陰の表情ばかり多彩だった玉藻前が新たな面を見せた。酒呑童子に言い当てられた言葉がよほど痛かったのか、苦み走って少し呆れたようなそれでいて諦めた風にも見える柔らかな表情をしたのだ。
決して膝を折らない玉藻前の性質からしてみれば珍しく、心に芽生えた新しい感情のようにも思えた。
「ふうむ、うぬの負けかもしれぬな」
尖った爪先が玉藻前の頬に触れる。む、っと眉を顰めた玉藻前など気にも留めず酒呑童子は豪快に笑むとそのまま艶やかな髪の毛を梳かした。
玉藻前にこのようなことができるのは今や酒呑童子ぐらいのものだろう。鞍馬天狗や座敷童子ですら適わないことだ。恐れ多いというよりは、玉藻前に触れることができないといった方が良いだろう。
ふてぶてしくもそれを甘受している玉藻前は、流石にずうと撫ぜられているのも癪で酒呑童子の手を振り払うと鼻を鳴らした。
「なにが負けや言いますんえ。うちは勝負もしてまへん。それにあんな下等妖怪に負けたとでも言うんえ?」
「明日になれば嫌というほどわかるじゃろうて。のう玉藻前、うぬは犬神に蠱術をしたと申しておったな? 本来蠱術とは妖怪ではない犬を用いて人が犬神を使役させるためにする呪詛じゃ」
「今更なにを……」
「しかしうぬは妖怪、しかも完成された犬神を用いて蠱術をした。気に食わないという個人的な怨恨で。恨みが強ければ強いほど執着もあるだろう。うぬは正にある意味犬神の虜となって二日間過ごした。どうじゃった? 胸は空いたか? いや空かぬ。うぬは逆に焦燥感を覚えたのじゃ」
酒呑童子の金色の瞳が淡く光った。黄金にも似た輝きに玉藻前は唇を噛むと吸い込まれないように意識を集中させる。唇から覗いた八重歯が白く浮いたのが印象的だった。
本当に厄介なことばかりしてくれる。酒呑童子の独特の世界観に引き摺られてしまったではないか。それこそ思う壺なのに。
酒呑童子はそのまま真っ直ぐ玉藻前を見て唇を動かした。
「こうは思わなかったか? この純粋な生きものは蠱術を完成させたとしてもなにも変わらないのではないか、と。ただ悪戯に苦しめただけと思いきや、犬神はうぬの心に巣食った。既にうぬの蠱術はうぬの意思に反して成功していたんじゃのう。犬神はうぬに忠誠を誓い、うぬは犬神に惹かれた」
「出鱈目を」
「犬神はもううぬに使役しておるのではないか? だからうぬは犬神を遠ざけた。臆病な玉藻前は、大切なものを作ることに躊躇ったらしいのう。愉快なことじゃ」
「都合の良い幻想なんて聞きとうないわ。酒呑童子、なにを夢みはってるんかうちにはさっぱりえ。そんなことあってたまるもんちゃう」
「うぬが一番わかっとると思うんじゃがのう。どの道明日には帰る。帰ってしまえばもう犬神の身では京にくることはないじゃろうて」
桃色の髪が夜風に靡いてさらりと流れた。夜桜にも似た幻想的な光景に、綺麗なものが好きな妖怪心が擽られる。
(嗚呼、だから嫌なんえ。酒呑童子と話してるとうちやなくなってしまう)
断言するように言い切られた言葉が、さくりと心に刺さった。図星なのか出鱈目なのか、答えなど出さないままで良い。関係のないままで良い。だってそんなの、そんなことは有り得てはいけない。
きしり、と床が鳴った。酒呑童子が隣へくる。柔らかな手つきで玉藻前の肩を叩くと、秘密を囁くように言った。
「うぬももうじき京に縛られる。儂は眠りにつく。鞍馬天狗は山に篭もって子を育てるじゃろう。そうなればうぬは独りになってしまう。稲荷山だけに護られて妖狐を愛しむだけの」
「酒呑童子、それはなんの話え?」
「そうなるのも良いかもしれぬが、我を捨ててたまには本気になってみるのも悪くなかろう。明日までじっくりと考えるんじゃな。嗚呼、とはいってももう今日か」
酒呑童子の視線の先には濃紺の先にうっすらと光が差している光景。夜明けが近付いた時刻になりつつあった。
ここまでくれば朝を迎えるのは一瞬で、ぼうとしているだけでも直ぐに世界は白に染まる。人々が支配する陽の刻へと変わって妖怪は深い眠りに誘われるのだ。
「あとこの夜明けも、幾つ見られるのかのう……」
「なんやまさに死ぬみたいなこと言わはって、あんさんらしくあらへんやないの」
玉藻前が笑えば、言葉もなく笑い返される。寂しさの滲んだそれに玉藻前ははっと気付いた。冗談ではなく、本気なのだと。
(……どういうことや? 酒呑童子はいつの話をしてるんえ?)
