「あ〜もう、わかってるってばあ! 別に一生引きこもる訳でもないんでしょ? 僕たち寿命なんてあってないようなもんだしさ〜僕のことなんて放ってがんがん攻めちゃいなよ」
「心配してるかなって思ったんだよ」
「なあに〜? それえ? そんなこと言ってるけどほんとは僕に会いたかったんでしょ? アメジストったら可愛い!」
頭をぎゅうっと抱かれて引き寄せられた。ぶちゅっと重なった唇は愛撫でも確認でもなく、アクアマリンの嬉しい感情を押しつけるようなものだった。本日三人目との、口づけだ。
ちゅ、ちゅ、と繰り返せば総じて緩いアクアマリンは発情でもしたのだろう。唇をぺろりと舐めるとアメジストに擦り寄った。
「ちょっと、やめてってば! 許してキスまでだよ。それ以上は困る!」
「え〜触ってくれても良いじゃん〜お口でしてって言ってる訳じゃないんだからあ」
「そういう問題じゃないって! あ、ちょっと!」
アクアマリンが上機嫌でアメジストの上に乗る。ここがどこだかもう忘れたようだ。快楽の前ではなすがままのしもべになるところまでは同じだが、総合的に見ればアクアマリンの方がいろいろと欠落している。
頭上に落とされた影に動きを止めた。腕を組んで睨みつけるサファイアの視線に気付いたのだろう。アクアマリンは舌を出すと、忘れてた! と惚けてみせた。
「俺の部屋で盛るのはやめてくれないかな。そういうの非常識だって、もう何度も言ってるよね」
冷めたサファイアの瞳が鈍く光る。相当怒っているようだ。アクアマリンの様子から推測するに何度もこのやり取りをしたのだということが簡単に想像できるところが、サファイアの気苦労を窺わせる瞬間でもある。
アメジストは上に乗っているアクアマリンを剥がすと、大きな溜め息を吐いてソファからおりた。とんだ災難だ。
「じゃあ俺戻るからね。また今度」
「寂しくなっちゃうな〜うふふ。ねえ〜戻ってきたらアンバー引っ張ってきてよお。味見するからあ」
「絶対だめ! お前だけには紹介しねえ!」
「ははは、大丈夫だって。タイプじゃないも〜ん。僕はああいうの範疇外だからあ。ま、頑張ってよね。ゆる〜く応援しとくし〜」
ぴょこり、とアメジストの前に立ったアクアマリンは華奢な腕に触れると目の前に寄せた。染みひとつない、透き通るようなアメジストの柔肌。アメジストは軽薄そうに見えて、その実すごく優しい。アクアマリンは一抹の寂しさを飲み込むと、てのひらに唇を落とす。
「おまじないっと〜」
隠した心に願いを込めて、戸惑う背中を押した。アクアマリンより身長が高いといっても薄っぺらい身体は、簡単に押し出すことができる。サファイアの部屋の扉を閉めた。アメジストの戸惑いの気配を扉越しに感じていたが、ものの数秒で諦めたのか気配も消える。
しいんとした闇が支配する世界で、星が瞬いた。サファイアは水差しを手に取るとコップに水を継ぎ足す。耳にやさしい音が微かに鼓膜を揺らした。
「……もう少し会話すれば良かったのに」
冷たいようで、凛と通るサファイアの言葉が確信を突いた。アクアマリンはふくりと頬を膨らませるといじけるようにソファへと寝転ぶ。そうじゃない。そうじゃないのだ。まったくもってサファイアはなにもわかっていない。
アメジストとアクアマリンの仲を履き違えてもらっては困る。彼らには、彼らしかわからないやりとりやつきあい方があるというものだ。それは愛よりも、強固なものだと思っている。
「アメジストはねえ、優しいから僕が寂しいっていえばきっとね、アンバーのとこから抜け出しちゃうんだ〜。アメジストも愛されることに貪欲だから、僕から求められるとね、ああ、俺がいなきゃってなっちゃうから。あれでいてね、アメジストって結構……移ろいやすいんだよ」
「へえ、脆いってこと?」
「ううん。人一番つよい。でも強過ぎてね、よっわ〜いの」
「わかんないな。俺にはさっぱり」
