結局俺の熱は三日間も続いた。
高熱で魘される俺を甲斐甲斐しくも看病してくれたのは柊だ。いつもならセフレなりとセックスしに行くのだが、俺が心配なのかただ単に寝覚めが悪いのが嫌なのか、俺に付きっ切りであった。
意識のあるときに喋った会話なんて覚えてもいないけど、柊の手が温かかったのだけは覚えている。
じりじりと下がる熱と反比例して、俺の恋はじりじりと上がっていくようだった。
冷血漢だと思っていた柊の人間性を垣間見た所為でもあるけど、俺だけのために尽くす柊を見て嫌な気持ちになんてなる訳がねえだろ?
短い夢が終わればまたいつも通りの日常がやってくるとわかっていたからこそ、俺は少しでも長くこの夢の中で浸っていたかったんだ。
それから土日を挟んだ週明け。学園に復帰すれば心配そうにわらわらと寄ってくる教師陣に俺は圧倒された。たいして期待をされていないと思っていた分、心配してくれるのは素直に嬉しいものだ。
仕事の方は俺がいなくともなんら支障はなかったらしいが、それでも迷惑はかけたので俺は謝ってまわった。
やっと落ち着いて席につけば、目の前にはいつも通り澄ました顔で授業のプリントを作っている柊。学園で顔を合わせるのは久々である。
お互いのスーツ姿に少し違和感を覚えながらも、こっそりと小声で話しかけた。
「迷惑かけたな。お陰ですっかり元通りだ」
「……あんたの所為で部屋に誰も連れ込めなかったよ。あんたも使い物にならないし、最悪の週末だった」
「悪かったよ。もう暫くは風邪引かないと思うし」
「次引いたってもう看病しないからね」
「うん」
「……ところで、今日空いてんの」
「……さあ、どうだろ。体調次第」
「……あ、っそう」
プリントから目を離さずに話す柊の顔をじいと見ながら、俺は自分自身の変化と柊の変化を改めて思い直していた。
なにかがあった訳ではない。なにかが劇的に変化した訳でもない。ただほんの少しだけ、意識を変えてみただけだ。
今まで逃げ回っていただけだった。結局は全てをアキの所為にして、誰かを愛することに臆病になっていただけなんだ。
例えこの思いが報われなくても、誰かをもう一度だけ愛してみたいと思った。伝えてみたいと思った。精一杯生きようと思った。いつかアキに再会したとき、胸を張って生きている自分を見せるために。
アキが記憶をなくしたままでも、それでも俺はそれだけで十分だ。俺のしたことが許される訳じゃねえけど、だからこそ今度は後悔しない。怖がらない。逃げない。
自分なりに考えた答えが間違っていようとも、俺は俺の信じたままを生きてみようと思う。
新たな決意を胸に秘めて、柊から視線を外す。訝しげに柊が声をかけてきても、俺は上機嫌で声音を浮つかせるだけだった。
「……なんか風邪引いてますます変になったね、あんた」
「あー、そう? 吹っ切れただけじゃねえ?」
「……つまんないよ」
ぶうたれた柊の顔に笑った俺は、柊の顔をますます可笑しなものにさせたのであった。
俺の意識が変わって、柊の態度が変わった。だからといって目に見えての変化は少ない。
体調を考慮して週半ばまでは呼び出されることもなかったが、すっかり風邪が全快したのを知った途端、また前のような日々がやってきた。
相変わらず柊は俺を抱くとき乱暴に扱う。殴ったり蹴ったりはしなくなったが、首を絞めるのは最早定番としてきているし、挿入も無理にすることが多い。
変わったことと言えば柊が生徒とセックスするのを見せ付けることがなくなったことと、夕食を一緒に取るようになったことだけだった。
それでも上々だ。決して悪い方向ではない。
愛だの恋だのそんなものは決して存在はしていねえが、気の合う友人程度にはなれてきているのだろう。
不安そうな顔や、困った顔、拗ねた顔、怒った顔、眠たい顔、嬉しい顔、いろんな表情を見ることができた。見せてもらえるようになっていた。
柊の心の住処に俺が招き始められている瞬間。俺と柊の関係が変わり始めようとしている、そんな気がしたんだ。
それから幾度の夜を過ごした。季節は梅雨に入り、柊と関係を持ってから二ヶ月近くが経とうとしていた。
