「全くこうも忙しいのではバザールに足を運ぶこともできないではないか」
質素な作りながら、目を凝らせば特殊な技術で飾り立てられた壁画が目に入る。どちらかといえば倹しい部屋で不釣合いなほど豪華絢爛に着飾った男がやれやれと言った風に言葉を零した。
強大なる建物の主というのにも関わらず、誰かに向けた言葉は拾われずに捨て置かれた。皆忙しなく紙に墨で文字を書き連ねては、どたばたと出入りを繰り返していた。主である男はそんな様子を見て関係ないとばかりにそっぽを向くと、窓の外に広がる景色を目に留めたのである。
ここは南海に隣接する広大な大陸の中にある国の一つにあった。四方を砂漠で囲まれた土地といえども、生憎と資源や特産物に恵まれ独自の発展方法で強大な国へと変貌を遂げたのだ。
特に有名なのは複雑な網目で織り成される壮美な刺繍やそれらを使用した織物、貴金属の加工や鉱物の発掘など。なによりの功績といえば現王である男の政治的手腕、それが見事功を奏してここまで大きな国を築けることとなったといっても過言ではない。
敷地面積はそれほど大きくなくとも絶大なる貿易力と経済力を誇る我がマハルーン国、その象徴でもある白亜と黄金で造られたセーレ宮殿で前記にて紹介を預かった男、マハルーン国第一王子であった現王のシャヤールがとうとう匙を投げた。
「やってられん」
ぴたり、と文官長の目がシャヤールに向く。居心地の悪さに身を縮めても許してくれそうにはなかった。
シャヤールは賢王として歴代の王族の中でも評判は頗る良い。民衆からの圧倒的な支持に加え外交の上手さ、どんな状況でも物怖じしない度胸の大きさ、他国語を話すことができるだけでなく読み書きもでき王族の教養以上に備えている。見目も申し分ないほど恵まれており、シャヤールの前ならばどんな美女だって膝をつくだろう。
なにもかもが完璧なシャヤールの一番得意なことといえばこの国を大きくした一因にもなった話術、即ち彼の商売の上手さにあった。
マハルーン国をアピールし、優位に立って売りつける才能は商人顔負けである。売るだけならまだしも立場を陥らせることなく商談を成功させ買いつけまで行なうのだから、マハルーン国はもはや彼なしでは機能を果たさなかった。
シャヤール本人も商売を手がけることがよほど気に入っているのか、文官長が目を離した隙に街へと繰り出しバザールで身分を隠して渡り歩くのだから呆れたものだ。そのお陰かマハルーン国は商売の国とも言われ、各国からいろいろな商品を抱えた商人が集ることからこの大陸最大のバザールの規模を誇り、流通の要にもなっていた。
王が賢く、税も軽い。他国の難民や貧民を受け入れる体制も調っている。いまやマハルーン国は南海諸国にとって欠かせない国にもなった。だけど困ったことに王にその意識が希薄なのが問題といえば問題だろう。
「王よ、バザールに足が出向くのは致し方ないことだとは思います。ですがまず自国の問題から取りかかってくださいませ」
「ああ、わかってるさ。そんなことは言われなくても……。だがたまには息抜きもしたいだろう? 俺とてこんな埃臭い部屋に長時間閉じ込められるのは敵わん」
「我儘にも過ぎます。差し出がましいようですが書類の嵩が減っていないのは見間違いでしょうか」
「……お前は良からぬとこばかりに目がいくのだな」
目敏い文官長の監視の中抜け出せる訳もなく、シャヤールは大人しく書類へと目を落とした。
貿易や商業が盛んなマハルーン国はなにも元からここまで発展の兆しがあった訳ではない。シャヤールが王位を継承してから、急激に発展をしてきた。故に良いことばかりが付き纏う訳にはいかなかった。
金回りが良い商人がマハルーン国に集りだしたことにより、国としては物資の流通が盛んになり財政が潤って収入の少ない民から無闇に税を搾取するという悪習慣から抜け出せた。だが金持ちが増えれば増えるほどに盗賊という輩が現われだしたのだ。
狙いはもちろん商人だ。度々移動中の商人が襲われたという報告を受け、警備隊などを派遣してはいるがなかなか尻尾を掴めない状況にいる。
それにシャヤールを一番悩ませている事柄は、奴隷問題であった。現在マハルーン国にはスラム街も奴隷市場も存在しないのだが、隣国であるラマハン国が財政難に見舞われその打撃で街が急激にスラム街と化してきている。金のない奴は用済みだといわんばかりに国家で奴隷を産出しているのだから手に負えない。
