春に許されて 01
 夏がやってきた。春に出会い、梅雨に絆され、夏に変わる。そんな季節にもなるだろう夏が、やってきた。
 水島デルモンテ学園が夏休みへと突入し、生徒たちの帰省が始まる頃やっと教師の仕事も一段落を終える。山奥に聳え立つ全寮制の高等学校ということもあってか、普段抑制されている分教師にも随分と長い夏休みが与えられるのだ。
 もちろん校舎に残る生徒もいる上、無人という訳にもいかないので何人かの教師が残りはするもののそれも交代制なので負担も少ないシステムとなっていた。
 他の学園がどうかなんてのは詳しく調べたこともないのでわからないが、かなり御の字ともいえる制度だ。給料面も保障されている。前に勤めていた公立とは雲泥の差。流石私立ともいうべきか。
 五十嵐は担っていた業務の全てを終わらせると、腕を頭上に高く伸ばして息を吐いた。
「やっと終わった……これで休みがもらえる」
 どっと疲れが降りかかる。しぱしぱする目をぎゅうと押さえつけるように手をあてれば、それに重なるよう溜め息が聞こえた。
「あんたほんと要領悪いよね。断れば良かったのに」
「柊……なんだよ、お前今日休みじゃなかったのか?」
「ちょっとね、用事があって」
「ふうん、お前も大概暇なんだな」
 少し笑えばむっと顔を顰められる。随分と軟化した方だ。最初の頃を考えれば想像もできないほど二人の仲は変化をみせたといえるだろう。係わり合いになるなと言い渡されたのも今では良い思い出だ。
 水島デルモンテ学園が夏休みに入ると共に教師陣各々の仕事も緩やかなものになってきた。新人教師の五十嵐は誰よりも仕事量が少なかったので、新人の特権ともいわれる早めの夏休みが与えられるはずだった。
 だがそこを古参の教師に付け狙われ、上手いこと仕事を押しつけられたのである。断れば良かったとは柊の意見で、柊のようにずけずけと物事を言える性格でもない五十嵐はどうのこうのしている間に大量の仕事を抱えてしまったのだ。
 だけどそんな五十嵐を罵りつつも微力ながらの手伝いを柊はしてくれた。全く素直じゃない。
「ねえ、それよりもう終わったんでしょ?」
 柊の指が、五十嵐の肩をなぞる。女のような誘い方に思わず笑みが零れるが、女役をこなしているのは五十嵐の方。見目からいえば柊の方が美人なのだが、どうしてだかこの麗人に組み敷かれている。
 五十嵐は柊の指をぎゅっと掴むと、珍しくもそれを退けた。
「残念。しばらくお預けだ」
「……はあ? どういうこと」
 柊の表情が剣呑さを帯びていく。前よりは軟化したといえども、こういうところは変わらない。五十嵐は言葉を考えると、どう言おうか迷った。
 性に奔放で生徒を食い散らかしては愛を信じようとしない柊を、昔の自分と重ねた五十嵐は放っておくことができなかった。ついついお節介とわかっていつつも気にかけていたあの頃、五十嵐は柊に犯されたのだ。
 それからずるずると続いてしまった関係に、訪れた心の変化。いつしか柊を愛するようになっていた。
 五十嵐は柊に気持ちを伝えている。今も続く肉体関係。セフレ。だけど少しずつ埋まりつつある心の溝。遊びをやめた柊は真面目になったとは言い難いが、一応は成り潜め大人しくしている。五十嵐だけになっていた。
 その分、二人は多くの時間を共有した。柊の心に触れることは未だ叶わないがそれでも良いと思えた。いつか、例え自分じゃなくても柊の氷を溶かせられることができれば良いと。
 そんな風にお互いが近付き過ぎた距離で一緒にいたからこんなことは初めてで、それを言ってしまうのが何故だか躊躇われたのだ。
(別に、そういうのじゃねえのに……)
 自己満足だとわかっていても、五十嵐は唇を噛むと言葉を飲み込んだ。
 簡単なことだ。考えればわかる。もしかしたら柊だってそうかもしれない。詰め寄ってきた柊に五十嵐は隣の席を勧めると、職員室の時計を煽った。
 どの道こんな時間に職員室にくる教師もいない。五十嵐は大人しく座った柊の目を見て、言い辛そうに言葉を吐いた。
「山をおりる。……っつーより、帰省する。地元に戻ろうかと思って」
「……なにそれ。聞いてない」
