酸素のような 02
「は〜……」
 思慮深い溜め息を吐いてモップの先端に顎を宛てた慶は掃除も上の空のまま、物思いに耽っていた。
 あれからまた忙殺されるような日々が続き、生活は完全に擦れ違い。慶の方も忙しいのは忙しいのだがそれ以上に奔走しているのは恭介の方で、大きなプロジェクトを立ち上げただとかなんとかで終電帰りが多くなったのだ。
 一緒に生活をしているというのに顔を見合わせて話すこともできないなんて、慶には耐え難い事実でもある。
 だが慶とて自分の店ということもあってか業務を疎かにすることもできず、ただ時計を何度も見ては諦めたような息を吐く他なかった。
「慶、どうした? 恭介と喧嘩でもしたか?」
 誰もが遠巻きにして話しかけることすらができなかった慶に、物怖じせず話しかけることができたのはここのチーフでもある太郎(たろう)だった。
 見た目は美容師に見えないほどいかついが、誰よりも慶のことを理解している。太郎が立ち上げた不良チームがきっかけで親友というほどまで仲を深めた二人は、腐れ縁か就職先まで一緒になった。
 そんな太郎に話しかけられた慶は、無駄にきらきらとした瞳を太郎に向けるとずずいと近寄った。
 太郎が慄いて一歩後ろに下がってみせるが、それでも気にした素振りなどみせず慶は口を開いた。
「たろちゃん〜! ちょっと聞いてくれる!? 恭ちゃんとのことなんだけど」
「お、おお」
「最近ね恭ちゃん忙しくって、まともに会話もしてないの。朝も私より早く出て行っちゃうし、楽しみにしてたナイターも見れなくってね、それですっごく機嫌が悪かったの。というよりここ数日は顔さえ見てないわね」
「へ〜、つーかおめえら飽きねえよな〜。昔からなんだかんだいって喧嘩してたりしたのによ〜未だ喧嘩してんのか?」
「喧嘩はしてないわよ! ただちょっと倦怠期? っていうの? あれ、違うわね……擦れ違い? まあ倦怠期でもあるんだけれどもね、もう、私どうしたら良いのかわかんないのよ〜」
 じたばたと駄々を捏ね始めた慶に太郎はげっそりとしてみせると後悔をした。
 昔からなんだかんだいって慶と恭介の痴話喧嘩に巻き込まれてきた太郎は、痛い目ばかりみてきたのである。
 最近こそ恭介と会う頻度が減った所為か直接的なことに巻き込まれてはいないが、慶の愚痴の付き合いという間接的なものには日々疲弊させられてきた。
 二人がどういった経緯で付き合い、どんな付き合い方をしてここまでやってきたのかという全てを知っているのが太郎しかいないために慶の愚痴が向かうのだろうが、それでも疲れるものは疲れるのだ。
 黙っていれば男前である慶も、この通り喋り方で損をしている部分がある。それでなくとも徐々にへたれてきている所為か、最近では滅法恭介の尻に敷かれているような気もするのだ。
 ぐだぐだと同じことを言いながらくねくねとしなを作っている慶に、流石の太郎も呆れを露にさせると持っていた書類を丸めて慶の頭を叩いた。
「いったーい! なにすんのよ!」
「取り敢えず、先に掃除終わらせろ、な? 帰れないだろ? みんな」
「あ〜……そうね、そうよね」
「俺も勘定管理とかあるしよ、てめーが経理やんねえから溜まってんだよ」
「だって、お金のこと良くわかんないし〜たろちゃんに任せてたら安心だもの」
「仕入れのこともあっからよ……ちょっと時間かかるけど良いか?」
「なにが?」
「愚痴、聞いてやっから……大人しく掃除して待ってろよ」
「た、たろちゃん!」
 きゃあきゃあと煩く騒いだ慶に、太郎はこれ以上の面倒はみられないとその場を去ると慶が騒ぎ出す前に経理の仕事と仕入れチェックを素早く行なうのであった。
 肝心の慶はといえば残業で練習していた美容師たちに引っ張られて隅に追いやられたのである。

 それから練習をしていた美容師たちを帰し、戸締りをして慶と太郎は夜の街へと繰り出した。
 明日も仕事があるのだが今日は一晩慶に付き合ってやると決めていたのだ。太郎は慶に恭介への連絡を言い渡すと、居酒屋へと足を踏み入れた。
 少し遅い時間とあってかそれほど混んでもいないそこで、ほどほどの肴をあてに酒を飲む。ほろ酔い気分になってきたところで話題を切り出せば、慶はううんと口を篭らせたのである。
「つーかおめえは結局なにがしたい訳?」
「え? なにってなに」
「だからよ、恭介が甘えたり、仕事早く終わらせたり、セックスしたがってきたりしたら満足なのか?」
「え〜そういわれると困っちゃうんだけど……なんていうのかしら〜、……うーん、倦怠期脱出っていうか、そうなるのかしらね〜……私は恭ちゃんのこと心配してるのよ」
「仕事についてか?」
