雨を止めた独裁者 07
「アキッ!」
 飛び起きるように目覚めた朝。辺りは薄暗く、太陽も昇りきっていない。起床時間にはまだ早い中、俺は目が醒めてしまったようだ。
 どくどくと高鳴る心臓にひやりと伝う汗、浮遊感までしてくる。こんな状況の中、安眠なんてできる訳がない。
 荒い息を整えて額に手をあてる。深呼吸を繰り返して心を落ち着けようとしても、脳裏に浮かぶのはなにも映していない瞳で俺を睨むアキの姿だった。
 柊を好きだと認めてからアキのことを思い出すことが多くなった。長い時間をかけて徐々に透明になっていった記憶も、小さなことがきっかけで絵の具をぶちまけたように色鮮やかになる。
 俺に文句一つ言わなかったアキが、夢の中では怒ったように責めるんだ。お前は誰も好きになってはいけない、と。誰からも愛されない、と。
 アキがそんなことを言う訳がねえってわかっているのに、アキに責められることによって許しを乞おうとしている俺が明け透けに映されているみたいで、胸が苦しくなった。
 所謂悪夢というやつなのだろう。
 綺麗な思い出のままならばこんなことにはならなかった。後ろめたさがあるからこそ俺はいつも不安なんだ。
 梅雨も近い所為かここ最近ろくに眠れていない。寝ればアキが責め立てて、起きていれば柊に攻められる。これでは心休まるときなんてものがない。
 自室で子供のように膝を抱えながらぼうっとしている時間が、俺にとっての唯一の安らぎだった。
 いっそうのこと、全てから逃げ出してやろうか。あの頃のように、逃げ出してやろうか。いや、それじゃ……また俺は逃げるのか?
「……駄目だ」
 カーテンを開けば薄暗い雲が出迎えてくれる。梅雨に入りそうな今、空も機嫌が悪いのかちっとも太陽をみせてはくれない。それどころか今直ぐにでも雨が降りそうなほどだった。
 ここから逃げ出すことは至極簡単なことだ。教師を辞めるのも、アキの呪縛から逃れるのも、俺の行動一つで終わってしまうほど簡単なものだ。
 その方法はいつだって側にいた。世界から逃げる勇気がないだけで。
 だけど逃げるだけじゃ駄目なんだ。それにもう逃げられないところまできてしまっている。
「……お前も、この空のどこかにいんのか?」
 問い掛けても返事はない。俺独りしかいない部屋はシーンと静まり返っているだけ。
 今の俺がここに立っていられるのはアキのお陰だ。照れたようにはにかんだアキの笑顔。秘密を教えるようにこっそりと囁いた言葉は、俺の戒めとなりそれを行動という形へと走らせた。
 教師になりたいと言ったアキが全てを忘れてしまっても、俺だけは覚えているという証だけで教師になった。それをアキが知らなくても俺だけが知っている。
 あの頃からアキに縛られたままの俺は、一歩も前へ進めていない。雁字搦めに縛られた心を解く鍵を持っているのはアキでも俺でもない、俺の心の隙間に入り込んできた柊なのだ。
 だけど柊とでは、また同じ繰り返しなんだ。加害者が被害者になるだけのこと。
 それでも俺はやめられねえ。楽になりたいだけだ。本当は、そうじゃないくせに。……そう、楽になりたいだけ。
 惹かれたのは、なんだった? 柊、あんたからの気持ちは期待していない。だけど俺の気持ちだけは否定するなよ。それが今の俺の全てだから。
 戻るも地獄、進むも地獄。そうなるのなら少しでも俺は前に進みたかった。

 あれから少し目を瞑った俺は時計がカチカチと進む音をじいと聞いていた。
 鳴り響く目覚ましに重い身体。今日とていつもと同じ毎日が、俺の呼吸と共に歩み始める。
 着慣れたスーツを着て、ネクタイを締めて、少し顔色の悪い俺はいつも通り淡々とした面持ちで鏡に映っている。
 一歩外に出ればむっとした重い空気。梅雨入りはもう直ぐそこまでやってきていた。
 やるべきことをやって、手を抜くところは手を抜く。そうして代わり映えのない日常を送って、その中にある柊の気まぐれに付き合わされる。
 現に今だって強引に腕を引く柊の手を俺はどこか遠くから見つめるように、眺めていた。
 骨ばった綺麗な手が俺の手首に絡みついている。いつもはその指で翻弄されて、抵抗らしい抵抗もままならないまま呆気なくも熱に浮かされていた。
 ぼんやりと、俺の衣服を脱がしていく柊の手が止まったのはいつだったんだ?
