可愛くなりたい訳ではない。女の子のように小さくなりたい訳でもない。もちろん、柔らかくもだ。だけどそうなることで正宗が愛してくれるのなら、それを望んでしまうのだろうか。
高い矜持だけがはっきりと奥底で燻って訴えかける。このままの形で愛してほしいのだと。
どうなるにしても子宮のないこの身体では、正宗のことを繋ぎ止めておくこともできない。
惨めに敗北を味わうのは一度で良い。苦み走った味は一度食めばもう、きっと二度と食べたくなくなる。
これではっきりとした。今までどこか和臣の勘違いかもしれないと思っていた。正宗が大地のことを好きだというのは、和臣の勝手な勘違いだと、そう思いたかっただけか。
結局のところ正宗は言葉にしたのだ、慰め合おうと。それはつまり正宗も慰めてほしいと暗に言っているのと同じだった。
(やっぱりあんた、大地のこと好きだったんだな……今まではぐらかしてたけど……。勘違いなら、良かったのに。俺がこんなにあんたのこと好きでも、あんたは俺の気持ちに……気付きもしないんだ)
抉って傷付けて、乾く間もなく弄繰り回される。望みがないなら放っておいてほしいのに。残酷な手で正宗は和臣を地獄へと突き落とす。
代わりになんてなりたくない。本物が良い。だけど本物にはなれない。だからこの恋は、告げぬままにそっと消えていく。
あの日、正宗に振られたもの同士慰め合おうと提案され壁に押し付けられて無理に口付けをされた日、和臣は崩れ落ちたまま正宗を見上げると隙をついて逃げ出した。
実力行使に出られたら抵抗できない。ならば逃げるしかない。案の定正宗は追いかけてきて怒鳴ったが、逃げ足だけ自信がある和臣はなんとか自室へと走り込んだ。
心臓がばくばくと鳴った。目頭が熱くなって頭痛まで併発する。勘の鋭い同室である大地に気付かれる前に、和臣は直ぐ布団に潜ると授業もさぼってその日は一日中寝過ごした。寝過ぎて目が冴えてもベッドから出なかった。
そんなことがあってか、あまり調子の良くない和臣の様子を訝しんでラブラブ絶頂期だというのにも関わらず大地が一日中寄り添ってくれた日があった。大地がいるなら正宗も近付いてこないだろう、そう思っていた矢先、正宗はいつも通り姿を現した。
「よお、相変わらずべったりなんだな? そうそう気持ちは変わんねえか」
際どい言葉を吐きながら和臣の手を取る。外野の目がある以上ことを大袈裟にしたくない和臣は大人しく従う振りをした。騎士と呼ばれることを、維持しておきたかったのだ。
大地が怪しむような目線で訴えかけているのがわかっていたが、和臣は素知らぬ振りをして自然に正宗の手を振り払った。
「俺に触るな。……あんたこそ随分と余裕なんだな? この状況でもするなんて、あんたの方が都合が悪いんじゃないのか?」
もちろんそれは大地のことだった。正宗が片思いをしている大地の前で、慰めといえど和臣を口説くこと自体が少し可笑しなことでもあったし理解し難いところでもあった。
そんな和臣の心配も余所に、正宗は振り払われた手を取って和臣の手の甲に口付けた。
「大人しく俺のもんになれよ。そうすれば直ぐに忘れさせてやるぜ?」
「っ、結構だ! あんたのものにはならない! 肝に銘じておけ、俺の心は……渡さない」
きゃあ、と空気がさざめくのが見なくてもわかった。肌に感じるのだ。そのまま逃げるようにして去る和臣を、正宗は今度こそ追ってはこなかった。後ろで不敵に笑いながら手でも振っているのだろう姿が思い浮かぶようで、なんとなく悔しい。
隣では説明しろといわんばかりの大地の視線が痛い。和臣は人気のないところで止まると、こほんと咳払いをした。
「ちょっと和ちゃんどういうこと!? いつの間に櫻田とあんなことなってんの!? なにあれ? 和ちゃん、櫻田に言い寄られてたっけ!? っていうかそれじゃあ和ちゃん櫻田と両思いじゃ」
「違うんだ大地、そうじゃない……正宗は……そんなんじゃない。両思いなんかじゃ、ないんだよ」
そう言って悲しく和臣が笑うものだから大地はなにも言えなくなってしまう。事情はさっぱりわからないけれど、和臣が悲しんでいることしかわからないけれど、大地にできることなんてなにもないのだろう。
「……和ちゃん、無理しないでね。話なら、聞くし」
「ああ、心配かけて悪いな。……大丈夫だ。俺はそこまで弱くない。だからごめん、理由だけは……聞かないでくれ」
「……わかった。和ちゃんが、そう言うなら」
寂しそうにそう言った大地との会話もそれっきりで終わった。次の瞬間にはお互いなにもなかったかのような態度で、いつも通りの関係に戻る。姫と騎士として、幼馴染として、親友としての二人に。
