう。
僕の父だといえども、今は組長と若頭として面通りを行っているのだ。
どうなろうと甘さは見せない。
近付いてくる影に歯をぐっと食いしばり、与えられる衝撃に目を瞑った。
思ったとおり組長は僕の頬を強く殴ると、息を吐いた。
殴られた僕は欠けた歯を口から吐き出し、痛みをぐっと耐え顔を上げる。
「……次はないぞ」
「ありがとうございます。誠心誠意、努力に勤めたい次第でございます」
深くお辞儀をする僕にならって、四柳とポチも頭を下げた。
殴られただけということは、四柳やポチ、若衆の管理下はまだ僕にあるということだ。
寛大なお許しに内心喜びつつも顔には出さず、僕は颯爽と部屋を出た。
殴られた衝撃で歯も欠けた上に、傷口が広がったようだ。
ぬるついた感触に眉を顰める僕だったが部屋につくまでは滅多なことも言えない。
黙ったまま部屋に急ぐ僕に、四柳とポチも後を追うような形でついてきたのであった。
「あー……痛い」
「若! 本当に申し訳ございません。この四柳、若にお見せする顔もございません……」
「フフ、もう良いよ。終わったことだし、なにより生きてるからね」
「しかし……」
「もう、その話は終わり。若って言うのもやめて。あと、歯科医と外科医呼んで」
「は! 畏まりました! おいポチ、至急で呼んでこい!」
「はい! 呼んできます!」
慌てて部屋を駆け出すポチを見送った僕は、崩れるようにソファに寝転んだ。
その様子を見て四柳が真っ青にさせた顔色でうろうろと歩き回る。
普段はあんなに威厳があるのに、僕のこととなるとこんな風になってしまうのを見るのはいつになっても面白い。
しかし笑えば腹部が痛むので、僕は必死で笑うのを堪えると四柳に話しかけた。
「……一ヶ月、迅から逃げ切ること、できる?」
「は、それはどういう意味でしょうか?」
「フフ、ゲームしようと思って。ほら、一ヶ月行方不明になったらどんなことするか見てみたいじゃない?」
「はぁ……」
「だから僕のことは秘密だよ。フフ、迅、しつこいと思うから頑張って逃げてよ」
「……努力に勤めます」
「一ヵ月後が楽しみだなぁ、フフ」
再会したとき、迅はどんな表情でどんな言葉を吐くのだろうか。
お互い組は違えども、若頭というポジションも同じだし、根っからのヤクザだ。
我慢しきれずに他人に手を出すのか、大人しく待っているのか、地獄まで探す覚悟で突き止めるのか。
どちらにせよ、迅を困らせたい欲求は前々からあったし、一度くらいは優位に立ってみたい。
会いたい欲求を上回るほどの欲に、僕は目を細めると口が緩むのを感じていた。
僕がいなくなって、焦って困って、そして少し泣いて、愛しいと思ってくれたら良い。
この身を焼き尽くすほどの情熱を、再会したときに与えてもらえたら、僕はきっと幸せだと思う。
迅以外につけられた傷を見てどう思うのか。
真相は話さなくても一ヶ月行方不明だという事実と、腹部にできた真新しい弾痕でヤクザの迅は気がつくだろう。
そのときの反応が今からでも見ものだ。
お互い厄介な相手に惚れたものだと思う。
示し方は違えども、愛情と嫉妬、独占欲の強さは半端ないのだから。
迅、一ヶ月間僕に飢えて、僕しか考えられないようにしてあげる。
それも僕の愛情の一種なのだ。
僕は迅を思い浮かべながら、微笑った。