「白面金毛九尾の狐とは良く言ったもんじゃあ。上手いこと化けておるようだが、性悪さが染み出ておるぞ。のう、天狐よ……善狐になってなにをするのかわらわに教えてたもれ」
扉も窓もなにもない亜空間のような世界。暗闇が支配するその箱の真ん中で座敷童子はちょこりと佇まいを直すと上手に気配を消している妖怪へと声をかけた。
前方からクスクスと嘲り笑う声が反響して聞こえる。行灯の中に収まった狐火がゆっくりと一つずつ灯されていき、奥に腰を据えていた形の輪郭をぼんやりと映し出した。
「誰かと思うたら婆やあらへんの。いややわあ、うちにいけず言いにきたんえ? 相変わらず田舎の風習は理解できまへんなあ」
孤を描いた唇が露になるのと同時に、座敷童子の目の前に姿を現したのは表舞台から退いた妖狐の玉藻前(たまもまえ)であった。
さらさらの金の髪に真っ赤な瞳、白い肌。女性のような美しさを誇る玉藻前は男であった。
何枚もの豪華な座布団に身を横たえ、派手な金の煙管を優雅に吸い込んで妖艶に微笑む。容姿を理解しているのであろう、纏う着物は艶やかに着崩してわざと色めき立たせているようにもみえる。
妖狐の象徴である滑らかな毛艶の尾がゆらめく。後ろで蠢くそれは九本に増えたり四本に減ったりと自在に変化を見せ、まるで座敷童子を嘲笑うかのようだった。
「相変わらずの美貌じゃの。傾国の美女とはまさに良く言ったものじゃ」
「おべんちゃら言いにきはったん」
「わらわにそんな暇があるように思うか? 先日は惜しかったのう、鳥羽天皇のこと聞いたぞ」
「東山道の方にも噂回ってはんの? いややわあ、もううち悪さできんようなってしもてん」
「確かに陰陽師とやらは厄介じゃがな、悪させねば殺されはせんだろう。まあお主が陰陽師に負けるとも思わんがな」
吐いた煙が辺りに拡散していく。笑みを湛えていた玉藻前はなにを思うのか、尾をわらわらと動かすと苛立ちげに灰壷に叩き付けた。
「うちに楯突いたこと一生後悔させな気がすまへん。陰陽師家系末代まで残る呪いかけよう思てな、なにがええやろか? なあ、座敷童子」
余程煮え湯を飲ませられたことが悔しかったのか、善狐の気配に包まれていた玉藻前の空気が悪狐へと変貌を果たしていた。
なにを隠そう、玉藻前は妖狐では前代未聞の善狐であり悪狐でもあるという椿事の存在だった。
本来妖狐は神に仕える善良なる善狐と、野良である野狐、そして人に危害を加える悪しき存在の悪狐にわかれていた。野狐はともかく、善狐と悪狐は相容れる存在ではなく妖狐といえども決して分かり合えない個体だった。
だがどうしてなのか理由は未だわからないが、玉藻前は二つの顔を持っていた。
どっしりと腰を据え活動拠点にしている稲荷山を支配しているときは全国の稲荷神社を統括する善狐となり、生存している妖狐では最長寿の天狐としてこの稲荷山に聳え立つ総本山である稲荷大社の長としても君臨していた。
だがそれは表の顔。裏では惜しくも失敗に終わったが、人間界を牛耳ろうと悪巧みを企てていた白面金毛九尾の狐として全国に名を馳せた日本でも屈指の悪妖怪、日本三大悪妖怪の一匹玉藻前だったのだ。
鳥羽天皇をも操り、都を支配する手前までこぎつけることができた美貌と妖力を兼ね備えた最強の妖怪だった。油断し過ぎた所為で妖怪と最も相容れない存在の妖怪退治専門職である陰陽師に、一泡吹かせられ撤退せざるを得なくなってしまったが。
お陰で天皇が住まう都の中心部には玉藻前専用の結界が張られ、表立って人間界にいける手段を失ってしまった。玉藻前の野望は呆気なくも崩れ去ってしまったのだ。
矜持の高い玉藻前のこと、さぞかし恨めしい思いを抱いているのだろう。
だけど人間も間抜けである。人が崇める稲荷大社の長をも玉藻前が兼任していることなど知りもしないだろう。それを思えば少しは胸もすくような気がした。
「して座敷童子、こないな稲荷山くんだりまできたんはええけどうちになんの用え? 正面から尋ねられたんは久しいわ。うちも用件次第ではのんでやってもええ」
