指先の温度 02
「……で? 今日は、どうするの」
 散々弄ばれた所為で唇がぷくりと腫れているような気がする。
 僕は指先で唇をなぞりながら、ご機嫌になった迅の一歩後ろを歩いていた。
 本来ならバーでも行ってお酒を飲んでいる予定だったのだが、どうやら本日は禁酒らしいのでバーには行けない。 お酒が置いてある場所に行くとお酒を飲みたくなるので、そういった場所も避けるらしい。
 ならどうするのだ。 と問う僕に迅は少し躊躇いを見せた後、ぽつりと言葉を零した。
「ああいった店に入ったことはあるか?」
「……ないけど」
「奇遇だな。俺も入ったことがないんだ」
「フフ、まさかあそこに行きたいの?」
「……少し、だけな」
 迅が指す場所には、赤をベースに黄色で文字を描く看板があった。 今や日本のどこに行ってもあるファーストフード、モクドナルドだ。
 幼い頃から良いものばかりを食して生きてきた僕たちには無縁のところである。
 お互いじっとその建物を見つめた。 何度も見たことはあるけれど、実際入ったこともなければ食べたこともない。
 迅に言われるまで入ろうとも思わなかったが、いざ行くのかと思われると興味も湧いてくる。
 言葉を発さないまま一歩を踏み出すと、お互いなにかに誘われるようにその建物の中へと足を踏み入れた。
 店内は無数にある蛍光灯の所為か、夜でも非常に明るい。 少し目が痛くなった僕はサングラスをかけると、横に突っ立ったままの迅に声をかけた。
「……並ぶ?」
「ああ」
 いまいち買い方がわからない僕たちは、見よう見まねで列に並ぶことにした。
 カウンターの上に掲げてあるメニューの中から商品を選ぶのだろう。
 どれにしようか、と悩んでいる内にも直ぐ順番はやってきて、赤いハットを被ったお姉さんがニコニコとした笑顔を向けてくれた。
 少し焦る僕に迅は偉そうにすると、早くメニューを決めろと言わんばかりに俺を突いてくる。 そういう迅だってまだ決まっていない癖に随分と酷い態度だ。
 腹いせに膝裏を軽く蹴ると、僕は適当にメニューを注文した。
 迅は考える様子もなく同じものを、と言ったが折角なので違うものも食べたかった僕はその注文を取り消すと迅の注文は僕が決めたのであった。
「なあ、尚人。このスマイル0円ってのはなんだ?」
「僕に聞かないでよ」
 注文をした後にもいろいろとメニューを見ながら喋っている内に商品は出来上がったようで、紙袋を手渡された。
 それを迅は受け取ると列から抜け、店内を出て行く。
 一歩出遅れた僕は慌てて迅の後を追いかけると、お姉さんの言葉を後ろに店を後にした。
「どこで食べるの?」
「公園」
「ふーん、……そ」
 なんだか、こういうのに憧れるのは少し可笑しいことなのだろうか。
 知らずの内にテンションのあがっていた僕はうきうきとした足取りで公園へと向かった。
 いくら繁華街であろうとも、夜となれば公園の人通りはほとんどない。 おざなり程度に設けられた外灯だけが視界を見やすくしてくれる。
 僕達は公園内に設置してあるベンチに腰をかけると、先ほどもらった紙袋から食べ物を取り出した。
 遠くの方で人がジョギングをしている。 それをどこかぼんやりとした目で見ながら、僕は紙に包まれたハンバーガーを取り出した。
 ホウホウ、と鳴く鳥の声。
 僕たちは一言も発することなく、ただ黙々と食事を開始した。
 迅との沈黙に苦痛を感じないところが、僕は気に入っていた。
