それから立ち話もなんだしとアキに誘われ家へと呼ばれた五十嵐は、最初こそ緊張していたもののもとより旧知の仲だ。溝が埋まった訳ではなかったが気を許し合って、二人で一晩中話をし明かした。
あの頃をなぞらえるような正しい選択のやり直し。酷似している錯覚を覚えることで安心する五十嵐を、きっとアキはわかっていたのだろう。笑顔を絶やさずにただただ優しい言葉ばかりをくれた。
いつだって大人びていたアキは誰よりも進んでいた。やっと進みだした五十嵐と違って、随分と前に過去としてこの恋を清算していたのだ。
また会う口約束をして別れた。実現するかなんてのはわからないけれど、社交辞令でもそうやって言い合える仲に戻れたのが一番の救いか。雨の日には、考えもつかなかった世界。
アキに触れたてのひらを握りしめて、嘆息を吐く。とこなしえの恋なんてあるはずもないのに、どうしてだろう。信じてしまいたくなる。今度こそがきっと、最後の恋だと。
(お前もそう思ってくれりゃ、……最高なんだけど)
なにをしているのだろうか。五十嵐がいないとこれ幸いに誰かを誘ってはいないだろうか。捌け口にしていないだろうか。咎められる立場じゃないのが口惜しい。
五十嵐の脳を占めるほとんど柊だというのに、なにが不満なのだろう。全てを与えてもまだ欲しがるのか、それとも体の良い玩具にしか思われていないのか。
鳴らない携帯に引き止めなかった腕、唇から零れた黒い問いかけが宙に浮いたまま燻り続ける。
言っても理解のできない感情の譜を、柊はどんな音だと捉えるのだろう。五十嵐が糸を断ち切ったように柊も鋏で糸を切ってしまえることができたのなら、嗚呼。
地元に帰って五日目の朝、固く誓った決意もゆらゆらと揺れて心だけが柊の元へと旅立とうとしていた。
結局五十嵐が水島デルモンテ学園に戻ることができたのは、アキと話してから四日後のことだった。本来ならばもう少し早めに帰る予定だったのだが、あと数日だけと両親に強請られてついつい残ってしまった。
学生時代は荒れまくっていた所為で両親に迷惑ばかりかけていた。それもあって親孝行し始めた五十嵐は、なにかと両親に対して強く出られなかった。
寂しいと零す母親の言葉に、五十嵐は押し黙る。特に用事もないのでとんぼ返りという訳にもいかない。結局そのまま二日だけ残り、まだ引き止めようとする両親を説得して戻ったのである。
手にたくさんの手土産を持って学園へ足を踏み入れた五十嵐は、どこへ行こうか迷って足踏みをしてしまった。
心ばかりは柊を探してはいるものの、どこにいるかまではわからない。待ち望まれてもいないのにわざわざ連絡するのも癪で、五十嵐は焼きがまわったと舌打ちすると自室へと向かった。
(こんなにたくさん羊羹持たせてどうしろっつんだ……確かに好きだけどよ)
母親から手渡された大量の羊羹は五十嵐の好物でもある。日持ちするものだから良いもののこんなにたくさんどうしろというのか。ずっしりと重量感のある羊羹と荷物を持って急ぎ足で駆ければ、受け持ちの生徒が向こうから歩いてきた。
「おお、水島。なんだその荷物」
受け持ちの生徒というよりは五十嵐が顧問を務める生徒会の生徒会長でもある。生徒会長である水島は五十嵐を目に留めるとぎょっとして立ち止まった。
「五十嵐先生こそ大荷物ですね。もしかして帰省してたんですか? これは学園祭の資料とかですよ。新学期始まって直ぐ準備があるじゃないですか、その用意です。それが俺たち最後の仕事になりますからね。寂しいですが次期生徒会へ交代です」
「へえ、こんな前からやるんだ。偉いんだな。じゃあご褒美に羊羹いるか?」
紙袋から羊羹を取り出し水島へ手渡せば、瞠目しつつも戸惑った仕草でそれを受け取った。確かにいきなり羊羹を手渡されれば困るだろう。その反応も頷ける。第一最近の若い子が羊羹を好きかどうかなんてわかりもしない。
