うそでもいいよ 07
 完全なるセックス依存症だ。もとよりルビーは性的なことに対し免疫がなかった。慣れていない上に、初心者だったのだ。攻めるより受け入れる方が負担も大きい。入れ代わり立ち代わりのエメラルドの情婦を一身に引き受けたことにより、急激な消耗についていけず身体が壊れてしまった。
 宝石関係の位置としては諸説粉々あるが、秘めたる力で並べればダイアモンドの次にルビーが強い。東洋の国ではルビーが一番だと重宝されるくらいに力強い宝石としても有名であった。
 性的魅力に溢れ、自信と我欲に優れたルビーはサファイアと同じコランダムの一種とされていたものの、サファイアより癖があった。力が強過ぎる所為で他の宝石と折り合いが良くなく、周りに馴染みにくい性質をもっている。とはいっても昔であったのならば、つかず離れずそのような距離感をもって過ごしてきたから別条なく過ごせていた。
 しかしここ最近のルビーの醜聞は北の城に留まることすら知らず、東西にも広がる始末。エメラルドと同衾し過ぎたのだ。
 力が強い同士、四六時中ともにいれば反発が起きて空気が淀む。それでなくともセックスという肉体的接触をのべつ繰り返していたのだ。エメラルドを受け入れ過ぎたルビーは力を失ってしまうと消耗し、動けない人形のようになり下がった。
 二人とも、気付いてはいた。近くにい過ぎたことに。しかしルビーがエメラルドに依存するように、エメラルドも少しずつルビーに依存していた。破滅の道を辿るしかない選択肢だったとしても、世界を排除した二人にとっては酷く心地が良かった。
 寝台のシーツの上で、陸に打ち上げられた魚のように呼吸を求めている。浮かされた熱で息を吐けば、冷ややかな手が額にかかった。
「ルビーはしばらく僕が預かる」
 凛とした声、ダイアモンドだ。エメラルドの部屋にきたのだというのだろうか。ルビーはなにが起こっているのか把握することもできず、鉛のように重い瞼を錆びたブリキのようにゆっくりと開いた。
 ぼやけて見る視界では、ソファでそっぽを向いて水煙草を蒸かすエメラルドの姿がある。反対側にはどうしてここにいるのかさっぱり理解もできないが、ダイアモンドが険しい表情でエメラルドを見据えていた。
「聞いてんのかよ。僕に逆らう気か?」
「……逆らうもなにも、俺たちはダイアモンドには逆らえない。問うたところで、なにを言えって言うの」
「少しは渋るかと思ったんだけどそうでもないんだね。ほんと薄情なやつだよ」
「ダイアモンドには言われたくないね。贔屓もそろそろやめたら」
「僕に忠誠を誓ってくれたものを、酷には扱えないだろ? もとを正せばお前も、僕にとっては守るべき存在なんだよ。ま、守ってやらねえけどな」
「こっちこそ遠慮願いたいよ」
 重力に逆らうかのような浮遊感。ダイアモンドの腕に抱かれたルビーは更にぐったりとしてしまうと瞼をおろした。たった少しの皮膚でさえ動かすのも億劫なほど、力を消耗したというのだろうか。
 ダイアモンドの胸に額をあてる。反発することのない力に誘われるまま息を吐けば、ほんの少し身体が軽くなったような気がした。
「エメラルド、ルビーとずっと一緒にいればこうなるってわかっていただろ」
 エメラルドからの返事はない。ダイアモンドは舌打ちをしたかと思えば、口悪く言葉を零す。
「結局てめえはてめえだけが可愛いんだな。弱虫が」
「……なんとでも言うがいい」
「だからてめえの周りには誰もいねえんだよ。ルビーを壊したいのか」
「さあ?」
「いなくなっても平気だって言うんだな」
 ああ、声が零れる。わかりきった問いの答えなど聞かなくてもわかる。わかっているから、お願いだから、なにも言わないで良い夢だけを見させてほしい。
 だけど無情にも時間は戻ってはくれなくて、エメラルドが空気を蹴るように笑ったかと思えば、きっとなにも映さない透明な瞳をしてすべてもとに戻すかのように心を閉ざし言葉を吐き出してしまうのだろう。
