うそでもいいよ 08
 サファイアのなにもかも悟っているような問いに、ルビーは曖昧に笑った。知りたいと騒ぐ心が知りたくないと劈くように叫ぶ。結局はとどのつまり、ルビーとて傷つくのが嫌なだけだ。
 きれいに縁取られた紅玉色の瞳が戸惑ったかのように揺れる。水面を湛える表面は薄い膜が張り、今にも零れ落ちそうになっていた。サファイアの指先がルビーの手の甲をなぞって、まるで優しく説き伏せるように顔を近付けてくる。
「お前は本当に趣味が悪いよね、ルビー。それでも俺はお前のことが好きだよ」
「……どうしたんだよ、いきなり」
「ダイアモンドもね、きっとそうなんだと思う。だからこそエメラルドが好きになれない」
「悪いやつじゃないんだ。不器用なだけ」
「お前が取り繕っても駄目だ。俺はきっと一生エメラルドのことを許せない。そういうものだろ。でもお前がそれでもエメラルドを好きだと言うから、見逃してやってるんだよ」
「……サファイア、違う、エメラルドも、エメラルドも純粋にお前が好きなだけなんだ。どうしようもない闇に落ちてるだけなんだ。救いを求めてるだけ。だからそれ以上、嫌わないでくれよ」
 他人のために流す涙を、サファイアは呆れたように指の背に乗せた。ほろほろと落っこちて粒になっても宝石になりはしない。触れれば弾けて消えていくような水の粒は、まるでルビーの恋でもあった。
 見た目だけならば形としてあるのに、触れたら最後跡形もなく消えてしまう。心臓の奥底に縛りつけて錆びさせた恋心も、きっとそんな風にいつかは消えていくのだろう。少しずつ血液に混じって全身を巡回し、涙となって表に出て、そうして消えていく。
 ほろほろ、ほろほろと、青い瞳に映る赤い涙に、ルビーは胸がぎゅっと痛くなった。
「エメラルドのことそこまで愛してるの」
 仕方がないと子供を窘めるようなサファイアの声音に、ルビーは戸惑いをみせたものの観念したように頷いた。
「……忘れられる、きっと」
 つらさを止めたくて、サファイアの手の甲に縋った。頬を撫ぜるその手に触れて擦り寄ってみる。どれだけ触れあってもルビーとサファイアは表裏一体の存在だ。同じであるが故になにもかもわかってしまう。隠しごとなんてできない。だからこそ本音を吐き出すことも容易だった。
 愛を知ったサファイアはルビーを見てなにを感じ取ったのか。顔を寄せると嘯くような笑みで真実を舌に乗せる。
「エメラルドはね、ますます引きこもりになったんだよ」
「……は、あ?」
「部屋から出ないのは前からだろう。ずっと部屋でセックスばっかりしていたからね。でも今回はそれだけじゃなくて誰も連れ込んでいないんだ。連れ込んでいないどころか、誰とも会わないって言って狭い部屋に篭城してる。なにを考えているんだかさっぱりわからないね」
「まさか、そん、なんで? エメラルドが……?」
「皆お前みたいな反応をしてるよ。信じられないものを見ているっていう目でね、確かめに行ってる。アクアマリンなんて卒倒してたな。きもいきもいと言って怖がってたよ。ダイアモンドでさえ不気味だって言うから、お前だってそれくらいは思うだろう。あのエメラルドが誰とも触れあうことなく、宝石との接触を避けて部屋に篭もってるなんてさ」
 唾を呑み込んだ。予想通りのルビーの反応に、サファイアは苦笑いを零す。
 セックス依存症だった。狂っていた。誰かのぬくもりがないと寝られなかった。一人が怖いと言っていた。サファイアを好きになり過ぎて、サファイアに拒まれた世界が恐ろしくて、誰かで埋めようとしていた。子供なのだ、エメラルドも。孤独をきらっては誰かに手酷い扱いをして代用を探す。後腐れのないその場限りの愛を楽しんでは履き捨て、どうしようもない繰り返しばかりしていた。
 誰も彼もエメラルドを愛さない。エメラルドも誰も愛さない。だからこそ成り立っていた。ルビーという異質分子が入るまでは。
 愛したことが足枷になったのだろうか。心苦しくなったのだろうか。受け入れられない立場を思い出してルビーに重ねて、どうにもなりはしない絶望に色をつけたのだろうか。
