ぬるい春 07
 太陽が昇って、月が満ちる。変哲もない宝石箱の生活に少しの変化が生じた。とはいっても、些細なものではあるのだけれど。
 アンバーの部屋に入り浸り、帰るけぶりさえみせなかったアメジストも、あの日を境に自らの住居がある東の塔へ戻ることが多くなった。久しぶりに入った自室はどこか薄暗くて、あんなにも時間を共にしたのに他人の部屋のよう。
 誰もなにも聞いてこないところから、興味すらもたれていないということもわかった。
 無闇に身体を投げ出して快楽を貪ることはやめた。幾多にものぼる誘いの手は、すべて断っている。もちろんエメラルドからのものもそうだ。アクアマリンにだって許していない。
 アンバーと約束したのだ。指先から髪の毛一本まで、アンバーのものだって。勝手に取りつけた約束なのだけれど、仕様がなしに緩く笑って小指を結んでくれたアンバーの言霊にしばらくは縛られたいとも思う。
 恋を知った心が弾んで気分を良くさせる。脳裏に浮かぶのは、憂いを帯びてアメジストを見つめるアンバーの表情。一瞬だけしか垣間見ることができなかったが、鮮明に思い返せる程度には心を支配してもくれた。
(ああ、早くアンバーに会いたい)
 ごろり、とベッドでのたうちまわる。太陽が燦々と頭上を照らす今では、外にすら出られない。アンバーに会いに行けるのは月が輝く頃合だ。
 あれほど東の塔に帰るのを渋っていたアメジストがどうして戻ってきたのか。それはアンバーと契った約束による。いつまでも恐怖ばかりつのらせて部屋に閉じこもっているのは良くないと、アンバーに言われた。己にも言い聞かせるような色を含んでいるそれに、なにも言えなかった。
 この部屋から出たくないと駄々を捏ねるアメジストに、アンバーは琥珀から形成される鍵をてのひらに落とした。
『使えもしない鍵だけれど、これでこの部屋にいつでも入れる権利が得られるわ。北の塔の前で止められたら、これを見せなさい』
『え……そ、それって』
『いつでもきてくれて構わないのよ。……だからあなたも戻りなさい。全部を私に染める必要もないでしょう? 私はあなたを見捨てたりはしないから、もう怯えなくても良いの』
 指先が頬を滑る。アンバーの言葉ひとつひとつに胸を締めつけられたアメジストは、ぐっと唇を噛むとアンバーをベッドへと押し倒した。嬉しくて逸る感情、どうしようもなく高鳴る心臓、暴発する燻った熱。どうにかしたい。
 だけど舌なめずりをするアメジストに待ったの声。アンバーは押し倒された状態のまま溜め息を吐くと、指を掲げた。
『ただし、セックスはしないわ。私の中のアメジストがまだ固まっていないの。わかってくれる?』
『触れるのもだめ?』
『キス止まりね。ゆっくりあなたを教えてちょうだい。もちろん他の宝石と接触したら……その鍵も返してもらうわ。あなたにできるかしら』
 挑発的な笑み。アンバーもそういうところがあるのかと思うだけで、アメジストはどうしようもなくなる。こくこくと頷いて、服にかけようとしていた指先を引っ込めた。
 セックスなんて、後回しで良い。アンバーの心がもらえるのならばなんだって我慢するから。だから、だからね、口づけが許されるのならもう少しくらい堪能しても良いのでしょう。
 上半身を崩したアメジストは琥珀に輝くアンバーの瞳に嬉しそうなアメジストが映っていることを確認すると、緩めた表情のまま唇を落とした。触れた先から幸せが広がって、アメジストの感情を一色に染める。
 これが愛する気持ちだというのなら、愛される気持ちはどれほどの幸福をもたらしてくれるのだろう。だけどまだ知らないままで良い。いつか、いつかアンバーに愛される日がくるまで、愛されるようなアメジストになっていたいとも思う。
 てのひらで冷たい存在を主張する鍵が、アメジストの心をそうっとあたたかくさせた。
(……どうしよう)
 もだもだと、暴れだしたい気持ちが燻る。ベッドの上で身悶えたアメジストは、先日のやり取りを思い出すと叫びたい衝動にもかられた。だって、あんなにとろけたアンバーの表情なんて初めて見たのだ。
