come,va? 05
 朝日が昇る前、僕は深夜とも早朝ともいえない微妙な時間に目を覚ました。
 僕を優しく抱きしめたまま眠る迅は深い睡眠なのか、起きる気配は全くなく穏やかな表情だ。
 その端正な顔をじっと見つめながら、僕は昨日の失態に暴れたくなるくらいの羞恥を覚えた。 いくら惚れた相手だからと言って、昨日僕がしたことは記憶に残すのさえ嫌悪感を抱いてしまうほどの失態だ。 弱りきった僕に迅があんなにも優しくするから、僕は恥ずかしげもなく甘えたし、過去のことも話してしまった。 このまま何事もなく朝を迎えて、迅と話せる自信はない。
 僕は迅を起こさないようにそっと腕から抜け出すと、テーブルの上に置かれた自分の衣服に腕を通した。
 迅とは組も違うし、お互いに忙しい立場だからなかなか会えるものではない。 話もせずに帰ってしまうのはとても名残惜しいが、そんなことを思うなんて僕のキャラじゃない。 ここで僕が惚れたことを知られてしまうのもまずい。
 この想いは一生言う気はないし、胸に秘めたままにするのだ。
 兄弟盃がどうしてもしたかった。 けどそれも時間の問題だ。 僕と迅がしなくても、父同士がいずれかはしてくれるだろう。
 それは寂しいことでもあり、僕と迅の接点がなくなるということでもある。
 本当は僕と迅がしたかった。 だけど兄弟盃をする権利はもう僕にはない。
 どうして恋に落ちてしまったのだろうか。 迅の側に行き、柔らかそうな髪を梳きながら小さく呟いた。
「……じゃあ、ね」
 そのまま僕は部屋を出ると、受付でお金だけ払いホテルを後にした。 ホテルの前に止まっている見慣れた車を見つけると、その車に近づき窓を軽くノックする。 その音で車の扉が開き、僕は後部座席に乗り込んだ。
 車内で出迎えてくれたのは少し眠そうな目をしている四柳。 あんまり寝ていないのだろうか、目の下には大きな隈ができており、目尻には涙のあとがあった。
 きっと昨晩は僕の分まで仕事をしてくれたのだ。 今すぐにでも寝たいだろうに僕をわざわざ迎えにきてくれた。 これだから僕は四柳が大好きなのだ。
 心配そうな顔で僕の顔色を伺う四柳ににっこりと笑うと、口を開いた。
「フフ、もう大丈夫だよ」
「……そうですか、それはなによりです」
「今年で、……もう終わりにしようと思うんだ。少し踏ん切りがついたような気がするよ」
「……迅、さんですか?」
「感が良いね、四柳は。昨日さ、迅と会ったんだ。今、ホテルに迅が寝てる。ああ、そんな顔しないでよ、やってないから」
「そ、そんなこと思っておりません」
「フフ、四柳はわかりやすいね。……ねえ、四柳? ごめん」
 引き攣ってしまった僕の笑みを見て、四柳は全てを理解したようだ。
 僕のことなのに泣きそうになった四柳はハンドルをきつく握り締めると、ぎこちなく笑ってくれた。
 三十半ばの渋い男が泣きそうになっている姿は少し可笑しいものでもあり、可愛らしくもある。 そんな四柳にいくらか気の楽になった僕は、指示を出して車を発進してもらった。
 三雲組までの道はここから案外近いものだ。 だけど四柳はわざと遠回りをしながらドライブがてらに、車を走らせていた。
 さっきまでは暗かった外も徐々に朝日が昇り始め、コンクリートジャングルの東京が少し綺麗に見えた。
 僕は窓の外をぼうっと見つめながら、頭の中の迅を斬り捨て仕事のことを考えていた。
 今はとてつもなく忙しいが、暫くしたら少し余裕ができてくる。 その隙に要を病院に転送して、徐々に三雲組との繋がりも消していかなくてはならない。
 要の人生は要だけのものだ。 僕たちが簡単に縛れるものではない。 ああいった形だったけれど要と出会い、少しの間時間を共有した。 僕と少し似ている要には幸せになってほしい。
 朝日が完全に昇りきり、僕は車内内臓のクーラーからワインを取り出すとコルクを歯でこじ開け、そのまま口に含んだ。 行儀が悪いとは思うが、僕にとってはこの呑み方が一番美味しく感じられるのだからやめられない。
 僕の様子をバックミラーから伺っていた四柳は苦笑いをすると、口を開いた。
「坊ちゃん、医者から言われてるでしょう」
「フフ、呑み過ぎって? 関係ないね、お酒がないと僕は生きていけないよ」
