鬣を彷彿させる金を揺らし、轟々と燃える炎のような瞳をした星座が忘れられない。過ちを犯してしまわなければ今もなお隣にいたのだろうか。後悔先に立たず、考えても無駄なことだった。
ほぼ真向かいにある神々しいまでの建物を見ながら、ピスケスは嘆息を漏らした。
時間という概念がないこの黄道十二宮で暮らし始めてどれほどの時が経ったのだろう。
気が付けばこの場所で暮らし始めていて決まっていた区分でなにをする訳でもなく、漠然としたなにかを守るようにして十二の星座と共にいる。
数多にのぼる星座の中から選ばれたものしか入ることができないこの黄道十二宮。誰がなんのために作り、なにを基準に揃ったのかさえわからない状況だ。
使命も宿命もなにもかもが存在しない空間では、堕落な生活に向かうのは至極当然のことでもあった。
元々神々というのは名ばかりで、していることは子供の癇癪のようなことばかりだ。神とは似て通うものがある星座たちとて神聖なのはその名ばかり。
ほどほどに荒んだこの黄道十二宮の住民たちは各々の好きなように生活を営みながら、日々なにかに憧憬していた。
愛を育むのも賭けをするのも宴を開くのも全てが暇潰しであり、遊びでもある。その中に大切なものがあったとしても、それすら気付けないほどに自堕落な生活だった。
だから取り零したのかもしれない。さらさらと零れていったピスケスの大事なものはもう二度と手には戻らずに、その欠片さえどこか遠くに浚われていくような現実だった。
物思いに耽り星降る暮れの空を見上げて、どれほどの時が経ったのだろう。ふと意識を現実に戻せば、気配なくピスケスが住居を構える双魚宮に侵入を果たした星座がいることに気が付いた。
水の加護で覆われている魚座の名を持つピスケスの双魚宮に、気付かれることなく侵入できる星座など限られてはいるのだ。同じ水の加護を持った蠍座であるスコーピオは呆れた面持ちをしながら壁に寄りかかっていた。
「ピスケス、君はいったいいつになったら参加するのかな」
「あ、……すまない。忘れていた」
「そう言って前も忘れてなかった? あのときから君は随分と溺れているようだね」
「……そう見えるか?」
「見えるというより事実だろう? いい加減夢を見るのは諦めたらどうかな。待ってるだけじゃどうにもならないし、その依存癖も治した方が懸命だと思うよ」
壁から身を離したスコーピオは窓際で外ばかり見ているピスケスに近寄ると、シルバーグレーの髪を梳いた。
しっかりとしていそうに見えて、ピスケスの心は非常に折れ易く脆い。いつだってなにかに影響されながら右へ左へふらふらとしてばかりいるのだ。
それだからいつまで経っても成長せずに、スコーピオはいらぬ心配ばかりしてしまう。
今日とて定例の属性会議が行なわれる予定であった。これといって話し合うことなどないが、同じ属性同士集って会話をすれば加護を強める効力になる。
黄道十二宮において存在する属性は四つ。火、土、風、水。その水に属性を持つのは蠍座のスコーピオと魚座のピスケス、そして蟹座のキャンサー。
三星座集れば水の加護も増幅され、ささくれ立った心や身体がたおやかに洗われる。自棄になっているピスケスにとっては良い療治方だと思われたが、肝心のピスケスが参加しないのであればそれもほぼ無意味な集まりと言っても良い。
スコーピオは影を落とすピスケスの隣に腰を降ろすと、見目通り柔らかな手触りの髪に再度指に絡めた。
「キャンサーが君のことをとても心配していたよ。たまには双魚宮から出てみたらどう?」
「……キャンサーは優しいからな」
「その言い方だと僕は優しくないみたいに聞こえるね」
「そうは言ってないだろ?」
「まあ一度巨蟹宮でも天蝎宮でも良いから遊びにおいでよ。といっても巨蟹宮は行きにくいかな?」
