姫と騎士、そう呼ばれていることは知っていた。その呼び名に、それなりに満足をしていたことも。
己が騎士などという気恥ずかしい名で呼ばれていることは些か抵抗があったが、姫との関係性を決定付ける誰かの空想が堪らなく心地好かったのかもしれない。ずっと、続くと思っていた。変化のない関係性なんてありはしないのに。
「冗談だろ……?」
「冗談じゃないって。僕が嘘言ったことある?」
「本気で言ってるのか? あんた、男と付き合うって」
「それは今更でしょ〜こんな学校だし。僕が姫って呼ばれて愛されてることも、騎士なんて呼ばれて密かに喜んでることも、ちゃ〜んとした事実なんだからさ」
「だけど、そんなの……あいつはあんたが猫被ってるのも全部知ってるっていうのか?」
「もちろん、僕が選んだんだからね。王子と姫なんてロマンチックじゃない? ま、押し倒すのは僕だけど」
なんて言って笑った大事な幼馴染こと姫こと佐久間 大地(さくま だいち)は栗色の柔らかな毛を指先で弄ぶと、二人以外人気のない裏庭であくどい笑みを浮かべた。
目の前にいる天使のような可愛らしさを持つ大地は、女の子のような愛らしい見目をしていても正真正銘の男であった。もちろんここがかの有名な全寮制の水島デルモンテ学園男子校ともなれば女子などいないのは当然のことだが。
そんな閉鎖的空間で娯楽になるのはやはり色恋沙汰だろう。同性しかいないとなれば倒錯的な状況にはまってしまうのか、同性愛はそう珍しいことではなかった。
大地が入学したときなど可愛い見目に騙される生徒がぎゃあぎゃあと騒ぎ立て、姫と呼んで持て囃したものだ。実在は喧嘩が強く、口も悪くて性格の悪い猫被りだと誰も知らない。
危険が及んでは心配だと、天使の皮を被った悪魔だと知っていても守ってやりたいと思ってしまった騎士こと氷森 和臣(ひもり かずおみ)は大地を守るかのようにべったりだった。本当のところは腕力もなく、喧嘩すらしたことのないひ弱だったが。
和臣の氷のような冷たい見目と、細いけれど筋肉のついた身体付き、高身長、高圧的な言葉使いから和臣は騎士と呼ばれた。姫と呼ばれた大地を守っている風に見えたからだ。
そんな呼び名も関係性も悪くはなかった。このまま姫と騎士として憧憬の瞳で見つめられるまま卒業するのだとぼんやり思っていた。だけどまさか大地が和臣の知らないところで愛を育んでいるなんて知りもしなかった。
「よりによって生徒会長なんて……あんた馬鹿か」
「なんで馬鹿って言われなきゃなんないの!? 可愛いんだよ! 王子なんて呼ばれてるけど案外抜けてたりドジだったり、前生徒会長の和泉先輩がいないとな〜んもできないとことか、ほんとーっに可愛いんだから!」
「そういう問題じゃない。なんで俺に黙ってた」
「だって和ちゃんに言うと絶対反対するんだもん。自分だって人のこと言えないくせにさ〜」
「と、とにかく……それじゃあ俺は世間的に失恋したことになるのか? 惨めな視線に晒されなきゃならないのか? 姫と騎士って呼ばれなくなるのか?」
「し、知らないよ! どうだって良いじゃんそんなのさ〜! 和ちゃんがそう呼ばれるの気に入ってたの知ってたけど、それとこれは別なの! とにかく〜これからは王子と一緒にいることになるからね! 和ちゃん気を付けてよ? 和ちゃん狙ってる輩も多いんだから……それに襲われそうになったら喧嘩するより逃げること! わかった?」
「……ああ」
大地の念を押すような言葉にも和臣はどこか上の空で適当に頷いた。それほどまでショックだったのだ。もうなにもかもが終わりだと、そう感じさせるほどに衝撃を受けていた。
なにも二人が姫と騎士と呼ばれているのは見目やべったりしているからだけではない。付き合っているのだと、そう思わせる素振りばかり取っていた。もしくは騎士が姫に片思いしている、と。
