女王戦争 02
「は、はっ……」
 短く息を詰めて零れた吐息はヤミの耳を擽って三半規管を刺激した。熱く悦が混じったその声音を聞くだけでどうしようもない愉悦に変わるのだから、仕様もない。
 ヒトフシは縋るように手を伸ばし、ヤミの頭部をむちゃくちゃにして抱きかかえた。ぎちぎちに埋まった後孔はヤミの性器を美味そうに飲み込むと、悦を求めて収縮を繰り返す。
 痛みを感じることもなく、ただ支配していく愉悦の意力にヒトフシは溶かされたように喘ぐ。
「ヤ、ヤミ……あつい、……」
「もう動いて良いかしら? そろそろ限界なのだけど」
 ヤミの細く綺麗な指先がヒトフシの腰を逆撫でする。ひくんと反った喉元に舌を這わせてゆっくりと腰を動かせば、ヤミの喉奥から堪え切れずに喘ぎが零れた。
 じわじわと侵食していくように熱に支配されていく。爪先から快楽に包まれて、ヒトフシの思考までヤミの色に染まってしまうと自らも腰を揺らめかせて刺激を求めた。
 硬く張り詰めた切っ先がヒトフシの内壁を遠慮なく擦り上げて、脳裏にある苦痛にしかなりえない記憶を塗り替えていく。全てがヤミ一色になって、触れ合っている肌の熱さにも眩暈がしそうだ。
 忘れて、消えて、上書きされて、上限すらないほどのおぞましい快楽。
「ぁーっ、あ、あ、ああ……ヤミ、ヤミ……っ」
 一層のことなにも考えることすらできずに、生の執着を貪るだけの女王に成り下がれればこんな思いを抱くこともなかったのに。
 がちがちと合わさらない歯を食い縛って、後孔をぎゅうっと締め付けた。リアルに感じることができたヤミの性器にますます興奮を覚えたヒトフシは強請るように、腰を揺らす。
 挑発に乗ってくれたヤミはヒトフシの望むままに強引に腰を押し進めると強い律動で中を犯した。
 甘くて蕩けるような電流がヒトフシの後孔から広まって全身を覆う。どろどろに溶かされていく思考では最早意味のあることを考えることもできず、狂ったように喘ぎ悶えることしかできなくなる。
 黄金色のそれが愛おしくて、抜き差しされる性器ですら煩わしくて、隙間という隙間を塞いでほしくて堪らない。
「は、あ……っ、ヒトフシ……最高ね、貴方」
 ずるずると堪え切れずに下がっていくお互いの体。茎を通り過ぎて、横たえられたのは葉のベッド。柔らかなそれを背中に感じたヒトフシだったが、先程より開いた隙間が気に食わなくて恐ろしくなる。恐々とした面持ちでヤミを求めると、両足をヤミの腰に巻き付けて隙間を埋めた。
「もっと、……」
「……もっと?」
「くれよ、ヤミの、全部……なあ」
 ヒトフシの両手がヤミの頬を覆って、近付けた唇を重ね合わせた。そのままお互いを抱き締めるようにしてぴったりと密着すると、動きにくいながらも腰を動かして痺れるような愉悦を貪り合った。
 フェロモン過多で圧迫してしまいそう。噎せ返るほどの匂いに頭がくらくらして酷い酩酊感だ。ここまで漏れ出せば気付かれそうなものの、強く香る花の下ではそのフェロモンが曖昧になっている。
 最も気付かれたところでどうにもなりはしない。生殖を脅かすことではない限り、意味もなければ危険視することでもないからだ。
 だけど二匹はそんな意味のないことに執着をして、溺れて、泥沼に嵌まっている。
「あ、ぁ、っああ……」
 一際強く香ったヒトフシのフェロモンが、弾けて飛んだ。精を勢い良く吐き出したヒトフシは白に塗れたがそれでも性器の硬度は衰えることがなく、硬く張り詰めたまま。
「何回できるか、挑戦しちゃう?」
 なんて緩く笑うヤミも限界で、呆気なく迎え入れてしまうものの行為を止めることはなかった。
 何度も幾度も精を吐き出して白に染まっても、決して二匹の間には生まれることのない命。だからこそここまで求められることが余計に二匹の心を擽る。
