ラマハン国の現王が崩御した。太陽が昇り始めて直ぐのことだろうか、ラマハンに潜入していたシャバードから届いた急報であった。
静かだったマハルーン国もその知らせが届くやいなや、セーレ宮殿を筆頭に飛び火するようにしてざわめきが広がっていった。悪政を敷いていたといえども隣国のことなのだ、遠い異国の話ではない。間近にある恐怖に皆が慄いた。
飛び火するかもしれない、いやいや難民が自国に押し寄せ治安が悪くなるかも。憶測もない噂が飛び交い、セーレ宮殿に究明を求める国民が殺到し始めた頃合になって漸くシャヤールは緊急会議を開いた。
なんとも呆気ない話ではあるが、ラマハン国の現王は一番信頼を置いていた腹心に睡眠時を狙われ殺されたとのことだった。
ラマハン国では今にも国民による暴動が始まるか、シャバードが集めた王に逆らう意をもっているものによる反旗を翻すのが先かと不謹慎ながら賭けていた。しかし事態は横槍によって想像すらしていなかった展開になってしまった。
誰が腹心に王が殺されるなどと予測できようか。しかも注目すらしていなかった、内部犯行だ。
他国の政治に口出しをすることは基本推奨されたことではないのだがことがことである。第一王子は身体が弱く、王女は存在もしていない。王位を継げるのは聡明な第二王子くらいで、だけど散々悪政を敷いてきたという事実がある手前ラマハン王国の血筋から選ぶのかと、反感を買いかねない。
幸い裕福で難民の受け入れもしているマハルーン国の、賢王として名高いシャヤール王が口添えをして推挙したならば多少は難も逃れよう。政治的な問題はシャバードと手を組んでいるものに任せ、内部の癌を吐き出すのにも丁度良いタイミングかもしれない。
些か想定していた展開とは大幅に食い違ってしまったが、終わり良ければ全て良し。シャヤールは次々と新たな情報を手にして目を通すと声を張った。
「シャバードに急報を届けよ! 暫くラマハンに留まって、マハルーン国とのパイプ役になってくれと。詳細は時を追って連絡する。今はラマハンの情報をなるべく正確に届けてほしいと、な」
「畏まりました。それで王よ、我がセーレ宮殿に押し寄せている国民へはなんと説明すればよろしいのでしょうか」
「こちらでも手を尽くすことはやっている、と。そうだな……今までとなんら変わりのない生活を送れるとでも言っておいてくれ。シャバードが向こうに滞在しているのでなにも心配すべきこともないとな」
「王、ラマハンの国民がマハルーンに亡命する恐れが……」
「一時ラマハンからの受け入れは拒否する。関所の警備を強固してくれ。人手が足りないようなら盗賊隊からまわしてもらっても構わん」
「それで納得するでしょうか。反乱が起きぬか心配です」
「現在ラマハンは大変かもしれないがこれから新たな王を建て、国として大きな改革を起こし成長するだろう。それには国の宝である国民も必要だ。頭が冷えれば自分がなにをすべきなのかわかるだろう。マハルーン国からも金銭援助をする。条約だからな」
矢継ぎ早に飛んでくる質問や疑問、不安に顔色一つ変えずすぱりと答えていき、悩む素振りすら見せない堂々たるシャヤール王としての振る舞いに、どこか不安定だったマハルーン国の政務官たちも次第に落ち着きを取り戻し、やるべきことに真っ直ぐと取りかかった。
一際腕を奮って指揮をしているのが文官長だ。ここ最近大きな仕事もなかったのでこれ幸いとばかりに手腕を発揮している。シャヤールとしては頼もしい限りだ。
(しかしシャバードと文官長と俺との三人で企てた計画が水の泡だな……あんなに緻密に練ったというのに呆気ないものだ)
如何にして王位から引き摺り落とすかと、幾夜も語り合って悩んで議論を繰り広げて出した作戦も、殺害という事実の前ではなかったことにすらなってしまう。
国民としては王が挿げ代わり、国として寄り良い方向へと進んでいくのだから文句はないのだろうけれど。
これからはマハルーン国も忙しくなる。一応はラマハン国とマハルーン国は敵意の関係ではない。若い新王故にわからぬところや至らないところ、たくさんあるだろう。それに金銭的な面でも苦しいはずだ。
マハルーン国としてはなにをしてあげられるのか、なにを手伝ってやるべきなのか、どういう風に建て直しを図れば良いのか、腕の見せどころである。
奴隷産業とやらもなくなり、悪政に苦しむ国民もいなくなる。ラマハン国が良き道を歩み始めるのも遠くはない未来だろう。