「今言ったしな。ここに逃げるようにしてきただろ? 精神的にも参ってたし、それが少し安定したからそろそろ地元にも顔だそうかと思ってさ。だから夏休みはここにいねえんだ。柊は帰省、しないのか?」
「する訳ないでしょ。……あんた、なにも知らないからそんなこと言えるんだよ」
「それはお前が言わないってのもあるだろ。とにかく今から帰るんだよ。だから柊の顔見るのも、これが見納めってやつだ」
「俺を置いていくの」
「そんな大袈裟な言い方あるか。ったく、……」
 頭を掻けば柊は納得がいかないという表情を浮かべた。だけどこれは決して覆すことのできない決意でもある。
 五十嵐にはどうしてもやっておきたいことがあったのだ。地元でしかできない、感情の整理。贖罪を晴らすという自己満足。
 むっすりと黙ったままの柊と話し合っても平行線を辿るだけ。特殊な環境に身を置いて、毎日顔を合わせていることを考えれば一週間以上の空白は大きなストレスと不安を齎すかもしれない。だけど五十嵐もいつまでも逃げたままで、この微温湯に浸かっている訳にもいかなかった。
 新たな世界へ行くためには、置き去りの過去を清算しなければいけない。
 五十嵐は未だに柊のトラウマ、基過去を話してもらっていない。きっとそれは柊の中で未だに生々しい傷跡として残っており、昇華できずにいるからだ。少しずつ癒えているとしても、だ。
 なにに怯えて、どうして信じられなくなって、他人を踏み躙るようになったのか。知りたくないといえば嘘になる。けれどその境界線を越えるためには五十嵐も逃げてばかりいられない。
 柊がいつか話したくなったときに、それを受け入れられるような大きな人間でいたいから五十嵐は進む。
「また連絡するし、……ここに帰ってくるんだからさ」
 全くもって面倒な相手に惚れたものだ。冷たく五十嵐を射抜く視線は絶対零度で、我儘を突き通せば五十嵐が言うことを聞くと思っているのだろう。今回ばかりは譲れないけれど。
「じゃあもう行くから」
 どこかに触れたくて、本当は名残惜しいのは五十嵐の方。だって惚れて、愛おしくて、どうにかなってしまいそうなくらいの感情を認めている。引き止められて嬉しくて、それでも行くことに変わりはないけれど。
 柊の手の甲を撫ぜた。ひくりと睫が揺れる。人形のような顔が憂いを帯びてその表情に魅入られそうになった。
「……冷」
 はちり、と睫が瞬く。淡い色づきの唇に触れて、お別れのキスをした。なんだか永遠の別離みたいだ。
 いつもはやられてばかりいたからたまにはとしてみれば、柊は不満そうに拗ねた態度でそっぽを向いた。嗚呼、これは機嫌を直すのもまた大変だな。
 五十嵐は机の上を簡単に片付けると鞄一つ持って立ち上がった。荷物はほとんどない。財布と携帯があればなんとかなる。地元だ、実家に帰ればそれなりに揃ってもいる。
 視線に入れることすらしようとしない柊を通り過ぎて歩けば、背中に投げかけられた言葉。つきつき刺さるその矢の鋭さに、五十嵐は答えを出せぬまま無視するような形で職員室を出た。
 だって、それは、限りなく白に近い黒。
(そうだ、俺は……アキに会いたいんだよ)
 なにかをしようとそんな考えはなくて、許されたいだけの打算。全てが不可能な世界に作り変えられてしまったけれど、それでもと。嗚呼、だけど勇気のない五十嵐は会うことすらできないのだ。
 それでも世界を変えたくて、どうにかしたくて、そう思えることこそが五十嵐の決着の付け方。古い恋の、終わらせ方だった。

 その日の夕方には地元へと着き、実家に顔を見せた五十嵐は久しぶりの古巣に心がほっと安堵した。やはり独り立ちをしたといっても実家は落ち着くし、他人ばかりの閉鎖空間は少々気が重かったようだ。
 柊のことも心配とあって、一週間の滞在に決めた五十嵐はその日から忙しく奔走することとなった。
 社会人になれども旧知の友とは気が合うもので、久しぶりだと笑いながら飲み歩いたり、昔を思い出してはめを外したりしていた。そんな中に懐かしい顔があった。忘れもしない、雨の日に大事なことを教えてくれた友人だった。