 訝しげに見上げてみれば、能面の柊にしては似つかわしくない表情をしていた。眉間にぎゅっと皺を寄せて、口はへの字を結んでいる。ああ、こんな顔もできるんだ。なんて考えていれば思い切りネクタイを引かれた。
「なに?」
「なにって、こっちがなに? なんだけど。あんた最近可笑しいよ」
「……あんたの方が可笑しいだろ」
「抵抗しないの。いつもみたいに、ほら、嫌だって言えよ」
「……もう、良いんだ」
「もう良いって? なにが? 五十嵐、あんたなにを考えてるの?」
 苛立ちげに語尾を強めた声音が俺を責めた。らしくもなく焦ったようにみえる柊。どっちかっていうと、あんたの方が可笑しいだろ? いや、この関係が可笑しいのか?
 俺たちはお互いのことなにも知らない。知ろうともしない。触れてはいけないことじゃねえのに、触れようともしない。逃げ回っているみたいだ。
 強く射抜く視線に耐えられなくて思わず俯いた俺は、つっかえながらもその問いに答えた。
「なにも、考えてねえよ」
「……あんたは俺が好きなんでしょ? 俺が欲しいんでしょ?」
「ああ」
「どうして? どうして簡単に認める? あんたの意思はどこにあんの? なあ、もっと傷つけよ、泣けよ、俺を、憎めよ!」
「……柊?」
「あんたの考えてることがわからない!」
 幾ばくか取り乱した柊は俺の前髪を掴むと顔を上げさせ、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
 柊の瞳に映るのは空虚な顔をして、ぼんやりとしている俺の顔。間違っても柊に恋慕を抱いている顔じゃねえ。でも、確かに気持ちはここにある。ただ上手く表現できないだけで、ここにあるんだ。
 だけどこの関係に気持ちは必要のないものだ。あっても柊にとっちゃ意味なんてねえもの。
 なああんたこそ、なにに怯えているんだ? なにを抱えているんだ? 俺はその闇を拭い去ることはできねえのか?
 手を伸ばして、柊の泣きボクロに触れてみる。振り払われるかと思ったがすんなりと受け入れられた手に俺は驚いたけど、そのまま手を引っ込めることはなかった。
 柔らかく触れれば、愛しさが増す。久しく感じていなかったあたたかい気持ち。愛しむように口元を綻ばせてみれば、柊は泣きそうな顔になった。
「……あんたは、なにが目的なの? 俺に、なにを求めてる?」
 震えた柊の瞳はここではない、遠い過去になっていた。誰かに言った台詞を、俺にも聞きたがっている。そんな気がした。
「なにも、求めちゃいねえよ」
「俺を独占したくないの? 愛してほしくないの? 見返りは?」
「なにもいらねえ」
「……じゃあなんで俺のことを、受け入れる?」
「さあ? ただ、離れる勇気がないだけかもな」
「なに、それ。あんた、そんな、……その程度なの? 俺から言ったら、あんたは離れていくのか?」
「……かもな」
 その俺の言葉に愕然とした柊は置いていかれた子供のような表情になると、縋るように俺の身体を引き寄せた。
 途切れた吐息が耳にかかって、柊はらしくもなくなにかに怯えている様子でもあった。確かめるように俺の輪郭をなぞって緩くかぶりを振る。