それは言い寄られることに飽き飽きしていた二人が虫除けのために始めたことでもあった。だけどいつしか和臣の心は誰かにさざめいて、大地も大地で知らぬ間に恋を成就させている。
明日のトップニュースになるだろう。騎士が恋に破れ、姫を射止めたのは王子だった、などとふざけた見出しを載せて。
惨めな視線に晒されるのも苦痛だったし、振られたと思われるのも嫌だった。それにきっと誰かは棘を吐くのだろう。嫌味ったらしく、だけどそうあることが当然のように。
(……王子め、許さないからな。絶対)
脳内には能天気に笑っている王子こと宮城 佑士(みやぎ ゆうし)が鎮座している。大地に馴れ馴れしい態度で接していたかと思えば、まさかこんな展開になっているなんて思いもしなかった。
安全牌だと高を括って放置していたのが裏目に出たか。どの道唯我独尊の大地のことだから、和臣が放っておいても恋には発展したのだろうけど。
嗚呼、だけどやはり奥底にあるのは寂しいという感情だ。人付き合いが下手な和臣は友達がいない。氷の人と噂して皆が謙遜しているが、本当は氷の人でもないし高圧的でもない普通の平凡な男なのだ。
もっと構ってきてくれても良いのに、口下手で人見知りで生まれつきこんな見目の和臣は第一印象が悪いままそれが覆らずに遠巻きにばかりされていた。
(あいつは、……友達でもないな。だってあいつは、大地のことが……)
ぼんやりとおぼろげな姿が脳裏に浮かぶ。自信有り気に笑う顔も大地のものなのだと思うと、もう和臣にはやる気すら残されてはいなかった。
翌日、和臣が危惧した通りの空気になっていた。相変わらず騎士と呼ばれ尊敬の視線を浴びることには変わりないが、それに同情的な視線まで混じり始めた。やはりその根源といえば、大地と佑士にあるのだろう。
いつもべったり登校していた和臣と大地が別々に登校し、尚且つ大地は佑士と登校した。更に言えば大地の口直々に佑士と付き合っているとのたまったらしい。
そうなれば新聞部の格好の餌食だ。和臣は大地に振られ、大地は佑士を選んだと大々的に発表されたのだ。
視線の痛いこと痛いこと、ひそひそ話まで聞こえる。和臣はいつもより多めに眉間に皺を寄せると不機嫌そうに廊下を歩いた。
(大体みんな可笑しい。大地は姫なんかじゃない。悪魔だ、悪魔。それも知らないのに好き勝手言って……宮城だって宮城だ。大地のことを理解できるのは俺しかいないのに……)
本音のところ、ただ寂しいだけ。ぽつねんと取り残されてしまったかのような気分だ。
臆することなく好きだと、そう言ってしまえる大地も和臣にとっては眩し過ぎた。
(はあ……仕様がないよな。今まで大地がフリーだったことの方が奇跡なんだから)
立ち止まって溜め息を零す。地面を見つめても世界は変わらない。このまま沈んでしまいたい。そう薄暗い方へと思考が傾き始めたころ、そんな和臣を馬鹿にするような声がかけられた。
さらりと流れた少しだけ伸びた黒髪が太陽の光に当たる。どこまでも漆黒に覆われたそれがよりその男の雰囲気を増さしていた。美形、美丈夫なんていう言葉はたくさんあるけれど、どれも不似合いのようで妥当のようもである。
独特の雰囲気を持ったその男は見目通り我が強くて鋭い、そして己が格好良いと自覚をしていて上手に使い分けることができるから厄介でもあった。
「騎士失格だな? 残念残念。からかってやろうかと思ったけどそこまで情けねえ面してるんだ、泣かせちゃ可哀想だよな」
「……煩い。あんたなにしにきたんだ。あんたのクラスは向こうだろ」
「だから言ったろ? お前のことからかいにきたんだって」
嫌味ったらしいほど長い足を見せ付けて行き手を阻んできた男に、和臣は盛大な溜め息を吐いてみせた。ここで無視して立ち去ることもできたが如何せんしつこいのだ、こいつは。
和臣はにやにやとこちらを見る男、櫻田 正宗(さくらだ まさむね)に疲れを露にさせた。
なにかと突っかかってくるのはもう諦めた。これは仕様がない。なにを隠そう正宗が和臣をからかう理由としてあるのは大地だ。正宗は大地のことが好きだった。そして和臣をライバル視しているのだ。