 どちらかといえばアキの味方だった彼は、いつだって五十嵐を窘めるような言葉をかけていたと思う。五十嵐が記憶の再生をしながらなんとなしに見ていたのに気付いたのか、彼は人の波を縫って隣へときた。
「久しぶり、元気してたか? お前随分と雰囲気変わったよな。今教師だっけ? ああそっか、ほんとに教師になったんだ。……あいつの夢だったよな? それをお前が実現するなんて思ってもなかったけど」
「お前ってほんと物覚えが良いな。……まあ確かにアキの夢だったけどさ、なかなか楽しいぜ。教師生活も」
「なあ、お前ってさ恋人いんの? あ、いきなりで悪い」
「本当に唐突だな。恋人なあ、いねえけど大切にしたいと思ってるやつはいるよ。今度は幸せにしてやりたいんだ。お前からすればそんなこと言うなって台詞だけどよ」
「へえ、本当に変わったんだな、お前……」
 しみじみと昔を懐かしむように日本酒を煽った彼は、五十嵐の顔を真剣に見るとまるで心の中を覗いたかのような台詞を吐いた。
「……五十嵐さ、アキのことが目当てで帰ってきたんだろ?」
 どきりと心臓が鳴る。ばくばくとがなり立てる音は世界を鎮圧して、空気を支配した。
「別に責めてる訳じゃねえよ。いや、ほんとに変わったなって。そうだよな、もう何年経つんだっけ? ……馬鹿だな、お前未だに縛られてんだな。ずっと許されたいって思ってたのか?」
 喉が渇く。干からびた渇きを潤すように呷ったビールが、脳髄まで染み渡って酔いを酷くさせた。酩酊に沈んでいきそうな世界で、彼は優しげに笑んだ。
「アキに出会って変わったよ、お前は。人間らしくなったっていうのかな。……でも今のお前の方がずっと良い。そいつのお陰か? まあとにかくさ、お前が望むんなら、アキに会ってこいよ」
「……会う、って」
「本当は会って話がしたいんだろ? アキな、今さ……」
 語られる言葉に、五十嵐は手をぎゅっと握りしめた。これが運命だというのなら、なんて残酷で都合の良い。受け入れようか、それとも逃げる? かさりと音を立てた紙くずだけが、世界を変える片鱗として五十嵐の手元に残り続けた。

 アキの記憶が戻った。それは晴天の霹靂でもあった。そういう可能性があったことはわかっていたのに、五十嵐はないものとして切り捨てていたのだ。
 思い出さない方がアキにとって良いからと、勝手に決めつけては罪から逃げようとしていた。本当は罵られるのが怖かった。慕いを秘めていた瞳を憎悪に染めて五十嵐を見つめることが怖かった。そんな性格じゃないとわかっていても、怖かったのだ。
 許されないことをしたから、事実が消えてしまうことに安堵を覚えていたのかもしれない。結局はずるい大人だ、五十嵐も。
 彼から聞いた情報を頼りに五十嵐はアキのいる場所へ足を向けた。逃げるのはやめた。例えどんな瞳で見つめられても、それが業ならば受け入れるしかない。
 教師になりたいと言ったアキが選んだ道は、ひまわり保育園と書かれてある場所で働いている保育士だった。
 遠からず近からずなこの道を選んだのか。優しいアキのことだからきっと天職に違いない。壁に凭れかかって、通り過ぎる人影を待った。
 それから幾時間が経った。懐かしい気配とともに門から出てきたのは、褪せず記憶に留まり続けたアキの姿だった。
「っ、アキ……!」
 堪らずに一歩を踏み出す。振り返って瞳に映ったアキは面影を残しながらも、随分と大人びていた。記憶のアキが褪せていく。嗚呼、知らずにどれほどの時が経ったのだろう。
 アキは五十嵐を見据えると、あの頃となにも変わらない柔らかな笑みをみせたのだった。
「五十嵐さん!」
 まるでタイムスリップしたかのよう。アキは犬のように嬉しそうな表情で五十嵐の元へ寄ってくると、懐かしげに頬を染めたのだった。
「どうしたんですか!? すっごくお久しぶりですね!」
「え、あ、いや……その」
「なんだか随分と雰囲気変わっちゃいましたね。凄く大人っぽくなったっていうか、ますます格好良くなりました!」
「……うん。ありがとう」