そんなことがあってから、正宗のアプローチが大胆かつ目立つような場所で毎日繰り広げられるようになってしまった。初めは和臣とて隠れるようにこそこそしていたものの、正宗の声や態度が大きいから直ぐに広がってしまう。
数日経ったころにはすっかりと学園中の噂になって、正宗は一匹狼としてそれなりに注目されていた所為もあるからか騎士に新たな恋などというふざけた見出しも出始めてしまった。
どうも正宗は和臣を口説いているということが大地の耳に入っても良いように思える。自暴自棄になっているだけなのか、それとも嫉妬を誘いたいのか、その真意は量りかねるが和臣にはどうでも良いことだ。
(暇潰しなんだろ? 早く、飽きてくれ……。俺に構ったって大地は振り向かないのに)
日々の精神的苦痛が重なってか、和臣の顔色はめっきり悪くなっていた。好きな人に言い寄られることは嬉しくもあるが、その理由と動機がいただけない。和臣がほしいのは飽くまで心だ。心がないのなら、どんなに募られても痛みしか感じない。
今日とて言い寄る正宗から逃げ出してここまできた。溜め息だけが響く廊下には和臣しかいなかった。
そうってしておいてほしい。衆人環視の状況が辛い。正宗ほどの自己中心的性格なら、真っ向から大地に言い募っていそうなものの親友の相手だからと遠慮しているのだろうか。そう思えば正宗も辛い恋をしているのだろう。
(……駄目だ。そんなの関係ない。俺だって辛い。……俺の方が辛い、絶対)
息を吐いた。震える掌を握り込む。好きだ、好きだ、と言ってしまえれば楽なのに。頷けるだけの単純な性格なら楽なのに。慰め合うことができたのなら、苦しみも消えるのに。
ずるずると座り込んで、日々募る多くの悩みから重なる心労で動けずにいればここ数日で聞き飽きるほど聞いた声が聞こえた。
「和臣! てめえこんなとこにいたのかよ、探させんな」
少し荒い息が混じった声で叫ばれる。びくりと身体が震えて、逃げ出そうとするものの硬直してしまった所為でタイミングがずれて逃げ切れなかった。手首を掴まれる。つんのめって、格好悪く床に転げた。
「おっと……おい、大丈夫かよ」
原因は正宗にあるのに、わざとらしくもそう聞いてくる。和臣は会話するのも億劫になった口をむすりと閉じた。
無言の抵抗とばかりに手を引っ張ってみるも、びくりとも動かない。逆に腕を引かれて距離を縮めてしまう。床に座ったまま狭まっていく間に、和臣はどこかで経験したような繰り返しをした。
壁にぴったりと張り付いて俯く。影ができて正宗の腕の中に閉じ込められる。ほんの少し、肌が触れ合わない程度に空いた隙間だけが和臣の唯一の救いだった。
「いい加減諦めろよ。俺はしつこいぜ? てめえが頷くまではずっとこのままだ」
「……あんた、暇なんだな。俺なんてからかってないで本命にアプローチの一つでもしたらどうだ。そっちの方が楽しさもあるだろ」
「本命ねえ……。それなりにアプローチしてるつもりなんだがな? どうにも鈍くて気付いてもらえそうにもねえ」
楽しそうに言う台詞でもない。和臣はむっと眉間に皺を寄せた。想像の中では大地に優しく言い募っている正宗の姿があって、うっかり己に置き換えてみたりなんかして一瞬だけ照れるものの現実はこう上手くもいかない。
代わりの相手だなんて惨めにもほどがある。和臣はぎりぎりと音がするほど唇を噛み締めた。
「和臣、俺に落ちろよ。後悔はさせねえ」
「……暇潰しの相手は結構だ。あんた、本当の目的は……っ、なんなんだ! 慰めなんて柄じゃないだろ!? 俺をからかってるだけなんだろ!? いい加減にするのはあんたの方だ!」
激昂した感情が暴走する。語尾を荒げて叫ぶのなんていつ以来だろうか。騎士といって尊敬してくれる子がみれば目を引ん剥く光景かもしれない。それほどまで和臣は追い詰められていた。
必死の拒絶も、精一杯の強がりも、正宗には通用しない。どれほどの感情をぶつけても、正宗は楽しそうに笑うだけだった。
「泣くのか? てめえみたいな高飛車、泣かせんのも案外楽しいかもな」
「っ、ふざけるな……!」
「もっと泣かせてやろうか? ぼろぼろに泣くまでよ」
意地悪く笑った顔が和臣の脳内で変換される。いつだったか、柔らかく笑顔を向けてくれた日を思い出した。唯我独尊そうな表情が、年相応の可愛らしいものへ変わる瞬間。照れたような、はにかんだような、そんな笑顔だった。温かな日向のようなそんな微笑に、和臣はゆっくりと落ちていったのだ。
きっとそれが、恋の始まり。名もなく、宛てもない、消えていくと決まっていた運命の、恋の終わりでもあった。
(あんた、残酷なんだな。あんな笑顔向けておいて、平気で傷付ける……)
