come,va? 04
 忙しない日々。 最近は三雲組も出入りが激しくなってきている。
 僕は毎日を感じる暇もなくただ黙々と仕事を続けていた。
 若頭という肩書きは響きだけは良いのだが、実際は激務も良いところだ。 次期組長と言われるポストだけれど、まだまだ組長は元気だ。 人生なにがあるかわからないから断言はできないが、僕が組長になるのは当分先の話だ。 僕がそのときまで元気でいられたらの話だけれど。
 瞼を指で軽く押さえると、忙しそうに資料に目を通している四柳の背中に凭れ掛かった。 その感触に四柳は後ろを見やると、僕が楽な体勢になるように少し身体を傾けてくれた。
「フフ、疲れちゃった……」
「坊ちゃん、まともに休みもとらないからですよ」
「それは四柳もじゃない。ああ、そういえば要は元気なの? 最近、顔を見に行ってないんだけど」
「要様は元気でおられますよ。最近は三雲組での仕事も増えたのでずっとこちらで働いております」
「そうだね、ヤクザの本家での仕事はある日とない日にわかれちゃうし……病院に配属するのも、そろそろかな」
「……要様はご存知で?」
「知らないよ。要はここが良いって言うんだ。だけど、ね、そういう訳にもいかないじゃない?」
「……要様のご様子を見に行かれてはどうですか? 気分転換にもなります」
「じゃあそうしようかな」
 小さく伸びをして四柳の傍から離れた。
 僕に背を向けて仕事に勤しむ四柳の姿が、迅の姿とだぶって僕は慌てて頭を振った。
 疲れが溜まると変なことばかり考えてしまうらしい。
 あの日から迅の姿を見ていないが、迅はどうしているのだろうか。 相変わらず新宿に張り付いているのだろうか、それとも新しいイロを囲って楽しくやっているのだろうか。 僕との賭けを忘れてはいないのだろうか。
 いつものように、なにもなかったかのように、僕が迅の前に姿を現したら迅はどんな表情をするのだろうか。
 次に会うときまでには、迅が驚いて声も出ないであろう衣装と台詞を考えておこう。 僕は小さな楽しみを増やすと、要がいる医療室へと向かった。
 昔は迅のイロをしていたし、迅の話で会話を盛り上げるのも悪くない。
 廊下を一歩一歩踏みしめ、僕は医療室の襖をゆっくりと開いた。 中には医学書に目を通す要がいて、僕の姿を見るなりにっこりと微笑んで僕を迎え入れてくれた。
「お久しぶりです、三雲さん。少しやつれましたか? 食事、とってます?」
「ハハ、嫌だなぁ、要、小姑みたいだよ」
「だって顔色も悪いですし、……痩せましたでしょう? 忙しいからといって食事を怠ったら後でつけがきますよ」
「ああ、うん、まあ、食べてるんだけどね……」
 楽しい会話はどこへやら。 要は僕の身体をべたべたと触ると大きく溜め息を吐いた。
 仕事を始めてからというもの、要はすっかり別人のようになった。 前のような儚げな雰囲気はなくなり、健康的で明るくはきはきとしてきた。 それはもちろんとても良いことでもあるし、僕も喜ぶところなのだが、すっかり小姑のように僕に説教をするのだ。
 要に反論のできない僕は、四柳も吃驚のうろたえで視線を伏せた。 このままでは説教も終わりそうもない。 そう思った僕は会話を変えるべく迅のことを話し出した。
「そういえば、僕、迅と勝負してるじゃない? 迅のタイプって知ってる?」
「ええ、迅さんのですか? ……あの方は本当に節操がなかったので、わかりません」
「へえ……」
「噂には聞いてるかと思うのですが、男女関係なくタイプも歳もなにもかもバラバラなんです。外や内、たくさんの方が迅さんと夜と共にしているんですよ」
「……誰でも良い、ってこと」
「そうですね。だから難しいとは思います」
「フフ、勝負の行方が怪しくなってきたね」
「でも大丈夫ですよ、三雲さん凄く魅力的ですし、迅さんもきっと落ちますよ」
