例の勝負から早くも三ヶ月が経とうとしていた。
あれから迅と会う機会は増えたのだが、この三ヶ月で二回といった少ない逢瀬である。
それもお互いが行動に移して会ったのではなく、たまたま偶然会ったというようなものであった。
勝負という勝負はしていないが、今度会ったら呑みに行く約束を僕は取り付けた。
兄弟盃とは関係なしに、迅と呑み比べがしたいのだ。
僕は酒に滅法強かった。
三雲組の舎弟には酒豪がいないため、巷の噂で聞いた迅が酒豪というのに惹かれてただ呑みたいと思ったのだ。
今から僕はそれが楽しみで仕方がない。
それに勝負をかけた日から、周りが少しずつ良い方向へと変化していっている。
まずは親分同士の関係が一番大きい。
仲直りはしていないが、少し相手が気になっているようだ。
だって僕は父に、清滝組の組長が父のことを気にしていたよ、という口からでまかせのことを言ったのだから。
父は非常に単純なのでそれを信じ、なんと自分から連絡を取ったのだ。
もちろんそれで僕の言ったことは嘘とばれてしまったのだが、それをきっかけにお互いに連絡と取り合うようになり、ほんの少しだが蟠りも解けてきたようだ。
昔は親友同士だったので本音では嫌いではないはずだ。
ただ意地を張りすぎて、どうして良いのかわからないだけなのだ。
僕は父に怒られはしたものの、お咎めは一切なく普通に過ごしていた。
それに要の件も大きく動いた。
あの要がなんの陰りもなく笑うことができるようになったのだ。
もちろん精神的には完全に回復をしていないが、肉体的にはほぼ完治したと言える。
ただもう二度と男同士の受身のセックスはできないと言ったら、少し残念そうに笑ったが、元々ゲイではないのであまり支障はないとのことだった。
それに要の保有権が迅から僕に移ったことも伝えたし、要が自由になるための準備も着々と進んでいる。
要は元清滝組の次期組長のイロだったので、安全のために三雲組の監視から外れることは暫くないが僕は要のやりたいことをやらせようと決めている。
僕は要の髪を櫛で解いてやりながら、優しく問いかけた。
「要、もう決まった?」
「はい、決まりました。……実は僕、看護師の資格を持っているんですよ。迅さんのイロをする前は看護師をしてましたし」
「そうなの? じゃあ看護師になりたいんだね。病院を紹介するよ」
「そのことなんですが……僕、おこがましいかもしれないですが、ここで働きたいんです」
「ここ、って……三雲組の本家?」
「ええ、三雲さんには随分とお世話になりましたし、その恩返しも兼ねて……三雲組の主治医の方にも相談していたのですが」
「……そうだね。ここが一番安全だし、患者も豊富だよね。僕はそれでも構わないけど、良いの?」
「はい。お願いします」
看護師なら怪我をしたときにも直ぐに対応できるし、ここにいてくれるのは非常に有り難い。
それに要の笑顔なら、日々の生活に疲れている舎弟の心まで癒してくれそうだ。
あまりの綺麗さに手を出すこともないだろうし、僕の息のかかった人間ということもありなにかが起こることもないだろう。
僕は自主的に自分のことを話すようになった要に安心して、一つ上に進めたような気がした。
問題はまだまだたくさんあるし、僕が死ぬまで三雲組の悩みも尽きないだろう。
だけど些細な悩みでも一つ解決すれば、ほっとするものだ。
僕は要の傍を離れると、襖を開けた。
「じゃあ近々手配をしてもらうようにするよ。少し時間がかかるけど待っててね。看護師になれたらもう自由に外に出歩くことも可能になるよ。まぁ護衛はつくだろうけどさ」
「はい、ありがとうございます」
「それと好きな人ができても自由に恋愛して良いからね」
「ふふ、まぁそれは暫くなさそうですけど」
