お狐様のいうとおり 02
 座敷童子に京の長になってくれと頼まれて幾日か、噂を風が運んで玉藻前が暮らす稲荷山には祝いの品や祝辞などが連日舞い込むようになっていた。
 長になったからといえどもなにかが変わった訳ではない。妖怪が危惧すべき世界になるにはまだ時は早過ぎて、世の中は未だ魑魅魍魎が平気で闊歩できる時代なのだ。
 玉藻前とて幾ら妖力が強かろうがそうそう京全域に結界を張れる訳もなく、暇を見つけては少しずつ練っている状況。座敷童子が去った後とて世の中が変わったこともなく、玉藻前も平然とその日の暮らしを謳歌していた。
 白面金毛九尾の狐と人々から恐れられていた時代に、知り合った旧友が玉藻前への祝いと称して訪ねてきてからどれくらい経っただろうか。三日三晩に続く酒盛りは未だ衰えをみせず、今宵もまた酩酊に沈みそうな気配がしていた。
 鞍馬天狗が大きく笑って、酒呑童子が床を転げ回る。玉藻前は相変わらず涼しげな表情で煙管を吸っていた。日本三大悪妖怪と恐れられた一同が集って馬鹿騒ぎしている光景など、人々には想像もつかないだろう。
 悪さをする訳でもなく人を食う訳でもなく、こうしてただ時の流れに身を任せてどんちゃん騒ぎをしていれば遠慮がちに襖に寄る微量の気配がした。
「どないしたんえ? 遠慮せえへんで顔を見せ」
 玉藻前が優しく襖に語りかければ、すすすっと少し開いておどおどとしている白狐が正座をしていた。
「あの天狐様、拝謁にとお伺いにいらっしゃっている方がいるのですがお時間よろしいでしょうか?」
「うちにかえ? えらい遅い訪問やなあ」
「それが南海道からでして。田舎くんだりからやってきたと申しております」
「……南海道やて? へえ、ほなあれか、その尋ね妖怪は犬神やあらへんか? そっちの長になったという挨拶かもしれんえ」
 嘲り笑うようにして唇を歪めた玉藻前に白狐は肝を冷やすと頭を垂れ後ろに下がった。あの表情をみせる玉藻前は碌なことを考えていないと重々承知しているのだ。
 玉藻前は未だに酒を呑んで更には歌い始めた二体を横目に立ち上がると、豪華な着物の裾を引き摺って部屋を後にしようとした。
「おい、どこに行くんじゃ?」
「鞍馬天狗、酒呑童子の面倒は任せたえ。うちはちょっと用ができたから席外させてもらうわ」
「急ぎの用か? なにか大変なことでも起きたのか?」
「心配せんでもそないなことやあらしまへん。糞犬がわざわざ南海道くんだりからうちに会いにきたんえ。ちいとばかし遊んでやろうおもてな」
「糞犬……もしや犬神か?」
 煙管を吸い込んで煙を辺り一面に吐き出す。どこか甘い香りのするそれは玉藻前お気に入りの香りだ。
 酩酊している脳では上手く働いてもくれないが、残虐そうにこちらを見る玉藻前の顔は悪狐そのもので、今から良くないことが行なわれようとしていることは鞍馬天狗にもわかった。
 犬神など最悪の巡り会わせだ。玉藻前にとっては一番会ってはいけない妖怪だった。
「そないな顔せんでも大丈夫え。ちょっとつめるだけやん。殺しはしまへん」
「うぬに会いにきただけじゃろう? 挨拶しにきたものを、うぬはどうするというんじゃ」
「別に恨みがある訳やあらへん。後悔するんなら犬神という立場と土地を恨むんやな、て言うとくだけや。……なあ? 鞍馬天狗、あんさんでも邪魔はさせへんえ」
 最初から邪魔をする予定もなかったが、あまりに険しい表情で玉藻前が紡いだ言葉になんの返事もできなかった。それを了承と取ったのか玉藻前は不機嫌を隠す訳もなく襖を閉めると部屋を後にする。
 ぴったりと襖が閉じられた瞬間、お得意の結界がこの部屋中に張られたのがわかった。
 そうまでして邪魔をされたくない理由がどこにあるのか。邪魔などする訳もないし、稲荷山が玉藻前の掌中にあるという時点で二体には好き勝手できる手立てもないのだ。己の結界内ならともかく、だ。
 陽気に酒に溺れていた酒呑童子も気付いたのか、やれやれと桃色の髪をがしがし掻くとのっそりと起き上がった。
「どうも玉藻前は短気なのがいかんのう……儂らを見習うたらどうじゃて、なあ?」
