お狐様のいうとおり 10
 煮え湯を飲まされたかのように隠神形部の狸が唸るさまを見て、玉藻前は高笑いを浮かべた。助長させるように両端の妖狐まで手を叩いて笑うものだから、関係のない鞍馬天狗はきりきりと胃が締めつけられるような気持ちだった。
 古今東西、狐と狸の因縁には巻き込まれたくないものである。
 みるみるうちに憤慨を表に現したような顔つきになり、震え出した隠神形部の狸の姿を見て胸が空いたのか玉藻前は美しくも卑下た声音で言葉を紡いだ。
「しかし、南海道の長がおらんいうのも可笑しな話や。どっかの狸は老い耄れてまともに仕事もできんようやし、適任は犬神しかおらんいうのも頷ける」
 煙管を突き出した玉藻前はゆったりと立ち上がると、口端を上げた。
「使役とは別問題やさかいに仕方あらへん。犬神は南海道にかえしましょ」
 くるりと回すように発言を覆した玉藻前に、隠神形部の狸と鞍馬天狗は文字の如く目を引ん剥いた。まさかこれほどまであっさりと手を離すとは思いもしなかったのだ。
 なにか裏があるのではないだろうか。懸念も虚しく、玉藻前は詠唱を唱えると姿を消した。残されたのは唖然とした隠神形部の狸と鞍馬天狗と、したり顔の妖狐二匹。
「天狐さまが戻られるまで暫く待たれよ」
「犬神はおかえししましょうぞ」
 にたにた笑う二匹に不安を隠せないまま、なにもできない隠神形部の狸はただこの部屋で犬神を待つしかなかったのである。

 一方一瞬にして犬神がいる亜空間へと飛んだ玉藻前は死にかけの犬神を見下した。犬神本来の姿に戻され、荒い息を吐く犬神は死んでいるも同然だ。玉藻前がきたというのに気配にすら気付けていない。
 命拾いをしたのか、隠神形部の狸がこなければきっと玉藻前は殺していただろう。そうして後悔したのだ。悔しくも認めよう、玉藻前は犬神がほしい。
「犬神はん、お迎えの時間え」
 優しい声音で話しかけた。のっそりと顔を上げて玉藻前を見つめる瞳には暗闇しか映っていない。
 嗚呼、殺されるのだと思っているだろう瞳だ。
 掌から刀を抜き出した。玉藻前の体内に呪文をしいて隠し持っている宝剣だ。ちゃきり、と音を立てて引き抜けば観念したかのように犬神が頭を垂れた。まるでそう、首を撥ねやすい体勢ではないか。
 笑えてくる。こんなにも従順な犬神など、どうしてくれようというのか。玉藻前は乾いた笑みを零すと刀を大きく振り翳した。
「さようなら」
 金属の断ち切られる嫌な音が響く。部屋を轟々と燃え尽くさんばかりに燃えていた狐火が消えて、静寂が訪れた。犬神を繋いでいた禍々しい蠱術が呆気なくも終了を告げる、そんな瞬間だった。
 ふと体が軽くなる。犬神が驚きで顔を上げれば、みるみるうちに体まで人型のものへと変わっていく。一体玉藻前はどれほどの妖力を首輪に込めていたのか計り知れない。変化は自身ですら簡単に操れるものではないのに。
 ぱちぱちと瞼を瞬かせた犬神はよろける足で立ち上がると、玉藻前に責め寄った。
「な、何故……何故終わる……? 今は未だ太陽も外にあるではないか……!」
「あんさんが望んでいたことやあらへんの? 蠱術の終わり、生きたままの解放。はよう南海道に帰りたいんやあらしまへんの」
「そ、れは……我は……」
 首元を触る。傷一つないどころか調子まで良い。まるで二日間のことが夢の如く、犬神の体は万全の状態になっていた。
 底を尽きていた妖力は漲り、死にかけの体力も戻った。そうして傷一つない状態の体。なにが一体どうなっているのかさっぱりと理解もできない。
 落ち着かなさげに床を見つめて首を触る犬神に溜め息がかかった。
「お迎えや、犬神はんのな」
「……迎え?」
「隠神形部の狸が、あんさんを迎えにきたんえ。だからあんさんは南海道に帰る。それだけのことや」
 大きな目の玉が瞠目して更に大きくなった。ふるりと首を震わせるのはなにを意味しているのか、考えるだけで愛おしくもなる。本当に犬神は馬鹿で愛らしい。どうしようもない地の底だ。