抵抗する力が根こそぎ奪われていくような感覚だ。座り込んでいることも気持ちが悪くなって、平衡感覚がなくなった。
消えてしまいたい。どこか誰もいないところに、消えてなくなりたい。愛だの恋だの、そんなちっぽけな感情でこれほどまでに己を見失ってしまうくらいなら、いっそうのこと恋なんて二度としたくない。
訝しげに正宗が和臣の名を呼ぶ。吐いた息が震えて、小刻みに途切れた。
「……おい、どうした?」
言葉すら紡げなくなった和臣に、正宗は些か焦りを見せ始めた。おそるおそる和臣の頬を両手で包んで、俯いたままの顔を上げさせる。そこには真っ青になった和臣が、瞳の色をなくして唇を噛んでいた。
「和臣……? お前、大丈夫か? 顔色が悪いぜ。そういえば少し痩せたか……てめえまさかそれ、俺の所為だっていうんじゃねえだろうな?」
なにを今更。正宗の所為じゃなければ、誰の所為だというのか。ああそれとも正宗の脳内では大地に振られたショックでこうまで打ちのめされていると変換してしまうのだろうか。
本当に馬鹿馬鹿しい。勘違いも甚だしい。叫んでやろうか、好きなのは大地ではなく正宗だと。
そこまで思って自嘲した。本音を言ったところで想いが通じ合う訳でもない。受け入れてくれることもない。正宗の心は、和臣には触れることもできないのだ。
(……嫌いになれたら、あんたのこと忘れることができたら……俺の心は、……そうなったらどこに行くんだろう……?)
限界だった。元よりずっとひた隠しにしていたのだ。思い出のまま、苦い想いを抱えたまま、擦れ違うこともなく卒業するつもりだった。こんなに近付くつもりもなかった。
心にヒビが入って割れた。正宗が目を見開いて、慌てたように頬から手を離し一歩後ずさった。和臣がその理由を知るのは、頬を滑った涙が床に落ちた所為だった。
(俺、泣いてるのか……?)
認めたら止まらなくなった。拭っても拭っても、あとからあとから湧いてくる。次第に本格的に悲しくなって、痛くなって声を漏らすように泣いてしまった。
「な……っ、お、おい! てめ、なに泣いてんだよ!」
泣かせたら楽しいと言った口から紡がれるのは殊更焦ったような口ぶりで、それに少しだけ笑いそうになったけれど和臣はこれ以上この場所にいることすら苦痛だった。
動揺している正宗を尻目に、縺れる足を奮い立たせて一歩を踏み出した。だけど泣いてしまった所為か、上手く身体がいうことを聞かなくて先ほどの二の舞になってしまう。
中途半端な体勢のまま後ろから正宗に羽交い絞めにされるように抱き止められ、その場から動けなくなってしまった。
「は、なせ……っ! 離せよ! あんたなんか嫌いだ! 最低だっ……! 二度と顔も見たくない! 俺から、おれから……っきえてくれ……!」
叫ぶように言った言葉に、正宗の歯軋りが耳元で聞こえたかと思うと抱く力が強くなった。
「和臣、落ち着け!」
「煩い! あんたなんかっ、あんたと慰め合うなんて結構だ! 俺に触れるな! 俺を見るな! 俺の視界に入ってくるな!」
「悪かった! 和臣、悪かった! 言い過ぎた、そんなつもりじゃねえんだ! お前のこと、本当に泣かせようと思った訳じゃねえ! ……八つ当たりしただけだ。……だから、俺の話を聞いてくれ。弁解させてくれねえか」
殊勝な正宗の言葉に和臣は口を閉じた。今更なにを言い訳にしようというのか。だけど殊の外正宗の声がしおらしく聞こえて、和臣は力を抜くように抵抗をやめた。
正宗の力がぐっと強まって、唸るような声が聞こえる。不思議に思って振り向こうとすれば鋭い声でいなされる。背中越しに正宗の息遣いと温もりだけを感じて、訪れた沈黙に耐えた。
「……言っとくけどな、原因はてめえだからな。お前が全部悪い」
「……は、あ? あんた、なに言って……」
「俺は佐久間を好きだって言った覚えはねえ。てめえが勝手に勘違いするから、つい言い出すタイミングがなくてここまできただけだ。……その……あー……とにかく、勘違いだ。俺は佐久間のこと、なんとも思っちゃいねえ」
正宗の言った言葉の意味が上手く飲み込めなくて、和臣はゆっくりと心の中で反芻する。つまり結果をいえば、今までの全てが根源から覆されたかのような告白だった。
大地のことを好きじゃないというのなら、和臣はどうすれば良いのか。沸き上がる疑問の数が多過ぎて上手に処理もできない。形になる前に感情の乱れで崩れていってしまう。
(だってそんなの可笑しい。じゃああんたは誰を好きだって言うんだ。なにを慰め合うっていうんだ。それじゃあ失恋した俺を、あんたが慰める意味なんてないじゃないか。どういうことだ? あんた、なにを企んでる?)