玉藻前でも見られない未来を見ているというのか。それとも出鱈目で言っているのか。お得意の勘か。それにしては眠りにつくなど、死に逝くみたいではないか。
「うちにもわかるよう言ってたもれ」
「じきにわかるじゃろう。さあて朝がくる前に戻って一眠りでもしようとするかの。昼になれば大宴会じゃあ。それまでちいとばかしの休憩じゃの」
玉藻前の問いなど気にした素振りもなく、酒呑童子はきたとき同様身勝手に出歩くと玉藻前の前から姿を消した。意味深なことなことばかり残して、玉藻前の感情を揺さ振るだけ揺さ振って知らぬ存ぜぬはあまりに酷い。
酒呑童子の考えていることを知ろうとすること自体が間違っているのか、それともなにかを教えようとしてくれているのか。嗚呼だけども玉藻前は高過ぎる矜持を今更投げ打つこともできない。
精神がどれほど揺らいだとしても、体裁を守るためにいつも通りの玉藻前でなければならないのだ。
誰にも脅かされず堂々とした立ち振る舞いで雄弁にものを語り、そうして怠惰に煙管をふかして婀娜っぽい笑みを浮かべる。そんな遊女のような玉藻前であり続けなければならない。
それこそが稲荷山の頂点に君臨せし支配者であって、日本を轟かした玉藻前の本性なのだから。
あんな下等妖怪に惑わされるようであってはいけない。そんな事実があることも許されない。だからもう、会わない。夜になるまで犬神の顔すら見ない。
誰も訪れず気配すらない、薄暗くどこかの亜空間の世界で寂しげに鳴いていれば良い。
時間が経つにつれ少しずつ絶望に彩られ全てを失っていくのだ。希望もない。光もない。ただゆっくりと瞼を閉じて、悔い改める。そうして玉藻前を絶対の支配者において永劫縛られ続ける。
(うちじゃない。縛られるのは、うちじゃないんえ)
最初で最後の完成に相応しいときを。犬神に忘れられない時間を。永遠の別れを告げよう。
玉藻前は半分になった世界を見つめると、太陽の眩しさに瞼をおろした。三日目の朝がきた。終わりの朝が、やってきた。明日にはいない。その存在が稲荷山から消えるその日。
そうだ、殺してしまえばこんな想いも消えてしまう。
思いつけば妙案で、玉藻前はくすりと笑った。これで玉藻前を脅かす存在などいなくなる。
嗚呼、だけど玉藻前を愛してくれる存在も失うのだ。
玉藻前がそんなことを考えているなど露知らず、無情にも時間は過ぎていく。
人の時間軸の話ではあるが、今日はなにかと稲荷が忙しい。参拝客が増えて稲荷総本山に眷属している白狐がおおわらわと奔走していた。
微笑ましく見つめながら手助けをして、いつも通りの日常を過ごす。気付けば太陽が真上に昇って日の力が強くなっていた。陽の動きが一際活発になっている現在、力ない子狐は丸まって睡眠をとっているようだし玉藻前も暫しの休息と瞼を閉じた。
犬神の始末をするのは今晩。太陽が昇っていては話にならない。まさに死に至るその瞬間まで、極限に命を減らしてやるのだ。
飢餓と炎と毒にやられれば良い。そうして玉藻前に深い憎しみを抱いて永遠の眠りにつけば良い。きっと忘れることなどできないだろう。己の一生を左右した人間よりも、深く犬神の心に刻まれるに違いない。
闇で乞うのだ。人に愛されたいと願ったように玉藻前に愛されたいと、永遠に苦しみながら求められてこそ玉藻前の精神安定もはかれた。
だけどほんの少しだけ楽しかったといえる時間もあって、それが消えていくのに惜しいと思ってしまった心もあった。認めてはいけないものだったけれど。
(……なにを躊躇うことがあるんえ。もう終息は直ぐそこまで近付いて、きて……)
瞼をふるりと震わせた玉藻前は、太陽の光に透けてより美しくあった。善狐としてあるその姿は透明感に溢れいでて、憂いを帯びた表情は正に傾国の美女。
赤い唇から溜め息が漏れ、きらきら輝く金糸の髪は絹のよう。黒々とした長い睫が影を作るさまに、こっそりと様子を窺っていた妖狐が感嘆の息を零した最中、玉藻前の瞼がかっと開いた。
真っ赤な瞳が轟々と燃える炎のように揺らめいている。たおやかだった空気が一変して恐々しいものへ変化した。