「まぁとにかく、おめでとう」
「……ねぇ、三雲さん、行く前に一つ聞いても良いですか?」
「なに?」
「どうしてなんの利益もなく、三雲さんは僕に優しくしてくれるんですか?」
「フフ、一緒だから、って言えばわかるかな? 一緒の傷を背負ってるんだよ」
「……そ、れは?」
「内緒。フフ、じゃあまたくるね、要」
僕は唇に人差し指を当てにっこりと微笑むと、離れを後にした。
今日はこれから新宿歌舞伎町に向かい、わざとらしく迅と偶然会った風にするのが目的だ。
最近は三雲組も平和で通常業務しか行っていないので、特に急いでやることがなにもない。
この機会に迅との距離を縮めて迅を落とす。
或いは兄弟分になるチャンスでもある。
そう上手くは行かないような気もするが、やってみなくちゃわからない。
僕は忙しそうに舎弟に指示をする四柳を捕まえると、ご自慢の真っ白のベンツに無理矢理押し込んだ。
「さあ、出かけるよ」
「……坊ちゃん?」
「場所は新宿歌舞伎町。清滝組が今日オープンする店があるんだ。そこに挨拶に行くよ」
「また突拍子もないことを……向こうの方はご存知で?」
「フフ、知ってる訳ないじゃない。サプライズだよ、サプライズ」
「……畏まりました。後ろに乗ってください、お連れ致します」
「それでこそ僕の右腕!」
上機嫌で車に乗り込む僕と違い、四柳は呆れてものが言えないと言いたそうに頭を振った。
それから車で移動すること数分。
先方に僕が探していた姿を発見した。
今日は白いスーツじゃないのか、仕立ての良い濃いグレーのスーツを身に纏い清滝組の若い衆を連れていた。
やはり新宿歌舞伎町での風俗経営に力を入れているのは本当のようだ。
資金繰りも意外と楽なものではないのだな。
僕は予め用意しておいた仮面舞踏会で使うようなキラキラとしたラメ入りの紫の蝶のお面を顔に装着すると、四柳が制止する声も無視してご自慢の車から降り立った。
真っ白なベンツから淡いピンクのスーツを身に纏い、顔には仮面舞踏会のお面をつけた男性が降りてくれば誰だって驚くだろう。
僕は周りから浴びせられる注目に良い気分になりながら、未だ僕に気付かない迅に歩み寄った。
「come va?」
母がイタリア人の癖にイタリア語が全く喋れない僕だけれど、イタリア語で迅に挨拶をしてみた。
聞きなれない単語に迅が振り向き僕の方を見たかと思うと、僕の姿を見るや否や眉間に深い皺を寄せ、僕の後ろにいる四柳を睨み付けた。
声には出してないが、粗方邪魔をするなと言いたいのだろう。
迅と約束したのだ。
次回どこかで会ったら必ず呑もうと。
僕がわざわざ会いにくるとまでは想定してなかったみたいだけど。
「おいお前どういうつもりだ」
「デートのお誘いに」
「……見てわかるだろうが、俺は忙しい。今度にしてくれ」
「フフ、もう予約とっちゃった。それにあとは組のみんなで呑むだけでしょう? 僕と呑んでくれても良いじゃない」
「呑むっていっても、新規オープンの……ああもうわかった。呑もうじゃないか。ほら、行くぞ」
迅は渋ってはいたが、急に吹っ切れたかのように僕の手を掴むとずんずんと足を進めた。
その理由は僕の姿にあるのであって、僕の今の格好はとてつもなく目立つ。
こんな僕と知り合いだと思われたくないのだろう。
先ほどから僕の姿についてのお喋りが当り一体から聞こえてきている。
僕はそんな迅の様子を見て、にっこりと微笑むとお面を外し迅の腕に抱きついた。
後ろからは四柳と迅の護衛が距離をとってついてきている。
「フフ、いつか二人で呑みたいね」
「無理だろう」
そのまま僕たちはタクシーに乗り込むと、行き先を告げて最近できたバーに移動することにした。