元より金持ちのステータスとして蔓延るようになった悪癖こそが奴隷だと、シャヤールは考えている。マハルーン国の商人もそこは変わることもなく、ラマハン国から奴隷を買い漁っては堂々と街を連れ歩くのだから困った現状であった。
シャヤールとしては奴隷を買うなと言いたいところだがそこまで制限できる手もない。急激な格差に頭を悩ませてもラマハン国のことじゃどうすることもできずに、ただこうして少しでも良くなるようにと文官長と顔を合わせるしかない。
顎を持ってううんと瞑想に入るシャヤールに、慌ててまごついた文官長は極めて明るい声を出すとシャヤールが食いつくであろう話題を提供した。
「ところで王よ、もう直ぐ王宮祭ですね。今回はどのような品を出されるのですか?」
「ん? ああ、もうそんな時期だったか。俺の楽しみでもあるからな、それは奪わないでくれよ」
「ええ、もちろんですとも。王自ら出向かれることがパフォーマンスの一環として人気があるのですから」
優しげな声音でそう告げた文官長に、シャヤールは再び手を止めた。太陽はまだ真上にある。照りつける太陽がじりじり肌を焼きそうだと思っても、ここは石造りの部屋。ひんやりしたものだ。
シャヤールは奇数月の初めに開催している王宮祭の資料を取り出すと、文官長に手渡した。
「今回は王宮技術を使った小さな絨毯にしようかと思っている。大きなものだと値が嵩張るからな。小さなものだと民にも手が出し易いだろう」
「それは人気が出そうですね。早速資料に目を通して手配させていただいても?」
「ああ、必要なことは全て揃えているからその通りに頼む」
文官長は書類をぺらりと捲り内容を認めると、流石といった風に大きく頷いた。
世界規模を誇るマハルーン国のバザールは奇数月の初めにとある催しをしていた。それはセーレ宮殿でシャヤール王のためだけに作られている王製のものをバザールに出品するというものだ。それも王自らの手で。
王が直接民と触れ合い、王御用達のものを安くで買えるとあってマハルーン国にとっては賑わいをみせる催しになり、王宮祭として親しみを込められていた。
商人気質で今直ぐ商人にでも転職したいと常日頃からぼやくシャヤールにとっても、息抜きといえる日でもあった。
もう直ぐその日が近付いている。それだけでシャヤールは気が逸って仕様がない。午後の鐘が鳴ったのを良いことに立ち上がると、慌てる文官長を避けて扉へと向いた。
「王よ、まだ手つかずの書類を放ったままどこへ向かわれるのです」
「なあに少し宮内を歩くだけだ。外には出やしない。昼の鐘が鳴ったのを聞いただろう? 食堂で昼餉を摂るついでに休憩でもしよう」
「判すら押していないじゃありませんか……」
「細かいことは気にするな。それにやっとシャバードが帰ってきたようだからな、そちらとも話をつけてくる」
「シャバード様がですか? それなら……致し方ありませんね。くれぐれもお早めに」
「わかっているさ。そのことでもシャバードに話があるのだからな」
疑い深い文官長の痛い目を掻い潜って、シャヤールは執務室から出ることに成功した。どの道文官長が口煩く言う程度には、未決済の書類が多くて困っているのも確か。あまり穴も空けていられない。
シャヤールは用件だけを手短に済ませることにすると、胃が痛いと嘆く文官長の下へ直ぐに戻ってやろうと考えた。なにもシャヤールも楽観視しているのではない。危機感を覚えているからこその頓挫でもある。
(まずはシャバードに内情を聞かなくてはいけないな……あいつもたまには役に立ってもらわんと困る)
足早に歩くシャヤールに、通り過ぎる給仕たちがこうべを垂れる。それを一瞥するだけして、シャヤールはシャバードの部屋へと急いだ。
王族衣装の歩き辛さといったらこの上ない。早く商人服に着替えてバザールで腕を奮いたいものだ。シャヤールの心の声は誰に聞かれるでもなく消えていった。
シャヤールは執務室がある塔を離れると、王族のみが立ち入ることを許されている離宮へと足を向けた。ここは本来シャヤールのハレムとして建設された離宮だったが、一向にハレムを持とうとしないシャヤールに焦れてシャバードが勝手に王族専用住居としてしまったのだ。