「酒呑童子、うぬは暢気過ぎじゃ。もうちと緊張感を持て」
「こんな結界直ぐ破れる。こう見えて儂も伊達に生きてはおらんぞ」
「玉藻前を怒らしたいのなら好きにすれば良いじゃろう」
「くく、破ったところでなにもすることがないから破らんがのう。帰ってくるまでちびちび酒でも呑むだけじゃ」
「……しかし我は犬神が心配じゃ。玉藻前も知っておったが犬神は南海道の長になったんじゃ。迂闊なことがあれば争いも避けられんよって」
 肩を落とす鞍馬天狗に、相変わらず酒呑童子はにやにや笑って酒を煽るだけ。数滴しか残っていない酒瓶を逆さにして舌を垂らすとひくっとしゃっくりをした。
「うぬはほんに心配性じゃのう。大丈夫じゃて。なにも起こらん」
「じゃが酒呑童子……」
「あやつの考えることなどとうにお見通しじゃ、悪いようにはならんて。ま、犬神からしてみれば理不尽なことじゃがのう……儂には関係ない話じゃ」
 けらけら笑う酒呑童子に不安ばかり募らせる鞍馬天狗は到底酒など呑んでいられる気分でもない。そわそわと佇まいを直すと、当分帰ってはこないだろう襖ばかりを見つめた。
 鞍馬天狗が危惧しているのには、一つの理由がある。それは玉藻前の高い矜持が関係していた。
 元より一番を好み、誰より妖怪としての地位に執着していた玉藻前だ。妖怪界だけじゃ飽き足らず人間界をも乗っ取ろうとしたのだから、その欲望は計り知れない。
 運が良かったのか悪かったのかその計画は失敗に終わったので、そうなれば今度は稲荷を使ってせめてもと妖怪界を牛耳ろうとしているのは目に見えてわかっていた。
 だがそうもいかない事情や土地柄の問題もあった。稲荷は狐憑きとして全国に名を知らしめ幅広く分布地を広げてはいたのだが、どうしてだか南海道だけは侵略することができなかったのだ。それは現在でも。
 狐憑きや稲荷がない土地、それが南海道であり狐に変わって犬神憑きが幅広く信仰されている土地でもあった。
 つまりは玉藻前が唯一侵略できない土地の長ともなれば、嫉妬も一際強くなる。犬神がなにをした訳ではないが、玉藻前にとっては禁忌ともいえる曰く付きの土地だったのだ。
 矜持の高い玉藻前のことだ。その溜まりに溜まった鬱憤を犬神に当り散らすのだろう。人の心までは操れないので、南海道を乗っ取れない以上そうすることしか方法もない。
(……京の長が南海道の長を、となればどうなってしまうのじゃろうか)
 胃がきりきりとしだした。そんな鞍馬天狗を見て酒呑童子は面白そうに口端を歪めると声を出して笑った。
「うぬは心配し過ぎじゃあ!」
「し、しかし玉藻前は事実上妖怪の長といっても過言ではない地位まで登りつめとる。悪しき噂もあっては……それに南海道といえども長なのだから……」
「ふん、そうじゃな、一つ教えてやろう。狐も犬科に属する。そう悪いことにはならんじゃろうて。犬同士、腹を割ればどうにかなるじゃろうの」
「そんなに簡単にいくんじゃろうか……」
「さあ、わからんのう。それより酒盛りの再開じゃ。玉藻前がせっかくいないのじゃ、貴重な酒から儂はいただくぞ」
 酒豪として名高い酒呑童子は生き生きと玉藻前ご自慢の酒棚を弄り回すと、目ぼしい酒を取り出して抱え込むようにして抱きしめた。
 その様子を見ていれば鞍馬天狗も危惧していたことが馬鹿らしくなってくる。仕様がなしに乗り気ではないが酒を手に取ると、忘れるようにして杯を傾けた。
 なるようにしかならない。そういう世界だ。それに大変なことになるのなら千里眼を持っている座敷童子が誰よりも先に気付くはずだろう。
 こうして二体は玉藻前のいなくなった部屋で、酒盛りを再開させたのである。

 一方剣呑な空気を湛えた玉藻前をびくびくしながらも白狐は案内した。当り散らされる訳ではないが、なるべく関わりたくないのも事実。怖い怖いと思いながら、はたりと足を止めた。
「天狐様、そういえばまだ許可が下りなかったので稲荷山の方で足止めさせていますが中に入れてもよろしいのでしょうか?」
「せやね、入れたって。入り口の方に亜空間への扉練っとくから放り込んでくれたらええわ」