 指先を伸ばして喉元を撫ぜた。一握りしてしまえば絶命してしまうだろうこの体を、もう殺すことはできない。きっとできない。殺すことよりも、生かすことの方に意味を見出してしまった。
 手放したくないなんて玉藻前が思うたまか。日本中を敵にまわしてでも乗っ取ろうと野心に燃えている妖怪の考える心境じゃない。あまりに繊細過ぎて、馬鹿らしくなる。
 守りたいと思う存在ができれば弱くなると思っていた。だけどきっとそれは嘘だったのだろう。守る存在ができたからこそ、強くなれる。全てを騙してでも置いておきたいのだ。
(憎悪が執着に変わったか……まあええよろし。新たな節目え。玉藻御前はもう亡き人や)
 小さく震える犬神を抱き寄せて、柔らかな口付けを送った。ふわりと触れる唇の感触が思ったよりも心地好くて笑えてくる。
 淫事なんかよりもよっぽど良いではないか。
 ぱさぱさと睫が揺れた。犬神は耳を立たせて尻尾を震わせると、玉藻前にしがみつく。
「わ、我は……ここに、いたい」
「可笑しなことを言うお犬様や。あんさんは南海道の長やあらへんか。帰る場所はひとつしかないんえ? それをあんさんは、望んでいたんやろう?」
「最初は、最初だけだ! 我は玉藻前に使役した。我を使えるのは玉藻前だけだ。だから、だから」
「ならはよう南海道に帰り。ご主人様の命令や、聞けるやろう?」
 顎を持ってそう囁いてやればいやいやと首を振る。どこまで馬鹿なのか。呆れもするが、ここまで執着されているのは悪くない気分だ。
 まさか蠱術がこのような形になるなど夢にも思わなかったが、結果的に良かったことなのだろう。
「蠱術は終わりや。成功しましたな? あんさんが、落ちてきた」
 絶望に彩られた瞳から雫が零れた。きっと犬神は己が愛されるということなど望んでもいなくて、その立場すら想像したことがなくて、ありえもしないことと最初から切り捨てているのだろう。
 どんな形でも良いから側にいたいと、ただひたすらにそれだけを願うのだ。従順さには頭も上がらない。
 だけどそんな犬神が狂おしいほどに愛おしいと思う。愛されているとは夢にも思っていない犬神を、玉藻前が愛してしまったのだと知ればどんな表情をしてくれるのだろう。
(口には言いまへんけど)
 根性の曲がった玉藻前だ。そうそう易々と口にできる訳もなく、愛されないと卑下て悲しむ犬神を見ていたいのだ。この先寿命など腐るほどある。充足感に溢れている顔はまだ先でも良い。
 玉藻前は犬神の頬に手を寄せて、頬を伝う涙を舌で拭った。
「……とは言っても、あんさんはうちに使役してる犬神や。南海道の長でも、それも変わりゃしまへん事実」
「た、まもまえ……?」
「いつでもうちのとこへきてくれな意味があらへん。なあ、犬神はん」
 ぐ、っと首元に触れれば犬神が苦しそうに鳴く。だけど手を離せば首元に違和感を覚えたのか、手を持って触れて確かめた。そこには今しがた玉藻前が装着した首輪がつけられていた。
「こ、これは……?」
「それは首輪、っていうのはそのまんまえな。それを使えばいつでもここへ戻ってこれる便利な代物や。稲荷神社の鳥居を利用したものやさかいな」
 玉藻前が自作したそれは、稲荷神社の鳥居を通じて全国へ行き来している妖狐専用の移動手段を少し改造したものだった。玉藻前の妖力が込められているその首輪に念じれば犬神の元へ声が届くようになっている。
 そうして強く呼べば、先端についている小さな鳥居から稲荷総本山限定になってしまうが、ここにかえってくることができる代物でもある。そう犬神専用の、鎖だ。
「玉藻前……そ、それは、我は、我はここにかえってきても良いのか?」
「ほんにあんさんの悪趣味にも呆れますけど、あんさんの体はうちのもんえ。だからうちが呼んだらいつでもここにきて、うちに服従してもらわな困るんもある。なあ、犬神はん、犬神はんは誰のもんえ?」