あまりに馴染み始めた存在にまだこれだけの時間しか経っていないという気にもさせたし、これだけ経ったんだっていう気にもさせた。
ザアザアと降り注ぐ雨を見て、ざわつく心中。頭では区切りをつけたと思っていても、未だにあの頃を再現させるような雨に出会うと心が痛くなる。
だから梅雨は嫌いだ。アキの気配を色濃くさせる。
つい先日まで前向きだったのに、内向的になりつつある思考。ぼんやりとして自室に引き篭もろうとする俺を半分無理に柊は連れ出すと柊の自室へと連れ込まれた。
ばくばくと心臓が煩い。浮遊感に気持ちが悪くなる。柊はそんな俺の体調に気付くこともなく、急くようなキスを仕掛けてきた。
「ん、っ……」
噛み付く柊の唇が甘い。優しくしようと動く舌が俺の歯列を割って、口内へと進入をしてきた。
ぞわりと背筋をかける感覚に一瞬気を取られた俺はリビングにあるソファに押し倒され、抵抗する間もなく衣服を脱がされてしまった。
肌に感じるのは梅雨特有の湿った空気と、柊の指先の感触。這いずるように肌に触れる柊に、怖くなった俺は胸を押すと抵抗するように退けた。
「なに? その気にならない?」
「そ、うじゃ、ない……けど、今は嫌だ」
「なにそれ? やってりゃその内その気になるでしょ」
軽薄っぽく笑った柊は変化をみせる俺の様子を無視すると、行為を再開させるために丁重な愛撫を施した。
確かに身体はその気だ。じわり、じわり、と上がる熱は柊が与えてくれる快楽を覚えているのか直ぐに火を灯す。口では嫌だ嫌だ言いつつも求めてはいるのだ。
だけど心の奥底で降り続けている雨が、俺を鈍らせる。
リビングから見える開けたカーテンの向こうでは土砂降りの雨。アキをなくしたときと同じような雨が降っている。
それに錯覚を起こした記憶が、だぶらせるのだ。
今度は柊の番だ。次は柊を失うのだ、と。
「ひ、らぎ……っ」
怖くなって夢中で掻き抱いた。必死でしがみついて、消えてなくならないようにと存在を手に確かめる。
それをただ単に欲しているだけと勘違いしたのか、柊は余裕をなくすと更に俺を深くまで求めるように愛撫を性急にさせたのだった。
触れるだけ触れていないと不安になる。少しでも隙間が開いてしまえば、そこから離れていくんじゃないかって。
噛み付かれた肩の痛みに歯を食いしばって、掻き毟るように柊の髪を掴んだ。血が滲むのか啜るように舐め回す柊の舌の甘さと、滲んだ痛みが不均衡な快楽に落としてくれるのだ。
「はっ、う……、ぁ、あ」
「……五十嵐? あんた、どこ見てんの。ちゃんと俺を見なよ」
「ひ、らぎ、だろ……柊、いる、……のか」
「……なに言ってんの。あんたに触れているのは、俺だろ?」
立てられた爪が皮膚に食い込む。滲んだ視界では怒った顔をした柊が俺の頬を掴んでいた。
「あ、あ……柊、だ」
「そう、そのまま集中して」
俺を落ち着かせようとしたのかもしれねえ。ここまでくれば俺の様子が変だと嫌でも気付く。些か不信な表情をしていたが、行為を続行させることにした柊は俺の下肢へと手を伸ばした。
だがそこまでだ。
ぐにゃっと歪んだ柊の顔が泣きそうになった。伸ばしたままの手を引っ込めて、代わりに俺の頬を舐めたのだ。
「……あんた、なにに怯えてるの? 俺を、見てないでしょ」
「違う、んだ……」
「気付いてないの? 顔、真っ青。焦点も合ってない。……それに反応してないしね。興ざめ」
ふるふると震え出した俺の震えを止めるように柊は俺を抱き締めると、抱き起こした。
ソファに座って顔を見合わせて、俺を見る柊は困った顔をしている。どう接して良いのか、迷ってる。そんな気がした。
「……雨、嫌いなの」
「え?」
「耳、塞いでたから。それに梅雨入ってからあんたの様子変だったし」
「気付いて、いたのか」
「……体調悪いだけかと思ってたけど、そうじゃないんだ」
「……縛られている、だけだ」
「ふうん、……縛られているだけ、ね」
腐った目が息を吐く。柊は懐かしさを思い出しているかのような目をすると、なにかを考えていた。
それはきっと俺に自分を重ねているのだろう。いつか見た柊は、過去に縛られているように思えたから。俺と同じで、過去に囚われたままだと。
真っ直ぐに柊を見た俺を、柊の瞳が見返す。お互いの瞳にお互いが映った。