「そう。身体壊したりしてないかしら、とか、心配もさせてくれないんだもの。それにね、頼って欲しいってのもあるし、甘えてもほしいわ。今の関係に不満がある訳じゃないのよ、でもね、……なんていうのかしら」
 大きな溜め息を零した慶は日本酒片手にだんまりと言葉を閉じて、なにかを考えるように目を瞑ってしまった。
 今まで蓄積されてきた慶の愚痴を掻き集めて太郎なりに整理をしてみても、慶がなにに悩んでいるのかさっぱり検討もつかない。太郎には十年も付き合った恋人がいないため的確なアドバイスを与えてやれることができないのだ。
 慶には慶なりの感じ方があって悩み方もあるのだろう。恭介とて今の状況になにかしら引っ掛かるものを覚えているのかもしれない。
 これといった解決策さえ言ってやることができない太郎は一度考えを巡らせてみると、適当な言葉を並べ立てた。
「つーかよ、家出たら?」
「え!? なに言ってるの! 恭ちゃんと同棲やめるなんて言語道断よ!」
「そうじゃなくってよ、別居っていうのか?」
「べ、べ、べ、別居ですって!?」
「あーほら、今度コンテストあるだろ? おめえ曲がりなりにも店長だしよ、毎年あいつらの世話見てんじゃん。カットの仕方とかメイクとか衣装とかいろいろ用意するもんもあるし、忙しくなって帰れねー日も続くじゃん」
「ああ、そういえばそんな時期だったわね……」
「だからそれにあやかってよ、一〜ニ週間だけ家空けてみたら? 恭介におめえが必要だって思わせるチャンスでもあるし、マンネリ脱出できるかもじゃん。どーせ家帰る時間もねえんだしよ」
 そこまで言ってそれが名案のように思えてきた太郎は押すようにその意見をプッシュしてみた。
 最近は家出こそしていないが、それでも同棲をし始めた当初は喧嘩する度に慶が家出するなり恭介が家出するなりして太郎の家に厄介になっていたのだ。
 喧嘩をしている訳ではなさそうだが、お互いの関係を見直すために一度離れてみるのも手の内だろう。慶とてぐだぐだと言っているが、恭介がいなければそれだけで足りないのだとわかるだろう。
 ちびちびと舐めるように冷酒を飲んだ太郎は、眉間に皺を寄せて悩みに悩みまくっている慶の背中をぱしりと叩いた。
「なるようにしかなんねえだろ」
「……でも、そこまでじゃないのよ。それに私、恭ちゃんの顔見ないとやる気もでないわ」
「最近見れてねえんだろ?」
「そうだけど、恭ちゃんの気配すら感じられないなんて……悪夢だわ」
「じゃあそのままでいたら」
「それも嫌なのよ〜! うーんうーん、どうすれば良いのかしら……困ったわ」
 頭を抱えて悩み始めた慶に、太郎はそれ以上付き合ってもられず言葉少なに宥めてやることしかできなかった。

 それから幾日かが経ち、慶の店もコンテストに出るということで例年の如く忙しさに拍車をかけるような目まぐるしい日々がやってきた。こうなってしまえば恭介だけが忙しいのではない。
 慶も睡眠時間を確保するのだけで精一杯で、恭介におはようやおかえりなさいすら言えない状況になってきたのである。
 どんなに忙しい日々を送っていても慶が頑張れている理由は恭介の存在だけなのだ。毎日へとへとになるまで働いて、休みすら取れず、今ですら着替えを取りに家に戻ってきただけ。
 ここで一休憩入れたら直ぐに店に戻って美容師たちのカット技術を見なければいけない。店長であるが故にコンテストには出場しないが、それでも自分の店の美容師が出るとなれば見てやるのが店長の仕事である。
 酷い眩暈に襲われて眉間を寄せた慶が疲れを吐き切るように息を出せば、玄関の方でがちゃりと鍵の開く音がした。
「恭ちゃん……?」
 起きて顔を見合わせるのは久しぶりである。慶は重い身体に鞭を打って玄関へと迎えに行けばそこには慶以上に困憊した顔を晒している恭介がいた。
 随分とやつれてしまったその顔にはくっきりとした隈が浮かび、まともな食事もしていないのか頬はこけている。
 慶の顔を見るやいなやよろけてしまった身体を、慶は慌てて支えるとその身体の細さに言葉を失った。
「恭ちゃん、……大丈夫なの? 働き過ぎじゃない? こんなに痩せちゃって……」
 こんな風になるまで恭介の異変に気付けもしなかった自分に、慶は自己嫌悪する。ぐっと握り締めた肩に恭介はなにを思うのか、心配そうにみやる慶の手を振り払うとそのまま壁に手を付いて歩いた。
 ただいまも、おかえりもそこにはない。ただ拒絶するように慶に背を向けて歩く恭介に、慶は手を浮かせたままどうすることもできなかった。
 巨人が負けた。ASAHIビールが売り切れていた。仕事が上手くいっていない。残業ばかり、休日すらない。きっといろいろあるのだろう、恭介を悩ませる要因など。
 ボロボロになるまで働いて、息をするのさえ億劫になって、会話すらさせてくれない。
