うそでもいいよ 01
 潮騒の音が恋しくなる。公爵夫人は懐かしい記憶に心を馳せると、今はなき海を瞼の裏に描いた。自然から生まれ出でた鉱物のうつくしさといえばなんにも言い表しがたい。底が知れない魔力めいたものというのか、人がおいそれと踏み入ってはならない神域すら匂わせる。そう、どこか蠱惑されることに似ていた。
 種類をあげていけばキリがない。ごまんとある鉱物はたった一瞬で別のものにさえ変化していく。
 今日はどの宝石を愛でようか。世を掌握する自然と酷似しているものが良い。ダイアモンドを取り巻く御三家など、なかなかに良い趣味をしているのではないかと公爵夫人は考えた。燃え上がる炎のような力強さを連想させる真っ赤なルビー、深く沈みゆく海のような清廉さを連想させるサファイア、満ち溢れる生命力を湛える草木を連想させるエメラルド。
 どれこれも一癖あって、なかなかに筋の通らない生き方ばかりしている宝石だ。
 鍵のかかった宝石箱を飾り気のない指先でなぞった。嗚呼、彼らは今どうして生きているのだろう。

     *

 どたばたと足音を立てながら走れば、止まれ! と声が飛んだ。思わず肩をびくりと震わせて足を止めてしまう。あの声に滅法弱いルビーは逆らうことなど到底できやしない。おそるおそると目線をあげた。無意味に結んだルビーの口元は垂れ下がって、怒られるのをわかっているような面容でもあった。
 恐々と怯えを見せながら視線を向けた先はやはりというべきか、確認せずともわかっていたが腕を組んで静かな怒気を滲ませているサファイアがいた。ルビーは声なき悲鳴をあげると目をぎゅっと瞑った。
「ルビー、いい加減にしろ。何度言えばわかるの。廊下は走るなって言ってるよね」
 保護者かなにかのような台詞でもある。ルビーは顔を俯かせるとぼそぼそとでもでもだってと言わなくて良い言い訳を並べてしまって、サファイアに言い訳はするなと再度説教された。
 ここは宝石箱の世界。高級宝石から下級宝石、パワーストーンから鉱物まで、石に意思が宿ってしまったものたちが集る世界である。豪華絢爛な建物と豪奢な生活は所詮上っ面だけのもので、実際に身を投じてみれば質素極まりなかったりする上に酷く退屈を覚える世界だ。
 やることといえばなにもない。ただ皆仲良くと、宝石たちが一緒に生活をしているだけ。事件も寿命も終わりもなにもない、ある意味では無の空間のような世界であった。
 ルビーはその宝石箱の世界では高級宝石に値し、更に言えば高級宝石の中でもトップを誇る地位にいた。
 北の城には透明度を問わず高級宝石が集り、東の塔には透明度がある下級宝石、西の塔に透明度のない下級宝石の住居があった。南は宝石箱の入り口で中央には大きな広場がある。その中で自由に行き来できる場所といえば東西南だけなもので、北に関しては北の住民の許可がない限り立ち入ることができないといったルールが敷かれていた。
 一見華やかにみえても、中を覗けば利権だの矜持だのくだらないことで日々争っている。ルビーからすれば東や西の住民が羨ましいほどに、北の住民は高飛車ばかりだ。しかしその高飛車にも種類がある。最も酷い、尚且つ誰にも真似をできない、むしろ極髄を行き過ぎてどうなのだろうと思われるのが北の城、いや宝石箱の中で高級宝石の最高峰ともいわれているダイアモンドとパールだった。
 透明度を誇る宝石の総代ダイアモンドと、透明度がない宝石の総代パールは共に北の城の住民だ。二人は昔から犬猿の中としても有名で顔を突き合わせる度に子供ですら呆れる喧嘩を繰り返しては、誰かが止めるまで周りを巻き込んで状況を悪化させるという迷惑極まりないことをしてのけていた。
 そうなにを隠そう、隠すまでもないがルビーはダイアモンドに一番近い側近である御三家の一人なのであった。他は言うまでもなくサファイアとエメラルドだ。なにかとトリオで括られるのだが、現実は仲が良いというほどでもない。
 ぐだぐだと舌を巻いてルビーに説教ばかり垂れるサファイアとルビーの関係はこんな有り体のもので、可もなく不可もなくといったところだ。コランダムという変種でもある二人は一緒の石からできているという由縁もあって、なにかと通じ合うものも持っていた。とどのつまりはエメラルドだけがぎくしゃくとした縁を結んでいる状況で、逸脱して素行が悪いと醜名であるが故にサファイアとの関係も最悪なものになっていた。