 宝石が放つ輝きと光の屈折、月光に照らされ妖しくにぶくなる部屋で、アンバーだけがうつくしく佇んでいた。絵のような世界は今もなお瞼に焼きついている。
 首元にかけられた鍵が揺れる。熱っぽくなった吐息を零せば、重なるようにして頭上に見慣れた顔が現れた。
「アメジスト、起きてる〜? 百面相ばっかりしてるけど大丈夫?」
 ふわふわの髪の毛を揺らして、少女のような面容が視界を占拠する。口づけられそうな勢いに慌ててストップをかけた。
「ちょっと、キスはだめ」
「けち〜ばれないよ? うまく隠せるって〜」
「そういう問題じゃないの。っていうかエメラルドんとこいたんじゃなかった?」
 アクアマリンの身体を押し退けて起き上がる。嫌そうな表情をしたアクアマリンはううんと言葉を濁すと、ベッドに腰かけて溜め息を吐いた。
「ルビーがきてさ〜ちょっと揉めたから帰ってきたの。しばらくは大人しくしてるんじゃない? ちょっと荒れてたしい」
「へえ、で? 次はどこにいくの」
「どこにしよっかな〜。まだ迷ってる! でもねえ、セックスも良いけど今はアメジストと一緒にいたいなあ」
「トパーズは良いの」
「トパーズにはサファイアがいるでしょお? あ、でもアメジストにもアンバーがいるんだっけ? 難攻不落のアンバーを落とした気分はどうですかあ?」
「そんな言い方やめてほしいね。……それにまだ恋になっているのかすら、わからないし」
 とは言ったものの、アンバーの中でアメジストがそれなりの位置にいることはわかっている。自信だってある。アンバーに触れることを許された唯一の宝石だとも。
 興味をもたれて、愛まではいかなくともそれに近いものは抱かれて、唇を交わす関係にはいる。以前のアンバーを顧みれば、信じられない距離にいるのだろう。アンバーが誰かにそんな風に触れることを許すどころか、堅城ともいえる部屋の鍵を手渡すなど、信じられないことなのだから。
 だけど欲張りなアメジストの心は、完全に満たされてはいない。やはり言葉にして、表現して、抱きしめて、愛していると抱いてほしい。なんて、想像もつかないのだけど。
 指先で鍵に触れて想いを馳せるアメジストに、アクアマリンはそうそう、と手を叩いた。
「今日ねえ、外が騒がしいっていうか、塔が静かだと思わない?」
「ああ、そういえばそうかもしれないね。なんかあったの?」
「んふふ〜大有りなんです! アメジストもびっくりしちゃうよお」
 手をぐいっと引っ張られる。アクアマリンは床下にぞんざいに落とされていた黒のローブを手に取ると、アメジストに被せた。真昼時とあってか日差しはかなりきつい。窓の側に寄れば、それだけでアメジストは焼かれてしまう。
 大人しく黒のローブを羽織って、アクアマリンと窓の下を眺めた。そこには色とりどりの宝石に囲まれるアンバーの姿があった。
「え!? な、なんでアンバーがいるの!? まだだったよね!?」
「アメジストが変わったように、アンバーも変わったっていうことでしょ? なんかね、外を知りたいんだって。他人と接触するのはまだ苦手だし苦痛を伴うけど、殻に篭もってるのはやめるんだってさあ」
「……本人から聞いたの?」
「うん。アメジストがね、僕のことばっかり話すからアンバーが僕に会いにきてくれたんだよお。間近で見るとすっご〜くきれいだったね」
「な、なにそれ?」
「要するに、アメジストの世界を見たい、アメジストの交友を知りたい、アメジストをどうにかしたいってことなんじゃないの〜? かなり屈折してる愛情表現だとは思うけど〜ありゃあ潔癖にもほどがあるよね。僕には耐えらんない」
 目下では宝石に囲まれてほんの少し辟易としているアンバーがいる。気付いてほしいと念を送っても、振り返ってもくれない。できることならば今直ぐ駆け出して抱きしめたいけど、アメジストを焼く日光の所為で出られもしない。
 この場所から見つめていることすら苦痛が伴う。アメジストはくらりと感じた酩酊に危険を察知すると、窓枠から離れた。目に光る琥珀が遠ざかる。きらきら目映いあの人が、見えなくなる。