そのバーは新宿にあるのだが、歓楽街から少し離れた場所にあり客層もかなり上質だ。
お互いに詮索しあうこともなければ、関わりあうこともない。
新しい繋がりや出会いを求めていくのには期待できないが、一人や二人で行くにはピッタリのお店だった。
もちろん三雲組の息が全くかかっていない素人のお店なのである。
僕たちはそのバーに足を踏み入れると、後ろにいる四柳に目で中に入るなと合図をした。
僕は言わなければヤクザに見られることは少ないが、後ろにいる人たちはどこからどう見てもヤクザだ。
このまま店に入ったら、店にも客にも迷惑をかけてしまう。
少し心配そうな表情を浮かべる四柳を振り切ってから、僕たちはカウンター席に腰をおろした。
「フフ、ゴッドマザーを一つくださいな」
「……じゃあ俺も。つーかお前予約とか嘘だろう」
「まあ良いじゃない。どうしても迅と呑みたかったんだ」
「ふうん、俺に惚れたか?」
「迅の酒の呑み方によっては惚れるかもね」
目の前に置かれた酒を口に含むと、僕は息を思い切り吐いた。
こうやって酒を呑めば僕は普通の人間なのだと実感することができる。
日々なにかに追われているような僕たちには、こういった普通のことが堪らなく楽しく感じるのだ。
そのまま特に会話をすることもなく、僕たちは何杯も酒を煽りぼーっとしていた。
呑んだ酒が十杯目に差し掛かかったとき、先に口を開いたのは迅だった。
目の前にいるバーテンの手の動きを見ながら、静かに語りだした。
「要は元気か」
「もう大分良くなったよ。最近は三雲組で仕事をしてもらってる。仕事といっても看護師の仕事だけど」
「ああ、そういえば看護師をしていたようだな」
「結構楽しくしてるみたいだよ。まあ三雲組での仕事は少ないから、三雲組がお世話になってる病院に行くことが多いけどね」
「そうか。……お前は、どうなんだ」
「フフ、僕? 僕のなにを知りたいの?」
「そうだな、……お前男としたことがあるのか?」
こっちを向いた迅を見て、僕は少し驚いた。
酔うまでがとてつもなく長いタイプの僕と違い、迅は酔ってからが長いタチの悪いタイプのようだ。
会った回数が少ないので断言はできないが、少なくとも迅はこんなことを聞くタイプではないはずだ。
迅は酔ったら少し扱いにくい性格になるようで、僕は前を向いて迅に聞こえないように溜め息を吐くと迅の瞳を見つめた。
瞳がいつもと違い、酔っていることを教えてくれている。
「もう酔ったの? 早いね」
「フン、ここからが長いんだ。それより、どうなんだよ」
「そうだね、したことあると思う?」
「……その言い方じゃあ、あるんだろう」
「さあね。秘密だよ。ミステリアスな男は気になっちゃうものでしょう」
コップに入っていた氷を口で噛み砕くと、僕は席を立ち上がった。
もう随分と酒も呑んだし時間も過ぎた。
これ以上ここにいると迅はますます悪化して、答えにくい質問ばかりを聞いてくるだろう。
そうなってからでは遅い。
迅は絶対に答えを言うまで帰らせてはくれないだろうし、下手に誤魔化すこともできないだろう。
僕は自分の保身のために帰らせていただくことにする。
少し名残惜しいが迅の酔い方は僕とは相性が悪いみたいなので、仕方がない。
僕はバーテンダーに手を上げ二人分の勘定を済ませると、少し機嫌の悪い迅の手を引き店を出た。
外の涼しい風が少し火照った身体を包み込み、僕は気持ち良さに目を細めた。
だが迅は納得のいかないといった表情をしてみせ、僕の腕を強く引いた。
「おい、奢られる筋合いはねぇぞ」
「フフ、今回は僕の奢り。次は迅の奢り」
「……お前、まだ俺に惚れないのか?」
「惚れるもなにもまだ四回目じゃない」
「俺はせっかちなんだ。早く惚れろ」