 首輪の先端についている鈴と小さな鳥居を撫ぜていた指先が止まる。玉藻前を見上げた瞳はきらきらと輝いていて、口を動かすだけの喉が音を立てて震えた。
 頭の悪い犬は、血も涙もない狐に恋をした。狐はそれを受け入れて、犬を愛したのだ。
「玉藻前……、我の身すべて、玉藻前のものだ」
 膝を折った。犬神は床に足をつくと、玉藻前の手を取って額に擦りつけた。匂いを移すかのような求愛行動に自然と笑みが零れる。そのまま擽ってやれば、至極幸せそうに笑むから仕様がない。
 手の甲に落とされた口付け。犬神は目を伏せると玉藻前に永遠の服従を従った。この形こそ、素直になれない二体のあるべき姿かもしれない。
「我の身が南海道にあろうと、心がかえる場所は玉藻前のとこだけだ」
「ほんに阿呆やなあ、あんさんも。逃げるんなら今のうちやったのに」
 最も逃がす気などありもしないのだけれど。
 玉藻前は犬神の体を抱き寄せて再度口付けを送った。柔らかに食むものから、激しいものへと変えていく。
 たった二日間の出来事だ。時間に換算してみればなんてことはない、長寿を生きる妖怪にとっては取るに足らない時間。だけどそのあまりにも短い時間に出会ってしまった、知ってしまった、感じてしまった。これを探していたのだと。
 なにをしても埋められなかった飢餓感がやっと満たされていくような、不思議な感覚だ。妖狐を愛しむだけじゃ得られなかったもの。きっと玉藻前の感情をぶつけて返ってくるような、そんな存在を待ち焦がれていたのだろう。
 愚かにも愛してしまった存在を傷つけることでしか触れられない玉藻前ではあるが、犬神ならきっと、そうきっと理解してくれる。離れていかない。なにをしても玉藻前の側にいる従順さと命をくれる服従と、無償の愛があった。
(嗚呼、……)
 愛してやれぬのに。玉藻前は初めて、そう初めて馬鹿にしていた人の感情のような弱みを持ってしまったのであった。けれどそれを後悔することは、きっとないだろう。

 あのあと無傷で犬神を引っ張ってきた玉藻前に一番驚いたのは鞍馬天狗だ。蠱術という名を振り翳して虐げていたはずなのに、二日ぶりに見る犬神は綺麗な体のままどころか玉藻前に懐いているではないか。
 有り体の話になるが、おおよそ玉藻前が施した悪逆非道のことなど見なくても想像できる。それなのにそれをされたという犬神が玉藻前に懐く理由がさっぱりわからない。
 だが二体だけにしか通じ得ないなにかがあるのだろうことは確かで、隠神形部の狸の忌々しい顔付きだけが印象的だった。
 今や犬神は隠神形部の狸よりも上の位にいる。長になるということはそういうことだ。更にその庇護下に置かれた妖怪は長なる妖怪に手出しは無用。易々と代替というのもできない。命を落とせば別の話だが、犬神には玉藻前の目がついてしまった。これで誰も犬神に逆らえるものはいなくなる。
 伊達に日本を震撼させた玉藻前ではない。隠神形部の狸など一瞬で殺してしまうこともできるのだ。それがわかっているからこそ、隠神形部の狸もそこまで強く出られず犬神の体を見ると渋々と引き下がった。
 これは完全に鞍馬天狗の予想ではあるが、隠神形部の狸は犬神を南海道の長にしたことを後悔して挿げ代わろうとしたのではないだろうか。だが犬神の身が京から戻らないことには始まらず、わざわざ迎えにきた。そうして引き取り殺す手段だったのではないか、と。
 だが運悪くも玉藻前に使役してしまった犬神は南海道の長以前に玉藻前のものとなってしまった。故においそれと手出しもできない。すれば己がどうなるのかわからないほど馬鹿でもない。力を欲するが故の強欲めいた考えだ。狸らしいといえばらしい。
(どこもかしこも腐っておるな……やはり隠居するに限るの)
 隠神形部の狸と犬神が南海道に帰ったところで静かになった稲荷総本社で鞍馬天狗はそう思った。
「して玉藻前よ、うぬも素直になったの?」
「なにを気色の悪いことを。そないな些事言うてる暇あるんやったら他にやることあるんちゃうかえ?」
