「魚々っ!」
「……そのネタちょっとやめてくれない」
雅が放った言葉に強い衝撃を受けた大志は、そう言わざるを得なかった。
麗らかな気候の昼下がり、珍しくも雅と大志は学食にきてお茶をしていた。お互いとも勤勉に励むべく真面目に授業を受けていたのだが、丁度同じタイミングで授業がなかったので暇潰しがてらに入ったのだ。
そこで雅に何気なく言われた言葉に、驚きを隠せなかった。本当にさらりと、どうでも良いように言ってのけたから。
「しょ、証拠は!?」
「証拠ねえ……そう言うと思って用意したけど。これ、三谷と二人分」
カチャリと珈琲カップが音を立てる。優雅にそれを口に含んだ雅は、空いている方の手でチケットを二枚差し出した。
大志はそれを受け取ってじいと見つめる。証拠はない。けれど行けばわかる。そう言いたいのだろう。
(こんなの予想してなかったし〜! 早過ぎっしょ!)
雅と大志のままごとのような恋愛、基プラトニックな付き合いは順調だった。キスはそれなりに、たまに触れられて、だけど最後まではしない。雅がドラァグクイーンになるまでは。
だけどその制約はあっさりと覆され、遠い未来だったはずの約束が現実となって大志に降りかかった。
雅が言った言葉は、ドラァグクイーンになれたということ。すっかりと抜け落ちていたのだが、そもそもドラァグクイーンという明確な存在定義がないのがなによりの問題だった。
弁護士、医者、先生など職業は山のようにある。大体それらは資格なり免許なりを得て、一人前と認めてもらえるものだ。
だけどドラァグクイーンは立派な職業ではあるのだが、なるための資格や免許というものがない。店でメイクをして踊っている時点で、そもそも雅はドラァグクイーンとして働いていたのだ。
下積みのドラァグクイーン。決して有名ではないけれど、ちゃんとしたドラァグクイーン。そんな雅がある線引きとして考えていたのがこれ。
「一流になるのは程遠いだろうけれどね、一応そういうことでしょ」
「う、うええ……」
「俺がメインのショーの公演、今日の夜ね。前座だけど練習してたんだ、あんたに秘密で。わかんなかったでしょ」
「そ、そりゃ言ってくれないとわかんないっしょ! だから最近忙しかったんだ!」
「トリじゃないのが残念だけどね。でもやっとここまで、ってとこかな。取り敢えずは第一歩」
「……ほ、ほんとにい……?」
「約束でしょ。楽しみだな。そんなセックスに興味持てなかったけど、あんた見てると楽しくなるね」
確信を突いた言葉、大志はがっくりと項垂れると嬉しいのやら悲しいのやら、どんな表情をして良いのかわからなくなった。
雅とのセックスを受け入れる気はあったのが早過ぎる。想定外だ。もう少し、もうちょっと先だと思っていたのに。あの夜から二ヶ月ちょっとしか経ってはいないではないか。
(確かにここまでくると俺もエッチ断ちしてる訳だからあ、ちょおしたいっ! でもでもあっちは、やっぱこええ!)
