「雨、……か」
ぽつぽつと降り出した雨を見上げて息を吐いた。
春先に降る容赦のない冷たい雨は止むことをせずに桜を散らす。
はらはらと泣いたように散らす雨。
この門を潜ったら、帰ってこられない。
あの日常には戻ってこられない。
だけどこれで良い。
決めたんだ。
ちっぽけだったけど平穏に見せかけた生活に戻りたくなかったから。
この雨が止んだら、どうなるんだろう。
なんて感傷的な気持ちで俺は門を潜ったのだった。
「入学おめでとうございます。生憎雨が降っていますが、この祝うべき日に」
つらつらと長ったらしい理事長の挨拶を適度に聞き流しながら、俺は着慣れたスーツの袖を握った。
新しく入学する生徒に混じって俺も新しく赴任をしてきた。
所謂新人教師というやつだ。
教師になって四年。
前の学校を辞めて、俺は私立である水島デルモンテ学園へ赴任してきた。
山奥に建つ閉鎖的空間の学園といえば教師はあまり行きたくないだろう。
生徒は三年という限られた時間だが、教師に時間などない。
雇われている間は一年かもしれないし、もっと長いかもしれない。
こんな閉鎖的空間なんてご免だろう。
きっとこんな学園に望んでくる奴なんてのは、まともじゃない奴が多いんだ。
俺みたいに、どこかいかれている奴。
なんて勝手に決め付けた俺は欠伸を噛み殺して、段の上から生徒を見下ろした。
見事に男、男、男ばかりだ。
生徒も男だったら教師も男。
間違いがないようにと女の教師は取っていないらしいが、それが仇になって男同士の恋愛が蔓延っているっつうんだからどうなんだって話だ。
一過性のものだと教師も親御さんも楽観視していてほぼ放置ということらしい。
子供や生徒がホモでも良いのか? なんて思ったけど突っ込むのも面倒くさい。
どっちにしろ俺には関係ない。
興味などないし、揺らぐ心もない。恋なんてのは暫くご免だ。
つまんなくって、長ったらしい入学式。
生徒会やら風紀委員やら良くわからない生徒が出てきたとき沸いた会場に少し笑みが漏れたけど、それでも娯楽なんてものは見つけられそうにもない。
俺はぼんやりと沸きだつ生徒を見ながら、退屈な時間を過ごすのであった。
「五十嵐 至(いがらし いたる)?」
入学式が終わり、教師たちが各々の持ち場へ行くのに混じって俺も職員室へ行こうと思っていた矢先に名前を呼ばれた。
知り合いなんていたっけ、って思ったがここは学園、いるはずなんてない。
訝しげに振り向いてみればそこには俺と同じような年齢の男がいた。
「当たり?」
そう言って馬鹿にしたような笑みを浮かべたその男に、俺はついつい息をするのも忘れて見入ってしまった。
教師らしからぬ風貌ではあるが、清潔感に溢れているストライプのスーツ。
顔はかなり綺麗で人形のように整っていた。
一度も染めたことがないってぐらい黒々として綺麗な長めの黒髪を左右に散らしている見た目はなんだか高級ホストかモデルのような出で立ちだ。
ここって学園だよな? なんて再確認してしまうほど。
だが、俺が見入ったのは顔でも雰囲気でも声でもない。
恐ろしいほどに濁りきったような目だった。
冷たくてこの世を信じていない腐った目。
なのに綺麗でその目に惹き付けられてしまう。
その不思議な目に俺は一瞬にして囚われてしまったようだ。
「聞いてる?」
「あ、ああ、そうだけど……あんた教師?」
「教師以外なにに見える?」
「……いや、そうだよな……うん。気にしないでくれ」
「頭悪そうだね。あんたって」
そう言って軽薄そうに笑った男だったがあまり表情に変化がない。
口まで悪けりゃ性格まで悪いのか。
なんだか嫌な奴。
俺がむっとしたのに気付いたのだろう、男は俺に一歩近付くとその冷たい目で俺を射抜くように見た。
俺と同じぐらいか、いやちょっと高いか、そんな身長差ではあったが威圧感の所為か高く見える。
