千夜一恋 11
 それから幾ばくかの日が経った。数日でラマハンの国家情勢が良くなるはずもなく、物事だけは進んでいるものの実現するのは遠い未来の話だ。今は国の建て直しに奮闘している最中である。
 マハルーン国があまり手出しするのも良くない、という理由で手を引いてからというものの、政務の量も通常通りへと戻りつつあった。しかしラマハン国王崩御の知らせで増えた仕事を処理することに手一杯だったため、今は滞っていた政務を処理することに追われ本来の仕事は未だ手付かずだといっても過言ではない。
 シャヤールは右に左にと騒ぎ立てる文官と武官の言い合いを他所に、新しい仕事をもってきた文官長に視線をやった。
「一体なんですかこれは……騒々しい」
「どっちがより優れているかという口論が発展したとでも言っておこうか。……で、どうした」
「くだらないですね。王、例の件でお話があるのですが歩きながらでもよろしいですか?」
「ああ、そうだな。そろそろ会ってもよかろう」
 窓の外を一瞥してシャヤールは席から立った。仮にもセーレ宮殿の国王だというのに、シャヤールが執務室を出ようとしても文官と武官は互いを罵りあうことに精を出して気付きもしない。なんだかな、と笑みを零してシャヤールは文官長と二人肩を並べて廊下に出た。
 太陽は未だ真上を過ぎってもいない。ぎらぎら肌を焦がす日差しは街を照らし、温度を高めていく。
 涼しげな文官長の隣、無駄に豪勢な衣服の袖を捲くるとシャヤールは文官長の手に握られている紙面へと目を落とした。
「ディダーリのしたことは許されませんが、幸いにも財産をたくさん蓄えたまま自害しましたからね。元より身内もいないとなれば、こうする方法しかなかったのでしょう」
「良いことではないか。まるで義賊のようではあるがな」
 豆粒のような墨が這って伝えているのは、ディダーリの財宝の行方のことだった。ラマハン預かりのディダーリであった故に、財宝の管理もラマハンが行なうことになった。マハルーンといえば事務的な手続きを手伝っただけ。
 有り余る財宝はすべてラマハンの復興資金に宛がわれた。無理に繋がれていた奴隷も解放し、今は復興手伝いという名目で仕事を与えられている。社会復帰は遠いかもしれないが、確実に新たな道へ歩み始めた。
 いろいろと多く謎は残るものの、物語というものは本来謎だらけだ。知らない方が良い場合もあるということだろう、きっと。
 シャヤールはディダーリのアジトを整理してきたときのことを思い浮かべると、ああ、と手を打った。
「ラミアの様子はどうだ?」
 勿体ぶった言い方に、文官長は眉間に皺を寄せる。最初からそれが目的のくせに、といわんばかりだ。
「王よ、気になるのなら会いに行けば良いでしょうに。もとよりその予定だったのでしょう?」
「いやまあそうなのだが、心の準備ぐらいはしておきたいというか……」
「王の想像通りですよ。女官が愚痴を言うくらいには暴れんぼうと言いますか、まあ軟禁しているのでそうなりましょうね」
「軟禁とは物騒な言い方だな。保護と言ってくれ」
「そろそろ会いに行かれては? 相手をするのも大変なのですから」
「……だから、今から行こうとだな」
 はあ、と溜め息が響いて二人は足を止めた。痛い視線に射抜かれてシャヤールはそっぽを向く。いろいろ事情があったといえども、文官長には通用もしまい。
 千一夜だといってラミアを抱いた翌日、ラマハン国王崩御という大ニュースにシャヤールはすっかりとラミアの存在を忘れてしまった。夜明けまでしつこく抱いて疲弊させたのは理由があってのことだったのだが、まさかあのようなことになるとは想像にもなかった。
 シャヤールはラミアをディダーリのもとへ返す気がなかった。というよりディダーリに罪状を突きつける予定だったために、暫く大人しくしてもらおうと思っていただけなのだ。それがあの結果になる訳だが。
 ラミアの存在を思い出したのは夜が更けてから。今更なんと伝えれば良いのかもわからずに、シャヤールはことが治まるまでラミアの世話を文官長に押しつけた。真正面切ってディダーリが死んだとは言えなかった。