手に持ったチケットを何度も見返す。優待券と書かれたそれは、雅が頼んで作ってもらったのだろう。ご丁重にも秋平の分まで用意してくれていた。
前座だと言っていたけど、雅の夢でもあるドラァグクイーンとしての世界が今開かれようとしている。大志はそれを間近で見て応援できる。嬉しい、嬉しい。
それと同時に受け入れるセックスというのも受け入れなければならない時期がやってきたのだ。
覚悟はしても怖いものは怖い。セックスはしたい。だけど腹は括った。雅のためならなんとやら、だ。好きだ、愛している。男に惚れた時点で、先に惚れた時点で、雅には頭が上がらない。
大志はうだうだと脳内で同じことを繰り返して、チケットを握り締めた。上目で雅を見つめれば綺麗な顔でにっこりと微笑まれる。
「大志、どうかした?」
細いフレームの眼鏡も、さらさらとした黒髪も、切れ長の目も、涼しげな顔立ちも、甘い声も、全部が大志の心を擽ってしまう。タイプ過ぎる。もうどうにでもしてくれて良い。
頬をほんのりと染めた大志はでれでれに顔を緩めると、ううんと首を横に振ってみせたのである。
「ほんと呆れるわ。お前にも、あいつにも」
くいっと酒を煽りながら言った言葉は、大志には聞こえていないのだろう。最もバックミュージックが大き過ぎて秋平にすら聞こえなかった。
大志からチケットを手渡されたのが夕刻過ぎで、それから数時間もしない内にこの“プリシラ”に連れてこられた。正直急過ぎる。なにもかも。
チケットをもらったこと自体が今日だというのだから、全くもって関係がないのに秋平は二人に振り回されてばっかりだ。
秋平はステージの上を見る。そこには宣言通り真ん中に立って綺麗なメイクで踊る雅がいた。もちろんやり過ぎなメイクで、歌うのはどこかで聞いた曲。
(しっかしまあ……とんだ巻き添えっていうか……これって、なあ?)
雅が動く度に奇声を上げて嬉しそうにしている大志に視線を向ける。いちいちオーバーリアクションで煩いことこの上ないが、ここでは目立ってもいない。
頬を赤く染めているのだろう大志は、酒などには目もくれずただひたすらにステージを見つめていた。
「ちょ、ちょおぱねえ! 雅ちゃんすっげきれえな! メイク薄い方が好みだけどお、あれはあれで良いと思うんだよね、俺!」
「ふうん」
「秋平はどう思う!? あ! 雅ちゃん俺のだからな!」
「盗らねえって、馬鹿」
「なんで!? 秋平は雅ちゃん見てもどきどきとかしねえのかよ!」
「お前酔ってる? っていうかさあ……平然としてるけど、高屋がああしてるってことはお前」
秋平が言い掛けた言葉は、最後まで言葉にならなかった。大志が制止を掛けたっていうのも理由の一つだが、薄暗い照明で派手なステージライトの光に包まれていても大志の顔が真っ赤だとわかったから言葉を詰まらせたっていうのもある。
「い、言うな! わかってるし!」
「あ、そう?」
「考えないよう……してんの。だ、だってまだ覚悟決めてねえもん……あ、で、でもやっぱ、その、な? うええ……こええ……けど、あ! でもあれ、あの雅ちゃん……俺の彼女なんだよな」
ステージに視線を追う。つられて秋平も見た。そこにはどこの時間帯の雅よりも輝いている姿があった。
こてこてのメイクで素顔を隠して、似合いもしないドレスを着て、ステージに立って歌って踊る。世間からあまり受け入れられないであろう姿だが、それが雅の夢というのなら大志の夢でもある。
ゆったりと扇子を流して伸ばした腕の先、大志を見つめた雅はウインクを落とした。もちろん、大志に向けてだ。
(うっわ〜あいつあんなことするんだ……キッザ〜っていうかあんなキャラだったか?)