「聞いてるの」
 首根っこを掴まれる。ルビーは奇声をあげると、ぶんぶんと顔を縦に振った。
「……聞いてなかったって顔だね、ルビー」
「ち、違うって! ちょっと考えごとしてただけだろ! お前は直ぐそうやって俺ばっか目をつけるけどなんか恨みでもあんのか!?」
「恨みといえばお前の騒がしい声や足音、仰々しい行動で心が穏やかでいられないところかな」
「酷い!」
「図体でかいやつがなにを言ってる。もう少し小さいなら可愛げもあったものの……」
 はあ、と脱力した溜め息がかかる。ルビーはにへらと似合わないと言われたばかりの可愛い笑みを浮かべてみたものの、厳しいサファイアが絆されてくれる訳もなかった。
 静をイメージとし、色素が薄く儚げでうつくしいサファイアはその実冷徹で鬼畜だ。冷酷ともいう。女のような艶美を持つ故かそういった用途でのお誘いも多くあるようだが、ふらふらと遊びまわるのをやめてからは純潔を貫き通している。とはいっても攻める側だが。
 一方で同じ物質から生まれたというのに、ルビーといえば色気の一つもない。動をイメージとし、目にも鮮やかな色彩とうつくしいと称される顔立ちではあったものの溜め息の出るようなものではない。どちらかといえば男らしく惚れ惚れするうつくしさだ。性格は大雑把で熱血といえようか、良くも悪くもお節介な節もある。先も言った通り色気というものを持ち合わせていなかったのでお誘いとはとことん無縁であった。
 同じ目線のサファイアが掴んでいた首を離す。ルビーは軽くなった首元を手の甲で押さえると、一歩後ろにたじろんだ。
「で? 走ってどこ行くつもりだったの」
「関係ないだろ!」
「……エメラルドのとこだろ、どうせ」
「な、なんでわかったんだ!?」
「いつも通りの日常だろ。お前も懲りないね、あんなやつ放っておけば良いのに」
「お前は最低だ。……どこに惚れたんだか理解に苦しむよ、ほんと」
「それはこっちの台詞だけどね。趣味が悪いって言ってやったら? いい加減うざったいから見るのやめてってね」
 軽薄そうにサファイアの瞳が半月に歪む。嫌悪を片鱗に見せる表情にルビーの背中に悪寒が走った。サファイアの敵と見做したものに対する無慈悲な振る舞いは、仲間であるルビーですら戦慄する。
 ことエメラルドだって昔は仲間だった。そのカテゴリーを自ら壊してしまったエメラルドは、いつの日かますます所存を拗らせてしまうと目もあてられない状況に陥ったのだ。いうなれば底の見えない泥沼にはまり、サファイアが殺してくれるのを待っている狂気ささえある。
 ルビーは唇を一度だけ噛むと、サファイアの横を通り抜けた。
「……とにかく、下手に刺激するのはやめてくれよ」
 ルビーが言う台詞でもないのだけれど。サファイアはさあ、と首を傾げると自室がある方向へと軽快に歩いていった。
 一抹の寂しさを感じているのはルビーだけなのだろうか。昔から三人仲良く楽しく暮らしていた訳ではない。それでも今よりはもう少し友好な関係を築けていた。壊れてしまった絆は二度と戻らない。後悔してもなにをしてもサファイアはエメラルドを許さないだろうし、エメラルドはサファイアを友として見ることができない。
 そう、いつしかサファイアに只ならぬ傾倒をしていったエメラルドはサファイアを口説き始めたのだ。最初こそやんわりと適当にあしらわれながらギリギリのラインを保っていた。それが崩れたのはサファイアに大切な宝石ができてからだろう。
 サファイアは誰のものでもなかった。エメラルドほどではないがそれなりに徒名を馳せていたし、性交を嗜んでもいた。エメラルドが口出しをしなかったのはそれらすべてが遊びだったからだ。だがしかしサファイアはトパーズを愛した。その現実はエメラルドを壊すのには最もな理由だった。
 こともあろうかエメラルドの嫉妬はトパーズに向き、手を出しかけてしまったのだ。サファイアが激怒したのはもちろんのこと、それ以来サファイアはエメラルドをいないものとして扱った。それは嫌われるよりもつらいことだと、悲しげにエメラルドが零したのがルビーの記憶には新しい。
