繋がれた尾 05
 見開かれた瞳孔に映るのは、醜くも歪んだピスケスの顔。誰よりもレオの幸せを望んでいると口先だけの想いが、まじまじと思い知らされた気分だ。
 一瞬を支配する永遠にも似た短い時の中で、誰もが口を閉じる。ぶわりと気を乱れさせたピスケスはアリエスが再び口を開く前にと立ち上がった。
 気を許してピスケスの膝で甘えていたレオの頭部が派手な音を立てて床に落ちる。それを目の端で捉えておきながらも手は引き止めるためではなく、逃げるために動いた。
 輝くような金と、輝くような白。ピスケスには到底叶わない、優しげな雰囲気と可憐さを持ったアリエスと対峙してどうにかできるとは思えなかった。
 元より弾みで身体を重ねただけだ。心はもうここにはない。
 呻くレオに驚いたアリエスがピスケスと止めようと手を伸ばしてくるものの、水の加護が極限に引き出されている今、相性の悪い火の加護ではピスケスに触れる前に拒絶されてしまうのであった。
「ピスケス、待って……!」
 叫ぶ声もそのままに、一瞬にして消えてしまった美しい星座にアリエスはそれ以上足を前に進めることができなかった。
「……ってえ……」
「レオ……一体どうなってんの? ピスケスと寄り戻したの?」
「……うるせえな。邪魔すっから、……あー? ああ、そっか、……」
「ちょっと、説明してくれない? 俺、完全に悪者みたいじゃん」
「んー……うん。悪者になってっかも」
「ええ! レオが大丈夫って言うからこのままにしてたんだよ! 傷付けたかっただけなの!?」
 たんこぶがあるかもしれない。そう思いながら暢気に頭部を撫ぜるレオに、アリエスは激情しながら襟元を掴むとがくがくと揺さ振った。
 悪いことをしたという自覚はあるのか、どこか罰の悪そうな表情をしたレオはアリエスの気が済むまでそのままにされていた。
 追いかけなければいけないとわかっているものの、阻む気持ちも心の中には住んでいる。それは簡単に覆されるものではなく、レオを長年苦しめてきたものでもあった。
 割り切れたら楽だ。昔は昔、今は今、変わらずに愛してくれていた事実は痛いほどに理解している。それでもレオには後一歩が踏み出せずに、己が一番嫌ったことをピスケスに対してしてしまったのだ。
 もうとっくの前に答えは出ている。素直に認めることができないだけで。
「……まだ許せてないの?」
「……そういう問題じゃねえんだよ」
「たかが、……いや、たかがじゃないかもしれないけど、……でも、ピスケスだってもう反省してるじゃん。ずっと一人で頑張ってきてたじゃん。一方通行じゃないんでしょ? なら、そろそろ手を取ってあげても」
「別に、ピスケスに対して怒ってる訳じゃねえよ。許してんだよ、とっくに」
「じゃあ一体なにが引っ掛かるの? 俺に、こんな役までさせて」
「……さあなあ。許せねえのは、俺だ。……同じことするんじゃねえかって、……また、ピスケスの不安に気付けねえんじゃないかって」
 自嘲気味に笑えば、アリエスに思い切り叩かれる。丁度たんこぶの辺り。レオは痛みに悶絶すると涙目にアリエスを睨んだ。
「あーもうぐだぐだ言ってんじゃないよ! そんときはそうなってからまた考えれば良いじゃん! 一回失敗してんだったら、次は失敗しないでしょ? もうどうするかわかってんでしょ? 一瞬でも手に触れたんだったら、レオにはその手を握らなきゃいけない義務があんだよ! その手を突き放して良い権利なんかないの!」
 見目とは裏腹に乱暴であるアリエスはレオが痛がっているのも見ないふりをして、闇雲に手を出すと殴り続けた。
 ピスケスにとって忌むべき相手を演じ続けてきたアリエスは、長年レオの側にいてずっとレオのことを見守り続けてきた。悩みを聞いて、時に慰めて、支えるように。