「ああ、俺にはサファイア以外なにもいらない。……ルビーも、ね」
 からからと、心臓が崩れていく。じんわりと熱くなっていく目元はそれでも涙を流すことはなくて、ダイアモンドの強い力で連れ去られるままエメラルドの部屋から出されてしまった。

 ダイアモンドの部屋に閉じ込められてしまった。と言えば聞こえは悪いが、実際のところを鑑みれば致し方ないのかもしれない。宝石としての力を消耗し過ぎてしまったルビーは、喋ることすらままならないほど困憊していた。
 宝石の女王であり王様でもあるダイアモンドの部屋で過ごすことは、治療も兼ねていたので文句も言えない。ルビーはただ水に浮かされるかのような生活を、余儀なくされていた。
 少しずつ回復をみせているルビーはエメラルドのことをなにも聞かなかったし、ダイアモンドもエメラルドのことについてはなにも言わなかった。きっと最後に聞いた言葉が真実だった。ただそれだけだ。
 ただ一度だけ、もしエメラルドと愛しあうことができたのだとしたら、同じように、こんな風に、苦しむの? とダイアモンドに聞いたことがある。ダイアモンドは眉間に皺を寄せて心底趣味が悪いと言いたげに、呆れた声音を滲ませた。
『互いを思いやる力が大きければ反発も起きない。相性の悪い宝石、力が強過ぎた宝石、それもあるだろうけどね、今回の原因はエメラルドの精神的な問題だ』
『……ああ』
『だから言っただろ。弱虫な宝石なだけじゃん。良いとこなんて全然ねえし。まあでも、お前がエメラルドにとってエメラルドを脅かす存在だっていうのは、……まあ皮肉なもんだね』
 辿る指先にルビーは苦笑いを零して、嬉しいのだか悲しいのだか、どの感情を抱えれば良いのかさっぱりわからなかった。ただエメラルドの中でそれほどまでルビーが育っていたのかと思えば、ほんの少しだけ嬉しくなれた。どうしようもない、恋だ。やはりこれは。
 それからしばらくダイアモンドの部屋で生活をしていたルビーではあったが、身体が動かせるようになればダイアモンドになにも告げずに部屋を抜け出した。きっとダイアモンドも最初からなにもかもわかっていただろう。ルビーが回復をすれば、どのような行動に出るかなんて。
 薄暗い廊下を歩く。月が出た夜、人気はない。静かな絨毯を踏み鳴らしてルビーは迷うこともなく戻ろうとしていた。壊れるだけの道しかない世界に。
 離れることができないのはルビーの方だ。一緒にいればいるほどに壊れてしまうのだとしても側にいたかった。
 遠くから様々な声が聞こえる。愛しあう声、お喋りに興じる声、遊戯に白熱する声、どれもこれもあたたかさに滲んでいる。ルビーはエメラルドのいる部屋へと駆け足で進むと、急いてしまう心臓を宥めた。
 豪奢なドアノブに触れる。久しい温度のないそれはつるりとした感触を指の腹に伝わらせた。冷たくて硬くて、まるでルビーを拒絶しているかような温度だ。
 エメラルドがルビーを必要としてないと言った。それでもルビーは必要とした。
 音を立てて薄く開く。細く伸びた明かりが廊下に線を描いた。零れるようにしてぽろぽろと、噎せ返るような淫靡な匂いと声、音が漏れ出していく。
 凍りつくとはこういうことをいうのだろうか。想像はできていたはずだ。わかっていたことじゃないか。欲情の捌け口をなくしたエメラルドがとる行動など、誰に聞いても予想できたはずだった。
 それでも心の片隅が期待をしていたことも否定はできない。もしかしたら、なんて何度夢を見ただろう。愛しているのはサファイアでも、求めているのがサファイアでも、エメラルドを救うことができるのはルビーだけだと思い込んでいた。
 ドアノブを握ったまま立ち尽くしたルビーは、その光景を見入るようにして立ち竦んだ。瞳が固定して動かせない。きっと、そんな状況だった。