 備わっている生殖本能の発情に関わらないのに、なにも産み出さない意味などない行為にこんなにも夢中になれている。蟻と蜂は、似ても異なる。反している生への冒涜が堪らなく愛おしい。
 吐いて吐いて吐き出して、溜まっていく精を、精に塗れていく体をここまで嬉しく思うことなどきっとない。ないから、だからこそ堪らない。
 黒が白に染まっていく情景に発情するのが道理というのならば、それを見て発情する姿に発情するというのも道理だ。
 ただ二匹は時間の許す限り、再会の喜びを会話で表現する間を惜しむほどに貪り合って求め合った。それこそが二匹の、このどうしようもないくだらない世界で生きていく糧なのだ。

 幾日も重ね合ったかのような、そんな濃厚な行為を貪るようにしていたが実のところわりかし時間は食っていない。というより時間を食えるほど持て余してはいなかったのだ。
 ヤミは普段蜂の巣の王室で豪華三昧、という表現だけは良いがそこで監禁された生活を送っている。外に出ることはほとんど許されず、与えられるローヤルゼリーだけを食し、卵を落としていくというどうしようもない生活が彼の女王としての役割だ。
 ヒトフシも同じ。多勢なる監視の下で生活を営んで、卵を成していくだけ。そんな苦痛にしかなりえないのが女王としての生。軍隊蟻の頂点など軍隊蟻を増やして、生殖機能が失われるまでそれを続けて行くだけにしか過ぎない。
 ほんの少ししか与えられなかった自由。きっと短いであろう生涯でも、この時間は比率するまでもなく短くて儚いものだ。
 だからこそ余計にたった数秒でも愛おしくて大切で堪らない。もう直ぐ散り散りになってしまう手と手を、離すことができない。
「……良い格好ね、とても排他的」
 片手だけはしっかりと繋がれたまま、ヤミは精に塗れたヒトフシを見下ろした。黒に彩られたヒトフシに散らばる白、それを見るのが堪らなく好きだ。ぞくぞくとする。どうしようもない快感に染められてしまう。
 ヒトフシを穢す白は数多にも上ろうと、それをこうして眺められるのはヤミだけ。ヒトフシだけでなく女王と交尾をすれば最後、その命は存在を消してしまう。根こそぎ一生涯の精を奪い尽くされてしまうのだ。
 ヤミとヒトフシは女王同士だからこそ精を奪い合うことができず、お互い死ぬこともない。その代わり生まれるものはなく、蓄えた精がお互いによって穢されてしまうので生殖活動もやり直しになってしまうが。
 それでも、欲しかった。理解されないであろう異質な感情であっても二匹は熱を欲しがった。
 ヒトフシは手を伸ばすと、ヤミの頬をなぞった。
「……ヤミこそ、そんな顔をするなんて意外だ」
「あらそう? 美人だからって見惚れちゃったの? やあねえ、ヒトフシったら」
「なにを馬鹿なことを……」
「図星? ねえ、ヒトフシ、……」
 屈んで一度だけ、唇を交わした。軽いそれを最後と受け取ったヒトフシは皮肉に笑うと痛む腰を押さえて、ゆっくりとした動作で起き上がる。
 繋がれた手も離れ離れで、熱いほどに感じていた熱も冷めていく。残された白を拭ってしまえばもうそこには軍隊蟻の女王として君臨するヒトフシしか残らなくなる。
 愛すら語ることができずに証拠さえ残らない。ましてや存在ですらあやふやになって、こうして会える時間が奇跡に近い。
 決して手に入れることができない。渇望しても嘆いても、どんなことをしてだって手にしたいと思うのに触れることすらかなわなくなる。それが嗚呼かなしい。
「そんな蟻臭くて、大丈夫なのか? 女王様」
 元の通り、女王としてのヒトフシは端正な面持ちで表情を変えずにそう言った。言葉だけは冗談交じり、でももうあんなに乱れた表情も愛おしいといわんばかりの表情も見せない。
 距離は開いて、ぽっかり空いた。だけど触れたらそれこそ戻れない。
