心臓を刺すような言葉だった。ルビーとてなにもエメラルドを故意に傷つけようとして苦言を綴ったのではない。ありのままの事実を、ああそれが駄目だったというのか。
お節介も高じてしまうと刃物へと変わる。幸せになってもらいたいと紡いでおきながら、傷を抉ることになろうとは思ってもいなかった。とはやはり建前で、ルビーは傷つけてもその先に幸福があるのならば厭わないと思う心もあった。
違うだけ。ルビーとエメラルドの幸福論が、違うだけだ。
「好きになれなくても、俺は……」
馬鹿な話があったものか。エメラルドの悲しみ、苦しみ、上手くいかない感情にルビーは目元が滲んでいくのを感じた。良くも悪くも影響されやすいルビーは直ぐに涙を零す。
はらはらとルビーの頬を伝う涙は透明の粒になって手の甲に落ちた。これが宝石に変じることができたのならば、さぞかし綺麗だろうに。異質ではあるこの世界だが、童話めいたことはそうそうない。
泣いたルビーにかかる溜め息。エメラルドはああ、と声を張ると髪の毛をくしゃりと掻いた。
「ほんとお前は人をいらいらさせる天才だ」
「ごめん……」
「なんで泣くの。意味わかんないし。普通俺が泣く場面じゃない? そんな柔なことで泣かねえけど。つーかいい加減やめて。ちょっと、ルビー」
「俺だって、お前の気持ちはわかりたいんだ。でもわかんねえし、……だけど幸せにはなってもらいたくて、そのためには、さ、サファイアは諦めてもらうしか、なくて、で、でも」
「うるさい」
乱暴な手つきで頬を拭われる。いつだってそう、エメラルドは不器用なだけで優しい心をもっている。皆は知らないだけ。知ろうともしない。噂や醜聞、見目だけでエメラルドという人格を決めつけ、それを押しつけて偶像でいさせようとする。だからこそエメラルドもその偶像のままいようとしてしまうのだ。
サファイアに一途なまでの想いを捧げるのも、サファイアに狂気染みた傾倒をするのも、表裏一体なだけで恋の一部だ。
軽薄で残酷かもしれない。最低で下劣かもしれない。貞操概念は低いし、まぐわった相手から向けられる愛を踏み躙る冷酷さももっている。良いところなんてないといわれても可笑しくのないエメラルドをそれでもルビーは大切に思うし、優しい人だとも思っている。
片鱗しかない気紛れの情が、ルビーに与えられる瞬間を夢に見ている。指先で涙を拭ってエメラルドは笑った。蕾の花が綻ぶような、そんな小さな変化をルビーは側で見ていたいのだ。
「お前はほんと図体ばかりでかいけど、中身は子供のまま変わらないね」
誰に向けている感情とも違う。ルビーの中でエメラルドは特別。言い表しがたいこの気持ちは、何色をして、どんな形をして、どのような意味を孕んでいるのだろう。
それを知りたい。ルビーはそれを知りたいのだ。
「こ、子供じゃねえよ。俺だって立派な大人だ」
「身体だけはね」
「なんだよそれ!」
「ピーピー泣いてるやつが言っても説得力ないって話でしょ」
弧を描く唇。エメラルドは卓上の手紙に視線を落とすと筆を取った。相手にしていれないとばかりに手をひらひらと振って、時間切れとのたまう。
「さ、子供は部屋に帰って。俺はこう見えて忙しいんだ」
「だから、子供じゃ……!」
エメラルドに突っかかろうと少し浮かせた腰は、直ぐにソファへと深く沈む。良いことを思いついたとばかりにエメラルドはルビーの手首を握るとそのままソファに押し倒してきた。
背には柔らかで手触りの良い布の感触、視界には影が差す。逆光で表情の読み取れなくなったエメラルドに見下ろされた。ルビーは現状を上手く把握することができなくて、狭いソファの上でまごつくことすら忘れた。
「じゃあ子供じゃないって教えてくれる?」
ただ唇を舐めるエメラルドの舌が赤いことだけはわかる。