 それにシャヤールにはラミアに会うまでにどうしてもやっておかねばならないことがあったのだ。
 先日ついにやっとそれを終えることができた。理由としては些か弱いものの、これで胸を張ってラミアと顔を合わせることができる。部屋から出してやることができる。自由を与えてやれるのだ。
 足枷を切ってしまおうと、思っている。
(……お前は俺をどういう風に、……なんて馬鹿らしい)
 手酷く抱いた上に事情すら話さず、部下のものにまかせっきりで、挙句の果てに軟禁だ。きっと怒っているのだろう。仮にもイフリートの末裔をそのような扱いとは恐れ多い話だが。
 しかし神に近いといわれていても、シャヤールからしてみれば一人の青年にしか過ぎない。幸福を呼ぼうが不幸を招こうが、ただ幸せになってくれれば良いと願うばかり。
 懐に忍ばせておいた金属片をゆるりと指先でなぞると文官長と道を別れ、ラミアを保護している一室へと向かった。シャヤールとラミアがいつも会っていた部屋。客室用の、閨である。
 ラミアは千一夜から時を止まらせて、ずっとそこでシャヤールを待っていた。

 平然を装ってみても心臓までは誤魔化されない。嫌な速さでシャヤールを急かすと、ドアノブの鍵を指先で弄った。細長いそれを鍵穴に入れて右へと回せば開錠する。
 カチリという音がして、扉が自由を得た。シャヤールはそのまま中へと入ると、ソファの上で不貞腐れたように寝そべるラミアを瞳に止めた。
「随分な格好だな、ラミア」
 ぞんざいに言ってやれば、黄金の瞳が素早くシャヤールを射抜く。怒りと悲しみを湛えた色はなにを訴えるのか。素早く身体を起こすと腕を上げてシャヤールを指した。
「シャヤール王! これは一体どういうことなんです!?」
「まあそういきり立つな。……話は聞いているんだろう? 少しごたついてな。タイミングを逃してしまったのだ」
「ディダーリ様の訃報の知らせですか? ラマハン国王も崩御したとか……さぞかし大変だったのでしょうね。ですがそれとこれとは別です。俺の身柄を拘束する理由にはならないんじゃないですか」
「だから言っただろう。いろいろあったのだ。お前を両手離しで解放してやれるほど、お前に用がなかった訳でもないからな」
 どこか風当たりが冷たい。それもそうか。拒絶の色を滲ませた視線に煽られながら、シャヤールはラミアの向かいに置かれてある一人がけのソファへ腰をおろした。
 現在この閨にはラミアとシャヤールしかいない。秘めた話をするのにはうってつけのシチュエーションでもある。
「お前が話さなかったことは、ディダーリにすべて聞いた。お前がイフリートの末裔であることも。……そうなれば人ではなくなるな。不死鳥とはよく言ったもんだ。千分の一の力といえどそれほどのものだというのなら、イフリートそのものはさぞかし美しく強く、畏怖であったのだろう」
 ラミアの表情が強張る。シャヤールに伸ばされていた指先が震えて、勢いをなくしたかのように引っ込められていった。
 愚かな思考だ。例えラミアの存在がなんであろうとも、触れただけではシャヤールは死にはしない。あの夜、それ以上のことをしたではないか。この両腕で掻き抱いたことすら忘れたというのか。
 シャヤールはラミアをそのままに、話を続けた。
「しかしそれでは解せぬ。何故それほどの力を保持するお前が、大人しくディダーリのもとで従っていたのだ? ……即ち従わざるをえないなにかを、握られていたのではないか?」
「……王様、それは」
「なに、誘導尋問している訳ではない。もうわかりきったことだ。少し聞いてみたくてね、お前がどんな反応をするのか」
「本当に人が悪いのですね。あなたのような意地悪な人は初めてです」
「優しいと言ってほしいね。……ラミア、お前はこれがあったからディダーリから離れられなかったのだろう。これをずっと探していたのではないか?」
 懐に入れておいた金属片を取り出す。黄金に輝いて湾曲を描くそれは、変哲のないランプであった。複雑な彫り模様が幾重にも重なり、中心に大きな紅玉が埋め込まれてあるそれは人ならざる力を秘めているといわれても思わず納得してしまいそうなほどの代物だ。