 ぶつぶつと呟いた台詞が聞き取りづらかったが、俺に対して言っている訳ではないと気付いたので敢えて声をかけることはやめておいた。
 柊も俺と同じで、なにかに迷って、止まった時を動かそうとしているんだ。その方法がわからないだけで、柊もまた被害者だ。
 短く吐いた息を落ち着かせるように柊の手に俺の手を重ねた。小刻みに震えるそれが手を伝って俺に届けてくれる。戸惑った瞳とかち合えば、初めてその瞳に恐怖という色がついていた。
「いがら、し」
 困ったような声音、俺はただなにも言わずに触れた手に力を込めた。
 柊と過ごしてきた時間の中、こんなにも穏やかなときが流れたのは初めてかもしれない。無駄に楯突く言葉を吐かない柊は大人しく、俺のされるままだ。
 なにも言わないし、なにも聞かない。ただ互いが吐く息をこんなにも身近に感じている。
 触れ合う体温も、苦しげな表情も、俺をこんなにも満たしてくれる。
 俺は柊の居場所になれたら良いと思う。あの頃俺が欲しがった居場所に、今度は俺がなる番だ。なれるかどうかなんてのはわからねえけど、柊が求めてくれる内は傍にいたいと願う。
 温度の下がった唇が近付いた。一度目と違い自ずと受け入れたそれは少しの痺れをもたらして、俺の唇へと触れる。
「……俺は、どうしたら良い?」
 誰に問い掛けたのか、柊の言葉は宙に吸い込まれて消えていく。その問いに問い掛けるものは誰もいなかった。

 元々体調が悪かった所為もあるのか、見事に風邪を引いてしまった。
 というのも柊が殊勝に見えたあの日、大人しくしているとばかり思っていた柊はふと我に返ったらしくいつものような余裕綽々の姿を見せると俺を思う存分甚振ったのである。
 先程まで無防備に晒していた自分の痴態に耐えられなくなったのか、いつもより乱暴なその行為に身体の許容範囲が超えてしまったらしい。
 押さえつけられた身体が冷えた床にかかる。ぞわりと粟立つ肌は快感だけの所為ではなく、もっと別の悪寒からもきていた。
 垂れる汗は冷や汗なのか、ぐるぐると回る視界に込み上げてくる吐き気。下肢をがんがんと突く柊は気付きそうにもない。
 ここ最近やっと下肢への刺激に慣れたといっても、やっぱりまだ快楽を得るのには程遠い。どちらかというと苦痛が多く伴う行為の負担は半端ではないんだ。
 尋常じゃない荒い息。立てた爪は床に弾かれ、なにも掴めない。そうして気づく頃には意識をなくしていた。
 目を覚ませばいつもと違う部屋。額にかかるひんやりとした感触は濡らしたタオルだろうか、そうと触れてみればゼリー状の感触がした。
「ん……」
 頭が酷くぐらぐらとする。二重にも三重にもぼやけた世界はかすんで見えた。
 ここまで酷い風邪は久しぶりだ。いつ振りになるだろうか。まさか風邪引くなんてな。ああ、風邪じゃねえのか? 体調悪かったし。
 そこまで思って俺ははたと気がついた。ここまで誰が運んだ? つか、これは誰がしてくれた? 考えなくても答えは一つだ。柊以外にいるだろうか?
