握り締められた馬券、三連単。一着二着三着全てを着順で当てなければいけないという配当の高い馬券だ。
意思の強そうな瞳と、黒髪が似合う男が今か今かといわんばかりに睨みつけるその先には馬の群れ。会場の熱気は最高潮、デジタル掲示板に映されるアップのゴール、そうして騒音と共に叫ばれる馬の名前。
「ああああああああ!」
男が叫ぶのと同時に決着の付いた勝負。がくりと肩を落とした黒髪の男と比例して、隣にはご機嫌で馬券を抱き締める金髪の男がぴょんぴょんと跳ねたのであった。
「やったわ〜! 恭ちゃん、私の馬券当たったわよ!」
「うっせえええ! 単複狙いなんか当たるに決まってんだろーが!」
「あら、負け惜しみ? 配当が安かろうが勝ちは勝ちよ。いい加減万馬券狙いはやめたらどう?」
「男がけちけちすんじゃねえ!」
「あーはいはい。その話は後でゆっくり聞いてあげるわ。だからこの馬券換金してお昼ご飯食べましょ」
今にもスキップを踏みそうな金髪の慶(けい)は悔しげに唇を噛む黒髪の恭介(きょうすけ)の手を握り締めると、勝っただの負けただのと煩い競馬場を抜けたのである。
艶やかな顔付きに派手な風姿、緩い金髪のパーマが似合う一見して芸能人かモデルかに見えてしまうほどの美貌を持つ慶と、シンプルな服にすっきりとした黒髪、意思の強そうな瞳が特徴の男前である顔付きをした恭介が共に歩けば街中の視線を集めるのは当然ともいえた。
だが二人ともその視線に気付いているのかいないのか、然程気にした様子も見せず馬券をお金に引き換えると競馬場の近くにある定食屋へと入っていったのである。
見目からして係わり合いのなさそうな二人ではあるが、これでも付き合いは彼これ十年ぐらいに及ぶ。友達として、親友として、そして恋人としてどれほどの時間を共にしてきたことだろうか。
普段美容師をしている慶とサラリーマンをしている恭介とでは休みも違うし、生活サイクルも違う。だから一緒に出かけるためにはお互いが譲歩するように休みを合わせなければいけないのだ。
接待も入れず付き合いも入れずなにもしない一日をやっとの思いで作ったというのに、何故か出かけた先は競馬場。
最もそれに不平を感じているのは慶のみで、恭介は競馬が趣味だからか負けたのにも関わらずご満悦であった。
年配の男たちで埋め尽くされた定食屋で異色を放ちながらも席に着いた慶は、周りを見渡して大袈裟な溜め息を吐いてみせた。
「……ねえ、恭ちゃん」
「あ?」
座った途端競馬新聞を広げて、煙草を吸いだした恭介は慶の顔も見ずに適当な声音で返事をする。頭の中は競馬でいっぱいなのだろう。
一体いつからこうなってしまったのだろう。慶はあまりにも色めきたった雰囲気にならな過ぎて、ある意味悲しくなってきた。
街に繰り出せば幸せなカップルばかりだ。付き合いたての初々しいカップルは手を繋ぐのも恥ずかしいのか、時折周りを気にしながらも幸せそうにはにかんでいる。
愛が冷めた訳でも、恋心がなくなった訳でもない。だがこれはあまりにも酷過ぎる。
美容師の休みは基本的に平日な上、慶は二十代後半になってから自分の店を持つことになったので、ますます忙しくなり休みすらまともにとれない状況である。
それと違い恭介はサラリーマンだから休日祝日が休みであるが、付き合いだの接待だの残業だので平日でも帰りが遅かったり、休日も出かけたりする。
そんな中、やっと休みを合わせてデートすることができたというのに競馬。競馬が悪い訳ではない。だがもう少しいちゃいちゃとしたいのも事実である。
「……可笑しくない? ねえ、恭ちゃん、可笑しいって思わない!?」
「んだよ、てめーの喋り方のが可笑しいだろーが」
「これは昔からでしょ!」
「勝ったからって調子乗ってんじゃねえぞ」
