千夜一恋 02
 シャバードがマハルーン国へと帰還してからというものの、恙無い生活が続いていた。悪い噂が時折耳に入っても、いつものことだと片付けられる程度には心に余裕もあった。
 王であるシャヤールが政務に追われるのは当然のことではあるが、シャバードも例外ではない。王を継がず役職をもたずにふらふらしていると思われがちだが、シャヤールはしっかりとシャバードを遠慮なくこき使っていたのである。
 有り体にいえば政務を投げ出したときの人柱とでも言っておくべきか。
 文官長の怒声が背後で遠ざかって聞こえる。シャヤールはしめしめと格好を崩すと、これ幸いとばかりにセーレ宮殿を抜け出し街へと下ったのである。執務室に缶詰になって三日目の出来事だった。
(ほう、今日は一段と奴隷の数が多いな……)
 シャヤールは早速お目当てであるバザールへと出向くと、辺りを見回してから素直な感想を心で述べた。
 宮殿内の格好のままバザールに行けばたちまち身分が露見してしまうことは嫌というほどわかっていたので、商人らしくボロ布を身体に纏い、頭巾を被ってそれで顔の半分を隠していた。女性のような姿にはなるが、これも念には念を入れてだ。
 王といってもシャヤールの素顔は公にはしていない。国同士の政治的な場ならまだしも、あまり民に顔を易々と晒し覚えられるのは好ましくないと文官長もシャバードも口を揃えて言うのだ。
 釈然とはしないものの従うしかなく、シャヤールは民の前では顔を隠しておりなんとなく格好良さそうな王様というイメージで罷り通っていた。
 王となれば命を狙われる危険も身につき纏う。影武者を用意していても不安なのだろう。シャヤールにとってはあまり感心できたことではないが、懇願されては無碍にもできずそのような形で妥協するしかない。
「お兄さん、そんなとこに突っ立ってないで果実を買っていかないかね? お安くしとくよ」
 心ここにあらずなシャヤールに声がかかった。振り返れば皺でくしゃくしゃになった顔の老婆が、布の上に溢れんばかりに敷き詰められた果実を差してそう言った。シャヤールは些か買おうか迷ったものの、人の良さそうな老婆に負けて硬貨を渡す。
「ありがとう。ひとつもらおうか」
 果実を手渡され、ほんの少しだけ齧って舌で転がした。痺れはない。どうやら毒物の気はないようだ。シャヤールは安心すると、果実を今度は躊躇いもなく大きく齧った。
 シャヤールとて自分がこの国の代えが利かない王である自覚はある。バザールに足繁く通って商品を売り買いしていても、食物を食べるときは毒が入っていないか調べるしなにかに触れるときも素手では触れないようにしている。
 人を疑うことは得意としないことだが、やらなければいけない責任でもある。特に毒物などは耐性をつけたといっても新種のものだと対処しきれない場合もあるからだ。
 美味しそうに果実を頬張り周囲を見渡すシャヤールに、老婆は独り言のような言葉を零した。
「今日は一段と奴隷が多いだろう?」
「……おや、あなたも気付いていたのか。バザールの様子が少し変だ。なにかあったのか?」
「なにもありゃしないよ。ただね、ラマハンからの客人がちいと厄介なお方でね……」
「それはディダーリという男ではないか?」
「お兄さんも知っていたのかい。あの男は人間じゃない。悪魔だ。皆の見えるところで奴隷を家畜扱いして、折檻という名の暴力を奮うんだからね……。でも誰も助けることなんてできやしないんだ。奴隷に手を出すのはご法度だからねえ、悲しい世の中だよ」
 しゃり、と果実を噛んで飲み込む。考えさせられる老婆の言葉に、シャヤールは黙り込んだ。
 シャヤールとて奴隷制度は反対だ。世間からいえば皆がそういった意見になるだろう。だがならざるを得ない状況が存在しているのも確かで、必要悪という言葉は悪いが必ずしも駄目だと断言できる定義もない。
 要するに問題は扱い方だ。ああいった扱いではなければ給仕のものと変わりないと考えている。人権がない時点でその差は歴然としているのかもしれないけれど。
(難しいな。ラマハン国のことじゃ俺はどうすることもできないし)
 果実を最後まで食べたシャヤールは美味であったと老婆に礼を言うと、背を向けた。