正宗は知らない。和臣が大地のことをそういった目線で見ていないことを、ただの幼馴染としての感情しか持っていないことを知らないのだ。
勝手に勘違いしてライバル視して突っかかってきて、散々迷惑を被った。否定するのは簡単だったが遠ざけることができない理由もあった。悲しいかな、それが主だ。
「なあ、昨日は泣いたのか? その綺麗な顔歪ませてよ、どうなんだ?」
「どうだって良いだろ。関係ない」
正宗の長い指が頬を擽った。カッと頬に血がのぼった和臣は慌ててそれを振り払うと視線を逸らした。ぱちんと払い除けた肌のぶつかる音だけが廊下に響く。
「相変わらずだな、てめえはよ」
馬鹿にしたような嘲笑い。和臣は知れずに唇を噛む。
「……そんなことより、用事はそれだけか?」
これ以上喋っていたくない気持ちも湧き上がる。正宗の顔を見ていると今はどうしてだか佑士の顔ばかり思い浮かぶ。親友だといっていつもつるんでいるからだろう。
大地と和臣がペアだったように佑士と正宗もペアだったから、相方をなくしての状況っていうのがなかなかの居心地の悪さだ。
正宗は思案してみせるように顎に手を置くと、和臣との距離を縮める。秘密話を囁くようにして唇が乗せるのは悪魔のような台詞。耳元を空気が擽って、音を震わせた。
「傷の舐め合い、しねえ?」
慌てたような視線が正宗とぶつかる。目前には真剣のようであり冗談のようでもある正宗が、和臣をじいと見つめていた。
「なにを馬鹿な……あんたなに言ってるのかわかってるのか?」
「ああ、わかって言ってる」
「あんたが好きだったのは大地だろう。俺の、俺が代わりになるとでも思うのか」
「そんなこと関係ねえよ。振られたもん同士よ、そういう意味だろ?」
「違い過ぎるだろ、お互いに……。大地とは似ても似つかない」
「代わりを探してるんじゃねえんだ」
正宗が和臣の手首を握った。伝わる温度に、和臣は予想以上に驚いてしまう。どうしてだか今度はその腕を振り払うことができなかった。
傷の舐め合いとそう簡単に言ってのけた正宗だったが到底傷の舐め合いなどできそうにもない。第一和臣は大地に惚れてなどいないし、振られてもいない。正宗の勝手な勘違いだ。
正宗だって和臣を掴まえてそんな台詞を吐くなんて頭でもとち狂ったに違いない。大地とは似ても似つかないこの身体を、どう代わりにするというのか。可愛げも、小ささも、柔らかい雰囲気も持っていない。猫を被っている大地のことを正宗は知らないなら、なおさら無理だ。
それに、それに、和臣の心が必死になって否定をしている。
(あんた、馬鹿だろう。馬鹿だ。本当に馬鹿だ)
大地を好きだと、一言も言った覚えはないのに勝手に勘違いして、正宗が大地に想いを寄せているからと勝手にライバル視して、そんなこと望んでもいなかったのに。
(……俺が好きなのは、あんただ。ずっと、ずっと、だ。そうだ、大地の言う通りだ、宮城と付き合うことに、男と付き合うことに反対するなんて……人のこと言えないくせに)
どうしてこんな男に惚れてしまったのだろうか。叶う手立ても希望もない男を。
もう少し和臣が可愛くて小さかったら代わりになれたのだろうか。正宗のことを慰めてやれたのだろうか。もしくは正宗が小さくて可愛かったら、和臣が守るようにして抱きしめてやれたのだろうか。
ありもしないことを考えるだなんて相当逃げているな。自嘲して、和臣は掴まれている手を振り払った。
「……残念だな。間に合っている」
「ああ? どういうことだ」
「傷を舐め合いたいのなら他をあたってくれ。俺は受け入れられない」
「そんなこと言うのか? 和臣、てめえは俺以外に慰められやしねえんだ。第一てめえみたいに人との関係を拒絶しているお前を慰めてくれる奴もいないんだろ? 俺が慰めてやるっつってんだ。大人しく従っとけ」
「誰が……っ!」