 深い深い赤が見るものの瞳にとり憑いて精力を奪いとっていく、そんな気すらする。
 ラミアはランプを目に止めると、これ以上ないというくらいに瞳孔を開いた。手渡すように差し出してやれば、何度もシャヤールとランプを往復して見る仕草を繰り返す。
「どうした、これを探していたんじゃなかったのか」
「シャ、ヤール王……これを、どこで……」
「ディダーリの荷物を整理していたらね、ころりと出てきたんだそうだ。他のものとあまりにも質が違うってことでマハルーン国預かりになった、所謂曰くつきの品というやつだ。もしかしたらと思ったんだが正解だったようだな」
「……お、俺に返してくれるんですか?」
「もとより俺のものでもないからな。お前のものだというのなら持っていくが良いさ」
 頼りなくも震えている指先が、ラミアのか細い指先が、ランプに触れる。共鳴を帯びたように妖しく光ると、手にしっくりと馴染むようにしてラミアの両手へと収まった。
 きらきらと、初めて宝石を見たこどもが虜になるような瞳でラミアはそれを見つめている。シャヤールはほっと胸を撫でおろすと、違和感のなくなった手を握り込んだ。
「一族の秘宝だったのか?」
「……そのようなものです。言い伝えによれば、イフリートはもともとランプに住まう精霊だったとか。不思議なことにこのなんの変哲もないランプを擦ると、イフリートが現れてなんでも願いを叶えてくれるのです。それが幸福を呼ぶ始まり」
「へえ、聞いたことのない話だな。面白い」
「しかし幸福には限度があります。イフリートが願いを叶えてくれるのは三回のみ。この世のすべてを掌握できるほどの魔力をもって、イフリートは主人の要望に答えます。そうしてその三回目の願いを叶え終わると、お役目ご免といわんばかりにランプへと戻ってしまうのです。願いを叶えた主人の魂を食らって。……それが不幸を呼ぶ終わり」
「物事は対価を得てこそという教訓なのだな。ではラミアは願いを叶えるとそのランプに帰ってしまうのか?」
 長い睫が上下にぱさぱさと揺れる。一瞬だけ惚けてみせたラミアはやっと今日始めての笑みを零すと、ランプを抱えて首を振った。
「ご冗談を。あくまで言い伝えです。それにこれは一族が大事にもっていた宝物なのです。一族亡き後、俺にとっては形見のようなもの……ランプの精霊を呼べなくとも、価値ある一品なのですよ」
 静かに幕をおろした物語と同じように、ラミアの行く末も先を示し終えたのか。シャヤールは立ち上がるとラミアの前に移動して膝を折った。一国の王の姿としては些かいただけない格好でもある。
「さて、これでお前への用事もなくなった訳だ。ラミア、窮屈な思いをさせたな。お前と話をする時間がほしいがためにここへ閉じ込めておいたものの、それもそろそろ限界か……まあもとよりお前は俺の所有物ではないのだからな」
「……王様?」
「お前の足枷を切ってやろう。自由を手に入れられる術を与えてやる。ラミア、なににも縛られることなどもうないのだ」
 褐色の足先に両手で触れた。未だラミアの両足に繋がる鎖は、故人となったディダーリの印ともいえるべきものだ。シャヤールは無駄に豪勢な作りになっている足枷に触れると、忍ばせておいた鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。
(少し話を盛り過ぎたか? いやいや余興も必要だろう)
 本当のことを話せば呆気ない。鍵を作っていた期間を要していただけに過ぎない。だがそれではあまりにも滑稽だ。終わりをみせるのなら、美しくありたい。
 シャヤールの手によって開かされた鍵は、ラミアへ自由を与えるもの。
 ごとり、と重鎮な音が響いた。ラミアの両足に繋がれていた足枷が外れて、晴れて自由の身となる。もうラミアを縛るものはなにもない。
「さあ、行くが良い。お前の好きなところへ」