秋平が呆れをみせたことなど気付いてもいないのだろう。ステージと客席というのにも関わらず、二人の世界を築いてしまっている。
やってられないとばかりに酒を飲む秋平の隣で、大志は少女漫画のように嬉しそうにきゃっきゃきゃっきゃとはしゃぐのであった。
それからショーは雅の前座を皮切りに、いろいろなものを見せてくれた。これで見るのは二回目だが、やはり内容としては面白いものがある。
二人とも邪心で見ていたのは最初だけで、最後になると純粋に客としてステージに魅せられていた。
ステージが降りて照明が切り替えられる。色取り取りのライトが消えて、暖色系のものへと変わった。客席も先ほどのショーへの感想デ溢れ返ってどっと沸き立つ声が聞こえ出した。
やはりトリを務めるパフォーマンスへの感想が多かったが、雅のショーへの褒めの言葉も聞こえて大志は自分のことのように嬉しくなる。
そんなほんわかとした良い空気の中、裏口から舞台メイクのままのドラァグクイーンがわらわらと客席に散り散りになって接客をし始めた。
もちろん大志と秋平の席にやってきたのは雅だ。まだ興奮しているのだろうか、ファンデーションで塗られた肌の下は残念ながら見ることはできないが、さぞかし赤いのだろうと思った。
「お隣いいかしら?」
返事を聞く前に座った。ずいっと秋平を押すようにして座った雅にむっと顔を顰めるが、二人揃えば世界に浸るので秋平の抵抗など屁でもないのだろう。
案の定テンションの上がった大志ににっこり笑った雅。秋平は何故ここに呼ばれたのかわからなくなるが、目的などわかっていた。迷わず臆さず大志がこの店に入るようエスコートする役目なのだと。
(はいはい〜わかってますよーだ)
雅の流し目で全てを悟った秋平は酒を片手に立ち上がると、バーカウンターへと移動した。どうせ長い時間滞在することはできないだろうから、少しの間だけ席を外せという合図だ。
秋平がいなくなってもその空間は変わらず、頬を赤らめた大志はきらきらと少年のような瞳で雅を見た。
「ちょ〜きれえだった!」
「あらありがとう」
「雅ちゃんが一番光ってたよ! 目立ってた! さっすが俺の雅ちゃんって思ったもん!」
「ふうん、そう? 間違えずに成功することができて良かったわ。まだまだ課題点はあるけど、当面の目標はできたって感じね」
大志が酔ってしまわないように薄めの酒を作って差し出してやる。雅もそこまで強くないし大志の席だということで、こっそりと水のみを飲んだ。
緊張でがちがちに凝り固まっていた身体がふっと溶けるような感覚だ。からからに乾いた喉に冷えた水がすうっと流れ込んでいく。
(……終わっちゃったのね)
呆気なかった。練習を何十時間も重ねてきたことは、たった十分にも満たない時間で呆気なくも終わってしまうのだ。
それでも浴びせられた歓声やスポットライト、煌びやかな世界は雅に根付いて興奮という形で燻っている。目を瞑っても落ち着いても大志と喋っても、まだ足りない。もっともっととほしくなる。
いつかはトリに、そして日の本一に。考えて、頭を振った。まだまだ先の話だ。ふ、っと息を吐いて大志にそっと近付いた。
傍目には客とキャストだけの関係にしか見えない。多少近付いても周りは見てもいないだろう。距離を縮めた二人はこそこそと隠し話をするように声を潜めた。
「そろそろ、覚悟できたの」
ばさばさと音を立てそうなほどゴージャスな睫が上下する。目元に貼り付けられたラインストーンが光に反射してきらりと光った。艶めいている唇は色気を乗せて、大志に届く。
「……う、う、びみょう」
唇が近付くけれど、触れることはない。ここがどこだかわかっている。だけど今にも触れそうな距離で妖艶に雅は誘うのだ。
組み敷かれるのは、受け入れるのは、大志だというのに。どうしてこうなったのだろう。性欲がないと言いつつ、そうやって有り体に大志を誘うのだから始末に終えない。
熱っぽさを持った掌が机の下で大志の手と重なった。
「まあ、私は焦らないけれどね。いつでも良いのよ。我慢できるもの」
「……え?」
「大志の好きな時期で良いわ。待っててあげる。だけど、もう期限はないけれどね」
「え、え、え」
「大志から誘ってくれるの、待ってるわ」
ウインクして言われた。優しさに見えてその実拷問にも近い。だってその言葉はつまり大志から誘わなければいけないということになる、大志が受身のセックスを。
そんなのできる訳がない、と言おうとした言葉は雅の指先に触れて消えた。
「詳しい話は帰ってからにしましょう。……今日の夜は暇かしら」
珍しい雅からのお誘いを断るはずもなく、もちろん予定もない。大志は大袈裟にこくこくと頷いた。
「なら少し待っててね。仕事、そこまで遅くならないのよ。今日は上がりが早めだから」
そうっと掌を握られる。どきどきと心臓が鳴って、大志は雅を見上げた。無性にキスがしたい。綺麗に彩られた、いつものようなストイックではない雅に、キスがしたい。
(でも、うああ〜できないい〜!)