喉がからからに渇く。唸った和臣に、正宗はらしくもなく声色を和らげると縋るように強く抱きしめた。
「お前が佐久間のこと好きなのは知ってる。だからお前が、俺が佐久間のことを好きだって思ってる勘違いを利用させてもらおうと思った。丁度佑士と佐久間が付き合うことになったし……俺も、それにつけ込もうってよ」
思考が都合の良い方へと傾いた。正宗の言っていることを正すのならそれは、だけどそんなことはありえない。だって、だって、ありえないのだ。
「ま、さむね……あんた……」
「俺から言うのは格好わりいからって、逃げてた。嫉妬してた。てめえが佐久間とのことで落ち込んでるのが無性に腹立って、ただの八つ当たりだ。餓鬼で悪かった。お前を酷く傷付けた。ごめん、ごめんな、和臣」
「……あんたの、好きな奴は……大地じゃないのか?」
「なあ、俺がいっぱい愛してやるから、なにも考えられないくらい惚れさせてやるから、佐久間のことなんて忘れろよ。諦めて俺にしろ。大人しく俺のもんになれよ。和臣、てめえが好きだ。俺はお前が好きなんだ」
あまりにご都合主義の言葉に、和臣は言葉を失った。夢を見ているんじゃないかと思った。だけどばくばくと背中越しに聞こえる心臓の音も、体温も、緊張したような震えた息遣いも、全部がリアルで存在している。ここにある。
冷たい床に指が触れた。和臣はその言葉を全て理解すると、かっと火照るような熱さが全身を襲った。
(嘘だ、そんなの、嘘だ。夢か? いや、夢じゃない。だってあんたが俺を好きだなんてありえない。こんな俺のどこに惚れたっていうんだ。ありえないだろ? 嘘だ、いや……だけど……本物なのか?)
おそるおそる首を後ろに向ける。拘束が緩くなって、向かい合うような形になった。
(あんた俺が好きなのか? じゃあ今までの全部が嫉妬? 俺の、勘違い? そんなの……だけど、俺も勘違いしてた? 大地のこと好きだって、思ってたけど……それってもしかして、俺の気を引くためなのか?)
心の中だけは饒舌に、実際にはなに一つ言葉にできない。だけど言わなければならないことがある。ずっとずっと隠してきた。消えると思っていた。一生言葉にするつもりもなかった。そんな捨てきれない気持ちを、形にしても良いのなら。
騙されても良い。冗談でも良い。夢を見たかった。言ってしまいたかった。そうだ、和臣だって正宗のことを。
「……あんた、馬鹿だろ」
「あ!? 人がせっかく下手に出て告白してんだ、なんでそんなこと言われなきゃなんねえんだよ! 糞、こんな格好悪い予定じゃなかったんだよ。てめえが悪い、てめえが泣くから……! そんなに佐久間が好きなのかよ!」
「馬鹿だ……はは、馬鹿だろ」
「おい、いい加減に……っ!」
「俺だって大地のことを好きだなんて一言も言った覚えがない! あんたが勝手に勘違いしただけだ! 言うタイミングどころか、言っても意味がないから言えなかったんだ! 俺だって本当は、本当はっ」
視界が狭まる。息が詰まる。熱で焦がれてしまいそうになる。いや、死んでしまいたい。それでも言った。和臣は言葉にした。
「あんたが好きなんだ! あんたが、正宗が……ずっと、ずっと好きだった! 大地じゃない、俺はあんたのことが好きなんだよ!」
痞えていたものを、やっと吐き出せることができた瞬間でもあった。