 本音をひた隠しに、シャヤールはゆっくりと立ち上がった。どこへだって飛び立てる自由の翼をもったラミアと違い、シャヤールは王という足枷に繋がれている。所詮はどう足掻いても、飛び立つ翼すらもたないのだ。
 すべてを投げ出すのは簡単だろう。マハルーン国を見捨ててどこか遠くへ行けば、シャヤールは晴れて自由となる。
 だがしかしそれを望んでいるかと問われれば、答えは否。シャヤールは望んでこの足枷を装着している。ディダーリによって無理に繋がれていたラミアとは話が違うのだ。
 ラミアは覚束ない足取りで一歩を踏み出した。絨毯を素足で蹴って、軽やかにステップを踏むように歩き始める。信じられないのだろう、その姿はまるで精霊そのものでシャヤールは暫し見惚れた。
 振り向いて、立ち止まる。ラミアはドアノブに近付いたもののそれに触れようとはせず、シャヤールを真っ直ぐと見据えた。
「シャヤール王、あなたにずっと聞きたかったことがあるのです」
「……なんだい」
「あなたの夢とはいったいなんでしょうか。地位も名誉も、財産も宝石も、望めば世界一の美女だって手に入れることができます。あなたはこれ以上のなにを望むというのですか」
「不躾な言い方だな。しかし悪くはない質問だ。教えてやろう、ラミア……俺がほしいものは……」
 自由、とは違う。足、でもない。きっと。
「物語の主人公、かな。自由気侭な旅だ。世界中のありとあらゆるものを見て、触れて、冒険する。世界の知恵に関わりたいとでも言っておこうか」
「……物語の主人公?」
「ああ、誰からも愛される主人公、だが誰も愛さない。だから俺はハレムをもたないんだよ、ラミア。誰かに愛を注いでしまえばここから動けなくなるだろう?」
「ご冗談を。あなたは誰も愛さないと、そうおっしゃるのですか?」
 高笑いするようにラミアが笑って、シャヤールのもとへと駆け寄った。微動にしない肩に指先を伸ばして、縋るように身を寄せる。
「シャヤール王、ならば俺の夢も聞いてください。たった今決まったのです。俺をあなたの足枷にしてくださいませんか?」
「足枷……?」
「あなたが旅になど行けないよう、あなたがどこにも行かないよう、ここに縛る足枷です。見ることができて、触れることができる、あなただけの足枷」
 かたかたと、指先が震えている。ラミアにしては捻った物言いを思いついた方だ。いやいやこう見えてシャヤールより博識であるからして、このような手合いは慣れているのかもしれない。
 ほんのりと薄紅に染まる頬と、頼りなく震える肩、怯えをみせて迷う瞳は見なかったことにしておこうか。
 シャヤールはラミアの細い両肩を抱き寄せると、小さく馬鹿だなと呟いた。せっかくどこへでも羽ばたける翼と、どこへだって駆け出せる足を与えたというのに、再び鎖に繋がれようというのか。
(ラミア、お前は酔狂な男だ。……いや、それは俺のことか?)
 ラミアの頬に指先を滑らせる。意図に気付いたのか少し顔を傾けたラミアは嬉しそうに頬を摺り寄せると、薄く色づいた唇で誘ってみせた。色事には長けていないくせに、無理ばかりする。
 そんな甘い手に引っかかるシャヤールも大概だ。両頬を掴んで引き寄せた。柔らかな唇に唇を落として、何度目かの口づけを。なにに誓いを立てる触れ合いなのか、それすら知らぬままただ言葉を交わすような口づけをした。
 幸福など与えられなくともこの手に手繰り寄せてみせる。不幸が降りかかろうとお呼びでないと一蹴してやろう。美しい声音で紡がれる歌が死への誘いだというのなら、共に声を合わせて楽園への導きにしてみるのも悪くはない。
 所詮は迷信でしかない。シャヤールが信じるものは、この手に抱く存在だけ。
 いつの日か見せてやろう。イフリートの力になど頼らなくとも、この世の幸福を手にすることができるということを。
 千と一を越えた夜の先にあるのは、お伽噺にもなかった物語の続き。白紙のページに文字が綴られていく。一国の王と奴隷が落ちた恋でも、人間と精霊が落ちた恋でもない。シャヤールとラミアが、惹かれあったどこにでもある有り触れた恋なのだ。
(誰も知らない、知ることのない物語が)
 千夜一夜の恋物語なのである。