「兄弟盃かかってる訳だし、頑張らなくちゃね」
 要の柔らかい髪の毛を手で梳いて、僕はゆっくりと目を瞑った。
 頭の片隅に追いやられていた兄弟盃のこと。 本当はだんだんどうでも良くなっている自分がいて、心が指すまま闇に飲み込まれてしまいたい衝動に駆られる。
 恋心を必死に食い止めているのは、プライドと現実。 それすらどうでも良くなってきたら、なにが歯止めになるのだろうか。
 もうすぐ訪れる、僕が一年でもっとも弱くなる日。 その日が近いから、僕はこんなにも落ちていってしまうのだろうか。
 不思議そうに僕を見つめる要の額に唇を落とすと、柔らかい太ももに頭を乗せた。
「……おやすみ」
「み、三雲さん? 寝ちゃうんですか?」
「フフ、四柳がくるまで、寝かせて」
 目を瞑り僕はゆっくりと眠りに落ちていった。
 四柳や要の側にいると安心感からか直ぐに眠りにつくことができる。
 最近は激務で睡眠もろくに取ることができなかったので身体も重い。 まだまだ仕事はたくさん残っているので、ここであまり眠ることもできないが、少しは楽になるだろう。
 目覚めたら四柳がいて、坊ちゃん駄目ですよって言いながら僕を仕事に連れて行ってくれるんだ。 そうしたらまた僕は仕事に追われて、なにも考えなくて済む。
 嗚呼、いつからこんなに弱くなった?  いやきっとこれは僕の所為じゃない。 迅の所為でもない。 全てはあの日の所為なんだ。
 暗闇で絶え続けた三日間が僕の人生を大きく変えた。 あの日がなければ僕はこんなにも弱くならなかっただろうし、強くもならなかった。
 まどろむ意識の中、慌しく開いた襖の音と溜め息を吐く四柳の声、そして優しい声で笑う要の声が聞こえた。

「いらっしゃいませ」
 要と久しぶりに会話してから、早くも一週間が経とうとしていた。
 僕は新宿に足を運び、カランカランという鐘の音と優しげな店員の声に出迎えられた。
 訪れた場所は迅と一緒に飲んだバー。 今回は一人だ。 もちろん護衛も四柳もなしでやってきた。
 僕はカウンターに座ると最初からバーボンのロックを頼み、自棄酒の如く胃に流し込んだ。
 なんだかんだいって今日を迎えるのがとても早く感じた。 嫌だ嫌だと思っている出来事ほど、早く訪れるように思う。
 僕は目線を伏せ、溜め息と共に記憶も吐き出してしまいたい衝動に駆られた。
 丁度、あの日から今日で十年が経ったのだ。 お祝いすべき記念日ではないのだが、十年という節目を迎えた今、そろそろこういう日をなくさなくてはいけない。 いつまでも過去に囚われていたままでは前に進めないし、弱さを捨てきれない。 弱さはいつか自分の弱みとなり、そこを突かれてしまえば僕は終わりだ。
 考えはどんどん深みを増して、僕は鬱状態になったかのようにマイナス思考になる。
 何十杯目かのバーボンを煽ると同時に、扉の開く音がした。
 僕は気にも留めずにバーボンを呑んでいたのだが、新しい客はどうやら僕に用があるらしく、僕の横に座るといつかの僕のようにしたり顔を見せて挨拶をしてきた。
「come va? ……って、ご機嫌いかがって意味らしいな」
 どうして今日に限って迅と会ってしまうのだろうか。 偶然にしても会いにきてくれたとしても、タイミングが悪過ぎる。
 迅はバーテンに自分のお酒を注文すると、僕の顔を覗き込んできた。
 何故だかその顔を直視することができなくて、僕は目線を自分のお酒に移し平常心を保つために軽い調子で話しかけた。
「フフ、調べたんだ?」
「まあな、……っつかお前呑み過ぎじゃないのか? もう出来上がってるじゃないか」
「……放っておいてくれないかな。今日は一緒に呑む気分じゃない」
「あ? どうしたんだ?」
「だから、放っておいてって……お願いだから」