シャヤールは避けておいた急報を引き寄せるとぱらぱらと中身を見て唇を舐めた。文官長のいうところの悪そうな顔である。シャヤールは最後まで一文字残らず目を通すと、紙を伏せた。
「国として破綻しかけているラマハン国に代わって、マハルーン国シャヤール王の命により指令を出す。マハルーン国に滞在しているディダーリを拘束せよ! 国内から決して出してはならん」
指先がなぞったのは、ラマハン国から届いたディダーリの捕縛の許可証。悪事を働いてきたディダーリに罰を与えられることが許された、一枚の書状であった。
(ディダーリ、残念だったな。俺の勝ちだ)
呆気ない終幕であった。ディダーリは逃げも隠れもせずに、マハルーン国滞在中に利用していたホテルにいた。武官たちが念を押して慎重に室内に入っても、顔色一つ変えずに大人しく縄に繋がれたという。覚悟を決めていたのか、もしくはこうなることを予測していたのか。
ディダーリ捕縛の連絡は太陽も真上へと昇りきった真昼時に、休憩もとれず執務間に缶詰になっている文官たちの下へ届けられた。シャヤールといえば慌てて駆けつけたラマハン国を取り囲む各国の王の代人と顔を合わせ、今後の国としての対処の仕方について議論していた。
取り敢えずは諸々への連絡も済ませ、新たな情報にも目ぼしいものがなくなった。各国との話し合いも一時で終わるようなものではなく暫くの期間を有するだろう。それほど周りに大きな影響を与えた崩御の知らせではあるものの、皆が心の奥底で望んでいたことなのか、思っていたよりはスムーズにことが進んでいる。
ラマハンにいるシャバードは身を粉にして奮闘しているのであろうが、ここにいれば状況もあまり呑み込めない。いずれは足を運ばなければいけないものの、今でなくても大丈夫だろう。
シャヤールは物事に全ての一括りをつけると、長嘆を吐ききって一時休憩の声を出した。
「皆休めるときに休んでくれ。俺は少し地下牢の方へ出向く。急用があればそちらの方まで頼んだぞ」
行く先を案内する文官長と共に執務室を出たシャヤールは、ディダーリが拘置されているセーレ宮殿の地下牢へと足を向けた。
ラマハン国の内情がごったとしてあまりまともな機能を果たしていないため、罪状が決まるまでディダーリの身柄はセーレ宮殿預かりとなっていた。最もくだされる刑といえば死罪か島流し、永久禁固になるのだろう。
薄暗い石畳の階段をカツカツと音を響かせおりていく。地上はじりじりと暑いというのに、ここはどこか薄ら寒くもある。シャヤールは文官長がもつ松明の火を頼りに、壁に手をついて歩いた。
「ディダーリはどうして逃げなかったのでしょうか……。ディダーリのもとにも崩御の知らせは入ったでしょうに。あの狡賢さを使えば、マハルーン国から出ることなど造作もないように思います」
「さあな。俺にはわかりかねる、罪人の心境など」
「……それもそうですね」
「ただ言うなれば、誰かに罰してほしかったのかもしれない。と思うのは些か都合が良過ぎるだろうか」
「シャヤール王も人が悪い。気違ったディダーリの考えなど、私たちには到底わかりかねないなにかでできているのでしょう。考えるだけ無駄かもしれませんね」
「そうかもしれないな。……文官長、同行はここまでにしよう。ここから先は俺一人に行かせてくれないか」
松明を握る文官長の手を掴んだ。迷いが生じた瞳がぐるりと回旋し、思案するように首を傾げたものの一度言った言葉をシャヤールが曲げないことは知っている。渋々と溜め息を吐くと、身体をずらしてシャヤールの行く道を空けた。
「仕方ありませんね。私はここで待機しております。なにかあれば叫んでお知らせください」
「案ずるな。牢屋番もいることだ、拘置されているディダーリにはなにもできやしないさ」
ちりちりと松明の火が燃える。シャヤールは少ししかない階段をおりると、突き当たりにある石造りの牢へと向かった。
最奥にある牢は極悪人が入れられるとあってか、脱出不可能と名高いセーレ宮殿が誇る一種の名物にもなっている。暫く使い道がなくがらんどうとしていたのだが、まさかここになって入るものが出てくると誰が思ったのか。
シャヤールは壁に設置されてある蝋が燃やす火を頼りに牢の前へと立った。牢屋番が敬礼するのを横目に、ディダーリだけを真っ直ぐと見据えた。
「随分な格好だな、ディダーリ」