なんだか責められているような気がして、俺は一歩後ろに下がった。
「なに?」
「なにって、俺があんたの教育係りだよ。同じ歳でもこの学園では新人だろ? この学園は他と違って特殊だからね、俺が教えることになってんの」
「あ、そうなんだ。つーか同じ歳なんだな」
「取り敢えず五十嵐 至、まずは俺のクラスの副担をやってもらう。それと、生徒会顧問も。っつっても生徒会には基本顔は出さなくて良い。放置で構わないよ。ま、年間行事のときだけは会議に参加してもらうことになってるけど、それ以外はなにもしなくて良い」
綺麗な顔をしてべらべらと喋るこの男。
なんだかこの顔で饒舌ってのも似合わないような気がする。
というより嫌々話してるんだろう。
普段はすっげえ無口なんだろうな、って思った。
「質問は?」
「五十嵐か至かどっちかで呼べよ」
「じゃあ五十嵐」
「あんたは?」
「柊 冷(ひいらぎ れい)、二年A組の担任。担当教科は科学。剣道部顧問だ。なにか他に質問ある? 今この瞬間以外質問は受け付けないけど」
「いや……ないと思う」
そう言うと柊はあからさまに面倒くさそうな溜め息を吐いた。
時計をちらりと見て俺の顔を見る。
なんだか嫌な視線だ。
「最初に言っとくけど、ここ男子校だしゲイとかバイとか多いの。意味わかる?」
「まあ、聞いてるけど、でも俺には関係ねえし」
「そうだね、ここは比較的治安も良いし? 襲われるってことはないと思うけど、あんた結構顔整ってるし標的にはなる。ケツ掘られようが俺には関係ないけど後から泣きつくのだけはやめろよ」
一見心配してくれているのかと思ったが最後の言葉で心配じゃないってわかった。
どうやらこいつは基本的には人と関わりたくないようだ。
まあ俺も無関心で流されやすい性格をしているが、お節介でもないし社交的でもないからお互い様といえばそうなのだろうが。
しかし俺を掘りたいと思う奴がいるんだったらそれはそれで面白いな。
妄想だけは自由だ。
実際に襲われたら話は別だがそうじゃないのなら気にもしない。
くいっと顎を動かして合図を送る柊に連れられて、俺たちは廊下を歩いた。
「なあ、あんたホモなの?」
「ゲイだよ。なに? 抱いてほしいの?」
「いや、そういうんじゃなくってさ、こんなとこいたらできねえんじゃねえの?」
「馬鹿? ここだからできるんだよ」
「……もしかして生徒かよ」
「向こうから寄ってくるしね。でも本気にはならないね。遊びだよ、ゲームっていうの? 涙流して俺を好きだって言うんだよ、なんにも知らない癖にさ。面白くって笑っちゃうね」
「痛い目みるぞ。後悔してもしらないからな」
「そんな度胸なんてないよ。一時の錯覚に酔ってるだけさ、みんな」
そう言って笑った柊の目はやっぱり笑ってなくて、俺はそれに遠い昔の自分を重ねてみせた。
あの頃の俺も腐ったような生活を送っていた。
世の中俺を理解してくれる奴なんていない、誰も認めてくれないって馬鹿みたいに喧嘩して荒れて遊びまくって、ちょっとした天狗になってた。
女だってただの玩具だ。
誘えば簡単に足開いて腰振って、そんな俺たちを心の中の俺は嘲笑っていた。
最悪な日常だった。
それが全てだった。
きっとあんなことがなければ今だって腐っていたと思う。
今が腐ってないかって聞かれたらわかんねえけど、きっと昔よりはずっとましだ。
痛みを知ったから、教えてくれたから、俺は少し大人になったような気がしたんだ。
「五十嵐? ついたけど」
「あ、ああ……」
「ぼんやりしちゃって大丈夫なの? 俺に迷惑かけるのだけはほんとやめろよ」
「……わかってるよ」
「ふーん? まあどうでも良いけど」
冷たい目が俺を刺す。
痛みを隠したその目が俺を縛り付けて、嫌な記憶を呼び起こそうとしていた。
見るな。
そんな目で見るな。
俺の願いが通じたのか興味をなくしただけなのか、柊は扉を開くと教室の中へと入っていった。