 ピスケスが思っているような関係では決してなかったが、それでも誰よりも近くで全てを見てきたのだ。
 レオのためだと言い聞かせて、ありもしない噂が回っていると知っていても否定せずにいた。それがレオの望む未来に必要なものだと言われたから。
 ピスケスを傷付けるためではない。助けるためだと、そう信じていた。
「良い? レオ、格好つけんのはこういうときじゃない! わかったんならなにするかわかってるよね? 言うけどスコーピオだって、すっごい怒ってんだから!」
「……なんでここでスコーピオが出てくんだよ」
「スコーピオはピスケスの味方だからね。まああっちはレオと別れさせようとしてた派だけど」
「なんだよ、派って……」
「ぐだぐだ言ってるんじゃないよ!」
「てめえが言わせてるんだろーが!」
「とにかくピスケスがどうにかなる前に迎えに行ってあげな。ね?」
「……わかったよ」
 まだ心の整理がついた訳ではない。それでも頭で考えても答えが出ないのならば、身体が思うままに動いた方が良い。
 綺麗ごとも汚いことも、全部受け入れてくれるというのなら。
 レオはアリエスがきたときに見せたピスケスの悲痛なまでの表情を脳裏に思い浮かべると、苦々しい面持ちのままゆっくりとした動作で出て行った。
 外に出れば駆け出してしまう身体も、ここまできた意地っ張りと格好付けが出たのだろう。飽く迄も焦っていないのだと言いたげなレオの態度にアリエスは最後まで呆れたような表情をしてみせていたが、窓の外から見た景色にほっと安堵の笑みも浮かべた。
 ピスケスが抱えている不安はレオだけでは解消されないのだろう。誰もが当たり前のように持つ感情、嫉妬をピスケスが正面から受け止める時がきてアリエスにぶつけてくる。
 そんな日があったら、種明かしをしてやろう。レオとアリエスの間にはなにもないのだ、と。噂は飽く迄も噂だ、と。
「まあ、その必要もなければ一番良いんだけど……」
 切り取られた世界、窓の外を見つめながらアリエスはそう嘆いた。

 外に出た瞬間、慌てて走り出そうとしていたレオではあったが思わぬところで出端を挫かれた。
 獅子宮の側で空を見上げるように立っているのは今レオが探し出すべき星座でもあるピスケスであった。
 無表情なまでの仮面、透き通ったようなすみれ色の瞳がレオに焦点を向けてくる。まるで初めて会ったときのような、そんな強い衝撃がレオを襲った。
 一目惚れだった。身体中に強い雷を打たれたような一瞬の、懐かしい気持ちを思い起こす。
「ピ……っ!」
 抱き締めようと腕を伸ばしたが慌てていた所為か縺れた足が絡まって、ピスケスの腕を掴んだままレオはすっ転んでしまった。
 ぼうぼうに生えた草の上といえども二つの体重と重力が掛かれば、それなりに痛い思いをする。今日は痛い目ばかり見ているな、と遠くで感じながらもレオは腕に抱き止めたピスケスだけは離すこともなく、力を強めると深く抱き込んだ。
「レ、レオ……?」
「わりい……ちょっとだけ、……こうしてても良いか?」
「……ああ」
 躊躇って、迷っていた手がレオの頭にかかる。泣き笑いのような、そんな顔をしてレオに擦り寄ったピスケスはレオが初めて見る姿でもあった。
 言葉は今だけ必要ない。触れた肌から言葉にならない想いが、ひしひしと伝わってくるようだ。
 過去がどれであれ、現在がどうであれ、未来がどうであれ、ただ絡むように繋がっている糸が存在しているのならば、なにもいらない。
 取り敢えずは一先ず手を握ってみよう。レオは己の髪の毛にかかるピスケスの手を握り締めると、指先に口付けを落とした。

 このまま寝っ転がっているだけではなにも解決などしない。少し会話をするという名目でピスケスとレオは立ち上がると目の前の獅子宮を通り過ぎ、ゆっくりと歩を進めた。