 重くてだるい身体を起こし辺りをきょろりと見回す。シーンとした部屋には人の気配がなく、チチチと時計の針の音だけがする。
 なんとなく心寂しくて、一度だけ柊の名を呼んでみたものの声は返ってなどこなかった。当たり前か、今は授業中だ。柊も仕事があるんだろう。
「あ、……俺も授業……っ」
 思い出した現実に慌ててベッドから出ようとしたものの、ぐらぐらと回る世界の中とてもじゃないが立てそうな気もしない。
 格好悪くもどすんという音を立ててベッドから落ちてしまった俺は床に芋虫のように這い蹲ると、拳を握り締めた。
 柊がなんとかしていてくれるはずだ。そうじゃなきゃ困る。そういうことにしておきたい。
 俺はそう結論づけると襲いくる瞼に抗うことなく目を閉じた。意識を保つのさえしんどい。身体中がぎしぎしと痛み、なにかに侵されている気分だ。
 このまま眠ってしまおうと一度長嘆を吐いた俺であったが、カタリとなった音にはっとして顔を上げた。
 大きな音を立てた所為なのか、少し慌てたような足音と共に所在なさげな顔をしている柊が扉から顔をみせたのだ。
「……五十嵐?」
 まるでここに俺がいるのが信じられねえような顔。目を大きく開き、呆然とこちらに視線を向けている。
 ここに運んだのは柊だろ? どうしてそんな顔なんだよ? 浮かぶハテナに、困った顔をしてみせた柊は躊躇いがちに俺に近寄ると床に倒れたままの身体を抱き起こしてベッドに寝かせてくれた。
「38℃だって」
「……そんなに、あった?」
「精神的疲労からくる風邪って、保険医は言ってたけど……。あと、寝不足も原因って」
「そっか」
「うん」
 変化のなかった瞳に、灯った色。俺を心配しているようで、心配していないと言いたげな複雑な色。
 もっと深く覗き見ようと視線を上げてみたけれど、柊に目を塞がれてしまいなにも見えなくなった。暗くなる視界と、掠れた吐息。柊が一度だけ息を吸い込む音が間近で聞こえた。
「あんたが望むならこのままここに置いておくけど、どうする?」
 淡々とした口調。覆われた掌は冷たく、なにも教えてもくれない。俺は思案するように唇を開くと、わざと躊躇ってみせた。
 どの道ここから動けそうにもない。帰れと言われても立つのもままならない今の情況では、俺にすることなどないに等しい。それをわかっているのかいないのか、柊は俺に意見を委ねた。
 柊はなにを考えているんだ? それはわからないけど、言葉にしなきゃいけない状況だ。俺は取り敢えずと浮かんだ言葉を口にした。
「セックスできねえけど」
「……病人にがっつくほど、困ってる訳じゃない」
「そう? 首絞めなきゃ我慢ならないんじゃなかった?」
「それは……言葉のあやだ。セックスの煽り文句って、わかってるよね?」
「……この部屋に誰も連れ込まないなら、いても良い」
「そんな悪趣味なことしないよ」
「この間してただろ?」
「……状況が違う。あんた、変。急にそんなこと……」
「はは、あんたが困ってるのが面白くてさ」
 手首を握って対して力の入っていない手をどかす。そこには眉をぎゅっと寄せている柊の顔。酷く不服そうだ。
 それに小さく笑うと、冷たくて心地の良い柊の掌を額にあてた。冷えピタの上からじゃなんも温度は伝わってはこなかったけど、俺にはそれで十分だった。それだけで十分だった。
「……このまま、……」
「……今回だけだから。こんなサービス」
「ああ」
「……あんたの風邪、早く治らないと俺の寝覚めが悪いし」
「首も絞められないし?」
「だから、そうじゃないって」
 困って、笑って、拗ねて、ああ、こんな顔もできるんだ。柊も、いろんな顔を持っている。普段人にみせないような柊の心の顔。誰にも見せない顔。
 そんな柊を少しでも垣間見られた気がして、俺は心が充足するのをどこかで感じていた。
 雁字搦めになっていたものを全部取っ払ったら、きっともっと前に進めるんだ。
 風邪で弱った精神に浸透する柊の全てに、恋を重ねた。アキに感じていたような心が痛む愛しさではなく、心が温まる愛しさ。
 きっと柊ならば俺の雨を止めてくれる。傘を差してくれる手を持っている。
 だけどその傘は柊の手から離れることはなくて、俺もその中にずっといれてもらえる訳でもない。一時の雨宿りなのだ。
 どうしたら、隣に立っていられるんだろう? 傘を二人で持てるのだろう?
 ここにきて俺は初めて、なにかが欲しいと願うようになっていた。