「そういうことじゃなくて! ねえ、私たち最後にエッチしたのいつ!? キスは!? いちゃいちゃだって最近してないわよね!」
「……そうだっけ」
定食屋で話す会話ではないことに些か気まずさがあるのか、恭介は競馬新聞からこっそりと慶を見つめると少し考えるような素振りをみせた。
確かに慶の言う通り最近はなにかと忙しくまともな時間も取れなかった。
恭介が早く仕事を終えたときは家でご飯を作り、慶が帰ってくるのを待つ。そうしてくたくたな慶と夕食を食べ、ビールを飲み、野球を見て眠りにつく。慶が仕事を早く終えた場合は恭介の立場が慶になる感じだ。
お互い疲れ切っている身体でセックスをしようという若さも体力もなく、そんなことを言っている慶だって恭介を置いて眠る場合だってあるのだ。
「……つーかてめーもそんな気なかっただろーが、俺に責任転嫁すんな」
「……それ言われちゃうとあれなんだけれど〜、とにかく! 私は競馬をするために休みを取ったんじゃないの!」
「じゃあなにすんだよ」
「そりゃ〜いちゃいちゃしたいわ〜。一日中ベッドの中とか! いやーん、恭ちゃんのエッチ!」
「……頭までいかれたか」
ばんばんと机を叩く慶に可哀想なものを見る視線を寄越すと、恭介は丁度良く届いたカツ丼を勢い良く食べだした。
くねくねとしなを作りながら身悶える慶も天そばが届くやいなやぴしっと背筋を元に戻すと、今までの様子が嘘のように天そばを食べ始めたのである。
付き合って十年という長い時の中いろんなことがあった。高校生のときに付き合い始めて、卒業してから同棲をし始めた。お互い進路も夢も違って、ときに喧嘩だってしたし家出だってしたりもした。それでも別れ話は一回とて出ていない。
本格的に付き合う前は何度も別れたりしてセフレだったりした時期もあったし、喧嘩ばかりしていた。不良チームだなんだっていって、輝かしいような恥ずかしい青春を謳歌したりもした。
大人になるにつれて周りの環境が変わっていっても、この関係だけはなに一つ変わりはみせていないのだ。
そりゃ昔は一日中セックスしたり、馬鹿みたいに恋焦がれたり、好き過ぎて泣いたこともあった。今思えば赤面ものの話だが、お互い若かったし初々しかったのもあるだろう。
それがなくなってしまった。いや感じにくくなってしまったことに、慶は少なからず不満のようなものを腹の底で飼っていた。
愛されているという実感はある。愛しているという自信もある。だがお互いがお互いの存在を酸素のように思っているために、大切さに気付けていないのではないだろうか。
所謂倦怠期、マンネリ化、そうなってしまった現状に、慶はじたばたともがいて恭介に訴えてみるものの恭介はなんのその、煙草の煙を慶に吐きかけて極悪面で笑うだけだった。
それから暗に嫌だと言っている恭介に拝み倒して慶は二人が住むマンションへと戻ると、今度は慶のしたい休日を満喫することにした。
どうせ夜になれば二人は野球中継に釘付けなのだ。麒麟ビール好きの阪神ファンの慶と、ASAHIビール好きの巨人ファンの恭介。趣味も嗜好も応援球団も仕事もなにもかも違う二人だが、だからこそ馬が合うのかもしれない。
本日はナイターTV中継、因縁の対決ともなればTVに釘付けになってしまうのはわかりきったことだった。だからこそ、日が照っている内に思う存分昔のようにいちゃつきたい。
部屋に入って疲れを癒すように肩を回す恭介の後ろから慶は抱きつくと、そのまま押すようにソファへと倒した。
「慶! てめー早速盛ってんじゃねえよ!」
「良いじゃない。久しぶりなんだし〜。抜いてもいないのよ、そろそろ限界よ〜」
「まあ、お互い忙しかったしな」
「そうそう。エッチする暇もないなんて……」
「でも睡眠のが大事だろーが」
