微笑う雨 02
「坊ちゃん! あれほどお酒は駄目だと言ったでしょう!?」
「フフ、細かいことを気にしちゃ負けだよ」
「そういう問題ではありません! 嗜む程度ならこの四柳も目を瞑りますがそれは飲みすぎです!」
「たったの一本じゃない」
「たったの!? 一本はどれぐらい量があるのかおわかりなのですか!?」
 床に転がり落ちているワインの瓶を掴んで、四柳は怒声を上げた。
 僕はこの三週間、安静にと言われた通りに過ごしていた。
 業務内容もヤクザらしからぬデスクワークしかしていないし、この本家から一歩も外に出ていない。 外に出ない理由は他にもあるのだが、とにかく安静にしていたのだ。
 だが、お酒だけはどうしても我慢ができなかった。 元々アルコール中毒の気がある僕にとって、禁酒とは耐え難いものがある。
 いくら駄目だとわかっていても、ついついワインに手が伸びてしまうのだ。
 少しだけ、少しだけ、という言い訳も時を過ぎれば一本という形となって、僕の胃の中へと吸い込まれていく。 だがワインはポリフェノールが含まれているし、ビールや酎ハイを飲むよりはマシだろう。
 そう言うと四柳は頭を抱えて蹲ってしまった。
「そういう問題ではないでしょう……。それにっ、坊ちゃんが迅さんに連絡しないから、この四柳、どんなに辛いかおわかりでしょう!?」
「フフ、だって、たまには優位に立ちたいじゃない」
「それだけでっ……もう、とにかく、早く迅さんにも会ってください」
 余程疲労しているのか、四柳はやつれた表情で項垂れた。
 この三週間、けじめということで四柳や若衆の仕事は激務というほどに忙しく、日々が一瞬にして過ぎていくといっていた。 銃で撃たれた僕は安静にしてなければいけなかったので、仕事もデスクワークだけで比較的楽な仕事だったが、四柳や若衆は現場に出向いているのだ。
 それに四柳はそれだけでなく、僕の世話や迅の対処などもしている。 そろそろ限界がきても可笑しくはないだろう。
 仕方がない。 ここら辺りで終わりにしよう。 未だに顔が割れていないポチで迅の周りを探らせていた結果も、僕の思う通りになっていた。
 浮気は一切していない、らしい。 それに僕がいないことで荒れている、と聞いている。
 僕が本家にいるとまで突き止めた上、その真相を四柳に問い詰めているということもわかっている。
 だが四柳は僕の忠誠な部下だ。 僕の許可がでるまで口を割ることはおろか、表情でさえ作り上げる。
 思うように僕に辿り着かないジレンマでもっと焦れば良い。
 どのみち、僕もそろそろ現場復帰するのだ。 顔を合わせる日は近いだろう。
 深緑色をした瓶の中で淡い黄色の液がゆらゆらと揺れる。 上質な白ワイン、僕は口にするのを止めると四柳に瓶を手渡した。
「……坊ちゃん?」
「明日、久々に視察に行こうかな。もうあの組も潰れたし、好きな格好をしても良いよね?」
「げ、現場に復帰されるのですか!?」
「だってもう治ったし、そろそろ動かなきゃ鈍るだろう。それに、迅の方も限界かな、と」
 本当は僕の方が限界なのだ。 喧嘩したまま会えなくなったようなものなので、居心地が悪い。
 それに余りに長く行方を眩ませると、四柳への負担も半端ないだろう。
 予定より少し早いが、僕は現場復帰をすることを決めると、四柳と若衆のけじめを終了させるために組長がいる部屋へと向かった。
 明日、会えるか会えないか、約束をしていないのだからわからない。 だけどご自慢の真っ白のベンツ、真っ白のスーツ、僕という人間、傍らには四柳。 それさえ揃っていれば噂など直ぐに回って迅の元に届くだろう。
 きっと迅は僕に口を開かせる暇もなく、僕の手を取って連れ去ってしまうのだ。
 そのまま遠くに連れて行っても構わないから、取った手を離さないでほしい。 いずれかはお互いに跡継ぎを作るために、繋いだ手を離さなくてはいけないのだ。
 時間がある今に、少しでも迅の側にいたかった。

 翌日、僕と四柳は偵察のために歌舞伎町へと足を運んだ。
 ここにくるのはどれくらいぶりだろうか。 相変わらずなにも変化をしない街に、僕は少しだけ気が軽くなると足を進めた。
「フフ、快感だね」
「……坊ちゃん、組長からもきつく言われたでしょう」
「良いじゃない。僕がどんな車に乗ろうがどんな格好をしようが、組長には関係ないでしょう」
「今度撃たれたらこの四柳、首が繋がっていませんよ!」
「もうそんなヘマする訳ないだろ。僕だってちゃんと学んだよ」
「ですがそんな格好をされると……」
「フフ、心配性だね。そういうとこ、嫌いじゃないけどね」