 エメラルドはそれでもなにも言わなかった。ただサファイアだけを愛している、そんな風に言ってルビーを突き放した。だからルビーは知っているよ、それでもエメラルドを愛している。そう返していた。
「ルビー」
 やわらかな声音に包まれる。サファイアはお節介を落とすようにルビーに言葉を降らせた。
「見返りのない愛を続けるよりは、優しさに包まれた愛に溺れたい。きっと誰もがそうだろうね。その先はお前が確かめてみたらどうかな。どうしようもないエメラルドを好きだって言う馬鹿は、お前くらいしかいないだろうし」
 その覚悟があるのならと零されて、手の内に引き寄せられた。意図的に抱かれては額をこつりとあてられる。目を白黒させるルビーにサファイアはおまじないだと言って離れた。
 燦々と太陽は輝き続ける。じりじりと焼けるような日差しの下でルビーは空を仰ぐと、閉じられたままのカーテンを見つめた。あの暗闇の奥で膝を抱えているのだろうか。愛されたいと悲しみに暮れているのだろうか。都合が良過ぎる妄想をどうにか現実にしたくて、一歩を踏み出した。
 やっぱりどうしても忘れられない。求めて彷徨う足が向かう先は一つしかなくて、どんなに努力をしたって直ぐに浮かび上がってくるのだ。
「サファイア、……それでも俺は見返りのない愛を続けるんだろうな」
 それしかない。ルビーにとってはエメラルドがすべてだから。悲しげに縁取られた瞼を閉じてサファイアは手を振った。

 駆けるようにエメラルドの部屋に走った。何度この道を踏みしめた。何度往復した。一喜一憂の想いを抱えては色を変える心臓をさざめかせて、例え排他的な関係にしかならなくてもそれでも幸せだった。
 その手に過信していた。甘えていた。夢を見ていた。自分だけだなんて思い違いも甚だしい。最初から知っていて近付いたじゃないか。なにを今更。
 時間がかかっても良い。腐るくらいにある時間の中で少しずつ埋めていけたら良い。いつか、そういつかだって良いんだ。エメラルドの瞳にルビーだけが映るという夢を抱くことは罪にならないだろう。
 すべてを拒むように建ち聳える豪奢な扉の前に辿り着く。荒い息をそのままに心臓を押さえ込んだ。呼吸が途切れて、汗が一筋流れては落ちていく。からからに乾いた喉と乾燥した唇。湿ったてのひらは熱をこもらせると、戸惑うように宙に浮いた。
「エメラルド……」
 ノブに触れる。なにを考えているの。どうして独りでこもっているの。エメラルドの悲しみを埋めてくれる宝石なんてたくさんいるだろう。欲を解消できる都合の良いお人形ばかり集めていたじゃないか。
 なのにどうして今、エメラルドの隣には誰もいないの。エメラルドに触れていないの。救ってあげないの。
 結局お人形はお人形でしかない。意思の持たない都合の良い存在は、悦がなければ切れてしまうような脆い関係だ。消えてしまえば次がある。繰り返される悪習の中で、ルビーだけが抗っていた。
 愛してくれなくても良い。だからルビーまで同じにしないでほしい。一度は逃げてしまったけれど、戻ってきてしまうようなどうしようもない宝石なのだ。
 ゆっくりとノブを右に回す。カチリと硬質な音がして引っかかった。中から鍵を閉めているのだろうか、初めて拒絶をされたような感覚に陥る。扉は微動にしなかった。
「おいエメラルド、いるんだろ」
 大きめの声で語りかける。返事はない。がちゃがちゃと乱暴に回してみるものの、向こう側に気配すらなかった。
「居留守かよ。いるのはわかってんだぞ」
 がんがんと、乱暴さが比例して大きくなっていく。壊れそうなくらい掻き回した。足で蹴ったりもした。殊勝なさまも、健気な振る舞いも、しとやかな仕草も縁がない。粗暴で、馬鹿で、一直線のルビーだから、こうするしか方法も思いつかなかった。
「エメラルド!」
 辺りがざわつく。扉を壊す勢いで蹴り続けていれば、流石にまざまざとまではいかないが、それなりに注視を浴びていることに気付いた。辺りを見回せばさっと視線が消える。
 どうとでも見るが良い。エメラルドが鍵を開けるまで、もしくはルビーが鍵を壊すまで、誰になにを思われようがこうするまでだ。