「そうなんだけど〜! っていうか最近ね、朝勃ちしなくなっちゃったのよ。もう私も歳よね」
「……そう言ってるけどよ、当たってんだよ」
「だって恭ちゃんの匂い嗅いだら興奮しちゃうんだもん」
「あ、そ」
そっけない返事ではあったが、耳がほんのりと赤くなっている。なんだかんだ言いつつ恭介もそれなりに溜まっていたのだろう。
慶は髪で隠れた項部分をぺろりと舐め上げると、耳元に唇を寄せた。
「恭ちゃん、キスしたい」
「……、っ」
「こっち向いて? ね、恭ちゃん」
はむり、と耳たぶを甘く噛んで仰向けになるように促す。嫌だの無理だの口ではそう言っている恭介もだんだんと慶に絆されてきたのか、求めているからなのか渋々といった様子ながらも振り向いた。
眉間に皺を寄せて不機嫌そうな表情。だが赤く染まった顔が、それを可愛くみせているから不思議なものだ。
十年経った今でも慶の目に入れても痛くないほど恭介は可愛い。可愛いというと嫌そうな顔をする恭介も流石に十年も言われ続ければ、反論はしなくなっていた。
顔中にキスを送って愛情を確認する。伏せられた睫が期待に震えて、慶はそれに応えるべく唇を一舐めするとそのまま割り入れるように舌を忍ばせた。
煙草の味で満たされている恭介の口内をゆっくりと味わうように旋回させると、宙に浮いている恭介の手を慶の背中に回すように促した。
「ふ、……ん……」
鼻にかかったような甘えた声。触れ合っていない期間が長すぎた所為か恭介は直ぐにとろりととろけてしまうと、普段は拝んでも甘えてくれないのにすんなりと甘えてきた。
お互いの熱が急激に上がっていくのがわかる。久しぶりだから思う存分焦らして苛めて泣かせてやろうか、そう思っていた慶ですらその余裕がなくなっていく。
意識していないだけだっただけで、触れてしまえばここまで飢えていたのだと初めて気付いたようだ。
焦れたような手付きでシャツに手を差し込む慶に、恭介は既に熱くなっている性器を慶の股に押し付けた。
「恭、恭ちゃん!?」
「……早く、しろよ」
「え、あ、……大胆、ね」
「うるせー。てめーから言ってきたんだろ、が……も、……」
慶の手を掴んで、恭介は自分の性器へと持っていく。下から慶の目を見つめて唇を舐めながら挑発をしかける。
昔こそはやられるだけやられて、誘うことは恥だと考えていた。男なのに女役なんてなんでしてんだって思いがどこかにあったのだろう。
だがここまでくれば慣れたものだ。もう諦めた部分もあるが、慶ならば女役もそう悪くないと思えるから。
どっちがどっちだなんて意味のないことを考えて悩むよりは、お互いが気持ち良くなれることを考えた方が得策だ。セックスの立場がどうであれ、関係性になんの支障もないのだから。
恭介は火の付いたであろう慶を見て笑うと、自らズボンを降ろしパンツもずらして見せ付けるように自分で扱いてみせた。
「は、っ……ほら、慶……」
「も〜……恭ちゃん、大好きよ」
恭介の手に重ねるように手を置いて、慶はそのまま首筋に顔を埋めると急くように身体を繋げたのであった。
それから何度か欲を解消させるために行為を続けてはいたものの、流石に久しぶりとあってか気持ちはもっともっとと求めていても身体が追いつかず、途中で断念せざるを得なかった。それでも三回はしたので、した方だろうとは思う。
慶はソファでぐったりとしている恭介の身体を甲斐甲斐しくみると、楽しそうに歌を口ずさんだ。
「慶! 水持ってこい!」
「は〜い、どうぞ」
「おう、……つーか、今何時? まだ七時じゃねえよな?」
「ええ、まだよ。今日はナイターですものね。いっぱいおつまみ用意しなくっちゃ」
「肉食いてー、今日は慶が作れよ」
「わかってるわよ。それまで寝てる? 恭ちゃん、ナイター始まる前に起こしてあげるわよ」