「わかりました。では私はそちらの方へ行って参りますね」
「堪忍ね。よろしくね」
 ぺこぺこと頭を下げて走り去っていった白狐に、どうしようかと思案したのも一瞬で玉藻前は詠唱を口ずさむとあっという間に亜空間への入り口を作った。
 この空間は普段あまり使用していない限られたものだ。どちらかといえば、後ろ暗い意味合いに良く使っていた。
(糞犬風情にはぴったりな部屋やんか、なあ? こんときのために作ったみたいえ)
 燻った火種が煙管の先で燻る。廊下に拡散していった煙だけが玉藻前の足取りになって、姿を忽然と消した。一瞬にしてその空間へ移動をするとぐるりと視線を見回した。
 久しく出入りをしていない所為かどこか埃っぽくも感じられる。実際には存在していない部屋としてあるこの空間が、埃っぽいことなどありもしないのだが何故だかそう思ったのだ。
 玉藻前は行灯に狐火を入れると、二段だけ高くなった上座に腰を据えた。
(どないして遊んでやろか。ここはやっぱり南海道の風習に倣うんがええんやろか。嗚呼でもそしたら……きっと殺してしまうかもしれへんえ)
 逸る心臓が速度を増してどくどくと高鳴った。噂には聞いていても、実のところ顔を合わしたことがない妖怪だ。どんな顔をしてどんな性格をして、どんな生き方でやってこられたのだろうか。南海道の長になったぐらいだ、さぞかし立派な妖怪なのだろう。
 座敷童子が敷いていった全国の長を一同に会することができないからこそ、一体とて会えることが玉藻前は楽しみだったのだ。
 顔を合わせれば嫉妬でどうにかなってしまいそうになるだろうけれど。そこまで考えて、玉藻前は煙管の中身を灰壷に捨てると新たな草に入れ替えた。
 ゆっくりと流れる時間を楽しむためだけの香りから、酷く興奮を覚える激しいものへと。
 白い靄が広がって鼻腔いっぱいに新しい草の匂いがした。甘ったるくて、だけど喉に引っかかりを覚える慣れない味。それに酔うような形でうっとりと頬を緩ませれば、少しながら空気が震えた。
「ああ、やっとお出ましや。うち、随分待ったんえ」
 白狐に連れてこられるようにして現われたその姿に、知らずのうち玉藻前は口端を上げると孤を描いた。恐ろしいものを見たかのように白狐はぴやっと体を震わせると、慌ててお辞儀をして空間から消え去る。
 残されたのは怠惰に煙管を吸って上座から見下ろす玉藻前と、居心地悪そうに腰かけた犬神らしき妖怪だった。
「あんさんが犬神かえ?」
「……拝謁賜り恐悦至極に存じます。この度、南海道の長を勤めさせていただくことになった犬神と申します。以後お見知りおきを」
「ええ、ええ、そんな堅苦しい挨拶は嫌いや。うちは玉藻前、稲荷山で妖狐の面倒見てる天狐であって、ああ、せやね、京の長やっとりますえ」
 カン、と灰壷に当てた煙管が鳴る。犬神は安堵したのかほっと肩の荷をおろしたのがわかった。
 遠慮がちに犬神の瞳が玉藻前を見上げた。予想よりも幼い顔付きは玉藻前が想像していたものより随分と愛らしくも見えた。外道畜生という像が強かったので、もっと小汚い妖怪だと思い込んでいたのだ。
 だが実際は妖狐よりは劣るが可愛らしい見目をしていた。くるくる動く瞳は不思議な鈍色で、赤茶色の髪は光に当たってきらきらと光る。格好良いや可愛いというより、幼い顔立ちはそれなりに生きている妖怪の貫禄さえなかった。
 だけどやはりもふりとした尻尾も耳も妖狐の方が愛らしいと思ってしまうのは、玉藻前が妖狐贔屓だからだろうか。おずおずと口を開いた犬神に玉藻前ははっとさせられた。
「ああ、堪忍ねえ。ちょっと犬神いうもん珍しいから見入っとったんえ。かいらしもんやな。ますます、そうやねえ、虐め甲斐があるっていうんか……ふふ、恨まんといてな。恨むんなら己の身の上を恨み。うちかてこんなんしたいんやあらしまへんのえ」
「は、なんのこと……」
「うちずっと、あんさんに会いたかったんえ」
 彩られた指先が犬神の頬を擽って首元にかかった。なにをされるのかわかっていないであろう犬神はきょとりと玉藻前を純粋な瞳で見上げる。仮にも南海道の長だというのに、なんたる体たらくか。