「て、天狐さま……?」
公然の秘密ではあるが、稲荷の妖狐は誰よりも近くにいたので玉藻前が善狐であり悪狐であることは承知の上だった。それでも誰よりも愛情をかけて愛しんで育ててくれた恩があるから、玉藻前がどんな存在であってもどんなことをしても忠義を尽くしてついてきたのだ。
それでもやはり純粋培養で育った稲荷山の妖狐は悪狐に慣れていないから、玉藻前はなるべく皆の前で悪狐になることは抑えていてくれていたのだが、それはまさに一瞬の出来事だった。
美しさはなに一つ変わらないのに、婀娜っぽさが増した玉藻前は仇敵を睨むものの如く恐ろしげな唸りを上げた。
「天狐さま、如何されました!?」
流石にこの変化には妖狐も黙っていない。慌てて玉藻前の前に出ると、宥めるように膝をついた。
「……結界が、破られた。稲荷山に侵入者や」
「ま、まさか陰陽師……?」
「ここは神の眷属え? 陰陽師でもそないな野蛮なことはせん。南海道の田舎妖怪や。粗方様子を見にきたんか……汚らわしい! あやつに踏み入れられるために稲荷は存在なんかしてまへん。嗚呼、嗚呼、耐えられん! 気持ちわるうてしゃあない!」
感情を制御できず叫びながらたたらを踏んだ玉藻前の様子に、漸くその侵入者の正体がわかった。玉藻前が毛嫌いしている妖怪の種族、化狸だ。南海道と名付いたところから見れば隠神形部の狸に違いない。
今にも隠神形部の狸を殺しにいかんとばかりに気を荒立てた玉藻前をなんとか宥めると、迎えに行かせる役を酒呑童子か鞍馬天狗に託した。
本来ならば玉藻前の許可がないと侵入不可な領域だが、このように第一の結界を破られては話が違う。流石に玉藻前たちがいる稲荷山の本殿より更に進む最奥部まではこられないだろうが、用心にこしたことはない。
玉藻前が力ない妖狐を守るために厳重に結界を張った領域なのだ。おいそれと隠神形部の狸が破れる代物ではなかった。
だが稲荷総本山にいるということは、玉藻前に用があってきたということだろう。南海道での経歴がそれなりにある犬神をあんな状態でしばりつけている今、迷っている暇もなかった。
「天狐さま、今迎えに行ってもらっていますので気をおさめくださいませ」
「そうです。おさめくださいませ。下の方でお目通りくださいまし。この場所は上手にお隠しください」
「はい。ここであの狸を殺すのも帰すのも上策と言えませぬ。もし争いになれば大変なことになります」
矢継ぎ早に説得をする妖狐に、玉藻前の気が徐々に落ち着き始めた。上位に立つものとして下位のものに宥められるとはなんという体たらくか。如何に化狸を毛嫌いしていたとしても、妖狐の前で見せるべき姿ではなかった。
わらわらと極限にまで膨れていた九本の尾が萎んでいく。流石に仇敵の襲来とあってか善狐に戻ることはなかったが、ちりちりと肌を焼くような空気が拡散していった。
「……堪忍、ね。嗚呼、少し取り乱してしもうたわ」
どんな用件で京に馳せ参じたのかは玉藻前の知るところではないが、この時期を窺うのであれば確実に犬神のことがあってだろう。
化狸風情が良く効く鼻をお持ちのようだ。身を挺してくれる傀儡を失うことに恐れたのか。
犬神がいなくなれば確実に隠神形部の狸が後釜となって南海道の長となるだろう。むしろ今の状況を考えればそちらの方が都合が良い。だがのらりくらりと隠密行動を好み表に出たがらない化狸は犬神を表に立たせ自由を利かせるようにしたに違いない。
そういうところもまた、玉藻前の気に入らないところだ。
ここで化狸を殺すことなど造作もないが、犬神も隠神形部の狸も葬ってしまえば南海道も黙ってはいないだろう。特に隠神形部の狸の派閥が多いために京に乗り込んでくる懸念もある。
田舎妖怪如き滅すのなど簡単ではあったが、それ故に亡くしてしまう命があるのなら玉藻前は手を引かざるを得ない。日本三大悪妖怪といわれた頃とは事情も身の上も違っていた。
自由に暴れまわれることができなくなったほどには、大切なもので溢れ返ったこの場所がある。