 会話をするとなれば一番近い獅子宮が最適とも思えたが、目の前でこんだけのことをやっておきながらもアリエスが出てくる様子がないとなれば獅子宮は使えないだろう。
 誤解を解いていない今、獅子宮で三星座揃うよりは双魚宮でニ星座で話した方が良い。そんな建前もそこそこに、繋いだ手を離すこともなくレオはピスケスより一歩前に足を出すと空いている方の手で頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「あー……のよ、……悪かった。その、手を出したのは俺の意思だ。お前が誘ったとか、そんなんじゃねえし」
「……別に、謝らなくても、……嫌だった訳じゃない」
「そうなんだけど、その、ケジメっつーか……ヤる前にしなきゃいけねえことあったのに、……できなかったから」
「……しなきゃいけないこと?」
「俺は、アリエスが好きなんじゃねえよ。ピスケスが、好きなんだ」
 びくりと跳ねた肩がぶつかる。口を開けて目を丸くさせ吃驚したような、そしてちょっと間抜けなピスケスの面持ち。綺麗なすみれ色の瞳には、照れる顔を惜しげもなく晒すレオがいた。
「最初に言わなきゃなんねえのに、言わなくてごめん」
「え、だ……だって、え? アリエス、と……」
「それはただの誤解。都合良いから噂出回っても放っておいたっつーか利用したつーか、……まあちょっと加担してた」
「な、なん」
 珍しく戸惑った様子のピスケスは、現状を理解しきれていないのだろう。極楽で悪夢をみるような、そんな複雑な色でレオを見つめた。
「やっぱりごちゃごちゃ考えるんだ、昔あったこと。許したって言い切れねえ部分もあるし、自分に嫌気が差してるとこもある。だから完全に昔のように戻れるとは思っていねえ」
「……ああ、……うん。そうだよ、な」
「……でも、別に昔と同じ形でいなきゃなんねえって訳でもねえだろ? 昔みたいには戻れねえかもしんねえけど、俺はピスケスと一緒にいたい。手、触ったら、離しちゃいけねえってわかった」
「ど、ういう」
「もう一回だけ、俺のこと信じてくれる? 俺もお前信じるし、……ピスケスがまだ俺のこと愛してくれるっていうんなら……この手、取ってほしい」
 繋いでいた手を離して、レオはピスケスの目前に己の手を差し出した。無骨でありながらもピスケスが求めていた、ずっとずっと求めていた手だ。
 誰が突き放せるのだろう。駄目にしたのも壊したのも全てピスケスだというのに、レオは信じると言った。一緒にいたいと言った。願って止まなかった世界を、ピスケスが受け入れない訳がない。
「……俺は、ずっと、レオのことばっか考えてた。きっと、俺にとっての半身なんだ、お前は。……手、もう、離さないからな」
 触れた指先からぴりぴりとした電流が走る。気が高ぶった所為で加護の力が強まったのだろう。
 それでも今のピスケスとレオにとっては遮るものにはならない。
 たどたどしくも触れた先から広がった電流とは別の満たされる心に、しっかりと掌を重ね合わせると離さないよう握り込んだ。今度はなにがあっても、そう、もう離れたりしないよう。
 強く、強く、握り締めた。

 それから暫く、黄道十二宮を賑わせていた噂も元の鞘に戻ればすっかりと成りを顰め、ただの痴話喧嘩かということで収まってしまった。
 噂好きの黄道十二宮の住民ではあるが飽きっぽくもある。不透明だからこそ興味を惹かれるものなのだ。あっさりと種明かしをしてみればそれ以上興味を惹くものではなかったのか、今ではなにもなかったかのように元通りの世界に戻っていた。
 一時期は病的なほどに鬱蒼としていたピスケスも落ち着いてみれば相変わらずの無表情ではあったが、前よりは元気を取り戻したようだ。