 落ち着いた気分でハンバーガーを一口含めば、想像通りの味が口内に広がる。 どこか安っぽい味でも、こうやって食べるだけでも美味しく感じられるのだから不思議だ。
 もしゃもしゃと食べ続ける僕に視線を向けた迅は目元を少し和らげると、迅にしては珍しい笑みを浮かべた。
「汚い」
「……は?」
「そんなもの、食べるから」
 ペロリ、と僕の口元を掠めた迅の温かな舌。 ぱちぱちと瞬きを繰り返し驚く僕に、迅はなんでもないような素振りを見せるとまた食事を再開させた。
 一瞬の出来事だったけれど、僕にとっては衝撃的な出来事だ。
 思わず止まってしまった手に、熱の上がる頬。
 誤魔化すように僕は再度ハンバーガーを口にすると、今度はソースが漏れないように丁重に食べることに徹した。
 男の食事などあっというまに終わってしまう。
 紙袋に包まれていたご飯は全て僕と迅の胃の中に収まり、僕は少し溶けかけたコーラをストローで啜った。
 僕の横ではアイスコーヒーを飲みながら煙草をふかす迅。
 嗜好品を我慢している僕の目の前で良くそんなことができるものだ。
 迅が煙草を我慢できないのと同じように、僕はお酒を我慢することができない。
 空腹が満たされれば徐々に湧き上がるお酒への欲。 小さな苛々も迅の煙の量に比例して、大きな苛々へと変化をしていく。
 手持ち無沙汰に指を鳴らしてみたり、足を揺すってみたりするが、ちっとも解消などされない。
 意識なしに口元に指先を寄せると、少し伸びた爪を噛んだ。
「……尚人?」
「フフ、良いご身分だこと」
「それ、やめろ」
 迅は煙草を持っていた携帯灰皿に押し付けると、僕の指先を掴んだ。 先ほどまで噛んでいた所為か、爪が少し凹んでいる。
 不思議なもので、迅に触れられた所為か少しだけ苛々の収まった僕はほうと息を吐くと指先に視線を移した。
 僕の爪をじいっと見つめたまま、迅はなにも行動を起こそうとはしない。 ただ射抜かれるような視線で僕の爪を見るだけだ。
 ふるり、と少しだけ指が震えるのと同時に、迅はゆっくりと僕の指先を口元へと置いた。
「……じ、ん?」
 迅の唇が触れた場所が熱い。
 ちらりと姿を見せた真っ赤な舌が僕の指先をゆっくりとなぞり、愛撫をするかのように触れられた。 ぞくり、と鳥肌が立つ。
 僕は動くことすら許されない空気に唾を飲み込むと、迅の動きを目で追った。
 ふわりとした感触が徐々に下がってくる。 意外に柔らかい迅の唇は僕の手首で動きを止めると、そこに痕を残すようにきつく吸い上げた。
 ちくりとした小さな痛み。
 釘付けになったかのように視線を逸らすことなく、その姿を瞳に映した。
 迅の長い睫が上を向く。 普段見下ろされている僕だったが、初めて見る迅の上目遣いに胸がどきりと高鳴った。
 薄く色づいた僕の手首を、愛おしいものを触れるような表情で迅は何度も唇を寄せる。
 駄目だ。 これ以上恥ずかしいことなど何度もしている癖に、こういう些細なことがとても恥ずかしく感じる。
 それ以上見つめていたらどうにかなってしまいそうだった僕は、視線をそっと外すと睫を伏せた。
「なおと」
 僕の好きな声で、ゆっくりと名前を紡がれた。
 ばくばくと煩い心臓、カッと走るような熱が僕を襲う。
 ぐっと近くなった距離に気付いたときには既に遅すぎて、迅は僕の唇を少しかさついた指の腹で撫ぜた。
「エロいな」
「……ど、っちが」
「尚人が、エロい。悪戯したくなる」
「もうしてるじゃん、か」
 抵抗を許されずに僕の口腔に侵入してきた迅の指。
 驚きで少し竦んだ僕の舌を優しく突くと、ゆるりと指をかき回した。