 ルビーは知らない。誰かを想う気持ちも恋する切なさも。感情のセーブができないほど傾倒してしまうことだって。
 エメラルドがしたことは許されないし、サファイアの憤慨も理解しているつもりだ。それでもエメラルドに救済を、と思ってしまうのはルビーがエメラルドを甘やかしている証拠になるのだろうか。
 立ち止まってかぶりを振る。ルビーは足を前に向けると、エメラルドの部屋へと向かうのであった。

 何故ルビーがエメラルドの部屋に向かうのか。それは偏にお節介が高じたことに要因がある。というのもセックス依存というのか、下肢にだらしがなく異常行動を繰り返すエメラルドを矯正しようと目論んでいたのだ。
 せめて人並みには、いやそんな忘れ方ではなくもっと有意義な時間の過ごし方を、違うただエメラルドにサファイアを忘れて幸せになってもらいたいだけ。誰かに愛される喜びを知ってもらいたい。虚しくなるような心の穴の埋め方を覚えてほしくない。
 ルビーも大概趣味が悪い。他人の人生だと割り切ることができない。ルビーが見放したらエメラルドのことを心配するものが誰もいなくなるとわかっていたからこそ、鬱陶しがられてもやめることができなかった。
 じと光りする不思議な色彩を持つ扉を前にして深呼吸した。ノックしたところで返事はないし、迎え入れてくれるはずもない。ならば強行突破しかない。例え広がる光景が目に害をなしたとしても。
「エメラルド! そこまでだ!」
 満を持しての登場といわんばかりに入ったルビーに向けられた冷たい視線の数々に、早速心がポッキリと折られてしまったような挫折を味わった。
 てっきりいつもの如く行為中に入ってしまったとばかり思っていたが、そうでもないらしい。エメラルドの部屋にはいつもより少ない人数の宝石しかいない上に、乱交中でもなんでもなかった。
「……ルビー、いい加減に俺の部屋に勝手に入んないでくんない」
 呆れ半分怒り半分、エメラルドの責めるような瞳に射抜かれてルビーは唇を噛んでしまう。ソファに腰かけて遊惰に水煙管をふかしながら手紙を認めているエメラルドと、ベッドの上で円盤遊びに興じているアクアマリンとアメジストがいた。どうにもこうにも理解し得ない状況である。
「セックスしねえの?」
「しないのって、止めにきたんじゃないの」
「いや、まあ、そうなんだけど……」
「お節介だよね、ほんとお前は。アクアマリンとはシてるけど、アメジストとはできなくなったからね。はい、じゃあ解決。出てって?」
「嫌だ! 監視する!」
「……お前の精神年齢の低さには驚かされるよ」
 水底から気泡があがるように、はちはちとはじけた。エメラルドの僅かな表情の変化に、円盤に夢中な二人は気付きもしないのだろう。ルビーはしかと紅玉色をした瞳に焼きつけると感嘆の息を漏らした。
 エメラルドはうつくしい。心からそう思う。
 ダイアモンドのような派手な美でもなく、サファイアのような静かな美でもない。アクアマリンのように可憐な美でも、アメジストのように中性的な美でも、アンバーのように無性の美でも、ルビーのように目が覚める美でもない。いうなればエメラルドは、どのような美をしているのか。
「なに、あまりじろじろ見るなよ」
 薄い黄緑を帯びた毛がエメラルドの指に絡まる。少し伸びた髪を鬱陶しげに掻き上げる仕草なんかは絵にもなる。
 軽薄さと艶っぽさ、哀愁を漂わせてただただ外道を突き走るエメラルドの美を一言で表すのはルビーにはできない。切れ長のつり目も、薄く弧を描く唇も、すっと通った鼻筋も、しなやかな肉体も、透き通るような肌の透明度も、やはりなにをおいてもルビーにとってはエメラルドが一番にうつくしい宝石に見えるからこそだ。幸せになってもらいたい。幸せに導いてやりたい。どうしたら、ルビーはエメラルドを多幸で溺れさせてやることができるだろうか。
「エメラルド!」
 考えたって思いつくはずもない。ルビーはエメラルドが水煙管を置いている机の前に膝をつけると、ソファに深く腰をかけているエメラルドを見据えた。ベッドにいる二人も様子の可笑しさに円盤を弄る手が止まる。
 ルビーは取り敢えず興味津々といった様子で窺ってくるアクアマリンとアメジストを指差すと、回れ右と叫んだ。とにもかくにも邪魔者がいたのであれば話を進めようもない。もっとも邪魔をしているのはルビーだという自覚はあったけど。