「アメジストってば、存外に愛されてるね。僕安心しちゃったあ」
 振り返って笑うアクアマリンに、アメジストはなんて言っただろう。熱を持つ頬が熱くなって、唇が動かなかった。どうしようもないくらいに焦がれている。アンバーの存在、すべてに。

 太陽が沈んで、月が顔を出す。アメジストの時間がやってきた。随分と長く感じたのも、昼間に見たアンバーの姿の所為だろう。
 アンバーは外で世界を満喫しろと言うけれど、もとよりアメジストの世界などあってないも同然だった。色があるとするならば、それこそ最初からアンバーである。アンバーを一目見るために、アメジストは生きてきたのだから。
 東の塔を抜け出して、北の塔へと駆ける。夜は昼と違って、外に人気がない。皆自室に篭もって懸想を重ねたり、愛しい人と身体を重ねたりしているのだろう。
 は、は、息が零れる。アメジストは北の塔へと足を踏み入れると、別塔へと急いだ。
 いつもだったならば、誰かと快楽を貪るために通っていた。身体を満たしてくれる性欲はそれでも心までは満たしてくれずに、ぽっかりと空いた空虚な感情ばかり浮彫りにさせていた。
 だけどそれももう感じることはない。これが、最期の恋だから。
 性欲は満たされないどころか触れるのも躊躇われる。そんなアンバーだけれど、許された唇の位置というのがくすぐったくも純情で、アメジストには愛おしいのだ。
 螺旋状に伸びる階段を鳴らして走る。きらきらぴかぴか、アンバーとアメジストを隔てる扉はもう直ぐそこだ。鍵のない堅城たるドアノブを握ってまわせば、ほら、もう。
「アンバー」
 声を震わせて中へと入った。つい昼間にも見かけて、先日まではずっと一緒にいたというのに、こんなにも胸が切なくなって苦しくなって、どうしようもなくなる。
 愛おしいという感情が止まらないのだ。思わず感極まって涙ぐむアメジストに、アンバーは可笑しなものをみるように口元を緩めた。
「なに泣いているの? アメジスト、そんなところに立っていないで、こちらへいらっしゃい」
 優しい声音に、アメジストは堪え切れなくてアンバーの元へと近寄った。相変わらず肌の露出を許さない衣服に身を包んでいるけれど、それがアメジストの欲を擽る形容でもある。
 一人分の重みで沈んでいるソファへ腰をかれば、ぐらりと重心が傾く。アメジストはアンバーに寄り添うと、刺繍の感触しかしない肩に額をあてた。
「……おりてたね」
「あら、日中なのに見えたの?」
「アクアマリンに聞いたの! 言ってくれれば、こっそり覗きに行ったのにな。ねえ、なんかあった?」
 アメジストの問いに、アンバーは瞼を伏せた。なにに思いを馳せているのだろう。ほんのりと目元を赤く染めて、穏やかな表情をうかべる。アンバーの心には誰が住んでいるの。
 身を乗り出して、手の甲に触れる。アメジストはアンバーの顔を覗き込んで、ねえ、と象った。
「……アメジスト、私はね、うれしいの」
「嬉しい……?」
「今ね、やっとわかったような気がするわ。この世に生を受けた意味。初めてうれしいと、感じているの」
「ア、ンバーそれって」
「いつかあなたが言ってくれたわよね。アメジスト、あなたのお陰よ。ありがとう」
 手を握ってくれるアンバーを、それ以上見つめ続けることはできなかった。アメジストは瞼のカーテンをおろして、アンバーの口づけを待ったから。
 いつもだったらせがんで勝手に口づけて、そんなアメジストをアンバーは優しく甘受するだけだった。でも違った。今ばかりは、いつもじゃない。与えていた口づけを、与えてくれたのだ。
 唇に触れたのは、アンバーの唇。アンバーからアメジストに贈る口づけ。
 いつかその唇で愛していると、言ってくれるのだろうか。アメジストは胸を震わせると、伸ばしたてのひらでアンバーを抱きしめた。恋が育って愛に変わる。

     *

「商人、ただいま戻りました。長い間ご苦労でしたね」
 異国の香りを身に纏い、給仕に荷物を運ばせている公爵夫人と対面した。今しがた宝石箱を覗いてきたところだ。この一ヶ月で随分とこの生活に馴染んでしまっていたらしい。