「……俺は、代わりなの」
そう聞いた柊は俺の過去を知っているような口調だった。
過去に柊に言われた言葉を思い出す。俺の過去を調べたと。ならば知っているのか? アキとの、ことを。
「代わりなんかじゃ、ねえよ。アキも、あんたも……代わりなんていねえ」
「俺が好きなんでしょ? もう、忘れたら」
「……過去には、なってるよ。ただ、後悔が……忘れられないだけだ」
「難しいね、あんたって」
「柊も、だろ? あんたも縛られたままだ」
そう言い切った俺に柊は苦虫を噛み潰したような表情をすると、ふいっと視線を外した。
触れられたくない場所に触れた俺が気に食わないんだろう。図星だからこそそんな顔になる。
だけど少なからず過ごした時間で柊が俺を知ったように、俺も柊を知った。全てを暴くことなどできはしねえけど、心の先っぽぐらいは見せてもらっている。
縛られた糸を切る方法を見つけた俺とは違い、柊の糸を切る方法は見つかっていない。
なあ、俺の鋏じゃ、あんたの糸は切れねえのかな。
俯いた柊の髪が肩に触れた。そのまま抱き寄せて、腕の中に閉じ込めた。抵抗は、ない。
お互いの顔を見ない状況でぽつりと零した言葉に、柊の耳がひくりと動いた。
「俺は、俺の中で振り続ける雨を止める方法を探していた。ずっと止まないから、ずっと探してたんだ」
「……見つかったの」
「ああ、あんたがそうなんだ。傘を持ってるのは、あんただけだった。……雨は止まないけど……止める方法は、あんたが持ってる。俺は柊が好きみてえ」
「……今更過ぎるでしょ。知ってるよ、そんなこと」
「言いたかっただけだ。嫌なら聞き流せよ」
「こんな近くで喋られたら、聞きたくなくても聞こえるっつーの」
語尾が微かに震えていた柊の声。低くて、透明感のある声。
もっと聞きたいと思ったのに、綺麗過ぎる雰囲気に伸されて俺も柊も言葉を紡ぐことに憚られた。
電気もつけずに致そうとしていた部屋は薄暗く、ザアザアと降り続ける雨の音だけが唯一許された存在になる。嫌いなはずの雨も、柊の呼吸と心音を間近に感じれば別のもののように感じるから不思議だ。
あの雨で俺の罪も、しがらみも、全て洗い流してくれたらどんなに良いだろう。
ぼんやりと視線を窓の外に向けて細く長い息を吐けば、柊の腕が背中に回った。
「……柊?」
ぎゅ、っと強く抱き締められた。過去と現在の狭間で揺れ動いている柊が、泣いているよう。
さらさらの髪を撫ぜつけ、穏やかにさせる。あやすような行動は柊に十分伝わったようだ。
「……あんたなら」
「……俺なら」
「あんたなら、信じられるかも……しれない」
過去を踏みつけた柊が顔をあげる。腐った目が、綺麗な目になる。透き通るような、目。初めてアキを見たときに感じた目より、綺麗な目。
「ど、ういう」
意味だ。そう紡ごうとした唇が塞がれた。
今はそれ以上言う気などない。無言の重圧に従った俺は、受け入れた唇に静寂を守った。
「……ただの戯言だよ。意味なんて、ないから。なんでも、ないから」
「……ああ」
「五十嵐……あんたなら、……俺を……」
「うん」
「……そ、っか……うん」
「俺は、ただ柊が好きなだけ。……それだけだから、気にすんな。勝手に想ってるだけなら、良いだろ?」
「……うん」
たどたどしく動いた指先が、俺の指先にぶつかった。ひくりと引いてみたものの、腫れ物を触るように動いた指先に、俺から受け入れるように指先を絡めてみた。
返事をするように、待っていたかのように、握り返される指先は俺以上の強さを持っていた。
ザアザアと降り続ける雨が止む頃になっても、きっと柊は傘を差し続けてくれるのだろう。決して傘を共有させてくれることはないんだろうけど、それでも傘の領域には入れてくれるのだ。
だから俺が切ってやる。あんたを縛り続ける頑固な糸を切る鋏を、探し続けてやる。
雨が止んで、糸が切れて、空が晴れたら、手を繋いで前を歩こう。後ろは振り向かないで、真っ直ぐ歩こう。
柊が側にいるのなら、ずっと空は晴れのまま。鋏と傘は必要なくなる。そんな未来を、二人で持てたら良い。
透き通った瞳と同じ空の色を、俺は一瞬だけ垣間見たような気がした。