「なにを言っているのかさっぱりわからぬ。我は狸狩りには参加しないからな」
「残念え。さぞかし面白いと思うんやけどなあ」
 くすくす笑う玉藻前を見て、懐かしさを込めた瞳で見つめる。酒呑童子ほど玉藻前と長い時を共有した訳ではないが、それでも鞍馬天狗とて玉藻前との時間はある。
 あの頃とは皆変わってしまった。日本三大悪妖怪と恐れられていた時が懐かしい。
 鞍馬天狗はやるべきことを見つけ、酒呑童子は愛するものを見つけた。そうして玉藻前は初めてほしいと願った存在ができた。
 取るに足らない些事と笑われるようなことでも、それでもなにもなく殺戮だけを娯楽とし荒れていたあの頃からしてみれば立派な成長だろう。人はそれを弱くなったと、妖怪はそれを恐れと呼ぶかもしれないがなにが悪い。
 結局は生き残って幸せを得たものが、全ての勝利者なのだ。
「さて、玉藻前、酒でも呑もうかの」
「ほんにあんさんたちは何夜呑めば気がすむんえ。はよう帰ってもらわなあかへんな」
「言うのなら酒呑童子にも言うんだな。そろそろ住処である大江山の鬼一派が泣き言を言いながらくる頃かのう」
「面倒くさいことばっかりやな。ああ、うちら妖怪の日々もつまらんことばかりや。なにか面白いことはあらへんやろか」
「それを探すのも一興。して今は酒を呑むのが娯楽。せめて明朝までは楽しもうではないか」
「明朝……? まだ昼え、そないな阿呆なこと付き合ってられまへん」
 言い合いながらも廊下を歩む二体が目指すところは同じ場所。今頃腹を出して寝ているであろう酒呑童子のいる部屋だ。
 急いでやることもなく、なにかに追われている訳でもなく、ただ同じような繰り返しの日常をしているのは妖怪も同じ。京の長になったからといって激変するような生活でもない。
 ほんの少しの変化だ。都に結界を張って、化狸の結界を再び練り直して、妖狐を愛しんで育て、稲荷総本山の統括を務め、嗚呼悪狐としての所業は終わったか。悪狐は育ててももう人には害をなさないだろう。意味がないと知ったからだ。
 そうして時折玉藻前に会いにくる馬鹿犬を躾けるだけの、そんな他愛ない日々なのだ。
 変化を恐れた玉藻前が受け入れた特別なもの。そうそれこそが玉藻前の最大の弱みであり、強さになりうるものだった。

 ぴちぴちと鳥が鳴く。太陽の陽が差す稲荷総本山は今日もなにも変わらず平和な日々。大きな事件も起きず、京も玉藻前の結界により平和が保たれている。陰陽師も力を顰めているだけになった。だけど確実に世界は人の世へと移り変わっている。
 それでも良いと思えた。妖怪の生きる道を生きようと。それを作り上げるのが玉藻前だ。悪くはない心地。
「あんさんも、物好きやな」
 強い力を感じて光が見えた。玉藻前の住居地にある妖狐だけが入れる空間にぽつりと存在しているこじんまりとした鳥居が紅く紅く光った。朱色のそれは真新しく、傷一つない。
 そうしてそこから姿を現すのは玉藻前に使えている妖怪。妖狐ではない妖怪。そう、蠱術で手に入れた犬神だった。だけど絆はしっかりと存在して、思う心が繋いでいるといっても過言ではない。
「……玉藻前」
 嬉しそうに尻尾を振って近付いた犬神は玉藻前の前までくると膝を折って掌に額を擦りつけた。服従の意らしいその仕草は、玉藻前の嗜虐心と愛したいという相反する感情を刺激する。
 ちりんと首元の鈴が鳴った。玉藻前は犬神の頬をゆるりとなぞると、真っ赤な唇を歪めて言うのだ。
「さあ、どうしてほしいんえ? 犬神はん」
 稲荷総本社は今日も平和。なにごともなく続く毎日。だけど少したまに変わる景色。それは仲睦ましい犬と狐の姿。そういうときはそっと目を伏せ立ち去る。そうして元通りなにもない時間へと戻るのだ。
 こんこん狐が鳴く。ここは稲荷、狐の世界、支配するのは全ての世界。
 犬が笑う。幸せそうに笑う。そうして言うのだ、幸せの導きはお狐さまのいうとおり。