(犬神はん、どうやら神はあんさんに微笑んだようえ。命拾いしたのか、それとも戻るは地獄か……嗚呼、ほんに堪忍え。うちの気も知らんで)
身形を整えた玉藻前がそろりと立ち上がった。口ずさむ詠唱は歌のようで、妖狐はうっとりとしてしまう。
変化を見せた姿は美しき女性のような装いで、血よりも赤い着物を翻した。その姿はかつて鳥羽天皇を骨抜きにしたとも言われている人に化けていたときの姿そのもの、玉藻御前だった。
「天狐さま、麗しゅうございます。流石傾国の美女と謳われただけのことはあります」
「醜い化狸の前に行くのが勿体のうございます」
「ですが化狸を追い払わなければいけません」
「嗚呼、嘆かわしいです。天狐さま、さあご準備が整いましたのならご案内いたします」
愛らしい妖狐に両手を掴まれて、怠惰に笑った玉藻前と二匹はその場から瞬時に消えた。稲荷総本山の入り口へと向かったのだ。本殿により近いその場所は誰でも入れるといえば入れる空間。もちろん妖怪だけになってしまうが。
京に狸の分布地を増やしたくない一心で狸のみに通用する結界を張っていたが、それもたった今隠神形部の狸に破られてしまった。
しゃりんしゃりんと、耳に心地の良い鈴の音が聞こえる。視線を上げれば可愛らしいまだ成長途中の二匹の妖狐に連れられて懐かしい身形をしている玉藻前がやってきた。
傾国の美女と謳われたその容姿を見ていると、日本三大悪妖怪と恐れられていた頃がまざまざと思い返される。
あの頃は無茶ばかりして人を陥れることだけを悦にして生きてきた。鞍馬天狗になった崇徳天皇も、酒呑童子も、そして玉藻前も。戻れない日々に未練がない訳ではなかったが、この身形でくることによって警告と攻撃も厭わないという意思表示を表していた。
「これは遥か南海道くんだりから誰がきたかと思えば……隠神形部の狸やあらへんの。わざわざ結界まで破ってなんの用があったんえ」
冷たい声音が響く。本殿前の来客用の部屋にて、その姿を留まらせてくれていたのは鞍馬天狗だった。粗方酒呑童子は昼寝に入ったままか酒を呑んでどうしようもない状況だったのだろう。
お供も連れず単身できたことは褒められようか。蔑むような視線に、関係のない鞍馬天狗がぐうと唸った。
「ふぉっふぉ、相変わらずじゃのう……見目だけは美しい女狐のままじゃあ。根性が腐りおちよったのはもう戻らんか」
「見目も汚らわしく老いた化狸に言われたくないえな。嗚呼、一緒の空間にいるのさえ苦痛でしゃあない」
禍々しい空気が混沌とする。正に史上最悪の険悪さ。未来永劫和解することなどないのだろうと、暗に言っても可笑しくはない関係だった。
なにがどうなってこうなったのか、詳しい事情はわかりもしないが関係のない鞍馬天狗と妖狐にとっては堪ったものじゃない。窮屈そうに身を固めていたが、隠神形部の狸が持ってきた酒瓶をちゃぷりと鳴らすのを機に状況は一変した。
「して女狐よ、儂らの犬神をかえしてもらおうかのう。あやつは南海道の長じゃ。お主に壊されては適わんからの」
「犬神をこの地に踏み入れさせたことが既に間違いやあらへんか? なにもうちが招いたんやあらへんのえ」
「御託は良い。首は繋がっておるじゃろうて、はようかえせ」
「犬神はんはあんさんの所有物やあらへん。ああそういえば、もう手遅れかもしれへんねえ」
その言葉に瞠目させたのは鞍馬天狗で、思い切り玉藻前を凝視してしまった。だが隠神形部の狸と妖狐は驚く素振りも見せないので恥ずかしくなって佇まいを直す。
「もうあの子はうちのもんえ。しゃあないから腹も括りましょか」
「……お主まさかあの犬神を……」
「簡単でしたえ? 少し優しくしてやるだけで落ちてきたんやさかい。あの子はうちに使役してはるんよ」
玉藻前の言った言葉は、隠神形部の狸たちだけではなく玉藻前自身も驚かせる言霊となってその場を制した。
先ほどまで殺してしまう命だと蔑ろにしていた存在を本当は手元に置いておきたいのだと、そんな願いが隠れた言葉でもあった。