 玉藻前は可笑しくなって声を上げて笑った。きっと想像にすらなかったはずだ。だけど玉藻前のことを知らな過ぎた、犬神は。どんな妖怪だったのか、もう少し用心深く調べていたらこんなことにもならなかったのに。
 病的にもみえる肌に爪を立てた。犬神がびくりと体を震わせる前に詠唱を口ずさんだ玉藻前は、犬神の首に呪符を貼った首輪を嵌めた。強固な結界が張られてある、厄介な代物だ。
「なにをする……!」
 当たり前のごとく抵抗をする犬神に対し、玉藻前は忌々しげに舌打ちをすると首輪から伸びた鎖を思い切り引いた。
「躾けのなってない糞犬には矯正が必要や思いまへん? なあ、犬神はん」
「わ、我を愚弄する気か……!? 確かにうぬよりは遥かに力が劣るがこれでも長を言い付かって……っ」
「そんなん関係あらしまへん。犬神はんがどないな力持ってても所詮は犬風情、躾けのなっとらん糞犬も同然。うちの足元にも及ばへんのえ? ほんに阿呆やなあ。うちに会いにきたんが運の尽きやと思い」
 立ち上がろうとした犬神を馬鹿にするように鎖を強く引いて体勢を崩させた。床に頬を付けた犬神はわかっていないだろう戸惑いと、怒りを露にさせた瞳で玉藻前をねめつける。
 気に食わない、相性の合わない相手である。犬神自体にはなんの恨みもないが、その存在自体が玉藻前を苛つかせるのだ。
 玉藻前が唯一支配できない土地の長ともなれば、なんとしてでも這い蹲らせて従えさせたい。下僕にしたい。そう、いわば支配下におきたかった。
 立ち上がろうとする犬神の背を踏みつけて、頭上から高笑いを落とす。悔しさに唇を噛む仕草が印象的だった。
「逃げられはしまへんえ」
「こんなことが許されると思うのか! 南海道の妖怪が黙ってはおらぬぞ!」
「ああ、そないなこと屁でもありまへん。心配せんでも三日間だけの余興や。三日経てばちゃあんと帰してやるさかいに、うちの遊びに付きおうてえな」
「……三日間……?」
「拒否権はあらしまへんえ。犬神はん、頭の賢いあんさんのことや、三日間あれば意味もわかるやろ」
 しゃがみ込んだ玉藻前は犬神を地べたに押さえ付けながら顔を覗き込んだ。今や憎悪しかない瞳には愉快だといわんばかりの玉藻前が映っている。
 こんなに愉しいお遊びはなかなかないだろう。人に倣うのかそれとも妖怪由来なのか、そんなことは定かではないのだけれど。
 犬神の唇が戦慄いた。青褪めた顔色でなにを思うのか、掠れた喉元から出た声は絞り出されたような色合いだった。
「うぬは……我で蠱術をしようと目論むのか……?」
「正解や。ほんまお犬様は賢い頭脳をお持ちやねえ。ご褒美あげたろか」
 はちはちと小さな火を灯して燻る煙管が近付く。癖のある香りが鼻をついて馴染みのないそれが酷く匂った。元々嗅覚が発達している犬神だ、人工的な香りに眉間を顰める。
 麻薬のようだ。酩酊していく。落ちていく。玉藻前が妖艶に嘲り笑って煙管をそうっと犬神の首元につけた。じゅ、っと音がして肌が焼ける音がする。香に掻き消されてはいるものの皮膚を焼く嫌な匂いがつんと鼻を刺した。
「ぐあ……っ!」
 鋭い痛みに犬神は床に爪を立てた。玉藻前は新しくできた火傷痕を遊ぶように何度も煙管を押し付け、ぐりぐりと押し当てる。じゅくりと焼け爛れた皮膚の上から何度も何度も焼かれては次第に痛みも鈍ってくる。
 じとりと脂汗が滲んだ。声を上げなくなったことに玉藻前は興味をなくしたのか煙管を離すと、再び口に咥えた。
「お犬様は忍耐強いねんなあ。うちには到底我慢できまへん」
 はあはあと荒い呼吸をさせる犬神は抵抗する気力もないのか、玉藻前に押さえ付けられたままびくりとも動かなかった。
 ほんの少し首を焼いただけでこの体たらくか。三日間の余興に耐えうることができるのだろうか。だけどどうなろうと玉藻前の知ったことではない。南海道の妖怪など敵でもない。
 だけど嗚呼そうだ、それではつまらない。犬神には死んでもらっては困る。こんなにも玉藻前の矜持を揺さ振ってくれる存在などきっといないだろうから。