「話が早い。お主も千里眼を持ってるならわかるじゃろうが……今は妖怪がこうやって世に蔓延っておられるが時と共に淘汰されゆくのはわかってるな?」
「ああ、そないなことうちに関係あらしまへん。かいらし妖狐ちゃんさえ守っていればうちは妖怪が表舞台から退こうがどうなろうがどうでもええ。生きられもせえへん妖怪守ってもしゃあないと思いまへんえ?」
「玉藻前、そうもいかない世界なんじゃ。お主も協力せい」
「婆は老害でしかないとは良く言ったもんやなあ。ほんにそう思うわ。……京を守ってうちになんの得があるんえ? それ教えてくれたらやってあげへんこともない。座敷童子、あんさん今全国まわって土地土地に長作って妖怪を守っていこうとしているらしいなあ。よう得にもならんことできはるわ」
口調は穏やかでも中に秘めた根性の悪さが染み出て座敷童子を嘲り笑っているかのような態度だ。
妖怪気質といえばそうなのだろう。群れ合うことをせず、同種だけで生きている妖狐たちからしてみればその他の妖怪など気にもくれない存在なのだ。
現に日本全土に稲荷神社というものを作り、妖狐を蔓延らせている玉藻前は稲荷だけに特殊な力を用いて結界を張っていた。人間が決して踏み入れることのできない空間を。
莫大な妖力を使ったその結界を維持するのも、なにもないところから作りあげるのも並大抵の妖怪ではできない。そう考えると如何に玉藻前の妖力が強いかを実感させられるが、それも全て同種である妖狐を守るため。
玉藻前が生み出した結界の中で妖狐は絶対なる加護と愛情を受けて成長し、稲荷を担う善狐に育っていくのだ。
座敷童子が玉藻前を訪ねて稲荷大社へと赴き通されたのは本殿を奥に進んだ道なき道から。稲荷を守る白狐に認められた妖怪だけが玉藻前の空間に踏み入れることが許される。
そしてその空間の奥に隠されたようにして存在している呪符が敷き詰められた部屋から、玉藻前の許しを得てこの亜空間へと飛ばされてきたのだ。
余程玉藻前は用心していると窺える。それが人からなのか陰陽師からなのか、はたまた妖怪からなのかは知ることはできないが。
座敷童子は仕様がなく頭を垂れると、切り札を使うことにした。年齢でいえば同じくらいといえどもやはり妖怪としての力は玉藻前の方が遥かに強い。力技に出られない座敷童子は説得を試みた。
「酒呑童子が率いる鬼一派、そしてお主と仲の良い崇徳天皇……いや今は鞍馬天狗じゃったかの? その鞍馬天狗率いる天狗一派も京の妖怪じゃないのか? のう、玉藻前よ」
「……随分かしこい言葉覚えはったんやな。勉強でもしたんかえ?」
「手段は選ばないってことじゃ。なあに、難しいことじゃない。鬼と天狗を守るついでに京の妖怪を守ってくれればええだけの話じゃ。京の妖怪は日の本一の力と数を誇る。お主にしかできない話だと思わんか」
「得てうちの利点はなんやろか」
「表舞台を牛耳ることは適わんだが、なにも世界は一つじゃない。妖怪の世界を牛耳ってはどうかのう? わらわはお主が京の長になってくれればなにをしようが構わんて」
「へえ……多少の犠牲はかまわへんいうことかえ?」
「そういうことにもなるの」
「座敷童子もわるうなったなあ。昔からすれば到底考えられへん話や。……まあ日の本の妖怪は京が一番やさかい、他の土地の長のことは詳しい聞かんえ。興味もないし、それでええんやろう」
座敷童子はなにも言うことなく微笑むと、正座を崩して立ち上がった。わっぱのような見目をしているくせに、腹に抱えている感情が読めないからいつになっても玉藻前は好きになれなかった。
元々都がある京と遥か北に属する東山道では合間見えることも少ないのでよほどのことがない限り顔を合わすこともないから良いのだけれど。
玉藻前は京を束ねる妖怪の長になったということにほんの少しの優越感を覚えると、座敷童子が去る背中に声をかけた。
「して結界は都にしか張らへんえ」