その言葉に今まで微動だにしなかったピスケスの肩がひくりと揺れた。相変わらず顔にはおくびにも出さないがはっきりとした動揺にスコーピオは口を止める間もなく続きを紡ぐ。
「巨蟹宮というよりはその隣にある」
「スコーピオ、もう終わった話だ」
「それとも、君は寧ろそっちの方が良いかもしれないね」
「スコーピオ」
「引き摺っているのは君の方だろう? いつまで経っても忘れられず鬱蒼として引き篭もって酒池に溺れているのは君じゃないか」
「そ、れは」
「自己犠牲も過ぎると鬱陶しいだけだよ、ピスケス。なにかに融解されたいと望むのならさっさと融解されてしまえば良いだけの話だ。あちこちと、誘われるままふらふら行くからこうなるんだよ」
すみれ色の瞳が翳りを宿す。事実を突きつけられてもなお内面など晒す気がないのか、ピスケスは唇をきゅっと引き締めるだけでその薄い唇を開こうともしない。
なにがあったかはっきりと話を聞いていた訳ではないが、それでも黄道十二宮の狭い世界では噂話などあっという間に広がる。
娯楽なく悦楽に弱いここの住民ならではの性質が功を制したのか、スコーピオは違いなく事実を知ることができると未だ過去に捕らわれたままのピスケスにちくちくとした痛みを齎すのである。
不器用でいつまで経っても夢見がちなピスケスを現実に晒すことができるのはたった独りしかいないとわかっていつつも、一度懐に入れてしまったピスケスを放っておくことなどできない。
スコーピオからそっと視線を外したピスケスは、憧憬を重ねるような視線を正面へと向けると小さな声で漏らした。
「わかってはいるんだ。だけどどうしようもないことだってあるだろ?」
「ピスケス、獅子宮の彼はね、白羊宮の彼と良い雰囲気だそうだよ」
「知ってる、さ。ここきっての噂だ」
「おや、引き篭もっている君の耳に届くほど有名だった?」
「まあな。……彼らは火属性同士、水と火よりは相性良いし、それに白羊宮の彼なら、……過ちを犯すこともない」
「……そうやって巡るんだよ、ピスケス。わかっているのなら早く忘れた方が良い。君にも良い相手がいるさ」
儚くも恐ろしい笑みでピスケスは微笑した。アフロディーテとエロスの神の影響下に強いピスケスは創痍しても壊れることなく、おぞましいほどの完全美だ。
その美こそ獅子宮の星座との結び付きに至ったのだろうが、今だけはそれを後悔するばかり。
美があったとてなんになろう。少なくとも黄道十二宮の星座はどれもが全能なる神の影響下を色濃く受けているために、どの住民も美しい。ピスケスが突出している訳でもないのだ。
綺麗なもの好きの獅子宮の星座とてピスケスの外面だけで寄ってきた訳ではない。ただのきっかけに過ぎなかったのだ。そのきっかけすら今は無意味なのだが。
それでもピスケスは忘れ去ることなど到底できやしなかった。
あれほどまでに溺れきったのも、依存してしまったのも、全てを捧げたのも、獅子宮の星座だけなのだから。
自ら絆を断ち切ってしまった今どうにもならないとわかっていても、ピスケスは未だ燻り続ける火種を消す方法すら見つけることができなかったのである。
スコーピオ直々に促されても双魚宮から出ようとしないピスケスに痺れを切らしたのはキャンサーだった。半分無理にピスケスを双魚宮から連れ去ると、己が持つ巨蟹宮へと閉じ込めたのである。
軟禁といっても行なわれるのは宴。三星座だけでは盛り上がる術もないが、励ますような言葉をかけるキャンサーと嫌味を言いつつも心配してくれるスコーピオに囲まれてピスケスは穏やかな時を過ごした。
必ずしも己が持つ宮にいなければならない理由などない。キャンサーに引き止められることどれぐらいだろうか、巨蟹宮に住を構えてしまっているような状況に慣れつつある頃ピスケスは独りになる時間ができた。
なにも同じ属性同士で固まっている訳ではない。対立する属性だとて盛んに交流がある。基本的に狭い世界故か黄道十二宮の住民は仲が良いのだ。