このままなら最後までいけそうな雰囲気なのに、ここではできない。雅は目を伏せて少し微笑むと、ゆっくり指を剥がして立ち上がった。
「じゃあまた後でね。席回りが残ってるからそろそろ行くわ」
「あ、うん」
「三谷にもよろしく言っておいてちょうだい」
付け毛である金髪を翻して、雅は席を立ち去った。ぎこちないけれど営業用の笑みを貼り付けて、ドラァグクイーンとしてキャストとして働く姿を見つめる。
どこからか雅が立ち去ったのを見ていたのだろう、戻ってきた秋平に大志は情けない声を上げた。
「雅ちゃんがよろしく、って……」
「ああそう。あいつも丸くなったもんだな〜。こんなことになるなんて想像にもなかったよな」
「雅ちゃん綺麗だし可愛いけど……格好良いんだよな」
「おい、惚気なら聞かねえぞ!」
「……しゅうへえ、俺、エッチできんのかなあ」
「やめてくれよ〜想像したくねえっつの、馬鹿! ……まあ、なんとかなんじゃねえの? 考えたくねえけど……なんだかんだ言って、お似合いだよ、お前ら」
「そ、そう? 照れるな〜うへへ〜早く雅ちゃんの家行っていちゃいちゃしたい〜!」
二人きりの様子など知りもしないから想像にもつかないが、あのつんけんどんな雅が徐々に溶かされていったように大志に甘い姿が容易に想像できる。ああ見えてどろどろに甘やかしそうだ。時間が経てば経つほどに大志に気付かれないよう甘やかして縛り付けていくのだろう。
あてられた感が否めないが、大志が幸せそうにしているので良いかなとも思う。
(ほんと、……人生ってなにがあるのかわかんねえなあ)
思い返すのはあの夜のこと、一目惚れしたと騒いでいた大志がいた。それからストーカーが始まって、雅が絆されていって、付き合い始めて、甘くなって、恋人らしい形になってきている。
きっと秋平がこんなことを考えている以上に、雅は悩んで考えたりしているのだろう。なにも考えず直感だけで生きている大志とは比べられないほどの気持ちを抱えて。
学業に、恋愛に、仕事に、大忙しだな。それでも幸せそうだ。きらきら輝くのもお互いの存在があってこそ。そういった相手に巡り合えて羨ましいとも思う。
もしかしたら離れてしまう恋でも、簡単に散ってしまう恋でも、見届けていきたいなんて思ってしまうのはどういった感情からなのか。秋平は大志のぼさぼさに散っている髪の毛を撫ぜると頬を抓った。
「いひゃい〜」
「ま、お前もちったあ成長したってことだな。頑張れよ、いろいろと」
「ううん?」
「……前途多難そうだけどな〜お前ら」
セックスするだのしないだので悩んでいるうちはきっと幸せなのだろう。というよりもずっと幸せそうだ、なんだかんだいいつつこうやってぐだぐだと有り触れた悩みを抱えながら付き合っていくのが容易に思い浮かんだ。
お互い離れていても意識しているのだから傍から見ていて面白い。雅も大志も視線を寄越しているのに、絡まない。
きっと二人になればそれなりに燃えるのだろうか。全くもって想像がつかない。それはきっと二人だけの秘密であり、秋平が干渉できない世界。それが憂鬱にさせる。少しの寂しさと、置いていかれる切なさ。
雅も、大志も、そんな気持ちを抱くのだろうか。憂鬱とした気持ちを。ないと思わせてあるのだろう。知らないところでそうっと、誰にも言わずに。
恋愛とはそういうものだ。大志と雅の恋愛も、他人とは違う風に見えてもどこにでもある平凡で有り触れた恋愛であり、普通の恋人同士なんだろう。これからも、ずっと。