少し遅れて俺も入れば、今日から俺が副担任をするクラスの生徒たちが出迎えてくれたのだった。
身体だけは大人みたいに大きいが、やっぱりまだまだ子供だな。
俺とは一回りも違う生徒を見ながら、一人一人の顔を見た。
どうやらこの学園にはクラス変えがないらしい。
一年から同じ面子という柊の言葉に俺はびっくりした。
こんな学園もあるんだ。
だが柊はこのクラスの顔ぶれには馴染んでいないらしく、酷く面倒くさそうに名前だけ告げると後は生徒に丸投げした。
おいおい、こんなんで良いのかよ。
自己紹介とかなんかいろいろあんじゃねえの? この学園の仕組みが良くわからない。
生徒もそれが当たり前というように受け入れると、柊を放置して委員長が教壇に立ちSHRを進行していった。
俺たちはというと教室の一番後ろに下がって観察するだけ。
なんだか良くわかんねえけど、口出しするのもなんだし、俺は黙っておいた。
「なあ、柊、一人寝てる生徒いるけどあれは良いのか?」
「ああ、あれね……」
そう言って名簿を取り出すと名前を確認し出した柊。
そしてやっぱりというような表情を浮かべるとだるそうに説明してくれた。
「彼は放置で良いんだよ。というより関わったら面倒だから関わらない方が良いね」
「はあ? そんなんで良いのかよ」
「学年主席だし放っておいても平気だよ。基本無関心で良い。なにもしなくたって良い」
「なんだよそれ、適当だな」
呆れたような態度をしてみせる俺に柊は馬鹿にしたように嘲笑った。
「ほんとになにも知らないでここにきたんだ? 馬鹿だね、あんたも」
「……なに?」
「言われたことだけやってれば良いんだよ。なにもしなくたって生徒も期待してない。教師だって、そういうもんだ。関わるだけ無駄。適当に遊んで、適当に授業こなして、そうやって堕落な毎日を送ることしか、やることなんてないよ」
教師あるまじき言葉に俺はなにも言えなかった。
俺だって熱血教師って訳じゃねえけど柊みたいな考え方もどうよ? って思うだろ?
だけどここに赴任するときに言われた言葉が、少しだけわかったような気もする。
生徒の自主性を尊重している。
生徒で成り立っている学園だ、と。
そう言っていた理事長。
それってこういうことなのか?
逃げたかった。
忘れたかった。
やり直したかった。
なにも関わり合いたくなかった。
だからこそ、俺はここにきた。
そのはずだった。
そうだった。
だけどどうしてか柊の言葉が、俺を考えさせる。
本当にそれで良かったのか? と。
結局はいくら考えたってなにも変わらないことはわかっている。
遠い昔のことなんて変えられる訳もない。
それにいつまでも縛られている俺が悪い。
反省したって後悔したって、壊れたもんは元に戻らないから。
それを知っているから。
俺はもうそれ以上なにも口にすることはなかった。
柊も初日の饒舌が嘘みたいに、俺が理解してからは俺に必要以上近付こうともせず、ましてやたくさん喋ることもなかったのであった。
それからあっという間に日々が過ぎていった。
柊の言ったようにこの学園は特殊だ。
教師がここまで生徒に介入しないのも珍しいと思ったが、あまり人付き合いをしたくない俺にとっては好都合でもあった。
淡々と仕事だけをこなして、寝るだけの日々。
休日も部屋に閉じこもってなにもしないでいた。
出掛ける教師が多い中、俺はただベッドの中で一日を過ごすことが多かった。
教師の中でもずば抜けて柊は変わっているらしい。
科学の先生は変わり者が多いってレベルじゃねえぐらい、変わっている。
だけど俺がびっくりしたのは教師の中でも柊の生徒食いは有名だってことだ。
そしてそれに対してなんのお咎めがないのも、非難がないのも、不思議だった。
教師には一つや二つ後ろ暗いことがあるってことなんだろう。
この学園の空気は好きだが、そんな教師には馴染めそうにもない。