 ヤミは簡単に佇まいを直すと、にっこりと笑みを付け加えた。
「問題ないわ。蜂臭くなけりゃなんだって良いのよ。ヒトフシこそ大丈夫なの、蜂臭いけど」
「問題ない。……一緒だ、蟻臭くなけりゃ大した問題ではない」
 ふ、っと地面から浮いたヤミ。空にぽつぽつ増える雀蜂の姿で、時間がもうないのだと直ぐにわかった。
 幾ら自由奔放に振舞っていたとしてもヤミは王室にい続けなければならないのだ。ヒトフシが我儘を言って独りになれたのと同じ理由で、限られたそれはもう過ぎ去ってしまっている。
 だけどどうにも我慢がきかなくて、ヒトフシはなんとか抑え込んでいたものの抗えることができずにヤミに近付いた。
 触れたら駄目だ。触れたら我慢できない。けれど触れたい。触れていたい。一緒にいたい。特別なことはしなくても良い、ただ姿だけでも見つめていたいのにそれすらかなわない。
 ヤミは空の女王で、ヒトフシは陸の女王で、別れてしまえば二度と会えなくなっても可笑しくはないのだ。
「ヤミ……」
 か細い声が喉から漏れた。震えた指先でヤミの手を取れば、派手な顔付きのヤミが悲しげにくしゃりと苦笑いを零す。
「馬鹿ねえ、触っちゃ駄目だってわかってるでしょう」
「……すまない」
「このまま貴方の手を取って空高く、どこまでも飛んでいけたら良いのにね。それができない私でごめんなさいね」
「気にするな。それこそ望んでなど……いない」
「そうね、望むことなんてできないものね。ねえ、ヒトフシ」
 白い指先がヒトフシの頬を擽った。形を確かめるよう唇をなぞり、顎を過ぎて首元を撫ぜる。確かめるような手付きのそれをヒトフシは黙って受け入れた。
「このまま捨て置かれて、死ぬ間際ですら私たちは会えないけれど、全部を手にすることもできないけれど、貴方の心は私のものだってことを忘れないで。誰にもあげないで取って置きなさいね。私のなんだから触れさせることも駄目よ」
 ふ、っと離れた指先に軋んだ胸を見ないふり。ヒトフシは胸を抑えて、ああ、と頷いた。
「……そうだな。ヤミも、ヤミも……俺の心を、誰かに触れさせないでくれよ」
 笑み一つ、ヤミは高々に空を飛ぶと別れの挨拶もないまま巣へと戻り帰った。影が小さくなって見えなくなっても見続けたヒトフシは、心にぽっかりと空いた寂しさを埋めるよう視界から青空を排除する。
 さようなら、さえ言えずに消えていくなんて酷い女王だ。今生の別れやもしれぬのに、なんて思うことすら無粋なのか。
 跡形さえ残らないヤミの存在は消えてしまって、女王蟻であるが故に足跡を辿ることもできない。生命が危惧するのは軍のことばかりで関わりを持たない蜂など本来なら触れることもない。
 元通りに戻っただけ。これから繁殖期に入り、交尾をして新たな軍を増やし続けていく。もう直ぐ、きっと、代わりが生まれる。ヒトフシの変わりになるであろう、女王蟻が。
 それまでの辛抱? 生殖しかできないヒトフシは考えることも許されなくて、足元を軍へと向け歩みだした。
 この体は女王蟻としての役割を望んでいても心までは染まりきれない。だからこそ苦しくて仕様がないのだけれど、諦めることもこうして夢見ることもできる。
 巣食った心の影を永遠に手に入れることなどできない。それでも確かに記憶に刻まれたものがあるからヒトフシは陸で生きていける。
 最も知ることなどなかったらこれほどまで苦しい思いはしないで死に逝けた。だけど知らないでいたらこれほどまで幸福を知らないままで死に逝っていた。
 どっちが良いなんて比べようのない。どうしようもない、ことなんだ。

 ざわざわと群れの声がする。顔色一つ変えずに戻り帰れば、そこは一寸も変わりを見せない軍のあるがままの姿があった。