 振り返る人を過ぎて、目映いネオンに照らされる。
 生憎雨が降っているので表情までは伺いしれないが、傘から見え隠れする顔に僕は微笑んだ。 久々に合わす顔に手を振るものもいれば、会釈をするもの、逃げるもの、人の反応は様々だ。
 愛されているヤクザなど神話に近いものだが、ここの人は少なからず僕を忌み嫌っている様子はない。 少しだけ受け入れてもらっているような気がして、僕は嬉しくなると四柳が持っていたワインを取った。
 真っ白のスーツを着て、甘いマスクをした僕がワインをラッパ飲みする。
 もはや見慣れた光景に四柳を始めとした人は苦笑いを零すと、優しい目で包んでくれた。
「……坊ちゃん、ポチから連絡です」
「フフ、案外早いものだね」
「今は電子機器が発達していますからね。直ぐですよ、情報が回るのは」
「どれくらいの時間がある?」
「言っている間にくるそうです。丁度迅さんも歌舞伎町の視察を兼ねていたようですから」
「フフ、ああ、ほんとだ」
 人並みを掻き分けて、僕に向かって歩く見覚えのある姿。
 僕は四柳にワインを手渡すと、視線を迅に向けた。 相変わらず真っ黒の髪に真っ黒のスーツ、極めつけは真っ黒の傘。
 僕とは正反対だな。 なんて思っている間にも迅の顔がはっきりと見えてくる。
 喜び、怒り、悲しみ、どれにも属さない不安定な迅の表情。
 僕が思っていたよりも焦がれていたらしい人物は、止まったままの僕にも不安を消せないようで、僕の目の前に止まると表情を窺うようにじっと見つめてきた。
 穴が開いてしまいそうになる、そんな沈黙。 すっと伸びる指に、僕は大人しく従うと目を細めた。
 まるで慈しむように僕の頬を撫ぜる指。 それに手を重ねると迅は少しだけ目を見開いた。
「……尚人」
「……なあに」
「尚人」
 連れ去るどころか、問い詰めることもできないのだろうか。
 僕の存在を確かめるように、迅は僕の輪郭をただなぞるだけでなにも聞いてはこない。 たかが三週間と少し、といえど連絡も取れないのでは不安にもなるだろう。
 僕が逆の立場だったとしたら、きっと今以上にお酒に逃げてしまうかもしれない。
 そっと目を閉じる僕に、迅は傘を投げ捨てると触れるだけのキスをして、僕の手を優しく包み込んだ。
 会わなかった距離が少しだけ縮んだような気がする。
 そのまま、迅は僕の手を引くとどこかへと足を進めだした。 振り返れば安堵した表情を浮かべる四柳と、迅の若衆たちが目に見えて、僕は少しだけ笑った。
 雨に濡れながらも、ぐいぐいと手を引く迅が向かった先は迅の車だった。
 派手な外車を好む僕とは違い、シックな国産車を好む迅。
 真っ黒なクラウンの中へと誘導されると僕は大人しく中へと乗り込んだ。
 バタン、と音を立てて閉じる車の扉とほぼ同時に迅は噛み付くように僕の唇を貪った。
 溜まっていたのは迅だけではなく、僕自身もだ。 特に抵抗することもなく、僕は受け入れるように唇を開くと少しだけ雨で濡れた背中へと腕を回した。
「は、…っ、じん……」
「……尚人、なにをしていた」
「ハ、やっぱり、気になる……?」
「当たり前だろう。お前と連絡が途切れた日から今日まで、俺がどんな思いをしていたのかお前にはわかるのか」
「わからいよ、言わないと。だって、僕たちは他人だろう。でも、迅の行動はポチに探らせていたから知っているよ。浮気、しなかったね」
「尚人!」
「フフ、たまには優位に立ちたいじゃない? でも、今回ばかりは、……僕も限界だったな」
 怒りを露にしている迅の頬に手を滑らせると、自ら唇を近づけた。
 誤魔化すな、といわんばかりに顔を背ける迅。 そういう些細なことすら愛おしいと思う僕も大概末期なのかもしれない。
 愛しくて愛しくてどうしようもないのだ。 この想いをお互いが理解することはないだろうけれど、お互いを求める愛の重さは均等であってほしい。
 吐息さえ感じる距離で僕と迅は見つめ合った。
 暫く見ないうちに少し老けたかもしれない。 薄っすらと残る隈に、衰えを見せている筋肉。
 僕という存在を失っただけで迅という人間は弱ってしまうのだ。 それを知れただけでも良いとしよう。
 心の内を見せてくれることはないだろうから、表情から窺うしか方法がないのだ。
 僕を疑うように視線を強くさせる迅に、観念して口を開いた。
「浮気は、してないよ」
「当たり前だろう」
「信じてる?」
「ああ、それはな。だがお前が言うように言わなければわからないこともある」
「なにがあったのか、知りたい? 知りたいなら、調べれば良い。それをできるのは迅しかいないでしょう」