シャヤールはそれでもなんの問題もなかった。まだまだハレムを持つ気もないし、持つとしてももっと先だろう。もしかしたら一生持たないかもしれない。ならば必要になった際に再び建てれば良いだろう。大臣が聞けば雷が落っこちそうな思想である。
シャヤールも王を継承して四年が経った。三十手前の若さでこの経歴は褒められたものだが、そろそろ妾の一人や二人見繕っても悪くはないだろう。マハルーン国も例に漏れなく一夫多妻制だ。伴侶を持とうとしないシャヤールの下には連日求婚の知らせが届くのだが、なにをとち狂ったのかシャヤールは全て断っていた。
シャヤールには大きな夢がある。そのためにはハレムも伴侶も到底持てそうにもない。遊びならまだ手を出しても良いかもしれないが、王族の姫に手を出せばたちまちハレムを持たなければいけなくなるから厄介な風習でもある。だから女は玄人に限る。
結婚適齢期といわれている年齢であっても、シャヤールの脳は王事や商売のことでいっぱいだ。向けられる憧憬の視線にすら気付かないまま、シャバードの部屋をやや乱暴に叩いた。
「シャバード、帰ってきているのだろう! 真っ先に俺のところへ寄れと言ったじゃないか!」
扉の向こうでもたつく物音が聞こえる。シャヤールは扉が開くのすら待てずに強引に中へと入ると、宝石を眺めていたシャバードに呆れを込めた目をやった。
「やあ、久しぶり。元気だった? すっかり雄々しくなって、ますます王としての威厳が出てきたんじゃないか?」
「シャバード、俺の話を聞いていたか」
「まあまあそう焦らずに。ちゃんと欲しい情報は手に入れてきたよ。全く王ときたら人使いが荒い」
はあと溜め息を吐いて宝石を箱にしまったシャバードは立ち上がると、懐かしそうに目を細めてシャヤールの手を取り甲へと口づけた。些か気持ちの悪い光景ではあるが慣れたもので、シャヤールは当然の如くそれを受け入れた。
実はこのシャヤールとシャバード、全くもって似ているところなど皆目存在しないが半分だけ血の繋がった兄弟であった。
引き締まった体躯に細身の筋肉、女性ともつかない中性的な顔立ちをしておきながら堂々と立つ姿は雄々しくもある。誰が見ても美しいと形容されるのは兄のシャヤールで、弟であるシャバードは隆々とした筋肉と彫りの深い顔立ち、端整な面持ちは男らしく頼り甲斐があり、娼婦受けするような雄臭さがあった。
見目も反対ならば中身も反対だ。シャヤールはのんびりとソファへと腰かけたシャバードに、腕を組むと逸る気持ちを全面に表した。
「王のご命令通り、ラマハンに潜入して盗賊業を傍らに見て回ったんだけど……もうあの国は駄目だ。潰すしか打開策もない」
「噂通りか」
「まともな人間はこっちやラマハンの向こう側の国に逃げている状況だからね。金回りが悪くなれば直ぐに増税だ。払いきれない民は盗賊に落ちて食い扶持を繋ぐか、国に奴隷にされるか……最悪だね」
想像以上にラマハン国の内情は悪化していたらしい。このままでは内戦が勃発して、罪のない民が殺される日も遠くはない。そしてその戦火がマハルーン国に及ばないという保障もないのだ。
貧民の受け入れをしたところで、ラマハン国も民を国内から出さないようにあの手この手の行使をするだろう。同じ大陸続きの国でも王が違うだけでこれほどまで差が出るのか、シャヤールは感慨深げに頷くとシャバードの向かい側に腰を据えた。
「とまあそれは本題ではないのだけれど、王よ、一つ気になった噂を聞いたので耳に入れておいてほしい」
「……なんだ? 言ってみろ」
「ラマハン国で領主をしているディダーリという男がいる。表向きは強欲ばった領主で通しているが裏では盗賊の頭領、それもマハルーン国に出入りする商人を限定して襲っている」
「それは真か?」
「限りなく。叩けるだけの証拠がないからどうすることもできないけど気をつけて。それとももうここまで届いたかな?」
「……ディダーリか、いや……違う案件で名が挙がってきている」
シャヤールは背もたれに背中を深く預けると、ここ最近街を賑わせる噂を思い返していた。
ディダーリという名前に聞き覚えがあるどころか、それなりに関係があったなど今更言い辛いことこの上ない。だがシャバードの話を聞いている限りシャヤールの知っているディダーリと間違いなく同じ人物であろう。