白痴を知らぬルビーはこの状況を直ぐに理解し噛み砕くことができなかった。両手首をエメラルドに縫い止められ、押し倒されているというのに瞼をはちはちと瞬きさせるだけ。それはエメラルドを呆れさせるのには十分だった。
「……ねえ、わかってんの。この状況」
「え? なにが?」
「なにがって……ほんとお前今までどうやってここで生きてきたの」
「どうって……普通に?」
エメラルドの顔が近くなる。触れ合いそうなほど距離が狭まって、視界がぼやけた。あまりに近付きすぎるとなにも見えなくなるようだ。エメラルドは視界できらきら光る黄緑だけを捕らえて、ぼんやりと夢心地にいた。
「お前が慰めてよ」
エメラルドの鼻先が首筋に触れる。拘束を解いた両手はルビーの身体を這って、漸くここでルビーはなにが行なわれようとしているのかを知った。
とはいっても恥ずかしい話、ルビーにはこういった経験がまったくもってない。いつも誰かの致している場面に遭遇するだとか、エメラルドの乱交を止めるだとか、そういった視覚的情報で知ることができても、詳しく手解きをされたり情報として得たりなど、そういったことは皆無だった。
偏に興味がないということもあったが、案外お堅いルビーは恋うた宝石ではないとと思っていた。いつかルビーも誰かに想いを馳せるときがくるかもしれないと、そのときを悠長に待っていたのだ。
だからこそこの展開には驚いた。今更エメラルドの突拍子もない行動に驚いてみせると、両手を突っぱねて身体を押し退けた。
「ちょ、ちょ、ちょっと! なに馬鹿なこと考えてんだよ!」
「お前を手っ取り早く黙らせる最良策だと思うんだけど? ついでに言うと俺の欲も解消されるし。好みじゃないけどたまには毛色の違う相手ってのも悪くはない」
「煩悩しかねえのか馬鹿野郎! 真面目に清く正しく生きろっての!」
ぐぐぐ、と肩を押す。エメラルドの方もさして本気という訳でもなかったのだろう。想像よりは簡単にルビーの前から退いてくれたもののなにを考えているのか、ルビーの手首に触れると再び引き寄せてきた。
「ルビー、わかってたはずだろ? 俺は快楽さえあれば良い。他はなにもいらない。お前でも良いんだよ、俺を殺してくれるならば」
指先がなまぬるい体温に包まれる。性を具現化したような、そんなエメラルドの表情にルビーは背筋が鈍く痺れた。指先が熱くて溶けてしまいそうだ。
「俺にとってサファイアでなければ、誰だって同じ。意味のない硝子にしかなりえない」
それはとてもかなしい科白。ルビーは熱と冷たさを両方感じ入ると、なにも映さないエメラルドの瞳から逃げた。
唇に触れられている指先を払う。囲うように手元に引き寄せて、ソファから逃げて離れた。しどけない様子でルビーを見つめるエメラルドを、ルビーは知らない。知りもしない。
そうだ、いつだってエメラルドはルビーのことを性的な瞳でねめつけることなんてなかった。
「……ねえ、ルビー、お前はこんな俺でも救いたいなんて馬鹿なことを言うのか?」
「な、にを」
「俺を大切にしてくれるお前を壊したって厭わない。お前も俺にとってはその他大勢に過ぎないってことだよ」
わかっては、いなかった。ルビーは初めてエメラルドのかなしみの深淵に触れた。
それ以上紡げる言葉も態度ももっていなかったルビーは足元を一歩後ろにたじろがせると、そのまま逃げるようにエメラルドの部屋を出て行った。
可笑しい。可笑しい。エメラルドの言葉に哀しんで良いはずの心が、傷ついて良いはずの心臓が、がたがたと音を立て早鐘を打ち、そうして熱をくべらせていくのだ。
どうしてこんなにも熱くて仕方がない。ルビーは素気無くされるとわかっていても誰かに聞いてもらいたくて、思い浮かんだ宝石のもとへと足を向けたのであった。
バタン、と扉を荒々しく開けばまたもや幾つもの綺麗な宝石玉に射抜かれる。事務処理でもしていたのだろうか、机に積み上げた読みものに目を通しているサファイアが最初に目に入り、次いで先ほども顔を見合わせたアクアマリンと新しく加わったトパーズがルビーを瞳に映した。