 空気が零れる。こぽり、と零れる。なにかが崩れたのがきっかけか、エメラルドが顔をあげた。ルビーの視線と交差する。驚きに瞳孔が開かれた。見つめあったまま無言になった。
 隔てる距離はこんなにも遠いのに、可笑しいかな近くにいるような錯覚さえさせる。力を失っていく指先はドアノブを握っていることもできなくて、剥がれていくようにルビーの手から少しずつ離れていく。二人を映していた隙間を真っ暗なものへと変えた。
 パタリ、と音を立てて閉じていく。ルビーは靴底が床に張りついてしまったかの如く、その場から動くことができなくなってしまった。
 爪先を見つめては、聞こえないように息を吐く。豪奢な扉の向こうでは再びセックスにしけこむエメラルドとどこかの宝石がいるのだろうか。まるでルビーのことなどいなかったかのような存在にして、愛しあうのだろうか。
 わかっていたはずなのに、どうして、どうして、胸が痛い。
 暗闇の中、佇むルビーに光が差す。なにか葛藤があったのだろうか、簡単に身支度を整えたエメラルドが顔を出した。おざなりに羽織ったのだろう、露出している肌はしっとりと汗ばんでいて、香る匂いは性を彷彿とさせるものだった。ルビーではない誰かといたしていた名残があまりにも強かった。
「……抜け出したの」
 二人分の距離。二人を隔てる距離の遠さに、ルビーの心臓が少しずつ錆びていく。
「ダイアモンドが良く許したね。ああ、なにも言ってない?」
「エメラルド……」
「そんな瞳で見ないでよ。わかってただろ? 最初から、そういう覚悟で近付いてきたんじゃないの。ルビー、お前は俺をなんだと思ってた」
 知っていたよ。知っていた。それでもぐずぐずに溶かされていく心臓が期待をしてしまうのは、止められないことじゃないか。
 エメラルドの特別になれたと勘違いしていた。勝手に思い込んでいた。サファイアのことだってなにもかも理解してやれて、すべてを包み込むことができて、そうして代わりになれるのだと思っていた。
 数多くあるお人形の中でも、大切にされている方だと。代えの利かない人形だと思っていたのはルビーだけか。なんてことはない、ルビーも掃いて捨てることができるガラクタの人形に過ぎないということだ。
「ルビー……どうして、どうしてお前は泣くの」
 ほろほろと、可愛げのない瞳から涙が落っこちていった。アクアマリンのように、ダイアモンドのように、パールのように、可憐であったのならエメラルドの庇護欲も少しはそそれただろうか。
 ああ、サファイアでなければ意味がないのか。
 サファイアと同じコランダムでできているのに、どうしてルビーじゃ駄目なの。どうして青色に惹かれるの。赤色を愛してくれないの。
「……触るな」
 まるで宝石に触れるようだ。エメラルドが戸惑うようにしてルビーの頬に触れた。壊れものを扱うかのような触れ方に、心臓が粉々に砕かれたような痛みを感じる。
 知らないものに触れるかのように、触れないで。
 パチリ、と手を弾く。驚いたようにエメラルドがルビーを見た。薄暗い廊下で、光さえない廊下で、月明かりだけが頼りの廊下で、二人は音をなくしていく。
「いっしょにいると、空しい」
 息を呑む音が近くで聞こえた。ルビーはエメラルドをそれ以上見ていられなくて、俯いてしまう。
「……一緒にいられるだけでも良かったって思ってたけど、欲が出るよな。こういうの。少し溺れていたのかもしれねえ。違うな。過信してた」
「ルビー」
「俺だけだって、勘違いしてた。……お前にとっては俺も、ただの石ころなんだよな」
 宙に浮いていたエメラルドの指先が止まる。触れようか、下ろそうか、迷っているのだろうか。微動にもしない指先、ルビーは足を一歩分後ろに下がらせると胸元を強く握った。
「ごめん」
「え?」
「……お前を困らせて、ごめん。エメラルド、ごめんな」