頷いたのかどうなのか、姿を消した座敷童子に玉藻前は煙管を大きく吸い込んだ。
京の長になったからといって、それはほとんど名ばかりのものに近いだろう。いくら玉藻前が屈指の大妖怪だとしても、畿内全域に結界を張っていたのでは身が持たない。畿内が玉藻前の掌中になったといえど、精々守れるのは京止まりだ。
生が惜しいのなら妖怪自ら京内に入るしか術はない。それ以外はどうなろうと関係ない。加護の道は作っているのだから。全国にある稲荷神社の結界を保持しながら兼任するにはこれしかなかった。
「……しかし脅迫とはうちも随分となめられたもんやなあ」
話題に上った酒呑童子と鞍馬天狗を引き合いに出すなど、座敷童子の狡賢さが明瞭と出ていた。
日本三大妖怪と名付けられただけではない。玉藻前が妖狐以外で唯一心を許している妖怪ともいって良いだろう彼らも危険に晒されることがあると言われれば守るしかないだろう。
(嗚呼、嗚呼、ほんに気に食わんことばかりえ。陰陽師も座敷童子もいつかうちの前に跪かせて頭を踏みつけてやろうか。……そんなおもろいことどっかにあらしまへんやろか)
玉藻前は誰もいなくなった空間でひとしきり笑うと、狐火を一つ一つ消していった。そうして最後の灯りが消えるころにはこの部屋には誰の気配もなくなったのである。
「てんこさま! てんこさま! わらわのおはなしきいてたもうれ!」
わらわらと湧いて出てきた白狐、赤狐、黒狐に玉藻前は笑みを崩した。
稲荷大社の奥底に玉藻前が作った人間どもが入れない境界の中、今日も稲荷の善狐たちはおおわらわと急がしそうに奔走している。悪狐でもあり善狐でもある玉藻前だがここにいる立場からして善狐になるので、ここでは善狐ばかり囲っていた。
だが抜かりなく悪狐の面倒も見てはいた。稲荷内では育ててやれないが、玉藻前独自の結界の中大切に保護している。
こんな慈愛の目を向けるのも、全ては妖狐が愛おしいからだ。玉藻前は尻尾に纏わりつく善狐たちの頭部を柔らかく撫ぜつけると身長に合わせてしゃがみ込んだ。
「うちの身は一つしかあらへんのにそないにこられると動けまへん。どないしたん、今日はみんな随分と甘えん坊さんやねえ」
嬉しそうにきゃっきゃきゃっきゃと笑う子狐に、玉藻前の口元も緩む。妖狐は玉藻前が生み出したものではないが己の子同様に思っていた。
玉藻前に恨みを持つ人間が見れば泡でも吹きそうな光景だ。玉藻前は尻尾を九本に増やすと、それで善狐たちを構いながら遊んでやった。だがそんな楽しい時間も一瞬だ。真面目な顔をした稲荷の使いである白狐が玉藻前の前で膝を折った。
「天狐様、正式にお見通りにいらっしゃってる方がいるんですが……」
「いややわあ、また座敷童子やろか。堪忍してや、うちにそない暇な時間あらしまへん」
「いえ、鞍馬天狗様です」
「……鞍馬天狗? へえ、めずらしなあ、こないなとこくるん。いつもうちが呼んでもきてくれへんのに」
「どうされますか? 通しても大丈夫ですか?」
「ええよええよ。鞍馬天狗やったら顔出したら直ぐに通したり」
そう言って、玉藻前は尻尾にわらわらと擦り寄る善狐たちのお尻を優しく叩くと業務に戻るよう促した。
人とは本当に馬鹿な生き物だ。本来稲荷大社は妖狐ではなく、稲荷神が奉られている神社である。だけど人とは浅はかなもので、神が縛られる存在ではないということを知らない。
八百万の神がいる日本では特にそうだ。稲荷神は存在していても、そこには留まっていない。大人しく奉納を受け取るたまではないのだ。
だからその代わりに稲荷神の役割を果たしているのが玉藻前である。白狐を主に稲荷神社の使いとし、人々の浅はかな願いを聞き入れている。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。笑わせてくれる。
(うちを窮地に追い込んだ人間が、うちに縋るなんてちゃんちゃら可笑しなお話やと思いまへんえ?)