だが水島はそれを見るとほう、と感嘆の声を上げた。
「大納言小豆使用の羊羹ですか。しかも老舗和菓子屋の有名なやつですよね? ありがとうございます。柳星が好きなんで有難くもらっておきます」
「たくさんあるからな、良いって。じゃあ頑張れよ。顧問として手伝えることあれば遠慮なく言ってくれ」
「はい。……あ、そういえば五十嵐先生って、柊先生と仲が良かったですよね?」
「……あー、まあ、仲良いってか……歳が近いからな。なんかあったのか?」
「なにもないですよ。一時期に比べたら身持ちも固くなりましたしね。そういうのではなく、様子が変だったからなにかあったのかと思いまして……でも五十嵐先生、帰省してたんですから知らないですよね」
「……ありがと、様子見とくわ」
ぺこり、とお辞儀をした水島の肩を叩いて五十嵐は足早に寮へといそいだ。
直接関わり合いのない水島が気にかかるほど柊の様子が可笑しいというのか。どうせ柊のことだから口煩い五十嵐がいなくなれば遊びに走るかと思ったのだが、とんだ勘違いらしい。
真っ直ぐ自室に戻る予定を変更して、五十嵐は柊の自室へ行くことに決めた。荷物が些か邪魔だがそんなことに構っている暇もない。いるかどうかもわからない状態で、教師専用寮へと入ると柊の部屋の前に行って扉を叩いた。
五十嵐は柊に鍵を手渡しているが、柊からはもらっていない。それは心の鍵の代替のような気がしていつかもらえたら良いと密かに思っていることは秘密だ。
「柊? いるのか?」
何度かノックをしてみるが返事はない。外出だろうか。柊の勤務形態を思い返すが、未だ学園待機ではないはずだ。休みには突入しているから部屋にいると踏んだのだが。
帰省しなくても山を降りて街に行くものも多い。学園から無料タクシーが出ているのでそれを利用して出かけたのかもしれない。時間はかかるがなにもない学園に篭もるよりは、外に出た方がいろいろとあるだろうし。
無駄足を踏んだとがっくり肩を落とした五十嵐は踵を返すと戻ろうとしたのだが、背後でかちゃりと鍵の開く音がして立ち止まった。
慌てて振り返れば、むすりとした面持ちを隠しもしない柊が扉から顔を覗かせていた。その表情から寝ていたと窺える。時刻は昼過ぎ、休みといえど堕落した生活過ぎやしないだろうか。
だが五十嵐はほっと安堵すると柊に駆け寄って、顔を覗き込んだ。
「悪い。起こしたのか?」
「……帰ってきたの」
「ああ、ついさっきな。お前のことが気がかりでそのままきたんだけど大丈夫だった?」
「ていうか凄い荷物。それ俺の部屋に持ってくんの」
「じゃあ部屋に戻るわ」
「……まあ良いけど」
ふいっと部屋に入った柊は頗るご機嫌斜めだ。だが一応部屋に招き入れる気はあるらしい。五十嵐は荷物をそのままに柊の部屋へと足を踏み入れると、荷物を玄関に置いて羊羹一つだけ持ってリビングルームに行った。
「これ土産。羊羹食えるか?」
「はあ、羊羹!? 随分年寄り趣味だね、あんた」
「好物なんだよ。まあ食わないんなら俺食うし。とりあえず冷蔵庫入れとくな」
部屋着のままの柊は寝癖のついた頭を居心地悪く整えると、ソファへと深く沈んで目を閉じた。水島の言っていた通り確かに腑抜けになっていたようだ。生気がまるで感じられない。
部屋に散り散りになった洗濯物を見て、五十嵐は考えあぐねた。
「……長かったね。実家帰ってるの」
「あーもうちょっと早く帰る予定だったんだけど、母親が引き止めてさ……昔いろいろやんちゃしてた手前無理に帰ることもできなくてっていうな」
興味がなさそうに相槌を打った柊は五十嵐を一瞬だけ見つめると、唇を噛んで俯いた。この仕草は言いたいことがあるのに、なかなか言い出せないときに良くする仕草だ。
柊と出会ってまだそんなに時間が経った訳ではない。数ヶ月の付き合いだ。その短い中でもいろいろと得たものがある。