違った属性に呼ばれて巨蟹宮を出たキャンサーを見送ったピスケスは、少し息詰まった空気を入れ替えようと散歩に出ることにした。
これといって拘束されている訳でもないので出入りは自由だった。寧ろこのまま帰ったとてキャンサーはなにも言わないだろう。
勝手にきて勝手にいなくなるスコーピオ同様心を許しあった仲だからだろうか、心配する謂れはあっても束縛まではしない。
ピスケスは楽しい時間を過ごしながらも少し傷心に浸りなくなった衝動を抑えることができず、これ幸いというように巨蟹宮を後にしたのである。
このまま太陽の動きに逆らって帰れば己の宮でもある双魚宮に辿り着くことができる。だがどうしても足が動かない。それはいつかのスコーピオがいった台詞のままであった。
双魚宮とは逆に位置する方角に、というよりは巨蟹宮の隣に建っている獅子宮がどうしても気になるのである。
終わったことだろうが区切りさえつけられずにいるピスケスは、どうしても向いてしまう足に倣って双魚宮に帰る方角とは違う方へと足を出向かせてしまったのである。
聳え立つ獅子宮は持ち主と同じで自信に満ち溢れており、華美な装飾で彩られている。各々の個性が出る宮で獅子宮以上に派手な宮などないだろう。
どうしようか、と一瞬躊躇ったピスケスはその躊躇い通り獅子宮の前から一歩も動くことができずただ視線を向けることしかできなかった。
この宮の中には恋焦がれて身すら滅ぼしてしまいそうなほどの星座がいる。獅子座の名を持つその星座は、ピスケスにとって全てとも言って良い。
「レオ……」
名を紡ぐだけでも胸が締め付けられる。一向に回復の兆しをみせない想いは自ら留めているような気もして、ピスケスはどうしようもない自己嫌悪に陥った。
なんだかんだ言ってレオは優しい。このままピスケスが中に入ったとしても快く出迎えてくれるだろう。そういう星座なのである。
自信満々で自尊心が高く、自己中心的な面もあるけれど孤独に耐えられない。そんなレオの孤独に付け入って、どうにかならないかと考えているピスケスよりも純粋なのだ。
王の風格、いやピスケスにとって唯一の王様。その姿を一目だけでも瞳に留めておきたい。
下心半分に動かない足を叱咤して一歩進めば、後は簡単に中に入ることができた。
水の加護を持つピスケスが幾らレオと良い仲であったといえども、気配まで殺すことはできない。対立する属性だからこそ気配を敏感に察したのか、奥から躊躇いもなく出てきたレオにピスケスは言葉を失った。
「ピスケス、どうした? なんかあったのか?」
昔と変わりない台詞。だけど二星座の間にある感情はもう壊れている。いつまでも引き摺っているピスケスと違い、レオはとっくの昔に区切りをつけることができていたのだ。
戦慄くピスケスの唇は言葉すら紡ぐことができなくて、ただ目に痛いほどのレオの姿をじいと見つめることしかできなかった。
光り輝く金の髪も、少し吊る深いほどの緋色の瞳も、ごうごうと燃える勇ましい雰囲気も、しっかりとした身体付きも、なに一つ変わらない。ピスケスの記憶通りそのままだ。
お互いの間にあった愛が崩れ去った事実以外なに一つとして。
内々に鬩ぎ合う禍々しいほどの感情を湛えていようとも表面にはおくびにも出さないピスケスは、レオからしてみれば無表情でただ視線を向けている風にしか見えない。
訝しげに一歩を踏み出せば、はっとしたピスケスの表情に色が灯って申し訳なさそうに眉が歪められた。
「巨蟹宮に寄ったから、……レオはどうしているんだろうって少し気になって……今独りか?」
「ああ、独りだ。っつってもさっきまで宴や騒げやで属性会議してたんだどな」
「……そっか」
「それより久しぶりだな。元気してたか? 黄道十二宮に住んでるっつってもなかなか会わねえもんだよな」
「少し離れているからな。それに引き篭もってたんだ」