いつか招かれた宴を思い出す。シャヤールの、いやマハルーン国の国庫を狙ってぎらつきをみせていた瞳の面影が今のディダーリには一切感じられない。
痩せ窪んだ目がぎょろりとシャヤールを向く。髭はところどころ白髪が混じっており、頬は煤に汚れたかのように黒くなっていた。まさに憔悴し切っている姿、こんな面構えをしていただろうか。つい先日までは欲望混じりのでっぷりとした笑みを浮かべていたというのに。
口を一文字に結んだまま、ただディダーリは憑き物が落ちたかのような表情でシャヤールを一瞥した。許しを乞うているようで、罪から逃れたいようにも見える。些か気味が悪い。悪態を吐かないディダーリなどシャヤールは居心地の悪さしか感じない。
「……なにも喋る気がないということか」
ジャリ、と靴が地面と擦れる音が響いた。微動にもしない牢屋番の隣にシャヤールはしゃがむと鉄格子に近付いた。牢の奥、鎮座しているディダーリの眉が些か顰められた。
「これを覚えているか? お前が俺に送った文だ」
隙間から投げ入れたそれはディダーリの前に届く前に落ちる。未だ微かに残っていたのか、染み込ませた香がふわりと風に乗って鼻腔に届く。懐かしさを彷彿とさせる香りに表情が緩んだのは、シャヤールだけではなかったようだ。
ディダーリの瞳に色が戻る。たどたどしく伸ばされた指で文を拾い、文字をなぞった。
「南海の地から遙か東の方角にある土地でしか作られていない香だそうだな。あの土地は気候が良く、一年中通して暖かで水にも困らない。いろいろな花が育っているそうじゃないか」
「……知っているとは……」
「母の故郷だ。最もお前にとっては違うだろうがな」
「良く調べたものだ、シャヤール王。感心しましたな」
ふう、と溜まった息を吐いたディダーリは褪せかかっている記憶に想いを馳せていることだろう。なんの因果か、不貞を働いたがために殺されてしまったディダーリの妻とシャヤールの母は同じ故郷の生まれだったらしい。
ディダーリから送られた文から漂った香りに、シャヤールは懐かしさと驚きを覚えたのだ。まさか南海くんだりにまでこの香がやってきたとは到底信じられなかった。気になって調べてみれば、そういう裏があったという訳だ。
シャヤールの記憶に母の姿はあまりない。元より南海の地へきたことにより体調を崩した母は、シャヤールを産むと同時に息を引き取ったのだ。それ故にあの香りはシャヤールにとって、唯一の母の思い出だった。
東の香りひとつという共通点も、南海の地で起こったとなれば珍しい。ディダーリの心になにかが響いたのか、懺悔をするようにぽつりぽつりと言葉を吐いた。
「シャヤール王にはわからんだろう。……妻にもう一度会いたかった私の気持ちなど」
ありえもしない、現実だ。文を握りしめたディダーリはどんな表情をしているのか。
「シャヤール王、ラミアのことを深くは知らぬだろう? あなたも所詮は人の身、最後に教えてやろう」
「ほう、どんな風の吹き回しだ?」
「知らぬままでいるのにはあまりにも惜しい伝説だ。ラミアの一族が不死鳥と呼ばれていることはご存知ですかな?」
「ああ、そのようなことは聞いたが些か解せなくてな。話を聞く分には死神や神と崇められるの方が納得いくものの、不死鳥は蘇る意味合いが強いように思うのだが」
想像上のいきものに過ぎない不死鳥の噂はごまんとある。所謂ポピュラーなイメージでいえば燃え盛る炎に身を投じ、一度死に絶えてから炎を纏った新たな体で蘇ることだろう。何色にも及ぶ羽は炎に包まれ、空を回旋する姿は目にも鮮やかで美しいとかなんとか聞いた覚えがある。
「確かに一般的なイメージで言えばそうでしょうな。しかし、ラミアの一族はただ不思議な力を持ち得た民族という訳ではない。とある理由があって、不思議な力を持ち得ているに過ぎない」
随分と勿体ぶった言い方だ。シャヤールは鉄格子に指をかけると、食い入るように聞き込んだ。文官長が見たら怒りそうな光景だ。ディダーリは身体を鉄格子に寄せ、シャヤールにだけ聞こえるように小さな声のトーンで続きを口にする。
それはまるでラミアから聞かされていたお伽噺の続きのような話だった。千一夜の続きともいえるべき事実だったのだ。
「ラミアはイフリートの末裔なのですよ、シャヤール王。あなたは随分とイフリートやジンがお好きと聞く。その存在は知っているのでしょうな」
「イフリート……だと? 架空上のいきものではないか」