くすくすと笑みを零して手渡された煙管を口に含む。そのまま連れられるようにして呪符が貼り付けられている部屋に行くと、座敷童子を通した部屋とはまた違う亜空間を作り出すと姿を消した。
玉藻前の部屋といっても過言ではないそこは、悪趣味の玉藻前らしく豪華絢爛で目に痛いものがある。待ち草臥れたといった様子の鞍馬天狗が振り向くと、玉藻前は笑みを浮かべた。
「久しいやあらへんの、なにしてはったん? 暫く顔も見せへんから心配しとったんえ」
「うぬは相変わらずじゃのう。ちいとばかし所用でな、都の方に出とったんじゃ」
「都は相変わらずかえ? 平安の世もそろそろ幕が近いしうちも見に行きたいんやけど、あないなことあってしもたから踏み入れもでけへん」
「馬鹿なことを企てるからじゃろう。天皇に近付いたとてなにもならん。それより玉藻前、随分と時間がかかったのう」
濡れ場烏の羽のごとく漆黒に艶めく羽を畳んだ鞍馬天狗は、喋り方や声質からは想像もつかない美貌で口を歪ませた。
懐かしさに玉藻前の気持ちもゆるゆると緩む。嬉しそうに鞍馬天狗に近付くと、口付けていた煙管を鞍馬天狗の口元に差し出した。
「ああ堪忍ね。この亜空間久しいもんやから形成方法忘れ取ったんよ。うちとあんさんに時間の歪み生じたとかで少し遅れたのかもしれんえ」
煙を吸って、吐いて。拡散したそれに満足を覚えたのか、玉藻前は再び己の掌中に戻して惰性的に煙を吐いた。自慢である長い金髪を後ろに流して目線を鞍馬天狗にくれてやる。
「そういえばなんの用で都に行ったんえ。鞍馬天狗からしてみればもう行きとうない場所やったんちゃうの」
「ああ、そうじゃのう。……正確に言えば崇徳天皇を京に帰してきたんじゃ。ずっとずっと怨念ばかり先立って生きていたからの。やっと京に帰ることができて……その場で死んでしまったわ」
「成仏しはったんかえ。じゃあこれからはずっと鞍馬天狗として生きるっていうことやろか」
「そういうことになるの。崇徳天皇との二足草鞋は終わりじゃ。まずはうぬに一番に言おうと思ってわざわざ稲荷山くんだりまできたんじゃ。ああ、老体には疲れるの」
目を細めてそう言い切った鞍馬天狗に、玉藻前は安堵と焦燥の二種類の感情を抱いた。
それは長く共にした友を思う善狐としての気持ちといつまで経っても変わることのできない悪狐の抱える気持ちが織り交ざって溶けきないからだろう。
悪さをするにはもう随分と老いてしまったようにも感じられる。
玉藻前は人からしてみればそれなりの期間が経ったことを思い知らされると、妖怪の世界での時の流れの遅さにほんの少しだけ奇妙な感覚を認めた。
「うちらはきっと生き過ぎなんかもしれまへんえ」
「良く言う。うぬの欲望はもっともっと深いところにあるんじゃろう?」
殊勝なさまに見えても、それは言葉だけ。玉藻前はにたりと湾曲に口元を作る。
「なに馬鹿なこと言うてはんの。なにも生きとうない言うてんのやあらしまへん。うちには立派な大義名分もできたし、まだまだ生き抜いてこの世を牛耳る方法を考えるんえ」
「おお、怖い怖い。うぬの世になったらさぞかし生き難い世になるんじゃろうな」
「心配ご無用や。あんさんと鬼一派はちゃあんと面倒みてあげるさかい、精々長生きしておくれや」
本気なのか冗談なのかさっぱり見当もつかない玉藻前の戯言を肴に、二体の話は大いに盛り上がった。
久しく顔を合わせたこともあるのだろう。夜が明けるまで酒を呑み変わり語り明かした。人のようになにかを得るためにやらなければならないこともなければ、失いたくないと願うこともなく、ただ生き長らえながらこの世を見続けている存在。
稲荷山に朝日が差す。人々からしてみれば静かなる夜明けも、妖怪の世からしてみれば酒盛りの終わりを示すだけ。
見えないからこそ共存していけるのかもしれない。淘汰されゆく存在側にいることを一際強く感じながら、玉藻前は眠りに落ちてしまった鞍馬天狗をただただ見続けていた。