 ヒトフシが戻ったことでざわめきが違うものへと変化する。ねちっこく肌に絡み付くような嫌な空気を一心に受け、ヒトフシは付き蟻の側へと寄った。視力がないくせに神経が研ぎ澄まされていく妙な空気だ。盲目というのも厄介である。
 ヒトフシは眉間に皺を寄せて腐った息を吐き切った。
「……不愉快だ」
「仕方ありません。今から交尾に入っていただくんです。最も雄蟻だけが過敏になってるだけでしょうがね」
「死ぬだけだというのに暢気なものだな」
 嘲笑うかのような自嘲的な笑みを浮かべるヒトフシに、付き蟻も倣って似た笑みを浮かべる。
「貴方様も馬鹿な女王だ」
 多勢の群集を配下に、付き蟻はぐるりとヒトフシの周りを歩くと声を潜めた。
「あの蜂と交尾さえしなけりゃ、雄蟻との交尾は一生涯で一度だけなのに。そこまで雄蟻との生殖行為を嫌がるのなら、蜂と交尾しなけりゃ良い話でしょう。なのに貴方様といえば性懲りもなくまぐわって、こんな馬鹿げたことを繰り返しなされる。私には理解できませんね」
「それでも、だ。それでも、また同じことをするだろう」
「どういうお考えで? 交尾がお好きとでも? そうは思いませんがねえ」
「言ったところで理解など求めていない」
「それもそうですね。まあ蜂の生活なんて私たちからすれば想像もつきませんが、あの蜂も蜂でヒトフシ様と同じことをされているような気がしますよ。どういう理屈か種族が違うのに惹かれ合うだなんて酔狂にも甚だしい」
 付き蟻は大袈裟に肩を竦ませると、ヒトフシから視線を外した。
「貴方様は死に絶えるまで女王蟻だ。心に巣食ったところでどうにもできやしませんけどね。嗚呼私も同じ、死ぬまでこうやって嘆き呟くことしかできずに生を終えるだなんてこの世界は本当にくだらない」
 嫌だ嫌だ、と頭を降る横でヒトフシは二三度笑って姿勢を正した。
 初めてのときのような羽はもうないけれど、蓄えていた精はヤミに穢されたので仕様がなく生殖活動をやり直す。奇妙でありえない繰り返しを行なうヒトフシの軍隊は、これから生殖活動に入る。
 新たな女王蟻は未だ現れず、この可笑しな習慣を可笑しいと気付くものは極少数。だけどきっと近い将来産み落ちるのは新たな女王蟻で、この可笑しな習慣にも終止符が打たれる。
 そうなればヒトフシは、用済みだ。
 フェロモンを失っていけば今まで女王蟻として持て囃されていたのが嘘のように存在価値を失い捨てられる。そうして生涯を終えるのだ。呆気ないもの。
 なんて素晴らしき、世界だろうか。
「……さあ、始めようか。新たな処女女王蟻の生誕でも精々祈っているが良い」
 付き蟻の横を通り過ぎて、雄蟻の群れへと続く道を歩む。働き蟻も兵隊蟻も過ぎて目指すのはただ一つ。
 これが最期になれば良いと願う反面、最期でないのならまたもう一度ヤミと会える可能性が残っている。付き蟻が言うように女王蜂の生活なんてものは知らないから、ヒトフシのいないところでヤミは死んでいるのかもしれないけれど。
 だけどそれでも、ヒトフシは生きていくのだ。
 この身は軍隊蟻の女王蟻として生まれ朽ちていくと決まっているから、心だけはヒトフシのまま死んでいく。
 息絶えるその瞬間、脳裏に広がるヤミの姿。瞼が落ちて鼓動が減って、息が細くなって体が冷たくなって、もうなにも動けない動かせない。途切れた意識、消える生命。そうなって初めてヒトフシは自由になれて、全てがヤミのものになる。
 嗚呼、それこそなんて、素晴らしき世界。どうしようもない世界。死ぬことでしか愛を手に入れることができないなんて、道理に反したくだらない世界だと笑うだろうけれど、こうやって意味もなく卵を産み続けるだけの生よりは理由があるように思えた。
 ヒトフシは陸の女王として君臨しながらも空に憧れて身を滅ぼしたいと、叶いもしない願いを空に願った。女王蟻であるが故の、願いだ。