 薄っすらと頬に朱が差すのも、微妙に口端が上がるのも、傍からみれば驚くべき変化ではないがずっと見守ってきた星座からすれば驚くべき変化だ。
 誰もがわかる極当たり前なことができていなかったために終わりをみせた関係ではあったが、そのお陰で学んだことはたくさんある。
 これからはお互いの手を離さないよう歩みだす。そう決意した瞬間、出端を思いっきり挫かれる出来事があった。
 ピスケスが球体に触れたことが、太陽神にばれてしまったのだ。
 ご法度とされていることが露見したピスケスではあったが幸いにも厳重な注意だけで済んだ。暫く双魚宮に謹慎という形で閉じ込められてしまうが、それぐらいで済むのなら喜ぶべきこと。
 全世界を支配する太陽神の言うことは絶対だ。しかし元より出歩かないピスケスにとっては痛くも痒くもない罪だった。いつも通りの生活となんら変わりはない。
 すっかり癖になってしまった引き篭もり生活にピスケスは再び酒に手を出すようになると、遊びにきていたスコーピオに呆れられるのであった。
「ピスケス、酒はやめなって言った覚えがあるのは僕だけかな」
「……ああ、自棄酒じゃない」
「そうだけど……まあ、良いのだけどね」
 前のように煽るためだけの酒ではなく、嗜むように飲むピスケスの隣にスコーピオは腰を降ろすと盛大な溜め息を吐いてみせた。
 謹慎しているピスケスが外に出なければ良いだけであって、向こうから誰かが尋ねてくる場合にはお咎めはない。故に誰でも出入りが自由なのだ。
 だが飽く迄謹慎中ということもあってか、今までにないほど強い水の加護で覆われた双魚宮は同じ水の加護を持つスコーピオや影響のない加護にはなんら支障はなくとも、反発している火の加護だけには強靭なものとなってしまった。
 レオが訪れることのできない宮。どれだけ入ろうとしても強い水の加護を得た双魚宮の前に、火の加護は力を顰めてしまい一歩も侵入することができなかったのである。
 折角得た自由な時間。ゆっくりと確かめるように育むべき関係も暫くはお預けの状態となってしまった。
「そういえば、また下でレオが格闘していたよ。あいつも無駄だって言っているのに、頑張るものだね。どう足掻いたって入れやしないのに」
「……うん。でも、……少し嬉しい」
「早速のろけかい? あれだけ塞ぎ込んでたっていうのに現金な話だね」
「少しだけ、自信ができたんだ。……それに、会話はできる、しな」
「ああ、そうだね。会話は、ね」
 すくっと立ち上がったピスケスはそのまま窓まで歩くと、扉の前で右往左往しているレオに話しかけた。
 直ぐ側にいて手が触れ合えそうな距離にいるのに見えない壁に阻まれている関係ではあるが、ゆっくりと会話をする機会だと思えばそう悪くもない。障害があればあるほどに、恋は燃え上がるものなのだ。
 顔が見られる距離にいる。それだけで良い。
 いつになく不機嫌な表情をしながらもピスケスに抗議するレオと、そんなレオを見ながらもわかりにくい嬉々を見せているピスケス。
 スコーピオは離れた場所でそんな様子を見ながら、呆れたような、でもどこか少し嬉しそうな顔で笑った。
「どうせピスケスの心はレオのものなんだから少しくらい僕の時間があったって、許されるはずだよね」
 心より願った友の幸せに素直に喜んでやりたい気持ち半分、良いところばかり持っていったレオに嫉妬したスコーピオはわかりにくい当て付けをレオに見せ付けると、立ち上がって側まで寄った。
 レオが触れることのできないピスケスの肩に手を置くと、悔しそうな顔でこちらを見るレオに手を振る。
 きっとあと少しすれば謹慎も解けてピスケスはレオの元に行ってしまうのだ。だからこの時だけは存分にからかってやろう。スコーピオはそう思いながら、心から笑ったのである。