「なんとかなれば良いのだがな……。恩に切る。またあなたのところで果実を買わせていただきたいから、それまで頑張って商売を続けてくれ」
 にこやかに頭を垂れた老婆に見送られ、シャヤールは観察するようにバザールを練り歩いた。
 シャヤールが気付いたように、老婆が言っていたように、やはり奴隷の姿が目に余る。痩せさらばえて服なのかも判別し難い布で身体を申し訳程度に隠し、生気の抜け落ちた表情でただ歩く。目につくのは手と足を拘束している鎖。ラマハン国のものなのかディダーリ本人のものなのか、難解な模様が刻まれていた。
 しかしこれだけの奴隷がいるというのにも関わらずディダーリ本人が見当たらない。あの男のことだ、どこかで偉そうにのさばっていると考えたのだがもしかするとホテルに腰を据えて奴隷だけを動かしているのかもしれない。
 奴隷というのは散々痛みと恐怖で逃げることがないように洗脳された人でもある。故に逃げ出せる環境にあっても逃げ出そうとしない。仮に逃げたとしても奴隷の証でもある鎖をつけたままじゃ誰も手を差し伸べてはくれない。
 悲しいがこれが現実だ。奴隷を匿えば、匿った方にも処罰が下る。それはマハルーン国でも例外ではない。
 シャヤールは気分の優れなさに気付くと今日はもうバザールを後にしようと決心した。ざわつく表通りを抜ける裏道へと足を踏み入れ、こっそりと姿を眩ましたのである。

 高い建物が連なる所為か、ここの路地はどうも影が多い。鬱蒼とした雰囲気が立ち込めていた。文官長や大臣から口酸っぱく人通りのない場所は危険だから入るなと言われているものの近道なのだから仕様がない。
 それに武術の心得もある。そうそう襲われてやられるような弱い鍛え方はしていなかった。
 少し広くなっている十字路に差しかかると、中央にある小さな噴水に腰かけて水面を見つめる不思議な少女のような青年と出会った。向こうはシャヤールの存在に気付いていないのか振り向く気配はない。
 シャヤールは思わずその神秘的な情景に動きを止めて魅入ってしまった。
(摩訶不思議な光景だな、これは……。イフリートの化身でも現われたのだろうか)
 女を匂わすような豪華な踊り子の衣装を身に纏った身体は青年のもので、未発達さが窺えはするもののするりとしなやかに伸びた手足は細いだけでなく色香を湛えている。褐色の肌に合う白銀の髪、伏せられた瞳は黄金に輝いて、顔立ちは愛らしくだけどどこか男らしくもある。
 まるで彫刻のような存在だ。精霊の使いといわれても頷いてしまうだろう。それほど不思議な空気をその青年はもっていた。
 男の踊り子だろうか。珍しくはあるもののいない訳ではない。シャヤールは全身に視線を送ってから漸く足元を縛る鎖に気付いた。あの印は先ほどまで見ていた、恐らくディダーリの所有物でもあるという証である。彼は奴隷だったのか。
 しかし奴隷の癖にといっては失礼だがあそこまで綺麗にしてもらっているのも珍しい。なにか裏があるのだろうか。美しいだけが理由ではなさそうだ。
(しかし動いてしまうのが忍びないほどの美貌だな。是非にも顔を拝見したいものだ)
 愛でたいというよりは、シャヤールには興味が先立つ。元よりイフリートやジンなどといった類のお伽噺に似た精霊の存在が大好きだった。シャヤールは未だ出会うことができずにいるが、死ぬまでにはイフリートやジンたち精霊をこの目で見たいと思っている。
 彼は人間だと理解していても、心のどこかでイフリートの使いではないのだろうかという馬鹿な発想を止めることができないのだ。
 かの有名な精霊イフリートも彼のような容姿をしているという。炎に包まれた体はさぞかし美しいのであろう。流石にじろじろと見過ぎたのか、青年は漸くシャヤールの視線に気付いた。
「っ、……!?」
 びくり、と身体が震えるのが遠目でもわかった。対人することに恐怖が募るのか、足を一歩下げると逃げるように後ずさる。シャヤールは惜しいと思って、一歩を踏み出してしまった。
 それがきっと青年の恐怖を倍増させたのだろう。急な展開についていくことができなかったのか、青年は足を縺れさせると後ろに引っくり返るように転がってしまった。
「ああ、大丈夫か。なにそんな怯えるな。怪しいものじゃない、と言っても信じられないだろうけどな」