「んー……なら、寝る。あ、ビール冷やしとけよ。それと発泡酒は買うんじゃねえぞ」
「はいはい。わかってるわよ」
もそもそと場所を変えると、恭介はソファの上で丸まるようにして目を瞑ってしまった。余程疲れていたのだろう直ぐに寝入ってしまった恭介に、ほっこりと胸も温かくなる。
昨日も休みだったといえど、恭介は接待ゴルフに朝早くから出かけてしまっていたのだ。
今日も朝早くに起きて競馬に出かけ、午後は久しぶりのセックスを堪能するように貪りあった。
また今日を過ぎれば忙しい日々がやってくる。お互いの休みを合わすことができるのは月に一度ぐらいしかない。普段はセックスよりも休息を求めてしまうから、また欲の日照りが続くのだろう。
それでも、恭介がおかえりと言って迎えてくれたり、ただいまと言って帰ってきてくれるのだけでも、慶にとってはこの上ない幸せなことでもあるのだ。
贅沢をいえばいちゃいちゃもしたいし、体力があるのならセックスだってしたい。昔のように初々しい関係を保ってもみたい。それでも今は昔とは違った良さがあって、未来は今とは違うまた良さがあるのだろう。
こうやってぐちぐちと言いながらも結局は幸せなのだと、思えることこそがきっと最高の幸せなのだ。
慶は少し伸びきった髪をゴムで括ると、恭介の好物であろう料理を作ることに奮いをかけるのであった。
それから買い物に行った慶はナイターが始まる前までに全ての用意を終えた。肉と言ってはいたが、脂っこいものが好きではない恭介のために自家製焼き鳥にしてみた。
他にも枝豆だの冷奴だの出汁巻き玉子だの、普段は作らないような料理を丁重に作り上げ、お互いが好きなビールもキンキンに冷やした。正直ビールは麒麟だろうと思ってはいても、そこは口には出さない。というよりこの十年で何度も喧嘩したからだ。
後はTVをつけて恭介を起こすだけ。慶は気持ち良さそうに眠りを貪っている恭介の身体をゆさゆさと揺らすと、乱雑に起こしたのである。
「恭ちゃ〜ん、起きて、ナイター始まるわよ。阪神VS巨人戦よ! 今日こそ阪神が勝つんだからね!」
「……巨、人に決まってんだろ……」
「起きた? ほら、早く早く」
「んー……今日の先発誰」
大きく伸びをした恭介はのろのろとした動作で椅子に腰を降ろすと、慶が用意した煙草に火を点ける。それと同時にTV画面が変わり、放送は野球中継に変わった。
放送は七時からだが試合は六時から始まっているので既にゲームは進んでいる。一点を先制して勝ちをリードしているのは巨人、だが三回表阪神の攻撃でツーアウト満塁なので阪神のバッターがホームランを打ってしまえば一気に逆転してしまうのだ。
ツーアウトだからといってぬか喜びできる状況でもない。恭介は苦々しげに煙草の煙を吐くと、ご飯に手を付けずにはらはらと試合の行く末を見守った。
「なに早速満塁とかされてんだよ、ったくよ……」
「まだ一点差だものね。今からでも逆転は可能だわ」
「うっせー。巨人が負ける訳ねーだろ!」
「あら知らないの? 今年の阪神は一味違うわよ。油断してると痛い目みるんだからね」
「ふん、そっちこそ。巨人も生え抜き選手が育って良い仕事してんだよ。舐めてっと承知しねーからな。……つーか、これすげえな、全部手作り?」
「ええ、そうよ〜。恭ちゃんも私も明日からまた仕事でしょ? 休みの日ぐらいしか手の込んだもの作れないしね。じゃあ乾杯する?」
「おう。巨人の勝利に乾杯!」
「阪神の勝利にかんぱ〜い!」
かん、と缶同士が当たる音が小さく響く。顔を見合わせて微笑むのも一瞬で直ぐに恭介の叫びでそれも掻き消されてしまった。
TVから聞こえるのは阪神のバッターがホームランを打ったという興奮した解説者の声。一気に四点も追加で入った阪神が逆転だ。夜も、勝負も、まだまだこれから始まったばかりである。