 四柳にも父にも要にももちろん迅にも、今日だけは甘えずに一人で過ごしたいんだ。
 絶対に自分が可笑しい状態になっているとわかっているし、知らずになにかを口走ってしまうかもしれない。 それだけは避けたいことだし、それに僕は一人で大丈夫だと、自信もつけたい。
 なのに呑み過ぎた所為か身体はちっとも言うことを聞いてくれなくて、ぐらぐらと視界が歪んできた。
 大声を出したからだ。 目の前の迅が三人に増えて、僕の身体を優しく包んでくれた。 その感触に僕の血圧がぐっと上がった感覚がし、ますます視界が歪む。
「おい、大丈夫か?」
「ご、めん……僕のポケットにこのバーの裏にあるホテルのキーが入ってるから、連れてってくれないかな……」
「はあ? って尚人……!」
 初めて名前を呼んでくれたのに、僕はお酒でどうしようもない状態なのが悔しい。
 憎まれ口もいつもの軽い冗談も余裕ぶった態度も、なに一つできないなんて本当に失態だ。
 だから今日は嫌だったんだ。
 迅に抱えられる感覚をどこか遠くで感じながら、僕はゆっくりと目を瞑った。

「ん、……」
 しゅるり、と衣服の擦れ合う音がして僕は目を開いた。 ぼやけた視界には、ホテルに付属されてある浴衣を着ようとしている迅の姿。
 どうしてここに迅がいるのだろうか。 数秒考えてから僕はどうしようもなく寂しい気持ちになった。
 僕が頼んだままにホテルに連れてきてくれて、着替えまでしてくれたのだ。 その上目の前の迅は帰る様子など全くなく、寧ろ浴衣に着替えているということからここに泊まることが予測される。
 どういった意味を持つにしろ、弱った自分に今自分が一番欲しい人が目の前にいて尚且つ夜を共にしようとしている。
 僕は衝動のままこっちを向いた迅に飛びつき、そのまま床に押し倒した。
 驚いて声も出せない迅に構うことなく、僕は首筋に噛み付くと綺麗に着た浴衣を脱がせにかかった。
 自分でもなにがしたいのかわからない。 僕を止めてくれるならなんでもする、だから誰か僕を止めてほしい。
 怪訝そうな顔で僕の顔を覗き込み、押し返そうとする迅の目と目が合った。
「おい、まだ酔ってるのか? 待て……」
「フフ、酔ってないよ」
「……誘ってるのか」
「どうだろう」
 自嘲を浮かべる僕に迅は眉を潜めると、僕の腕を掴みそのまま逆に押し倒した。
 どうだって良いんだ。 いっそこのまま迅が欲望のまま僕を犯したってどうだって良い。 なにも考えたくない。 記憶を塗り替えてしまいたい。
 僕に覆い被さったままなにもしようとしない迅の目をじっと見つめ、泣きそうになった。
「……抱かないの?」
「ハ、生憎俺は根性が曲がってるんだ。嫌がってくれないと勃たねぇ」
「フフ、強姦が趣味なんだ」
「な訳ないだろう。……どうしたんだ、今日のお前は変だぞ」
「誰だって弱くなる日もあるし、逃げたくなる日もある。……僕は、今日、……そういう日なんだよ」
「ほう、だから抱けと?」
「……言っておくけど、誰にだって抱かせてる訳じゃないから」
「知ってる。お前震えてるぞ。慣れてないんだろう? なのにどうしてこんなことをするんだ」
「……今日の迅も変だよ。優しい」
「珍しくお前が弱ってるからな。その理由を聞きたくて優しくしてるってとこだ」
「フフ、……言っちゃ駄目でしょ、そういうの」
 込み上げてくるのは涙。 だけど一滴も瞳から零れることはない。
 いつしか泣けなくなっていた。 悲しいとき辛いとき泣きそうなとき、心は痛むけれど涙が出てこないのだ。 きっと人間らしい感情は、強さと引き換えに十年前に落としてきた。
 僕は微動だにしない迅に観念して、ぽつりぽつりと話し出した。
 忘れることのできない十年前の出来事。
 あの日、僕は珍しく一人で中学校から自宅へと徒歩で帰っていた。