初対面から好かない空気を持った男だと思っていた。ラマハン国からわざわざマハルーン国のバザールに足を運び、そうしてシャヤールに取り入ろうとして金にものを言わせたような贈り物ばかりを寄越し、したり顔をしていた。
ディダーリの悪名はセーレ宮殿内でも有名な話だった。なんでも少女を買い漁っては奴隷として酷使し、閨に連れ込んで一夜を共に過ごすのと同時に殺すというのだから。
人としても卑劣極まりないことだ。嫌悪しか覚えないシャヤールは拝謁を悉く断っていたのだが、ラマハン国有数の領主でラマハン王族とも通じていると知れば無碍にすることもできず、渋々と付き合いを重ねてしまっていた。
できることなら国内立ち入り禁止にしてしまいたい。ラマハン国の王であったならば直ぐさま処刑しているであろうほど非道過ぎる。
シャヤールは興ざめする話に胸に燻らせ、払拭させるためシャバードが持ち帰った果実酒に手を伸ばした。
「ああ、昼から酒を呑むなんて大丈夫なのか? 政務はまだ残っているんだろう」
「少し嫌なことを思い出してな。……とにかくディダーリは王宮内でも目をつけている人物だ。迂闊に手を出して逃げられては困るからな、取り敢えずは捨て置け」
「へえ、流石。やっぱり悪名は届いてたんだね。それより王よ、もっともっと面白い話を聞いたんだけど……聞きたい?」
シャバードの目がきらりと輝く。どうせ女のことであろう。シャヤールと違ってシャバードは欲望に正直だ。きらきらと輝く宝石や貴金属、舌を唸らせる果実や肉、豊満な胸を惜しみなく見せつけては誘いをかける娼婦。男ならば欲っするであろうものを、欲しいと素直に言える口を持っていた。
それに代わりシャヤールの興味は目下商売のことばかり。宝石も食物も女も嫌いではないが、商売以上にシャヤールの心を躍らせてはくれなかった。
だから三十手前にもなって浮いた噂一つもない。シャバードが王になっていたならば、豪華絢爛なハレムを建て各国から選りすぐりの美女を集めては贅沢三昧するだろう。酒池肉林が男の夢なのだから。
その分ではマハルーン国の王にシャヤールが即位したことは幸運だった。女に現を抜かすよりは、商売に興味を注いでいる方がよっぽど健全だ。
シャバードは興味すら持とうとしないシャヤールの顔を寄せると、ひっそりと秘密を打ち明けるかのような声音で紡いだ。
「ディダーリの、宝物のことさ」
「……宝物? 生憎と宝石に興味はない」
「それが宝石じゃないんだよ。人間なのさ」
「人間などますます興味も湧かないな。第一女など掃いて捨てるほどいるだろう。ディダーリは奴隷を買いつける上客としてラマハン国では有名だ。どんな人間を出されても今更驚きもしない」
「それが一風変わった男という噂なんだよ。あのディダーリが重宝して、手放そうとしない宝物が」
「……男色の気でもあるのか」
「まあまあそれが面白い話さ。どう、興味持っただろう? 王よ、ここで私めがお伽噺をして差し上げましょう。ラマハン国に代々伝わるお伽噺、どうぞ酒の肴にしてやってください」
なんとまあ仰々しいことか。シャヤールは面白げに口端を上げると弟でもあるシャバードの悪ふざけに乗ってやることにした。
どうにも随分と長旅を強いてしまった手前、手荒に扱うこともできない。弟という立場ではあるもののシャヤールが即位してからは兄弟である前に臣下となったのだ。最も二人きりの状況の中では強要しないが。
シャヤールの頼みを嫌な顔せず引き受けて、半年にも渡る調査を独自でラマハン国で行なってくれた。危険なこともいっぱいあっただろうに、文句も言わずいつも通りの姿を見せてくれたのだ。それだけでもシャヤールには十分な手土産である。先ほどまで苛立ちを募らせていたことを棚に上げて、シャヤールは芳醇たる果実酒に口をつけた。
(まあ良い、シャバードの話はいつだって面白いからな。ついつい弟と話が盛り上がってしまったとでも言っておけば、あいつらもそうは怒らんだろう)
脳裏に浮かぶのは、怒りっぽい文官長とじと目で見つめてくる文官たち。シャヤールの仕事の姿勢に文句を垂れる姿が容易に想像できるが、今はシャバードの話を聞きたい。
肉厚な唇から語られる大よそ現実のこととは思えない正にお伽噺のような言葉に、シャヤールはすっかり夢中になっていた。気がつけば続きは、とシャバードに催促をするほどだったのである。それほどまでその話は、シャヤールにとって興味を引かれるものでもあり忘れられもしない話となった。