 その言葉をどう取ったのか、迅は一瞬だけ目を開くと僕のスーツへと手をかけた。 濡れている所為か脱がせにくいそれを焦ったように脱がせる迅をゆっくりと目で追いながら、薄らと唇に弧を描いた。
 腹部に残る弾痕。 消えることはない傷跡は迅がつけたものではなく、僕の失態の証だ。
 ヤクザ同士に送られる言葉であるのなら、ヘマをしただろう、と言うのだろう。 だが迅と僕の間にヤクザなど関係ないに等しい。
 開かれたシャツ。 迅の目に留まる弾痕。 ゆるりと伸びる指先が触れて僕は少し目を細めた。
「……これ、か」
「油断しちゃって、ね」
「……誰につけられた」
「さあ? もう、この世にはいないよ。死人に口なし、言うでしょう」
「ハハ! ……尚人、お前は、誰のものだ?」
「フフ、僕は、僕だけのもの」
「言うじゃねえか。だけど、お前は、俺のものだろう」
 ぎりぎりと、弾痕に立てられる爪。 瞳に宿る嫉妬の色を見て、僕はぶるりと身体を震わせた。
 迅が望むのならこの身や未来を全て捧げても良い。 思い残すことはたくさんあるだろうが、いずれ離れてしまう未来を思えばその選択肢もありだと思うのだ。
 だけれどそのときは一人ではない。 迅も連れていくのだ、僕はそうじゃないと気がすまない。
 じりじりと突き刺さる視線に、じんわりと滲む血。
 迅は僕を気遣うこともせずに弾痕にきつく爪を立て、少しだけ肉を抉った。 腹部から垂れた血が僕のスーツに滲んで、真っ赤な染みを作る。
「……いかれてるね」
「お互い様だろう」
「このまま、突き破る気?」
「……それも一興だな」
「っ、は……も、ちょっと優しくしてよ……」
 思い切り爪を立てられた弾痕から、流れる血。 迅の指先を真っ赤に染めると、そのままそれを口に含まされた。
 自分自身の血を舐める趣味などない僕にその味は少しきつく、眉を寄せるが迅はお構いなしに僕の口腔を指先で犯すと満足気に笑った。
 子供のような独占欲だと思う。 子供故に残酷な面もあれば、純粋な面もある。
 きらりと光るナイフ。 それを取り出した迅は僕に許しを乞うこともなく弾痕の上に滑らせた。
 肌を突き刺すような痛みが身体を走る。
 迅の指に口腔を犯されている僕は満足な声をあげることもできずに、その指を思い切り噛んだ。
 弾痕を素直に受け入れることはないと思っていたが、まさかその上から傷をつけられるとは思ってもいなかった。
 三週間経ったといえども真新しい傷跡だ。 緩かった痛みが鋭い痛みに変わって、僕は額に脂汗を滲ませた。
「は……予想、外、だって……」
「俺が嫉妬深いってわかってただろう?」
「だ、けどこんな……っ、あー……無理」
「白のスーツだと血が目立つな」
「フフ、クリーニング代、請求する、から」
「……せこいな」
「つーか、……止血、して」
「……その前に、な、わかるだろ?」
 腹部を庇う僕を気遣う素振りもなく、迅はシートに僕を押し付けた。 ぎしりと揺れる車内に、ぎらついた表情の迅。
 確かに焦らして迅を困らせたことは少しだけ後悔しているけれども、こんな傷をつけといて直ぐに性欲に繋がるのはありなのだろうか。
 それでも嫌いになるどころか、ますます惚れてしまう僕も相当いかれてしまっている証拠だ。
 久しぶりに感じる迅の体温に、込み上げる熱と欲。 このまま一つに溶けてしまいたいなんて、乙女なことを言えることもなく。 僕が願うのは僕の熱で迅が溶ければ良い。
 シートに放り出されたナイフが光る。 あのナイフを手に握り、迅を一突きすれば迅は二度と目を覚ますことがないだろう。
 それをできるのはこの世で僕一人だけなのだ。 逆も然りで僕を殺せるのも迅一人だけ。
 そういう愛の形があっても良いだろう。 狂気に似て、だけど元を辿れば純粋な想い。 愛しているからこそ、試したくもなるし、傷つけたくもなる、殺してしまいたいと思うこともあるし、守りたいという思いもある。
 様々な想いの中で、純粋に育っていく愛だけは嘘偽りがない綺麗なもの。 そう信じて、これからも育てていっても良いでしょう。
 僕と迅、手を取り合って穏やかではないけれど、愛を確かめ合っても。
 そろり、と手を伸ばす僕の手を握って、迅はその指先に口をつけた。 荒い行為の中、その動作だけがいやに優しく感じられて僕は気恥ずかしげに微笑う。
「……迅、……」
「なんだ」
「それ、そのままにしといて」
「……手?」
「うん、繋いで、て」
「ああ、……離さないでおくよ」
 身体を繋げることで、安堵を覚える迅。 指先を繋げることで、安堵を覚える僕。
 拙い方法で愛を確かめ合う僕たちを、雨が微笑った気がした。