最初はあんなに牙を剥き出しにして五十嵐を突き放していたのに、今はどうだろうか。これほどまでに気を許してもらっている。柊の境域へ触れることができている。
傷を抱えたもの同士で舐め合って慰め合って、そうして今のままできた。乗り越えることをせずに、ただ現実から目を背けてばかりいた。
だけどそれだけじゃいけないとお互いが感じ始めたから、少しずつ変わっていっている。いこうとしている。
雨が上がった五十嵐に対し、柊は土砂降りのまま。明ける気配もなく、こうして独りで傘に閉じこもってさめざめとしているなんて見てもいられない。
五十嵐はゆっくりと柊に近寄ると、ソファの前にしゃがみ込んで柊の指先に触れた。
綺麗に整えられた爪が、柊の神経質さを窺わせる。思ったよりも冷たい指先に、触れた五十嵐は自分の手を酷く熱いと感じた。
「……ねえ」
落とされた声の小ささに、胸が重たくなる。ここまで憔悴させているのは、きっと再現なのだろう。柊にとっての嫌な記憶の再現だ。
「あんたさ、会ってきたの」
「ああ、会ったよ」
「へえ、そうなんだ。どうだったの? 久しぶりなんでしょ。ああ、でも確か記憶ないんじゃなかったっけ」
「良く覚えてるな」
「……あんたが馬鹿みたいな顔して、言ってたから」
部屋に残っていた嫌な匂い。柊が発生源だったのか。机に散乱した灰に塗れて存在していた煙草に手を伸ばす仕草を、ただ見つめた。柊が煙草を吸っているところを見たことはなかったが、時折吸うのだと言っていたことは覚えている。
なんとなくふとした瞬間に吸いたくなるそうだ。とうにやめている身としてはその気持ちがわからない訳でもない。
苛々しているとき、むしゃくしゃしたとき、寂しいとき、口が物足りないとき、なんだって理由をつけては煙草を探していた時期もあった。
柊は手馴れた仕草で火をつけた。じりじりと燃えた先端が煙を吐き出して、懐かしい紫煙の香りが部屋に拡散していった。
「煙草、吸い過ぎじゃねえの」
灰皿に溜まった吸殻を見てそう言えば、むしゃくしゃするという答えをもらった。
「あんたがいなくなってから、ずっとこうだ。苛々するんだよね」
素直にも聞こえる言葉。吐き捨てた表情は自嘲染みていて、なるほど、水島の観察力も捨てたものじゃない。たかが一教師、担任でもない先生の様子を気にかけるなんて生徒の鑑だ。
五十嵐は煙草を吸い続ける柊の唇の動きにくらりと心を擽られて、煙草を挟む指からそれを取り上げると灰皿へと押しつけた。濃い煙が薄くなって散りばめられていく。緩やかに残り続ける紫煙が宙へと上がり、そうして見えなくなっていった。
「なにすんの。あんたほんと自分勝手」
「お前には、全部話したっけ? アキとのこと」
「……話半分にはね。なに、復縁でもするの? 昔が忘れられないですって」
「馬鹿だな。そんなことある訳ないだろ。もうとっくに終わってる。……ああでもさ、アキの記憶戻ってたんだ。俺のこと、わかってたよ。もう良いんだよって言われた。ずっとうじうじしてたのあいつわかってたみたいでさ、すっぱりと断ち切ってきた。なんか寂しいけどさ、仕方ねえよな」
ひくり、と指先が戦慄いた。柊の手の甲に額をつけて、懺悔のような言葉を吐き出す。
誰かに聞いてもらいたかった独り言を、消えさせたくない。存在していたのだと知ってほしかった。
「終わったんだって思ったらさ、無性にお前に会いたくなったよ。今頃なにしてんだろとか、遊んでんのかなとかさ、いろいろ考えてさ、ほんと寝ても冷めてもお前のことばっか考えてた」
「……ばっかじゃないの、あんた」
「馬鹿かもな。でもさ、今俺が大切にしたい相手はお前、柊なんだ。……忘れそうだからもう一度言っとくわ」
心臓がとくとくとくと、早鐘を刻んだ。一度伝えていても、結果をわかっていても、返答をもらえないとわかっていても、心の内を曝け出すことは緊張もするし恐怖も集う。
こうして側にいることは許されているけれど、いつその手がひら返るのかなんてのは誰にもわからない。柊次第なのだ。