 噛もうとすれば噛める迅の指先だったけれど、僕は誘われるようにその指先に舌を絡ませた。
 僕の舌と迅の指先が触れ合って、甘い痺れをもたらす。 見えないなにかで繋がれているような気がして、僕は夢中で指を舐めた。
 くちゅりといやらしい音が静かな公園に小さく響く。
 息も絶え絶えな僕が漏らした声に、迅はハッ、と息を漏らすと指を素早く抜き去り、代わりに唇をあてがった。
 どちらかというとむちゅ、といった表現の似合うキスを迅は飽きることなく繰り返す。
 迅と付き合って気付いたことは、キスが好きだということだ。 僕だってキスは嫌いではないが、迅には負けると思う。
 しつこいくらいに僕の唇に貪りつく迅に観念すると、僕は宙に浮いていた手を迅の背中へと回した。
 息でさえ漏らせないというほどに密着した迅の唇。 飽くことを知らない子供のように、迅と僕はただ触れ合う。
 息苦しさに目尻に溜まった微量の涙が、ほろりと零れて僕の頬を伝った。
 それが合図のように迅の唇は少しだけ離れ、代わりに額をくっつけてきた。
「は、……迅、どう、したの……」
「……お前に首輪をつけたら、お前はずっと俺の側にいるか?」
「フフ、……どうだろ、ね」
「正直、あいつが羨ましい。首輪一つで永遠にお前に縛られるんだ」
「縛って、ほしい?」
「見えるものに頼るほど、もう子供でもないが……どうだろうな」
「珍しいね。そんなこと言うの」
「……そうだな」
 目元に降る温かな唇。
 珍しく甘えようとする迅を僕は受け入れると、柔らかな髪を優しくすいた。
 くしゃり、とセットしていたであろう迅の髪が崩れる。
 普段はオールバックにスーツ姿の迅も、今は長めの前髪を横に散らしシンプルな服に身を包んでいた。 なんだか少し見慣れない所為もあって、僕は照れ隠しに迅の首元に顔を隠した。
 少なくとも数時間は顔を合わせているのに今更照れが出るなど少々気恥ずかしいものがある。 だけれどどうしてか、僕も離れたくはなくてそっと迅を抱きしめた。
 お互いの身体が密着して、どくどくと鳴る鼓動が聞こえる。
 ふわりと微笑った迅が揺れて、手触りの良いなにもつけていない髪が僕の頬を擽った。
 思わず息を漏らした僕に、手をかけた迅。
「……尚人、……」
 少しだけ声に色をつけた迅は僕の頬に指を滑らせた。 壊れものを扱うような手の動きに、無意識にすり寄った僕に迅はもう一度だけ名前を紡ぐ。
 今度こそはっきりと甘さを含んだ響きに、僕はひくりと肩を震わせた。
 通じ合う瞳が告げているのは欲情のサイン。
 僕とて迅に好きなようにされるのは嫌いではない。 だけれど、時と場所を考えて欲情してほしいものだ。
 今、僕たちは人気のない公園のベンチに座っている。 いくら人気がないといえどここは公共の場でもあり、なにより外だ。
 流石に迅の良いようにされては困る僕は、身体を捻じらせると迅の元から逃げ出すことに決めた。
 しかし、今までの経験でそれが成功した試しなどない。 するりとロングティーシャツの中に入ってくる手を、僕は慌てて掴んだ。
「迅、ここじゃ、……いやだって」
「誰も見ていない」
「そういう問題じゃないだろ?」
「……本当にお前は我儘だな」
「ハ、ちょっと、それこっちの台詞」
「仕方ない。ほら、じっとしてろ」
 迅は僕の両脇に手を差し込むとそのまま抱き上げ、ベンチの後ろにある茂みに移動した。
 確かにここならばベンチの影もあるし、伸びきった草木や植木などで外からの視界は防げるであろう。