「坊ちゃん、立場を考えてください。いずれは三雲組を引き継ぐのですよ、お身体には十分気をつけてですね……」
「ヤクザの口からそんなことは聞きたくないな。それより例のことどうだった?」
「……最近、三雲組から破門された組の仕業ですね」
「やっぱり、ね。めんどくさいことしてくれたよね。……フフ、終わっちゃうのにね」
 舌なめずりをして不適に笑う僕に、四柳は少し悲しそうな顔して笑った。 聞かなくたって四柳がなにを考えて、なにを言いたいのかもはっきりとわかる。
 いつだって僕は僕のことより他のことを優先して、自分自身のことを後回しにしてきた。 僕はそのことを特に苦痛だと感じたこともなければ、三雲組の跡目としては当たり前のことだと思っている。
 僕が産まれた瞬間から、三雲組の跡目として生きていくことが決まっていたのだ。
 遠回りをして脱線しても、いずれかは元の道に戻らなければならない。 そうなるくらいなら、最初から脱線をしないのが一番良いのだ。
 頭の中の思考を仕事一色に染め、三雲組の仕事のことについて考えた。
「ねえ、四柳、歌舞伎町に新しい店オープンしたでしょ? 売り上げはどうなの」
「今のところは順調、と聞いておりますが……やはり競争率が高い土地ですので、思ったよりは伸びていないですね」
「そう……まあ、焦って資金がいる訳でもないから良いんだけど、難しいね、経営は」
「そうですね。……坊ちゃん、勝負の方はどうされるのですか?」
 車のスピードが少し落ちた。 バックミラー越しに声をかけてくる四柳の表情は至って真面目で、僕はこの質問から逃げることができずに仕方なく口を開いた。
 僕を迎えにきた瞬間から、いやずっと前から聞きたかったことなのだろう。 四柳にとって僕は主でもあり、弟のような存在でもあったから。
「フフ、そうだね、どうしようか……? 僕、もう負けてるんだけどね」
「……言わないおつもりですか?」
「当たり前じゃない。言ったって、なにも変わらないよ。それに僕はなにも望んでいない」
「坊ちゃん、三雲組はいずれ世襲制じゃなくなるかもしれません。そうなっても三雲組の名前はずっと残ります。それに坊ちゃんは、三雲組の跡目以前に普通の人間でもあります」
「なにが言いたいの」
「……差し出がましいようですが、恋愛は自由だと、私は思います。どんな立場であってもです。伝えろ、とは言いません。だけど気持ちを否定してしまうのは、……」
「フフ、言うじゃない。でもこれは僕の問題だ。いくら四柳でも口答えは許さないよ」
 流れる景色を窓越しに見ながら、四柳に幾分かきつい口調で告げた。
 言われなくてもわかっていることを人に言われると、無性に腹が立ってしまう。
 バックミラーには眉間に皺を寄せ少し悲しそうな表情を浮かべる四柳が僕をじいっと見つめていて、僕はその視線をなるべく見ないように目を逸らした。
 少しの沈黙が車内を包み、気まずい雰囲気にワインを口に含めば四柳が小さく僕に言ったのだ。
「……私は、四柳は、坊ちゃんの幸せを祈っています」
 たかが惚れた恋した。 そんなことなのに大層なことのように告げる四柳に僕は少し笑みが零れた。
 僕が気持ちを言わないのは、そういうことではないのだ。 四柳は僕が迅と通じ合うのに恐怖を持っていると、勘違いしているようだ。 お互いの組を担う僕たちは将来跡継ぎを作らなくてはいけない。
 だけど僕たちは同性なのだ。 決してお互いの子を身篭ることはおろか、自由に恋愛だってしてはいけないのだ。 いずれかはやってくる別れに脅えて、気持ちを言わないと思っているようだが、僕はそんなことで気持ちを言わないのではない。
 じゃあ何故言わないのか。 そう言われれば返答に困ってしまうが、この複雑な感情は僕にしかわからないもの。 僕自身、迅に惚れてしまった事実に驚いているし不安でもある。
 今、僕は右も左もわからない土地になにも持たせてもらえず一人で放り出された状態にあるのだ。 そこからゴールを目指して歩き出す気力も勇気も術も、なにももっていない。 ただ僕はそこでじっと過ごし、生きることだけを考えていたいと思ってしまったのだ。
 これは逃げでもあり、一種の恐怖でもある。
 そのまま口を閉ざしてしまった四柳の姿を、今度は僕が見遣る番だ。 確実に見雲組本家へと続く道を走らせる四柳の背中に、聞こえないくらいの大きさでぼそっと呟いた。