流石の和臣でもその言葉には傷付いた。いや、もっと前から傷付いてはいたのだけれど。
好きで友達がいない訳じゃない。慰めてほしいとも言っていない。そもそもショックだったのには変わりないけれど、そういう意味ではないのだ。正宗が感じているような、失恋ではない。
手首を強く掴まれる。今度は振り解こうとしてもびくりとも動かなかった。正宗は全力を持って和臣を壁に押し付けると口端を上げて笑う。
押さえ付けている腕を跳ね除ける力もない。元々力自体ない和臣にとっては、正宗の拘束から逃げる手立てがなかった。
「呆気ないもんだな? こんなもんで逃げられなくなんのか」
「う、煩い! 手を離せ!」
「俺から逃げてみせろよ。そうしたら離してやっても良いぜ?」
片手だ。正宗は片手だけで和臣を壁に縫い付けると、そうっと顔を近付けてきた。
和臣とて長身の部類には入るが、それよりも高い正宗との違いで少しの影ができた。たった数センチの差で、これほどまでか。正宗とて肉付き的に力があるようには到底見えないのに、ここまで力の差があることに正直ショックだった。
男としてのプライドもあったのだろう。どれだけ力を込めても、撥ね退けることすらできない。
「降参か? 和臣」
馬鹿にしたような嘲笑い。正宗はぎりぎりまで顔を近付けてそう囁いた。
端正な顔を間近で見る。漆黒の髪同様、睫も瞳も黒い。少し釣っている瞳も、筋の良い鼻先も、薄い唇も、顔の造形全てが男前だと思う。そんな正宗に惚れてしまっていたのだ、和臣は。
ばくばくと心臓が煩く鳴り始めた。場違いにも程があるのにだけどどうしようもできない。止められもしない。想いもなにもかも。
さらり、と和臣が俯けば視界に焦げ茶の髪が映った。己の髪だ。そう思うのと同時に、影が差してなにもかもを闇に覆い尽くした。それは漆黒にも似た、暗闇だった。
「ん、……っ」
唇に広がったのは柔らかな衝撃。その正体に気付いて目を見開くころには、全身を正宗に包まれていた。
「んんー……っ!」
きつく抱きしめられてびくりともしない。正宗は唇を付けたまま舌で器用に唇を割ると、擽るように歯茎を舐めた。その慣れない感覚に戸惑ってばかりの和臣は刺激を与える本人に縋った。
十七にもなってと馬鹿にされそうだが、和臣は付き合う経験どころかキスの経験もなかった。それは和臣が続にいう男前に生まれてきた所為もあるだろう。
平凡過ぎる中身に伴わない非凡な見目が、和臣に過度の期待をかけた。それに応えられるほどの器量がなかった和臣はずっと独り身だったのだ。幻滅されるよりは、夢を見られている方が良い。プライドの高い和臣らしい選択といえば選択だった。
「……ガチガチになってるけど、キス初めてなのか?」
くすり、と笑われたような気がする。正宗を見てもなにを思っているのかすらわからない。反応もしない和臣の態度を見てどう思ったのか、正宗は口付けを再開させた。
今度は角度を変えて軽いキスを何度もする。時折悪戯に下唇を食まれて、舐められて誘い込むように舌が口腔に入ってくる。まさにされるままだった。
抵抗の仕方も受け入れの仕方も、なにもかも知らない。翻弄されるままの和臣は、ずきずきと痛みを増してきた胸を必死で誤魔化した。
そうして口付けを終えるころにはすっかり腰が砕けていた和臣は、正宗に解放されるや否や力をなくすと床にぺたりと座り込んでしまった。
がやがやと煩い人気が遠ざかる。誰もいない廊下といえども、誰がくるかもわかったものではないのに。そう冷静な判断ができるころ、和臣は意識をはっきりと取り戻すと見上げて正宗を窺った。
「キス、上手かっただろ? なあ、俺も結構お買い得だと思うけど」
そんなことは和臣の知ったところではない。どうしようもない胸の痛みだけが和臣をじくじくと攻撃して、どうすることもできずにその状態で膝を抱えると泣くのを必死で堪えた。
(……最低だ。どうして俺はこんな男が好きなんだろう……)