「わかんなくていーの! あ〜あ、アメジストがアンバーとくっついちゃったら、嬉しいかな〜嬉しいよね〜うーん、複雑!」
ごろごろとソファでもだつくアクアマリンは、天井に下げられたサファイアから連なるシャンデリアを見て似ているようで似ていないアメジストを思い描いた。深く沈んでいく青もうつくしい宝石ではあるものの、禍々しくも誘惑をみせる紫も捨てがたいほどにうつくしい。
結局のところ、アクアマリンはアメジストが大好きなのだ。それは胸を焦がすような愛ではなく、胸をあたためるやさしい愛だった。
闇が世界を覆いつくす。アメジストは走り抜けるように北の塔に足音を響かせると、頭上に広がる螺旋階段を見つめた。遥か天にある堅城な扉が、アメジストの戻りたい煌びやかな世界。
ここのように自由も利かないし、セックスもできない。閉ざされて息をするのもいっぱいいっぱいな、狭い部屋。だけどアメジストにとってこうふくの色をしている大切な部屋なのだ。
気付かれないよう足を階段に乗せる。物音さえ立てずにゆっくりとあがった。一段踏みしめる度に思い出を重ねて、あとどれくらい許された時間があるのか考えてもみた。
抜け出したことを知れば、アンバーはどんな表情をするだろう。そのまま出て行けと言うだろうか、それともなにごともなかったかのようなけぶりをみせるのだろうか。
ああ、願わくはアメジストの身を預けたままでいてくれないか。黄金を飾る差し色でも良い。どんな理由とて側にいたいのだ。
琥珀で作られた扉に指を添える。ゆっくりとなぞらえてドアノブに触れた。かたくて、つめたい。右に回すと簡単に迎え入れてくれる扉は、それでもアメジストにとっては拒絶の色をしていた。
扉から月光が漏れた。線を描くそれは階段まで照らして、アメジストの心を和らげる。戸惑いながら一歩中へと入れば、月を見上げているアンバーが目に入った。
儚げで、今にも消えそうな後姿。長い髪がきらきらと光って、まるで宝石のようだった。
「アンバー」
こっちを向いて。名前を呼んだ。後ろ手に扉を閉めて絨毯を踏みしめれば、アンバーはゆるりとした動作で振り返る。
琥珀の瞳は鈍い色を湛えて光り、無感動に瞼を伏せると再び窓の向こう側に視線を追いやった。アメジストのことは一瞥しただけで、返事すら唇に乗せなかった。
「アンバー、ねえ」
拒絶されているようで、肩にすら触れられなかった。振り払われてしまえば今度こそ終わりのような気がして。アメジストは宙に浮いたてのひらを握ると、俯いた。
今は暗闇で見えない絨毯の模様ですら覚えているというのに、どうしてこんなにもすべてがなくなっていくのだろう。ひとひらと剥がれていくように褪せていく記憶を抱えて、アンバーが喋るのを待った。
直ぐだったかもしれない。随分と時間がかかったかもしれない。アンバーは怠惰的に振り返ると、アメジストに一歩近付いた。
「……アンバー、起きてたの」
空気がやわらいだタイミングを見計らって、顔をあげたアメジストがそう尋ねた。アンバーは弧を唇で描くと頷く。
「今日は満月ね。月光浴には丁度良い日だわ。アメジスト、あなた月光浴で力が活性化するって言ってたわよね。こちらにいらっしゃい」
招かれて、アメジストはアンバーの隣に並んだ。窓から目映いほどに差す月の光に目を細める。いつもより大きく輝く月はだけど変わらずに、真ん丸の形のままどっしりと闇に居を構えていた。
ふらふらと、行き当たりばったりで心の住処さえ見つからずにいるアメジストとは大違いだ。
(アンバー、こっちを見てよ)
伸ばした指先を、アンバーの指先に絡めた。振り払われる恐怖よりも、触っていたいと心が望んだ。きれいな琥珀に映っていた月が消えて、映し鏡になる。
「アンバー」
かなしくなるほど泣きたい声だった。いとおしいと叫ぶ心が、今にも爆ぜそうだったのだ。