 本来なら僕みたいな組長の子供は弱さ故に狙われやすく、組の弱みでもあるため護衛がついての登下校になるのだが、あの日だけは何故だが迎えがこなかったのだ。 待っておけば良かったものの、迎えという束縛に嫌気のさしていた僕はなんの危機感もなく寄り道をしながら帰っていた。
 後から聞いた話だが、迎えがこなかったのも全ては仕組まれていたこと。
 僕はまんまとその罠に引っかかり、下校中三雲組と争っていた組に誘拐されてしまったのだ。
 そこからは思い出したくもない三日間だった。 ベッドに両手両足を拘束され、大人たちの良いように甚振られた。 三日間飲まず食わずの上に強姦、安い薬も打たれたし、何度も暴力も奮われた。
 三雲組が助けに入る直前まで嬲られていた13歳の僕の身体は、許容範囲をとっくの昔に越え虫の息だった。 なんとか一命は取り留めたものの、療養に一年はかかったし、忌まわしい記憶は現在でも僕を苦しめる。
 だけど僕が一番恐怖を覚えたことが、今でもこうして僕を縛り付けるのだと思う。
「怖くなかったんだ。恐怖を感じなかった。ずっとこのままでも平気だと、……そう感じた」
 それが怖かった。
 周りが腫れ物を扱うかのように僕に接してきた。 身体の状態は酷かったけれど、心はなにひとつ変わらないまま。
 可哀想に、怖かったな、そういった類の言葉をかけられる度、僕は怖くなかったことが異常に思えてきてどうしようもない恐怖に囚われた。
 僕は可笑しいのだ。 きっと心が産まれたときから壊れているのだ。
 その日から僕は全てが変わった。 周りが驚くほどに強くなり、何事にも恐れることなく対応してきたし、どんなこともできた。
 その代わり、あの日だけつけが回ってきたかの如く僕は弱ってしまう。
 ゆっくりとあの日のことを思い出しながら、僕は全てを迅に話した。 四柳にだって話していないことを、どうして迅に話してしまったのだろうか。
 目の前の迅の表情は変わることなく、ただ僕をじいと見つめていた。
「……今ここでセックスしても、お前はなに一つ変わらないだろ」
 迅はそう僕に言うと、僕の身体を優しく抱きしめてくれた。 どくどくと脈打つ迅の心臓に、どうしようもない愛しさが僕を包んだ。
 どうして今日に限って迅は優しいのだろうか。 こんなことをされてしまえば、必死で止めていた想いが溢れてどうしようもなくなるじゃないか。
 優しい台詞で僕を救ってくれる迅に、僕はまた迅を好きになってしまった。
「難しく考えるな。確かにその日、お前は恐怖を感じたんだ。だけどその恐怖が自分の限界以上の恐怖だったから、心が受け付けなかっただけだろう」
「フフ、……その考えは、なかったな」
「本当のセックスは良いもんだ。お前が俺に惚れたら教えてやろう」
「……そう、だね。頑張って惚れさせてよ」
「フン、言ってろ」
 もうとっくの前に惚れている。
 僕は迅の肩に顔を埋めると、ゆっくりと息を吐いた。 迅のお陰で僕は少し心が楽になり、前に一歩進めたような気がする。
 どうしてこの人はこんなにも僕を虜にしてしまうのだろうか。
 このまま時間が止まれば良い。 そうしたら迅はずっと僕を抱きしめていてくれる。 僕も不安に襲われることもなければ、幸せなまま過ごしていける。
 小さく震える僕の身体を迅はきつく抱きしめると、ベッドに運んでくれた。
「仕方ねえから、ほら、寝ろ。今日はずっとこのままでいてやるから」
「……あ、りがと」
「素直なお前は気持ち悪いな。……早く元気になって、いつも通りになれよ。俺まで調子狂うだろうが」
「フフ、……おやすみ」
 手に入らないものの大きさを感じながら、僕は迅の腕の中で眠りについた。 どくどくと迅の鼓動が聞こえてきて、抱きしめてくれた腕からは温もりを感じる。
 僕は四柳でも要でも得られないものを感じながら、十年ぶりに心から安心して眠れた。