 勝手知ったる家のつもりでいたのだが、ああ、そういえば預かりの身だったことを思い出す。可笑しな話だ。
「公爵夫人、随分と楽しい船旅だったのでしょう。顔が綻んでおりますな」
「商人こそ楽しく過ごしていたようでなによりです。立ち話もなんですので、移動しながら話を聞かせていただきますわ」
 公爵夫人の魔法のような指が階段を差す。二人は肩を並べると、ゆったりとした足取りで公爵夫人の私室――宝石商人がメンテナンスを務めていた宝石箱がある部屋へと向かった。
 南海諸国に行ってきたというわりには、公爵夫人の肌は真珠を彷彿とさせるほどに白いまま。日差し避けなりと、対策をしていたのだろうか。褐色の肌に映える宝石もあれど、白亜の肌に映える宝石も甲乙つけがたいものがある。
 聞いたこともない南海諸国の面白い話を聞いて相槌を打ちながら、宝石商人にとっては日課の、公爵夫人にとっては久しい扉のノブを握った。
「ああ、ここにくるとやっと帰ったのだと実感しますね」
 こつり、とヒールが床を叩く。怠惰的な動きでソファに腰かけた公爵夫人の向かい側に、宝石商人も腰をかけた。
「商人、この一ヶ月本当に感謝しております。お礼といってはなんですが手土産も買ってきたのですよ」
 公爵夫人はそう言うやいなや、ずっと大切そうに抱えていた小袋を宝石商人に手渡した。軽そうに見えるが、存外にずっしりとした重量感がある。宝石商人は窺うように公爵夫人を仰ぐと、結ばれている紐をゆっくりと解いた。
 てのひらに逆さを向けて転がせば、ころころと琥珀色の玉が手の中で輝く。大小さまざまな大きさではあったものの、歪さと混じりけのない統一された色合いが宝石商人の目を奪った。
「これは……人魚の涙ですな」
「ええ、風情があって良い名でしょう。こたびは商人にアンバーのお目付けをお願いしました。ですので手土産もアンバーがよろしいかと思ったのですが、気に入りましたか?」
「とても。このような美しい輝きをもつものもそう珍しくはありませんからな。公爵夫人、やはりあなたはこちらにも運を味方につけておられる。最もあなた自身がそうだから、というのもあるのでしょうが」
「それとは別ではなくて? 私がなんであろうとも、商人、私は存在する宝石を守るもの以外のなにものでもないのです」
 ゆっくりと身体を起こした公爵夫人は窓に近付くと、窓枠に手を触れる。そこから広がる景色は公爵夫人の瞳にはどのように映るのか。瞼を伏せると、か細い息を吐いた。
「アンバーは元気になったようですね」
「ええ、夫人のおっしゃる通り最初こそ心配をしていたのですが……アメジストと仲良くなったようで。いやはや興味深いものばかり見させていただきましたよ。夫人の宝石箱は、生きているのですな」
「当たり前でしょう。でも、アメジストとは意外でしたわ。ふふ、まあ元気でいるのならなんだって私は構わないのですけれど。宝石商人、またお願いしてもよろしくて?」
 振り返った公爵夫人が、感情のない能面の笑みを浮かべる。長いときを過ごした代償なのだろうか、かなしくも儚く映った笑みの形に、宝石商人は一瞬だけ言葉を詰んだ。
 嗚呼、だけども宝石を愛する気持ちだけは変えようのない共通点でもあるのだ。こんなにも心を躍らせてくれる世界があるのならば、是非にとも機会を手にしたいとも思う。
 宝石商人はこうべを垂れて、口端をあげた。算段的な笑みにはなってやしないだろうか。もとより頼りない関係で結ばれているだけの二人だ。関係ないのかもしれない。
「是非とも私でよければ。公爵夫人には今後ともご贔屓にしていただきたいですからな」
 雲隠れしている宝石商人の身から出た言葉とは思えない。公爵夫人は瞳をぱちくりと開けると、可憐なる指先で口元を覆って笑んだ。孤を描く半月の瞳が、感情をともなわせてきらきらと輝いて見える。
「こちらこそ、存在する宝石を見つけたら教えてくださいね。私の宝石箱は、まだまだ世界を広げてもらわなければ困るのです。永遠の夢物語なのですから」