「迅の方こそ早く惚れてくれないと。ま、勝負は次に持ち越しかな。じゃあ、またね」
僕は早く帰るために無理矢理会話を断ち切り、迅に手を振ると四柳が身を潜めているであろう場所へと足を進めた。
その一瞬の隙をついて、迅は行動にでた。
僕の腕を思い切り引くと、そのまま強引に僕の唇に自分の唇を合わせた。
それは僕と迅がする初めてのキスでもあり、突拍子もない出来事だった。
僕は予想外の行動に抵抗をする暇も与えてもらえず、その唇を簡単に受け入れてしまったのだ。
「じゃあな」
唖然とする僕に迅はしたやったりな顔をすると、護衛を引き連れて夜の街に消えていった。
嗚呼、忘れていたが迅は意外と負けず嫌いなのであった。
変なプライドを刺激してしまったようだ。
僕は唇を舐めると、僕以上に呆然と佇んでいる四柳の腕を引き、車に乗り込んだ。
どうやら今日は僕の勝ちだと思っていたが、僕の負けのようだ。
備え付けのワインを手に取ると、いつもの如くラッパ飲みをして盛大な溜め息を吐いた。
「悔しいなぁ、ねぇ、四柳? 今度はホテルに誘ってみようか」
「ぼ、ぼぼ坊ちゃん! ホテルなど! そんなこと!」
「フフ、もちろんセックスはしないよ」
「ですがあの方とホテルに二人きりとなると……危な過ぎます」
「大丈夫さ。フフ、早く惚れてくれれば良いのにね?」
ワインの口に唇をつけながら、僕は急速に迅の元に落ちていく感覚がした。
どこが良かったのか、どこに惹かれたのか、どこに興味を持ったのか、そんなことは頭で考えてもわからない。
ただ感じたのだ。
嗚呼この人が良いのだ、と。
キスをされたのがきっかけなのか、それ以前にもう落ちてしまっていたのか、それは定かではない。
だけどきっと迅でなければこの閉ざした気持ちも揺れ動くこともなければ、傾くこともない。
不安定に揺れ動く僕の感情を酒で呑み込むと、夜のネオンを背景に目をゆっくりと瞑った。
「……フフ、僕も馬鹿だな」
四柳にも聞こえないように小さく呟いた台詞は、誰に拾われる訳もなく消えていった。
今日迅に会えて良かったと思う。
近々三雲組が新しい仕事に取り組むことが決まっており、少し忙しくなるため暫く迅に会いに行ける余裕がなくなるのだ。
迅の性格からして僕を惚れさせるとは言ったものの、自分からは会いにこないだろう。
なんだかそれは可笑しな勝負の仕方だけど、迅の策でもあるのだ。
だって現に僕は会いにこない迅に焦れて会いに行っているのだから、その時点で僕はもう負けている。
僕たちが組長になるまでの長い期間の勝負。
でもわかっていた。
僕はこの勝負がそんなに続く長いものではないのだと。
僕はもう遅いんだ。
あんなに啖呵を切って落ちないと言い張った癖にこの状況だ。
これからは迅に僕の気持ちをひた隠しにして、勝負を長く続かせるようにするしかない。
こういうときに僕はポーカーフェイスで良かったと、心底思う。
前を向きながら真剣に車を運転する四柳を見て、僕はらしくもない問いかけをしようとした。
「……四柳は、……」
「え? なんでしょうか?」
「……別に。このワインちょっと味落ちたんじゃない? 別のワインが飲みたい」
「坊ちゃん、呑み過ぎは身体に良くありませんよ」
「ヤクザの癖にそんな堅いこと言わないでよ。ほら、行き先変更!」
「……はあ、仕方ありませんね」
迅の唇と触れ合った唇を緩く指先で撫ぜると、無性に泣きたくなった。
自分がこれからどうしたいのか、どうしたら良いのか、なにをするべきなのか。
それすらわからないまま僕は暗い迷路に迷い込む。
出口は知っている。
だけどそこからは決して出ては行けないのだ。
その迷路自体を呑み込むように、今日だけと、僕は酒を浴びるように飲んだ。