俺は誰とも関わらないように決めると、そこでその話を打ち切った。
「は……」
桜ももう散りそうだ。
なんて短い命なんだろう。
柊の手伝いをしながら副担任の仕事をして、生徒会と顔を合わせて、俺の担当である社会を一年生に教える。
その繰り返しで毎日の繰り返し。
逆に息が詰まりそうだ。
休日である土曜日に学園の中庭にあるベンチに座って、俺はぼけっとしていた。
なにもする気が起きない。
動くのすら面倒だ。
眠ってしまおうか、なんてベンチに横になれば直ぐ側にある花壇の裏にしゃがむようにしてどこかを覗いている生徒がいた。
こんなに近くにいたのに存在にも気付かなかったなんて、俺もどうかしてるよな。
その生徒になんとなく声をかけてみれば、俺が思ったのとは違う顔が出迎えてくれた。
「あれ? 五十嵐先生?」
「……名前知ってんの?」
「だって、副担じゃん。覚えてるよ。っていうより若い先生は全員チェックしてるの!」
そう言って笑った生徒は、初日に柊が関わるなと言った生徒だった。
名前は思い出せないが、印象的だったので顔だけは覚えていた。
顔が可愛くて背が小さいこの生徒のどこが悪いのだろうか? ってずっと考えていた。
関わっちゃ駄目だという要素が俺にはわからないんだ。
ちらちらと向こう側を気にする生徒が気になって、俺は会話を続けることにした。
「つーかなにしてんの?」
「あのね、見える? あ、五十嵐先生のとこからは見えないかなあ? 丁度ね、ここから屈んだらちらっと見えるの」
「なにが? 面白いもんか?」
「男同士の逢引現場! タチが柊先生で、ネコが……えっと、あれ? 誰だ? 初顔だなあ……セフレ増えたのかな」
なんてぼやいた生徒の言葉に俺は噎せてしまいそうになった。
内容も内容だが言った言葉を理解しづらい。
というよりどういうことだ? こいつはなにを言っているんだ?
「柊の逢引現場だって? おい、和泉、どういうことだ」
そう呼んでやっとこの生徒の名を思い出した。
和泉 蓮、一見可愛いだけの生徒に見えるこの生徒、在籍している教師のほとんどから絶対に関わるなと言われている生徒だった。
「え? 五十嵐先生知らないの? 柊先生、生徒とヤりまくりなんだよ。たまにね、サービスで見えるところでしてくれるの! それ見たらラッキー! って感じなんだけどさ、最近警戒してるっぽくて、なかなか隙見せてくれないんだ〜。今日は偶然見れたしちょーラッキーなんだけどね」
「いや、そうじゃなくって、それも問題だけどよ、なんでそんなもん見るんだよ?」
「見たいから! 柊先生綺麗だよね〜あんな顔してタチっていうのも堪らないし、あの冷たい心を開くのは誰かなって興味もあるからかな。今年から担任になってくれてさ、まじチャンスだって思ったんだよね」
「……和泉は、柊が好きなのか?」
あの、冷たい目に惹かれたんだろうか。
俺と同じ、に。
……惹かれた? 俺が?
わからなくって、煩い心臓をぎゅっと押した。
頭の中には人を馬鹿にしたような笑みを浮かべて俺を見据える柊の顔。
冷たい目で見られると、駄目なのかもしれない。
だが俺の心配もよそに、和泉は首を横に振るとそれを否定した。
「好きっていうか、柊先生みたいなタチが好きかな」
「……理解できねえけど、恋してんの? それって」
「えーだから、タチなの! 柊先生は好みのタチ! それに俺恋人いるし」
「あ、そうなんだ……」
なんだか良くわからない言葉を重ねる和泉にこれ以上なにを言っても要領が得られないとわかった俺は、和泉と一緒に肩を並べると柊の逢引現場を見つめた。
そこには涙を流して柊に詰め寄る生徒と、そんな生徒を馬鹿にしたような顔で見つめる柊。
その姿はやっぱり重なるものがあって、胸が痛くなった。
それがどの痛みなんてのはわからない。
だが柊から目が離せなかったのだけは、事実だった。