 ガンッ、と大きく蹴れば扉が軋んだ。中からもぞもぞと音が聞こえる。ルビーが耳をあてて音を拾うように澄ませば、煩いと小さな声が聞こえた。
「ルビー……いい加減にしてくれないか」
 鍵の開く音とともにそんな声が聞こえた。はっとして扉から顔を離せば、薄く開いた隙間からエメラルドの髪がちら見した。薄暗くて見えないが、艶を失っているようなくすみ具合だ。
 ルビーはこの好機を逃すはずもなくすかさず隙間に手を差し入れると、強引に中へ入るように身体を滑り込ませて後ろ手に扉を閉めた。邪魔者を排除するように鍵をしっかりと閉めれば、呆れたようなエメラルドの溜め息がかかる。
「……今更なんの用」
 零された声の低さに身体を竦ませてしまう。おそるおそる一瞥したエメラルドの姿は薄がりの中ではあまり良く見えなかった。日光を遮断する緑玉で作られたカーテンがすべてを吸収しているのだ。それでも光を吸い込んできらきらと輝く宝石は目に鮮やかで、ルビーは焦がれた色を目に映すと泣きそうになった。
 唇を噛みしめる。かぶりを振って一歩近付けば、逃げるようにエメラルドが足を後退させた。
「エメラルド」
 近付いて頬に触れた。微かに震えたエメラルドが瞼を大きく開けて動きを止める。吸い込まれそうな黄緑めいた色は依然として変わりをみせないのに、それを覆う皮膚が色を失ってしまっていた。
 ゆるりとなぞっては悲しさに落とされていく。軽薄さを滲ませて笑っていたエメラルドが、今は無気力な瞳でただただルビーを見つめるのだ。
「やつれたな」
「……お前に言われたくないよ。随分楽しそうにしてたね。あんなに俺のこと好きって言ってたのに、身代わりが早くて驚かされるよ。お前だって俺のことほんとうはどうだって良いんだろ」
「なに言ってるんだよ」
「サファイアとなにしてたの。俺に見せつけてたの。なんで、……もうわからない。お前なんか、サファイアの代わりにもならないのに……」
 エメラルドの頬を両手で覆った。なまぬるくてどこか冷たくて、そうして肉付きの薄い頬だ。幾ばくか会っていない期間があったといえど、ここまでやつれてしまうものなのだろうか。艶をなくしては悲しげに揺れる瞳を見て、ルビーはようやっとサファイアの言っていたことを理解した。
 エゴイズムだと片付けるのは簡単だ。エメラルドのことを理解もせずに吐き捨てた言葉は、どれだけエメラルドに降り続いたのだろう。宝石の種類がたくさんあるように生き方、考え方、愛し方、それらにだって種類はある。
 不器用なだけ、我侭なだけ、愛されたいだけ。エメラルドだって誰かにずっと愛されたかった。サファイアに愛されたかったのだ。
「エメラルド」
 代わりならないことは知っている。サファイアを愛したエメラルドをルビーは愛した。最初から全部丸ごと受け止めるつもりで覚悟を決めていたじゃないか。
 ほんの少し、少しくらい他の宝石に現を抜かしたって良い。最期の最期にルビーを愛してくれる日がくるかもしれないと幻想を抱きながら待つから。待ってみせるから。見返りのない愛を、惜しみなく降り注いであげたい。
「……ごめん。ひとりにさせて」
「はあ? 別に最初から、お前なんて呼んでない。なのになんで勝手にくんの」
「うん。ごめん、きたかっただけ。やっぱり忘れられねえの、エメラルドのこと。どうやったって心の中から出て行ってくれない。嫌いになれたらいっそ楽なんだろうな」
「……嫌えるの」
「嫌わないよ。……世界中敵にまわしたってエメラルドのこと、ずっとあいしてるから」
 ルビーと同じようにかさついた唇に噛みついた。久しぶりのやわらかな感触に眩暈すらしそうだ。光の届かない闇の底で、慰めるように口づけを交わした。
 最初こそたどたどしくされるままだったエメラルドも何度かそれを繰り返しているうちに劣情に火がついたのだろうか、ルビーの頬を覆うと貪るように舌を差し入れてきた。
 熱くてやけどしそうだ。ざらざらとした舌の表面が唇を這う。隙間なく塞がれて口の中を舐められて、酸素を求めて溺れる魚のような気分になった。呼吸もできない。鰓もない。なにもないのだ、ルビーには。