アメジストはどこに行ったのか。アンバーのところだろうか。ルビーにはそんな些細なことに構っている余裕もなく、サファイアの近くによるとおいおいと泣き真似をしてみせた。
「あのさ……、ルビーここはお前の相談所じゃないんだよ」
いつもより声音が優しいのは愛しいトパーズの前だからか、それともルビーの顔があまりにも酷いからなのか。どっちだって良い。ルビーにとってはどんな意味を含んでいても天の声だ。
「そ、相談があるんだけど」
「……相談? ルビーが相談なんて珍しいね。さっきまでエメラルドのとこにいたんじゃなかったの」
「……そ、その」
「ふうん、まあ仕方ないから話くらいは聞いてあげるよ。アクアマリン、少しトパーズを連れて奥の部屋にいってくれないか。困ったことに聞かれたくない相談らしいからね」
気遣わしげなトパーズを見て、ルビーは感嘆の吐息を零す。見慣れない褐色の肌も、アンバーとは違った黄みの強い色合いも、なにもかもが珍しく映ったからだ。
逸脱した美ではないもののなにか惹かれるものがあった。これがエメラルドを虜にしたサファイアが唯一愛した宝石か、と。
「な、なんだよ」
だけど口はルビーと同じで良くないらしい。慌てた様子のアクアマリンに口元を押さえられたトパーズに、サファイアは額に手を当てると苦み走った声をあげた。
「あ、あはは〜! ちょっとこの子口悪くってえ〜!」
アクアマリンの庇うような声が響く。ふがふがと口を押さえられたトパーズは意味がわかっていないようだ。
一応はサファイアの庇護下にあるといっても、ルビーはサファイアと同等の力を保持する。先ほどの言葉は上位のものに対する口の聞き方ではない。だがしかし失念している。相手がルビーだということを。これがダイアモンドならば血を見ているかもしれないが、ルビーはそのような些事など一切気にも留めなかった。
ふい、と視線を逸らすと手をさっさっと払い除ける。いつもなら構って喋り倒していたところだが今はそのようなゆとりもない上に、エメラルド贔屓でいてしまっているためにトパーズに対し純粋な気持ちを抱くことができなかった。
薄々気付いている。この異常なまでの執着に。
「いーよ。気にしてねえから二人きりにさせて」
サファイアの口添えも上乗せされて、大人しくなったトパーズはアクアマリンとともに奥に繋がる扉の向こうへ消えていく。覗かれることを嫌うサファイアが作った、秘密めいたことするのに最適の部屋は世界からの漏洩を防ぐ役割をもつ故に盗み聞きされる心配もない。
ルビーがいくら矜持や利権争いに興味なく、身分を気にせず平等に接しているからといってもそれとこれは別問題でもある。
気安く話しかけられるのは厭わない。救いを求めている宝石に手を差し伸べるのも好きでやっている。お節介であるルビーは他人の領域など気にすることもなく接する。
でも、その逆は有り得なかった。
ある意味で誰よりも心の壁が厚いのかもしれない。ルビーが接するものといえば多くにあがるものの、感情の片鱗を吐き零すものはサファイアとエメラルドとダイアモンドしかいないのだから。
「まったく、情けない面をしてる」
いつもなら、許可もなく部屋に入ったことをがみがみと説教染みて怒鳴り散らすサファイアも、今だけは気持ち悪いくらいに優しい。偏にルビーの不自然さも相俟っているのだろうが、やはり根っこで同じ鉱物であった二人には誰にも理解することができない繋がりがあった。
その部分を、ああそういえば、エメラルドは酷く羨んでいたようにも思う。
「サファイア、俺はどうしちゃったんだろう」
なにもかもを置き去りにした途方もない言葉をサファイアは上手に汲み取ると、テーブルの傍らに置いてあったグラスの淵に触れた。サファイアが好んで呑んでいる酒が入っているそのグラスは、指先によってくらりと傾く。