 顔を半分も隠した身分も知らない男を見て青年が怯えるのも無理はない。街人ならまだしも彼は奴隷だ。手酷く扱われることに一際恐怖を置いている。
 声を和らげて青年の手をとり、起き上がらせてやった。間近で見た顔は予想よりも美しく、作りものめいたものを感じさせる。十代後半から二十を過ぎた頃合ぐらいか。なににしろ若い。
 シャヤールは困った風にこちらを見上げる青年の両手に触れて、彼は生きている人間なのだと理解した。どこかで精霊だったらという妄想が過ぎたようだ。
「お前はディダーリのところの子か。姿から察するに側に仕えているんだろう? こんなところにいても大丈夫なのか」
「どうしてそれを」
「少しディダーリと面識があって。安心しなさい。俺はお前に危害は加えないよ。ただ物珍しさからね、君の容姿があまりにもイフリートを彷彿とさせたから興味を惹かれただけだ。名を聞いても?」
「……ラミア、ラミアです」
「名まで女の子のようだな。踊り子でもしているのか?」
「……男ですよ。そんな幼くもないです」
 あまりに幼い子を、しかも女性にするような態度で接していたのがばれたのか。彼、ラミアは些か不機嫌そうにそう言った。
「ああ、すまないな。つい……わかってはいたんだが、どう扱って良いのかわからなくてな。男の踊り子は滅多にいないだろう?」
「そうなのですか? 我が民族では珍しくありません。……もう戻ることもないでしょうけれど。……あの、それで、手を離していただけますか?」
 ラミアは未だシャヤールに拘束されている両手首を見てそう言った。シャヤールは慌てて手を離すともう一度謝罪を述べた。
 やはりラミアはディダーリの奴隷の中でも特別な存在なのだろう。手首にあるべきはずの錠がない。拘束具は足にしかないということは、ある程度の自由をラミアには与えているということになる。
 しかしディダーリも物好きが過ぎる。飽くまで憶測でしかないが小奇麗に着飾った少女ともつかぬ青年を側に置くとは、下世話な勘ぐりでしかないが用途が一つしか浮かばない。
 ラミアは成人しているといったが、成長が足りていないのかあまりにも貧弱な体躯だ。ディダーリの相手を継続してするのは大変だろうに、とまで考えてシャヤールはディダーリに纏わる卑劣な話を思い出した。
(そういえばディダーリは年端もいかぬ幼子を陵辱しては殺す趣味をもっていたな……そうなるとラミアはもっと他に……?)
 シャヤールは険しい表情になると、状況を理解してないだろうラミアをまるで穴が開くほどにじっと観察した。睨んでいるように見えたのか、ラミアの身体が小さく竦む。シャヤールはふっと格好を崩して笑みを浮かべると、腰を折って謝罪を口にした。
「度々すまない。少し嫌な思いをさせたな」
「い、いえ。それよりあなたの名を聞いていません」
「俺の名か? そうだな、名乗るほどのものじゃない商人とでも言っておこうか」
「……酷い、俺には言わせたのに」
 ふくり、とラミアは頬を膨らますとそっぽを向いた。奴隷にしては態度が軟化で人懐こい。雰囲気や言動、立ち振る舞いから察するに奴隷にされて日が浅いということだろう。
 なんらかの原因でディダーリの元で奴隷として働き、苦行には至らない程度になにかを強いられている。シャヤールはその秘密が知りたい。けれど今は知るべきではない。きっと機会はやってくる。
 シャヤールは拗ねてこちらを見ようとしないラミアの手をとると、顔を近付けて内緒話をするかのように囁いた。
「代わりにこの顔の布をとって見せてあげよう。いずれまた会う日に、俺とわからないのであれば困るからな。そのときにでも名乗らせてくれ。だから今は我慢してくれるか?」
 王と名乗る訳にはいかない。相手の素性がわからない内は、明かしてはならない秘密なのだ。
 だけど少しぐらいラミアとの接点を保ちたくてシャヤールはそう言った。ラミアは瞠目してみせると喜色を滲ませて頷いた。
 顔を覆っていた布をゆっくりと剥がす。ラミアが唾を飲み込んで、真剣に食い入るように向ける視線が妙に擽ったい。手品を見守る子供のような愛らしさだ。
 建物に囲まれて、世から隠されたかのような路地裏でシャヤールは素顔になった。にっこりと微笑んでやればラミアの頬が赤く染まって見えた。