興味すらもたれていないのだろうか。なんだって良い。抜け出した理由を尋ねてくれれば、それだけで安堵できる。勝手な押しつけをアンバーにもたせているとわかっていても、我慢がきかない。
先走る感情になにを思うのか、アンバーはアメジストの唇に触れた。言葉を封じるように、そうして愛撫のような触れ方で触れたのだ。
「何度も呼ばなくたって聞こえているわ。あなたがなにを考えているのかも」
「ほんとう、に?」
「可笑しな子ね。ここはあなたの部屋じゃないから、自由に出て行ってもらっても構わないのよ。私だけのお城なんですもの。あなただって、わかっていたでしょう」
目を細めて、眩しいものを見るかのような視線で射抜かれた。アメジストの心臓を食い破る程度には、痛い言葉に目元がゆるりと蠢く。
言葉にされると尚更きつい。月光浴で力を得るはずが、逆に吸い取られていくような気すらする。
「……そうね、でもほんの少しだけ待っていたのかもしれないわ。あなたがここに戻ってくることを」
「え?」
「孤独に慣れていたはずなのにね、あなたの所為で誰かといることに慣れたみたい。こんな風に言葉を発することもなかなか悪くはないのねって、私も知ったから」
「アンバー、ねえ、それって」
「わからないの。わからないのよ。だけど、あなたがいないとね、寂しいみたい。目が覚めて、手であなたを捜しているのがわかったわ。冷たいシーツに、気配のなくなった部屋。がらんどうとしていて、静かで、……私はまたひとりになったんだって思った」
「違うよ。アンバーのこと、ひとりにしない。アクアマリンに元気にしてるって、言ってきただけで」
唇を撫ぜた指先が頬を滑って、髪に移った。アンバーのように長くない髪は手触りこそ良いものの、触っても楽しいものではない。鈍く暗く光る色合いは、浴びれもしない太陽の下で彩るのだ。
アンバーはやさしい手つきでアメジストの背中に触れると、ぐっと抱き寄せてきた。それは一瞬の出来事のようでいて、そうなることが必然だったスマートな動きでもあった。
あたたかな温もりに支配される。左腕だけで拘束された身体は、アンバーの腕の中へと大人しくおさまった。
「ア、ンバー……?」
喉が、ひりひりとする。全身が炎に包まれたようだ。熱くて、呼吸ができなくて、死にそうに煩い。心臓が壊れてしまうんじゃないかってくらいにかたかたと音を立てて加速した。
「初めてよ。ひとりでいたくないって思ったの。あなたが戻ってきて私はね、安心したんだわ。あれだけあなたのこと、否定していたのにね」
「ゆ、夢じゃない? アンバー、これ」
「夢じゃないわ。……ほんとうのところを言うとね、まだ愛しているとか、そういうのはわからないの。やっぱりひとりが良いって思うときもあるし、触れたいって強く感じることもないわ。ただね、一緒にはいたいって思うの。それでも良いかしら」
「ぜんぜん、いいよ。俺が、俺が教えるから。アンバーに愛してもらえるようにもっともっと頑張るからね、今はそれで良いの。アンバーが一緒にいたいって思ってくれるだけで、俺は……俺はうれしいから」
ぎゅう、っと抱きしめた。アンバーの背が軋むくらいに抱きしめた。指先に髪の毛の感触がして、更に興奮まで覚えた。アンバーが、アメジストを必要としてくれた。愛か愛じゃないかなんて、今は些細な問題でしかない。本当の意味でアメジストだけを求めてくれるのなら、例えそれがアメジストの望む形ではなくても良い。
愛したから、愛せとはいわない。気持ちを否定しないでいてくれたことに意味がある。
アメジストはそのままアンバーを壁に押しつけると、背にまわしていた両腕で肌をなぞった。アンバーの両頬に触れて、余所見できないように視線を固定する。
琥珀に映る紫水晶も、紫水晶に移る琥珀も、うつくしい。うつくしい宝石だ。
「アンバー、キスして」
顔を近付けて、呼吸で囁いた。アンバーは少しだけ瞳を瞠目させると、儚くも清廉とした笑みを浮かべた。きっとアメジストからしかけてくると思ったのだろう。