「……俺が言うべきことではないんだけどね」
「知ってるのか?」
「知ってるというよりは、ルビー、お前がわかりやすいだけだよ。だけどね、こういうのは誰かに言われて気付くようじゃ駄目なんだ。自分で知るものだと俺は思っているよ」
「……だけど」
「そう、だけど。お前の場合は鈍い。正直頭の螺子がどうにかしちゃってるんじゃないかってくらいに鈍い。今までどうして気付けなかったのか、気付こうとしなかったのか、疑問にすら思わなかったのか。俺には不思議でならない。可笑しなタイミングだとは思うけど、エメラルドの部屋でなにあったんでしょ」
抽象的で曖昧な物言いに、ルビーは首を横に捻った。おつむが弱いルビーには言葉を咀嚼するだけの解読力がない。それにサファイアのような、言葉の端々になにかを匂わせるような言い方が嫌いなのだ。
はっきりと言ってほしい。知りたいのは真実のみだ。
「……べつに、なにかあったっていうか、わかんないけどエメラルドに触れられた箇所が熱くて、エメラルドが俺をどうでも良いって言って、サファイア以外全部一緒だって、それにすっげえ心臓が痛くなったけど……やっぱ俺はエメラルドを幸せにしたくって、でもなんつーか心臓がきゅっていうか、どきどきっていうか、変なんだ、俺」
「そこまで自分の状況を把握しておいて、直ぐ側にある簡単な答えに行き着かないお前の子供っぽさにはほとほと呆れたよ。っていうよりもう少し言葉を整理して言ってくれない? 支離滅裂過ぎて意味がわからない」
「お前も俺のこと子供って言う……!?」
「はあ、まあ仕方ないから言ってあげるけどね、そういうのを恋って言うの。お前はね、エメラルドに恋してるの。俺の言ってることわかる? ルビーは、エメラルドを、愛している」
一文字一文字区切って柔らかく言った言葉に、ルビーはすべてを飲み込むことができなかった。頭上に多くのクエスチョンマークを浮かべると、ゆっくりと復唱する。
「ルビーは、エメラルドを、愛している……?」
つまりそれは、そういうことなのだろか。広がっていく言葉に、染みていく世界に、ルビーは白い肌を真っ赤に染めるとないないと手を横に振った。けれどもそれが精一杯の虚勢であり、限りなく真実に近いということも明白だった。
そうでなければ困る。じゃないとルビーは、ずっとエメラルドのことを下心だけで見てきたようではないか。違う。違う。否定したいのに大きく言葉にできないのは、ルビーの中で真実だとわかり始めているからでもあった。
「お前の趣味も、大概悪いね」
サファイアの複雑な表情にルビーは唇を噛む。唯一無二の存在であるルビーが愛した宝石が、忌むべきエメラルドという事実を否定したいのだろう。
「あんな軽薄で最低なやつのどこが良いんだか……。殺してやる価値もない」
「……サファイア」
「それでもお前はあいつが良いって言うんだね? ほんと揃いも揃って不憫な恋をしている」
「俺はエメラルドが……」
「丁度良いって思えたら良いんだけどね、俺も。あいつしつこいし、うざったいし、重いし、……でもお前はそんなあいつを好きになったっていうんだから、俺としては複雑だね。どこかでずっと気付かないまま諦めればって思ってたけど」
「……え? 俺そんな前から好きなの?」
「そんな前っていうより、ずっとでしょ? お前は、ルビーは最初からエメラルドしか見てなかったよ」
どこか違う世界の伽話を聞いているようでもある。淡々とルビーの心情を語るサファイアを、ルビーは宙に浮いているかのような心持ちで聞いていた。
信じられなかった。信じたくなかった。どれでもない。ただ、可笑しな話だとは思う。ああそれでも、それが答えなのだろう。
煩くわななく心臓を押さえ込んだ。どうやらルビーは、ずっと前からエメラルドを愛していたようだった。