「ああ、スコーピオから聞いてる。酒ばっか呑んでたんだって? 相変わらずだな、お前も」
「だから巨蟹宮に連れ去られたんだ。まあ良い息抜きにはなったよ」
変わりなく淡々と繰り返される会話に意味などない。ピスケスはこんな上辺だけの会話がしたい訳ではなかった。
レオにとっては親しい友との逢瀬であろうとも、ピスケスにとっては忘れられない星座との逢瀬なのだ。相違があり過ぎてピスケスはどうにかなってしまいそうだった。
憂いを帯びて今にも消えそうな雰囲気を湛えたピスケスになにを思うのか、レオはかしかしと後頭部を掻くと引き止めるような言葉を紡いだ。
このまま帰したら、ピスケスが今にも壊れてしまいそうな気がしたからだ。
「呑んでくか? っつってもお前の口に合う酒があるかわかんねえけど」
「……良いのか?」
「ああ、構わねえよ。一人で酒呑むよりは二人で呑んだ方がうめえだろ」
気前良く促してくれたレオに誘われるままピスケスは本格的に獅子宮に足を踏み入れると奥の部屋へと通された。そこは昔レオとピスケスが会話を楽しんだ部屋でもあり、初めて口説かれた部屋でもあった。
敷き詰められた真紅の絨毯は踏み心地が良い。壁から吊るされたシャンデリアも、絢爛豪華過ぎる装飾品も昔と同じままここにはある。
きょろきょろと探るように視線を彷徨わせるピスケスに、レオはくすりと笑みを零すと己より幾ばくか背の低いピスケスの頭をぽんぽんと叩いた。
「変わったとこなんてねえから、じっとしてろよ」
「……ああ」
錯覚してしまいそうだった。変わらない部屋に変わらないレオの態度、全てがあの当時のままここには存在している。
ガチャガチャと酒棚を漁っているレオの背中に、ピスケスは湛えるだけだった想いがほたほたと溢れ出るような感覚をどこかで感じていた。
ほとんど無意識だった。欲求がそのまま行動に移ってしまったのだろう。気付けばピスケスはレオの背中にしがみついていた。
レオには想う相手がいる。それはピスケスではない。もうピスケスとレオの関係は終止符を打ってしまったのだ。頭ではわかっていても身体が言うことをきかない。
懇願するように縋りつくピスケスに、レオは小さく息を詰めると酒棚を漁っていた手を止めた。
「ピスケス、離せ」
「……嫌だ」
「終わっただろ? 俺たち」
「わかってる、から、……利用しても良い、から、……レオ」
「俺はそういうの、きちっとしてねえと無理だ。終わったお前のことをもう抱いてやることはできねえんだよ」
ピスケスの指先が震える。言葉で言われても離れる気がないのか、最後に見たときよりも格段にやつれて傷付いているピスケスを前にそれ以上無碍にすることもできず、レオはただピスケスの温度を背中で感じていた。
このまま抱き締めてやることも抱いてやることも、レオにとっては造作ないほど簡単なことだ。だけれどそれでは駄目なのである。前となんら変わりない。
なに一つわかっていないピスケスだけがあの頃のまま、立ち止まっている。
「ピスケス」
「……少しだけなら、良いだろ? こうしてるだけだから……」
「……馬鹿だな、お前も」
ピスケスが塞ぎ込んでいる理由も、引き篭もっている理由も、酒池に溺れている理由もレオは知っている。それを救ってやることができるのはレオだということも。
だけれど手を伸ばせない理由があるから、ピスケスを助けてやることができない。
宙に留まったレオの手はきつく握り締められて皮膚が赤味を強くする。気を抜いたら抱き締めてしまいそうになる己が憎らしい。吹っ切れていないのはピスケス同様レオもなのだ。
心が苦しいほどに叫んでも、身体が愛おしいほどに求めても、ピスケスが気付かなければ前と同じ繰り返しになるだけだ。
痛々しいほどまでに想われた愛の重みだけが、今のレオにとっては苦痛の種となって張り詰めた空気の中ただ背中でピスケスの体温を感じているほかなかったのである。