「……恭ちゃん」
 リビングに行けばソファに項垂れるようにして沈んでいる恭介の姿。慶がいることも、話しかけていることも気付いているはずなのに、それでもなにも応えてくれない。
 なにかしてほしい訳ではない。慶とて身体は疲弊しているが、それでも恭介が甘えてくれるのならそれこそ疲れも吹っ飛ぶだろう。
 仕事がしんどいだとか、疲れただとか、たった一言でも愚痴ってくれれば、荷物を持たせてくれれば、それだけで慶は心がほっと安らぐのに。
 慶は気まずいながらも冷蔵庫から取り出した水をコップに注ぐと、ことりと机に置いた。
「ここに水置いとくわね。……ねえ、なにか食べる? 私も直ぐ出なきゃいけないから簡単なものしか作れないけれど、それで良いならなにか作るわ」
「……いい」
「え?」
「いい。なにもいらねえ」
「でも……恭ちゃんなにも食べてないんでしょ? そのままじゃ身体壊すわよ」
「うるせえんだよ。ほっとけ! それぐらいで壊れるような柔な身体してねえよ!」
「恭ちゃん……貴方鏡で自分の顔見てるの? しんどいのはわかるけど、少しは食べなさい。倒れたら元も子もないわよ」
 ソファから動きもしない恭介に寄って、慶は持っていたコップを手渡そうとした。だが思わぬ反撃を食らい、苛立っている恭介が手を払うとそれを慶の手から叩き落とした。
 ガチャンという大きな音を立てて割れるコップと舞う水。一瞬強張った恭介であったが、それでも内々に鬩ぎ合う苛立ちを抑えることができないのか戸惑った面持ちを慶に向けた。
 嫌な空気が二人を包む。呆然と立ち尽くしたままの慶と、下唇を噛んで泣きそうな顔を浮かべた恭介。ただただ沈黙ばかりが辺りを支配してどうすることもできなかった。
「……け、い……わりい」
「良いのよ。恭ちゃん、怪我するからそこから動かないでね。私が片付けるわ」
「っで、も……」
「ふふ、煮詰まってるのね。忙しいときは誰だって苛々するわ。私も上手くいかないときは誰かに八つ当たりしたくもなるし、構ってくるのだって煩わしくなっちゃうもの」
「ちげえ、慶、そうじゃ」
 立ち上がろうと身体を起こした恭介の身体をやんわりと押し戻すと、恭介はにっこりと笑みを見せた。
 乾いたタオルとビニール袋を用意して、手を切らないよう慎重に割れたガラスと水を片付けていく。恭介の迷ったままの視線が痛いほどに突き刺さっても、慶は顔を上げなかった。
 謝るタイミングを完全に失った恭介は綺麗になっていく床を見てなにを思うのか、伸ばそうとして迷ったままの指先だけが正直に動いていた。
「慶……」
 震えた声音で名前を呼ばれる。こうやって会話をするのはいつ振りになるのだろう。慶はやんわりと恭介の言葉を遮ると、痩せこけた頬に指を滑らせた。
「恭ちゃん、仕事忙しいの? まだかかりそう?」
「……ああ、ぜってえに失敗できねえプロジェクトで……やっと目処がついた、ってとこか」
「そう……じゃあ丁度良いわね。恭ちゃん、私暫く家を空けるわ」
「え?」
「お互い独りになって考える時間を持ちましょ。私の方もね、コンテストがあって、そうね、一〜ニ週間くらいかしら?」
「出て、いくのか」
「いやあね、大袈裟よ。ちょっと家を空けるだけよ。終わったら帰ってくるわ。それまでなら恭ちゃんの仕事の方も大方片付いているでしょ? それまでゆっくりして。私のことは考えなくても良いから」
「慶、そんな」
 なにかを紡ごうとしている恭介の唇に、慶は優しく触れるだけの口付けを送った。
 久しくしていなかったキスは二人にとって極上の甘さで、もっととねだる恭介の唇を断腸の思いで引き離した慶は、呆然としたまま見上げてくる恭介の髪を撫ぜた。
 このままではなんとなくだけれど、駄目な気がする。というのは建前で少し距離を置いてみるのが妙案に思えたからだ。
 恭介のストレスが解消されれば良いだなんて良いことを言っておきながら、本当は恭介の方から助けを求めるのを期待している。助けてと、たった一言が聞きたい。それだけなのだ。
 唇を噛み締めて、行かないでと顔で言う恭介の手を離して慶は立ち上がった。
「恭ちゃん、ご飯はしっかり食べるのよ」
「……ああ」
「仕事してたらあっという間よ。お互いの仕事が片付いたらそうね、有休でも使って温泉でも行きましょ?」
「……うん」
「じゃあ私取り敢えず行くわね。荷物とかは明日やるからそのままで良いわよ。恭ちゃんも仕事頑張って」
 机に置いてあった鍵を手に取って振り向かずに玄関へと向かえば、小さく名を紡がれる。いつまでたっても素直になれない恭介が、息抜きをしてくれるのはいつになるのやら。
 悪いことをした後のようなそんな後味の悪い思いを抱えて、慶は重い扉を開いた。