裏切られる以前の問題で、そこまで関係を築けてすらいない五十嵐の立場としては言い募るしか方法が思い浮かばなかった。ただ好きなだけなのに、どうしてこんなにも胸が重くなったり、痛くなったり、締めつけられたり、煩くなったりするのだろう。
嗚呼、柊の病気だ。この恋は、病気に近い。治すのも悪化させるのも柊の言葉や態度ひとつだなんて、なんてみっともなくて単純。
(正直、結構前からお前のことばっかりなんだけどな……言っても信じないか)
紙に墨汁を垂らしたように、ゆっくりと侵食していく赤は柊の頬を染めた。長い睫が影を作って、嫌そうにしてみせてもこれほど間近で見ていれば直ぐにわかる。
手を引かれた。不器用な体勢で抱きしめられた。噎せ返るほどの香りに、五十嵐は感情が軋んでしまった。
「いつ振りだろうね、あんたに触れるの」
語尾が微かに震えている。心だけじゃなく身体も軋む。痛いくらいの締めつけが緩むと、柊はそうっと頬を擦り寄せてきた。焦れったくて、我慢できなくて、求めたのは五十嵐だ。
柊の首元を引き寄せると口づけを強請るかのように、自ら唇を合わせた。
「ん……っ」
上唇と下唇を重ねて擦り合わせる、愛らしい仕草。たったそれだけで何度も上がる体温、煩い心臓、発熱する身体。
どんなことだって結局はふたりが揃っていれば条件となり、恋をして無様に縋るのだ。愛してほしいと叫ぶのには臆病で、だけどみっともなくても離さまいとしがみついてはいる。
ただ触れ合わせるだけ。性の延長線上にもない、口づけ。焦らすだけ焦らしては、放っておかれて枕を濡らす少女のようだ。
「ねえ、名前呼んでくれる?」
子供のような瞳が五十嵐を見つめた。確かにそこに熱は宿って燻っているのに、その先に進もうとしない。それは恐怖というよりはこの穏やかな時間を愛しむかのような、そんな空気。
五十嵐は下唇を下げると、吐息で空気を震わせた。喉が絡みつく。出した声は掠れていて、宙に引っかかったかのようなそんな声色でもあった。
「れ、い」
二度目の、言葉。人生でこれを紡いだのは二度目だ。嗚呼、だけどどうしてこんなにも馴染む。
ほんの少し喜色を滲ませた柊は、唇の端っこをほんのりと上げるとただ五十嵐を抱きしめてだんまりを決め込んだ。セックスにも届かない。しようという気配すらない。
情事を酌み交わし、獣のように呻いて睦み合った。それだけが支配していた。そんな惰性な関係だった。
被虐趣味でもあるのかと問い質したいほど五十嵐を甚振っては愉悦に歪んだ笑みを浮かべていた人物と到底同じには思えない。こんな子供みたいな、純真無垢のような、少女のような一面は初めて見る。
(だって、そうだろ)
名を呼んだだけ。小さく震える声で、呼んだだけだ。なのにどうして? どうしてそんな顔をする。幸せそうな顔で笑う。軋むほどの抱擁で五十嵐を束縛するのか、わからない。
期待をしても良いのだろうか。望みをもっても良いのだろうか。
お人形のようだった。感情を露にしない柊は、嫌味ばかり吐いては人を虐げて笑っていただけ。そんな柊の都合の良い抱き人形の五十嵐は、少し近付けていた距離に嬉しくなっていただけなのに。
嗚呼、いつの間にか柊も知らず知らずに歩き出していたのだろう。過去を振り切って、断ち切る鋏を探し出したのだろう。それを切る勇気をもたないだけで、いつだって鋏は右手に握られていた。
(柊、……これ以上好きになっても良い?)
触れ合った肌が熱くて熱くて焼け焦げそうだ。噎せ返る柊のすべてに、酩酊する。深淵は闇ではなく、あたたかな抱擁だった。
このまま時間が止まれば、柊はずっと五十嵐を抱きしめてくれているのだろうか。
なんて言葉をもつ人間はそれだけじゃ愛を語れないから、唇をもっているのだ。震える声帯で愛を叫ぶ。そのために声が生まれた。抱きしめ合うだけじゃわからないから、愛を叫ぶ。