「人に見えざる存在なだけであり、実際には人が生きるようにイフリートも生きている。今となっては存在しているのかすら不明ですがね、遠い遠い昔は人と同じように生きた精霊ともいうべき存在だったのですよ」
現実とは思えない話に、シャヤールは立場も忘れて瞳を輝かせた。かの有名なシャヤール王の童子のような姿にディダーリも悪い気はしなかったのだろう。ラミアが聞かせるような言い方でシャヤールに続きを話してくれた。まるでラミアと過ごした夜の再現でもある。
「遠い昔、男性体を持ったイフリートが人である美しい女に恋に落ちた。しかしイフリートは人ならざる身、業火を纏う体は人を焼き尽くし、魔性なる声は人を死に誘い、生命を食らう気は寿命を奪った。精霊と人、決して相容れぬことができぬ存在。近付くのも禁忌、愛するのも禁忌、だけど感情は止まらずにイフリートは最悪の手段をとってしまった」
人間の男の身体を乗っ取ったイフリートは、恋する女に触れる身体を手に入れたことによる喜びの感情のまま愛を押しつけた。一方的な求愛に女は拒絶し泣き叫ぶものの助けるものもおらず、たった一度の契りで女は身篭ってしまった。それがイフリートと人間の間の子である。
イフリートの強過ぎる力に人間の身体が耐えられる訳もなく、イフリートが人間でいられたのはたったの三日。その三日で愛を成し遂げたイフリートは精霊に戻ると、ただ泣き暮らす女を見つめ続けた。一方的な愛に報いなどなかったが、それでもイフリートは幸せだった。
一度の契りでも、触れることができた。
だが時とは残酷だ。もとより病弱な女は身篭ったことにより更に衰弱していき、望まぬ妊娠や犯されたという事実に精神をも蝕んだ。そしてとうとうイフリートの力が宿った子を産み落としたことによる負担が大き過ぎたのか、子供の命と引き換えに息を引き取ってしまった。
「その事実にイフリートは絶望を垣間見たのです。ああ、なんということをしてしまったのか! 女に触れようとさえしなければ、女は死ななかった! 我が欲望が悲劇を生み落としたのだと!」
愛する女との間にできた子ですら触れることが叶わない。精霊であるイフリートは生命を奪っていくだけ。悲しみに明け暮れたイフリートはいつしか炎を纏わなくなると、女のあとを追うように存在そのものを消してしまったそうな。
「それから悲劇は始まった。その間の子は己の正体など知らず、人として生き、人と結ばれ、人を産んだ。しかしイフリートの力は余りにも強大過ぎた。間の子の子孫は全て特殊な力を持ち得た上、短い命を散らしていく。幸福で不幸である短命種。幸福を呼ぶというのも曲解でしょうな。人ではない血が流れているだけ。それがラミアの一族の出生の秘密という訳になりましょう」
「不死鳥とは」
「炎を身に纏ったイフリートの姿と、何度命を失ってもイフリートの力を失わずに生き続ける一族のしぶとさ、死を招く身、それらからきたのだろう。イフリート本来の力の千分の一にも満たないといえどもラミアが保有する力は尋常ではない。人が触れてはいけない境域で生きている」
「文献を探しても知り得なかった情報なのにお前は随分と詳しいのだな。最初からラミアが目的で一族を根絶やしにしたのか?」
「根絶やしにした盗賊と私は無関係だ、シャヤール王。確かにラミアの一族を捜していたが、殺しはしていない。偶然の産物とでも言っておきましょうかな」
ディダーリがゆっくりと鉄格子から身を離す。髭を触る指先は思った以上に皺が寄っていた。
「シャヤール王、私もあなたと同じ千一夜を体験した一人だ。我が妻が毎夜聞かせてくれましてね、ええ、それはもう聞き馴染みのない話ばかりで私は胸を躍らせたものだ。……それをラミアに再現させたまで。ああ、少し話し過ぎたか……シャヤール王、私の言葉を信じない方が良い。嘯くのが上手なんでね」
かしゃん、と鉄格子を揺らす。
「大金を手に入れてどうするつもりだった? 愛を買えると思ったのか? もう一度妻が蘇るとでも? ラミアに頼って、妻を生き返らそうとしたのか? ラミアはお前の最期の希望だったのか……?」
何度問うてもディダーリはそれ以上なにも言葉にしなかった。痩せさらばえた瞼を閉じ、口を一文字に結んで牢の奥へと引っ込んでしまった。それがディダーリの生きた最期の姿だった。ディダーリはその翌日、自ら舌を噛んで死を選んだ。真相は謎のまま深い闇へと葬り去られてしまったのだ。