「たいしたものじゃないだろうけれど、俺の顔を覚えておいてくれ」
「あ、……あなたこそ……そんな顔をしていたなんて」
「そんなに酷い顔をしているつもりはないんだけどな。ああ、見惚れてしまったのか」
「そんなことはありません! ……でも、とても、……」
「ラミア、忘れないで覚えてくれよ。こんな顔をした商人とここで会ったことを」
 そう言ってシャヤールは再び顔を布で覆い隠すと、ラミアの肩を軽く叩いて横を通り過ぎた。長居は無用だ。本音のところではもう少しこの不思議な青年と言葉を酌み交わし時間を共有することを望むが、シャヤールは宮殿に戻らなければいけない。
 残念そうに振り返る気配がする。シャヤールは気付かないふりをして、細い路地裏へと再び足を踏み入れセーレ宮殿へと急ぎ戻った。
 執務室に缶詰になって働くことに耐え得る楽しみがひとつ、増えた。きっとまた会える気がする。それは予感ではなく確信であった。

 薄汚れた格好で正門に姿を現したシャヤールに、門番始め武官や警備官などは大層呆れたそう。いつものこととわかっていながらも我が王の破天荒な部分にはほとほと驚かされるばかり。
 今更顔の布をとらなくても王とわかってしまう辺り、シャヤールの常習犯さが窺える。
 連絡を受けて文字通り素っ飛んで正門まで迎えにきた文官長は、苦笑いを零しているシャヤールにでっかい雷を落としたのであった。
「それで? 王よ、勝手に抜け出した責任はとってもらえるのでしょうか」
「まあそうかりかりするな。シャバードをきちんと置いてきただろう? あいつもたまには政務もしてもらわねばな」
「確かにシャバード様のお陰で政務は滞ることがなかったというのも事実ですが、最終決定は王にあるということをお忘れなく」
 矢継ぎ早に素気無く言われる言葉に、シャバードは居心地悪そうに視線を落とすと小さく謝罪を述べた。王という立場にありながら今日は何度謝罪を口にしたのか。
 そう思って噴水の前で出会ったラミアの姿が頭をふと過ぎった。
(あの子は……文官長なら知っているだろうか)
 机に積み上げられた書類を手にとってから、監視するようにシャヤールを見ている文官長に目を向けた。
「ところでお前はディダーリの宝物の話を知っているか?」
「宝物? ディダーリといえばラマハン国の領主のことでしょうか」
「ああ、つい先日シャバードから話を聞いてな、なんでもディダーリには一風変わった男の宝物がいるらしい。あのディダーリが重宝して手放そうとしないそうなんだ」
「……聞いたことがあるような気もしますね。確か、ええ、そうです。知っています、そのお話」
 文官長は記憶を辿るかのように渋い表情をして見せると、ああ、と手を叩いた。思い当たる節があったらしい。どうやらシャヤールが思っている以上にこの話は有名なようだ。
 最もシャバードが聞かせてくれたように詳細なことは知りもしないだろうが、それでも耳にしたことがある程度にはラマハン国で有名になっているのか、それともこのマハルーン国にも届いているのか。
 それがなにか、と言った風にこちらを見る文官長にシャヤールは秘密を打ち明けるかのような声音で言った。
「それがな、つい先ほどその宝物に会ったぞ。きっとあれはディダーリの宝物だろう。確かめてはいないがな」
「王よ……あなたはまた勝手な行動を……!」
「心配するな。身分は明かしていない。ついでに名もだ。用心には用心を重ねて、だろう?」
「……わかっているのなら良いのです」
 顔は晒したけれど、とは言わない方が賢明だろう。シャヤールは手つかずの書類にインクを滲ませると、白銀の髪を靡かせていたラミアに思いを馳せた。
 ディダーリの宝物だというからどんな作りものめいたものかと思っていれば、現実は普通の青年だった。見目と雰囲気こそ神秘的で麗しいものの、口を開けば歳相応の男ではないか。奴隷になる前はさぞかし自国で伸び伸びとした生活を送っていたのだろう。
 シャバードに聞いたお伽噺を思い返す。あの話が本当ならばきっとまたラミアと会える。そういう運命の導きにある。シャヤールは心を躍らせると鼻歌を口ずさんで政務に勤しんだ。
 午後のあたたかな光が石造りの部屋に差し込んで、柔らかな空気を作った。