 だけれどしつこいようだがここは外なのだ。 いくら見えないであろうとも外でセックスをする趣味などない。
 完全にその気になっている迅に、最後の足掻きで抵抗してみるも、それは無残にも失敗してしまった。
「迅っ……い、やだって……ホテル、とってるんでしょ」
「……後で行けば良いだろう。お前の言うようにスイート取っといたぞ」
「ねえ、尚更ホテル行きたいんだけど」
「連れてってやるって言ってるだろ。今は大人しく俺に鳴かされとけ」
「今が、問題だろっ!」
 なにを言っても聞きやしない迅は、僕の言葉を無視することに決め込むとさっさと僕を茂みの上に押し倒した。 さくりとした感触が僕の身体を包んで、微妙に心地が悪い。
 嫌々と首を振る僕に深い溜め息を迅は吐くと、宥めるように頬に口付けを落とした。
「尚人、……俺を受け入れてくれ」
「ず、ずるい……」
「俺には尚人だけだ」
「……あーもう、わかったよ。受け入れる。受け入れますよ! ……その代わり、お酒、飲んで良い? 良いでしょ?」
「……考えておく」
「ちょ、っと!」
 ふいっと目を逸らした迅に、僕は鋭い視線を送るが目を合わそうともしない。
 最初に言った通り、迅は僕に一滴のお酒も飲ませる気はないようだ。
 腹いせに迅の頬を強く抓り、上下に強く振った。 そんな僕の些細な抵抗も迅には全く効かないようで、逆に愛しいと言わんばかりに笑みを零すからどうしようもない。
 なんだかんだ言っても僕も嫌ではないのだ。
 迅がゆっくりと上半身を屈めるのを合図に、僕は大人しくされるがままになることにした。
 ロングティーシャツをたくし上げられ、素肌が外に晒される。 残暑厳しい時期といえど、太陽が落ち自然に囲まれた場所は少しだけ肌寒い。
 思わず身震いをしてしまった僕を暖めるかのように、迅の長い指が僕のわき腹をなぞってゆったりとした動作で上に這い上がってきた。
 焦らされているかのような動きに、普段はなんともない場所に反応してしまう。
 ぴくりと跳ねる僕の反応に気を良くした迅は、胸の突起に触れることはせず、周辺をぐるりと回すように触れた。
 嗚呼、焦れったい。
 盛っている癖に随分と余裕のある態度だ。
 僕は恥を捨てて迅の手を掴むと、そのまま期待で膨れた突起へと移動させた。
「ちゃんと、触って……」
「……本当に適わんな、お前には」
「なに? どういうこと?」
「お前に惚れてどうしようもないって、ことだ。尚人」
「ば、……かじゃない」
「愛してる。そう言って、お前を永遠に縛れるなら、俺は何度でも言うのに」
「……フフ、迅、わかってないんだね。もう、僕のここは、迅の中にあるのに」
 そう言って、僕は平らな胸に迅の手をあてた。
 どく、どく、と規則正しく音を立てる心臓。
 きっと初めて会った日から、ここは僕の元から飛び立ってしまった。 きっと迅と別れたとしても、元には戻ってこないのだろう。
 迅の元に住み着いた心は永遠に迅のものなのだ。
 僕を驚いた表情で見た迅は、小さく息を吐くとまるで泣いてしまいそうな笑顔を見せた。
「……ああ、俺も、……そこにいるんだな」
 なにがそんなに不安なのかは、僕にはわからない。 永遠にわかることなどないのだろう。
 だけれどその不安を取り除けるのは僕しかいないようだ。
 僕は迅の指先を握ると、そっと唇を寄せた。 慰めるような僕の動作に、迅は瞳を閉じると深い息を吐く。
 不器用ながらも僕たちは少しずつ成長していくのだ。
 願わくはこの幸せが少しでも長く続くようにと、僕は握った手に力を込めた。