 掻き抱かれるように口づけられながら、ルビーはそのままエメラルドに押し潰されるようにソファに倒された。覆い被さる体勢のエメラルドはルビーの肩口に顔を埋めて、か細い息を吐く。
 震えているのだろうか。熱に浮かされた思考でエメラルドの背中に指を滑らせれば、幼子のように強く抱きしめられてしまった。どちらかといえば抱きつかれているような感覚でもある。
「エメラルド……?」
 欲情にまみれたキスの余韻もなく、ただただエメラルドはルビーのぬくもりを確かめるように、ひたすらに隙間を埋めようともがいた。いつになく頼りない姿に胸が痞えてしまう。
 抱き返せば名前を呼ばれる。困ったような、どうしようもない悲しみに染まった声だ。
「ルビー……、俺にはサファイア以上の宝石なんていない」
「知ってる」
「サファイアがすべてだった。なにもいらなかった。サファイアが生きているだけで、それだけで良かった。本音を言えばどうにかしてやりたい。あいしたい。あいされたかったのか」
 独白の綴りに耳を傾ける。息を詰めたエメラルドはルビーの首筋に歯を立てると、ざらりとした舌を乗せた。
「……だけど、お前にしか欲情しないんだよね」
 ちりちりとした痛みの中で生まれる悦に、ルビーは吐息を零すとエメラルドが零した言葉を反芻した。なにを言ったのか。聞き捨てならないくらい、重大なことを言った。
 それはつまり、どういう意味を含んでいるのだろう。期待に膨らむばかりの心臓が痛い。都合の良い解釈をしてしまう思考が怖い。縋るように背に爪を立てて、予防線を張って逃げた。
「うそ」
 嘘であってほしいだけ。
「嘘じゃない。ルビーのことばっかり考えてた。……最後に泣いてたお前の顔が離れなかった。馬鹿みたいだろ。サファイアのこと愛してるくせに、お前だけに欲情する。お前にしか反応しない。お前のことばっかり考えるんだ。俺の側からいなくなったルビーを思うと、悲しくなるんだよね、ほんと……参る」
 どうしたら良い。縋っていたのはルビーなのに、逆に縋られてしまった。甘えるように逃げるように、ルビーの体温を抱いては同じようなことばかり言ってのける。そんなの、こっちが聞きたい。
「……知ら、ねえよ。お前はそうやって、俺をぬか喜びさせて、また、落とすんだろ?」
「誰ともしてないよ」
「そういうことじゃ、ねえじゃんか。なんで、なんで、そんなこと言うんだよ」
「だって、本当なんだ。どうしようもない。お前しか、いないんだよ。サファイアの恋を、返せよ……お前ばっかり俺の心に居座って、どかないんだ」
 責任とってほしいくらい。ぬくもりが離れて、顔を覗き込まれる。不細工になっているだろう。情けないだろう。みっともないだろう。きっと可笑しな顔をしている。つんと鼻は痛いし喉はひくひくと痙攣しているし唇はこわばっているし、瞼は微かに震えている。ゆらゆらと湛える水面は決壊寸前で今にも爆ぜそうだ。
 これ以上なにも言わないで。優しくてあまい言葉を募られても泣く自信しかない。顔を真っ赤にさせて、苦しさと愛おしさで潰れてしまいそうなルビーにエメラルドは見たこともないような顔をしてみせると、複雑な、いろいろな色が混じったような面容を零した。失敗して、くしゃっと崩れていたけど笑顔に見えた。
「ねえルビー、お前は俺を裏切らないんだろう? 最後まで、面倒みてよ。お前のこと、……好きにさせてよ」
「え、めらる、ど」
「サファイアより、好きにさせて。お前となら、……恋ができるって思ったんだ。ねえ、都合が良いって、お前は言うかな」
 狡猾であざとくて、どうしようもなく酷い宝石。今だけの偽りだとしても、その場限りの嘯きだとしても、明日には夢だとからかわれたとしても、この瞬間のエメラルドを信じたい。
 なんでもいい。うそでもいいよ。だから愛しているって言ってくれないか。今だけは恋人になってくれないか。寂しさゆえの強がりだとしても、仮初めの形に溺れていたいんだ。
「あいしてるよ」
 舌に乗せられた言葉が届くまで数秒、ルビーは唇で塞ぐと、このまま世界が終われば良いと強く願った。