「ルビー、お前はなにを勘違いして」
「良いんだ、そういうの全部。もう良いから。……なにも知らなかった頃に戻るだけ。ただそれだけだから」
 拒絶するように遠ざけた身体をエメラルドは終ぞ触れることがなかった。ルビーはエメラルドの顔を見ることもなく踵を返すと背中を見せる。勝手に盛り上がって勝手に突き放して、馬鹿みたいだ。

 それからはまた同じような日常が戻ってきた。すっかりと元気になったルビーは、まるで今までの醜聞が嘘だったかの如く以前のように性的なものとはかけ離れた姿を見せていた。
 元気に北の城を走ってはサファイアに怒られ、ダイアモンドの部屋に入り浸っては呆れられ、そうして変わりなくセックスに溺れるエメラルドを窘めるように言葉を降らせている。最初こそ皆一様にルビーの行動に驚いたものの、刺激的なものなどないと悟れば直ぐに日常として溶け込ませていった。
 無理をしているだろうと、いう声もなかった訳ではなかったが、ルビーは時計の針を戻すかのように以前と同じような行動を取ってみせることで同じように生きようとした。
 エメラルドのことを愛したことも風化してしまえば良い。なんて思うことこそあれども、愛を知ってしまった今では忘れられる手段などないことも知っている。
 太陽が空高くのぼっている。ルビーは北の城にある中庭に訪れると、ベンチに寝そべって目を瞑った。燦々と暖かな太陽の光が降り注ぐ。日光浴は得意ではないが、それでも暖かな光に包まれていれば眠気も誘導される。そういえば壊滅的に日光浴が駄目だった宝石もいたな、そんなことを思い返した。
 意味もなく瞳を開けて起きあがった。エメラルドの部屋がある方角を見れば、鬱蒼と暗がりになっている。エメラルドで作られたカーテンが引かれており、中を覗くことはできなかった。
 最初こそエメラルドを正していたルビーもやはり現場に遭遇するのが辛過ぎて、気付けば足が遠退いていた。最後に会ってどれくらい経った。どれくらい顔を合わせていない。
 唇を噛んだルビーが目を閉じれば、声がかかった。
「ルビー」
 振り返れば、呆れ顔のサファイアがこっちに向かって歩いてきている。隣にはアクアマリンがいて、サファイアの意識がルビーに向かったことを良いことに素早くその腕から抜け出して逃げていった。
「良いの? あれ」
「良いよ、別に。説教してただけ。もう終わったから。隣良い?」
「ああ、うん。珍しいな。サファイアが外にいるの。引きこもってるかと思ってた」
「それはこっちの台詞だよ。ルビーこそ引きこもるかと思ってたけど、煩いくらいに外に出てるね」
 座れる隙間を空ければ、隣にサファイアが腰をおろしてきた。中庭のベンチに隣りあって座るというのも珍しい状況だ。居心地が悪そうに膝を抱えれば、サファイアがルビーの髪をなぞった。
「……エメラルドのことは諦めた?」
 誰もが口を噤んで聞かなかったこと。ルビーはサファイアの言葉に顔をあげると、どうだろうとふにゃりと笑ってつま先を弄った。
「ううん。諦めきれねえかも」
「そういうもんだろうな」
「いっぱい考えたけどさ、会わなくても好きって気持ちがなくならねえの。不思議だよな」
「最近、エメラルドがどうしてるかって知ってる?」
 サファイアの言葉にルビーは首を振る。知っていたら苦労などしない。というよりは極力関わらないようにしていた。逃げていた。すべての情報を遮断していた。
「知りたくねえから、なにも知らない。元気にしてる?」
「どうだと思う」
「わかんねえけど、……最後に会ったときは、元気だった」
「そう、最後ね。その最後からエメラルドが変わったってことも、お前知らないんだな」
 ひくり、と肩を震わせる。聞きたくないと耳を閉じようとする心と、聞きたいとさざめく心臓が相反して喧嘩する。
「エメラルドのこと、知りたいだろう? 本当は」