 ぶうぶう言うアクアマリンと、それを宥めるアメジスト、エメラルドは興味もないのかそっぽを向いて知らんぷり。退出する二人を見届けたルビーは未だこっちを見ようとしないエメラルドに話しかけた。
「なあ、エメラルドってば」
 正面を向いたかと思えば水煙管の煙を吐きかけられた。宝石箱の中では嗜みのひとつとして愛され、サファイアもエメラルドも随分と気に入っている品のようだがルビーはこのような俗品が苦手である。鼻につく嫌な匂いに咽ると、大理石をあしらったテーブルに頬をつけた。
 こほこほと咳を零して抗議の目を向ける。エメラルドは意にも介した様子なく、二人がいなくなったことで僅かに被っていた猫すら外した。
「黙れって」
 苛立ちを露に髪の毛をくしゃくしゃと掻く。良くも悪くもエメラルドはルビーの前だけで素を晒していた。今やセックスの関係なくエメラルドと交友を持とうとする奇特者はルビーくらいのものしかいない。サファイアは件の通り絶縁状態だし、ダイアモンドは総代だ。他の宝石は皆醜聞に眉を寄せるか、身体を求めるかしかしない。
 故にそれもあってかエメラルドの中で少しくらいは信用を置いてもらってはいるのだろう。伊達に長い付き合いをしてきた訳ではない。ルビーはめげることもせずに立ち上がるとエメラルドの隣へと座った。沈みの良いソファがルビーの体重を吸って凹んでいく。わざとらしい溜め息を吐かれても、ルビーはにこにこと嬉しそうに笑んだ。
「お前ほんとなにがしたい訳」
「なんだろなあ、わかんない。でもお前には幸せになってほしいって思ってる」
「なら邪魔すんのやめてくれない? こんな風に部屋に入ってこられたらセックスもできないし」
「俺がきてもするだろ」
「……そういうことじゃないんだけど」
 ああ、もう、エメラルドはそう声をあげるとルビーの額にでこぴんをかました。軽い音とは違って襲う刺激は痛いものがある。ルビーは額を押さえると、もごもごと口を動かした。
 優しいのだか冷たいのだか、いまいちエメラルドの行動が読めない。ルビーはサファイア曰く鈍感で空気が読めないらしいので、繊細な心境や見逃してしまいそうな変化など到底見分けることができないのだ。
 ルビーは優しげなエメラルドを回顧すると、今は消え失せてしまった平淡な表情に落胆を覚えた。
 どうしてここまでエメラルドのお節介を焼いてしまうのか、ルビーでさえもわかっていない。仮にサファイアがこうまで堕ちてしまってもそこまで熱心に付き纏ったり矯正しようと奔走したりはしないだろう。仮定の話ではあるもの、ルビーはエメラルドだからこそと断言できるなにかがあった。そのなにかはまだはっきりとわからないのだが、きっとルビーの中でエメラルドは特別なのだ。
 深いようでいて浅いようでもある。澄んでいるようで濁っているようでもある。黄緑の色彩を帯びた瞳が光の屈折で黄色く光った。ルビーは一呼吸食んでみせると科白を紡ぐ。逆鱗に触れるだろうと、わかっていてのことだった。
「いい加減忘れろよ」
 気紛れにルビーに伸ばされていたエメラルドの指が止まった。無の色を湛えていた瞳に剣呑さが増していく。沸騰してあがる水泡のような怒りが、エメラルドからは感じ取れた。
「……それ言うんだ?」
 指先が白くなって、エメラルドはルビーの顎を持った。顔を近づけられて睨まれる。すべてを知っているからこそルビーが発すべき言葉ではなかった。だがルビーだからこそ確信をつける言葉ともいえる。
「言うよ。何度だって。もういい加減忘れろ。サファイアは、お前を見ない。わかってるんだろ」
「お前になにがわかる」
「なにもわかんねえよ。わかんないけど、……わかんないけどさ振り向かないってことくらいはわかる」
 言ってしまえば戻れない。はっと唇を閉ざしても、音は消えてはくれない。
 エメラルドの瞳から光が失せた。悲しげに瞼が伏せられて、誰の前でもみせないあどけない子供に戻る。それはルビーがなによりも嫌いな表情でもあった。感情をなくして迷子になっている可哀想な子供の姿になるから。
「……ルビーはさ、お子様なんだよ。人を好きになったことがないからそうやって簡単に古傷を抉る。それって俺以上に下劣なことって知ってた?」