 アキの爽やかな笑顔に絆されて有耶無耶にされていくような違和感。どうしてそんなに笑えるのか。アキの記憶の最後である五十嵐は最低の男のはずだ。それこそアキを死に追い詰めようとした男なのだ。
 唇を噛む。なんて言えば良いのかすらわからずに、握った掌が白くなってアキの瞳を見られなくなった。
 謝りたかった。許されたかった。幸せにしてやりたかった。本当はもっともっとたくさんの時間を共有したかったのだ。愛されることに怯えて逃げ出して、傷つけたままで自分だけが幸せになっても良いのだろうか。
 そんな五十嵐の心をなんて見えていたかのようにアキは五十嵐の手を優しく握ってきた。
「五十嵐さん、そんな顔しないでください。大体事情はわかっています。……聞きました」
「え、……」
「僕が記憶をなくしたとき、お見舞いにきてくださったそうですね。へへ、今度はそっちの記憶がないんで覚えてないんですけど……。でも僕、今見てる通り凄く元気なんですよ。強くなったんです」
「違う。違う、アキ、ごめん。ごめんな。俺はお前に取り返しのつかないことをした。ずっと謝りたかった。アキ、俺は」
「五十嵐さん、良いんです。もう過去です。終わったことなんです」
 泣き出しそうになった五十嵐を、アキは慰めるように抱きしめた。小柄なままだったけれど腕の中は広くて、そうして許される温もりに満ち溢れている。
 声が詰まった。喉が締めつけられるよう。五十嵐はアキの背中を軋むほどに抱きしめると、感情を吐露した。
「お前が好きだったんだ。本当に好きだったんだ。愛してると、言ってやりたかった」
「本当ですか……? はは、それ、嬉しいです。えーあの頃に聞きたかったな」
「言えなかった。弱くて、逃げてた。……アキ、お前はたくさん俺にくれたのに、俺はお前になに一つあげられなかったな」
「僕、たくさんもらいましたよ。良いことばっかりじゃなかったけど、あの頃の時間はたからものなんです。今でも僕の中できらきら輝いてるんです。それに五十嵐さん、告白してくれたじゃないですか、今。もっと大切なものになりました」
 温もりが離れていく。アキは涙を流そうとして震えた五十嵐の睫を見て、空気を揺らすような声を上げる。
 唯我独尊、狂犬、一匹狼、五十嵐を飾る言葉はたくさんあった。どれもこれも五十嵐を表すにはぴったりで、だけど不釣合いで。本当は寂しがり屋の五十嵐を癒してやりたかった。その役目になりたかった。叶わなかった夢だけど。だけど満たされていたという事実を知れただけで、アキにとってはこれ以上ない過去の愛の告白なのだ。
 何年もの時間が経った。淡い恋心は思い出に変わり、互いに別の道を歩んでいる。途切れた糸を結ぶことはもう二度とないだろう。それでも確かにあったという恋が記憶に沈殿していくのを心の片隅で感じた。
「五十嵐さん、五十嵐さんは大切な人ができましたか?」
「……ああ、できたよ」
「じゃあその人をめいいっぱい幸せにしてくださいね。きっとですよ。僕の分まで。それが許されたいと望む五十嵐さんに対するお願いです」
 天使のような笑みでそう紡ぐアキに、五十嵐はつられ笑いを零した。嗚呼、敵わない。五十嵐の心に入り込むのが上手なものだ。いつだってアキに助けられてきた。
 突然現われた五十嵐に対し嫌な顔一つせず迎えてくれた。彼が伝えたのかもしれないけれど、あんなに酷いことをした五十嵐の消せない罪を昇華してくれた。気持ちの終着点を作ってくれた。燻っていた古い恋を、終わらせてくれた。
 柔らかな頬を撫ぜる。もう二度とアキを幸せにすることはないだろう手で触れた。こうしてやりたかったという感情を込めて。
「幸せなんだな、アキは。とっくに。……アキ、ありがとう」
 誰かの手で幸せになっていくアキを見て、五十嵐の心の雨がすうっと引いていく。隙間から差し込む光があたたかなものを包んで、そうして成長していくのだ。
 自分勝手かもしれない。自己満足かもしれない。それでも、それでも、五十嵐は許されたいとそう望むのだ。罪が消えることはなくても、贖罪を果たせることができなくても、アキが幸せだという事実がなによりもの幸福な世界だった。
(なあ柊、俺の心が晴れても、お前はずっと傘を差してくれるのか?)