アメジストの両手にアンバーの両手が重なる。やんわりと外されて、両手首を握られた。右手は左手に、左手は右手に、拘束される。
「わがままなのね」
「うん。貪欲で、しつこくて、愛に飢えているんだよ。アンバーのすべてをもらうまで、諦めないから」
「恐れ入るわ。ねえ、アメジスト、じゃあ言葉にしてちょうだい。どこにキスしてほしいの」
薄づきの唇が、魔法を紡ぎだす。きらきらと輝いた言葉はアメジストの心臓をじゅくじゅくに溶かすと、抗えない感情の波に放り込んだ。
そんなきれいな顔で、そんな格好良い顔で、そんな可愛い顔で、信じられない言葉を吐くのはやめて。
じわり、と滲む頬の朱に、アンバーは顔を近付けてもう一度紡ぐ。アメジストをいいようにできる、魔法の呪文を。
「アメジスト、キスをされたい場所を教えてちょうだい?」
答えることができなかった。当たり前だ。アンバーを見て呼吸をすることでいっぱいいっぱいだったのだから。
アンバーはなにも答えないアメジストの沈黙をどうとったのだろう、唇を近づけると顎に触れた。やわらかな、口づけだった。
「顎じゃ駄目かしら」
「ち、違う。顎じゃない」
次に触れたのは冷たくなっている鼻先だ。つん、と尖った先にアンバーの唇がやわらかく触れた。
「鼻でもない。ね、アンバー」
くすぐったくもなる。アメジストは目を細めると、拘束されたままだった両手に小さく力を込めた。物言わぬ抗議はどうとられたのか、アンバーは頬に口づけた。
「やわらかいのね」
わかっていて、わかられていて、他愛もない応酬を楽しむのも悪くはない。焦らされれば焦らされるほどに、アメジストの心は満たされていくのだ。不思議と。
「アメジスト」
アンバーのうつくしい声で、アメジストの名を紡がれる。いとおしそうに聞こえるのは、都合の良い解釈になるのだろうか。
穏やかに心臓が波打って、心がさざめいていく。アンバーは祝福を授けるかのような仕草で、アメジストのいろいろな箇所に唇をくっつけた。
小さな懇願をするように額へ、なにかを伝えるような仕草でてのひらへ、微かに震える瞼を閉じさせるために瞼へ、きれいだといっているような気分にさせてくれる髪へ。
ひとつひとつ落とされては、新たな恋を知っていく。数が増えれば触れるほどに、愛を増していくとアンバーは知っているのだろうか。瞬きをする間にも、アメジストの心はアンバーに奪われていっているのだと。
「アンバー、焦らさないでよ。くちびるにも、して」
ねだってみた。精一杯の甘えはアンバーに届いたのだろうか。手を引き寄せられて、アンバーはアメジストの左の薬指の先に唇を寄せた。
「だめよ」
やわらかく、食むように薬指がアンバーの口腔へと入る。鋭い痛みをもたらしたと同時に、付け根が噛まれたのだとわかった。アンバーらしくない。ほんの少しだけ凹んだ歯形が、証拠となってそこに残る。
「くちびるはね、わかるもの。違う匂いがするの」
直前まで近付いて、アンバーはそう言った。目先の愉悦にとらわれて、エメラルドと口づけたことを後悔したけどもう遅い。ああ、エメラルドだけではない。アクアマリンもそうだった。
つい、と身体を前にやれば触れられる距離にあるアンバーの唇が遠ざかる。直ぐ側にあるはずなのにどうして、今だけはこんなにも遠い。アメジストは言い訳のように唇を尖らせると、負けじと囁き返す。
「じゃあね、アンバーの唇で消毒して。匂いを重ねて。上塗りしてよ」
「いやよ。してあげないわ」
「ね、アンバー、お願い。愛してるよ。アンバーだけをね、愛してるから、キスして」
「調子の良いことばかり言うのね。そういうところは、嫌いじゃないわ」
折れてくれたのか定かではないが、ふっと空気が途切れた。アンバーはお望みどおり顔を近付けるとアメジストの唇に触れた。待ちに待った口づけは痺れるくらいに甘くていとおしくて、せつないものだった。