「ありがとう」

 迅と最後に会ってから、一週間が経とうとしていた。
 その間に三雲組のごたごたしていた問題も解決し、新宿にオープンした店も問題なく営業をしている。 なにも変わらない日常。 なにも変わらないのが僕にとっては一番気楽で幸せだ。
 仕事もひと段落を終え、久しぶりに訪れたゆったりとした時間に僕も四柳もぼうっとしていた。
 三雲組本家の奥に隠されたようにある小さな建物。 要を住まわせているその建物の奥にもう一つ、建物があった。
 そこは僕の部屋でもあり、四柳の部屋でもある。 なにもない、六畳ぐらいしかないその質素な部屋が僕は大好きだった。 その部屋から見える枯山水、鹿脅し、まるで時間が止まったかのような空間に僕は全てを忘れることができた。 この部屋の中でだけ、僕は空っぽの人間になれるのだ。
「……平和だね」
「そうですね、特に最近は忙しかったので」
「フフ、もう懲り懲りだよ。暫くはなにもしたくないな」
「……ですね」
 四柳の広く、大きな胸に顔を埋めて、一定のリズムを刻む心音を聞いていた。
 一見、異常にも見える主従関係に眉を顰める人間も少なくはない。 いくら若頭とその右腕であっても同性同士がこういうことをしていれば疑うのも当然だ。 三雲組の中には僕と四柳ができているという噂もあるぐらいだ。
 僕にとって四柳は兄のようであり、掛け替えのない親友のようでもある。 四柳も同様に僕のことをそういう感情で見ていた。
 きっと恋愛感情などとっくに通り越してしまい、恋愛感情などと簡単に言ってしまえる感情ではないのだ。 他人に理解されなくても、お互いが理解していれば僕はそれで良かった。
 そっと髪を梳く感触に瞼を閉じながら息を吐けば、その奥からパラリと本のページを捲くる音が聞こえた。
 実はこの部屋にいる人間は僕と四柳だけではなかった。 襖を開けた直ぐ側に簡易椅子を置き、本を読む要がいたのである。
 数ヶ月という短い期間だが、要は僕と四柳の関係を近くで見てきたので今更なにも言いはしなかった。
 最初は僕と四柳ができていると思っていたらしいのだが、どうやらそうでないと思ったみたいだ。
 本をぱたりと閉じると僕の顔を見つめ、にっこりと笑いその薄い唇から綺麗な声で話し出した。
「わかってました」
「……そう。なら話が早いね、要、今日から雲見病院に移ってもらうことが決まったよ。それと、そこの寮に移り住むことも」
「どうしたら良いですか?」
「荷物はもう既に送ってある。寮が嫌なら手続きをして一人暮らしをするもの良い。そうだね、もう要は自由ってことかな」
「時間が経つのは、早いものですね」
「どうしてわかったの?」
「勘、ですかね? 三雲さんの性格からして、ずっと僕はここにいられないだろうなってことも、わかってました」
「フフ、まあでも雲見病院は三雲組が資金を出しているし、完全に途切れた訳じゃないよ」
「そうですね。あそこの病院、僕好きなんですよ。みなさん優しいですし、……三雲さん、お世話になりました。それに四柳さんも本当にありがとうございます」
「嫌だな、永遠の別れじゃないんだし、……また会いに行くよ」
 僕は四柳の身体から離れると、要の側に行きその細い手を取った。 敬愛の意味を込めて指先に唇と落とすと、腕を引きゆっくりと三雲組の庭を一歩踏み出す。
 手を繋ぎなにも喋らずに歩く僕と要の三歩後ろに、無表情の四柳が僕たちの後をついてきていた。
 僕よりほんの少し背の高い要の横顔を見るのも、もしかしたら今日で最後かもしれない。 出会いがあれば別れはあると必ず言うものだ。 まさか身を持って経験するとは思ってもいなかったが。
 今までの僕は四柳がいればそれで良かった。 四柳以外の人間とは深く関わらなかった。 だから要や迅と出会い、別れを経験することは妙なくすぐったさと、寂しさがある。 会おうと思えばいつだって会えるのだ。 迅とは違いいつでも会えるのだからそう落胆するものでもない。
 三雲組本家の表門まで無言のまま歩き、その大きな門の前で僕たちは指先を離した。
 今から要を病院に転送し、いろいろと手続きをさせる。 それは要がこの三雲組を出て行き、独りで生きていくことでもある。
 駐車しているタクシーの後ろを開けると、要がそこに乗り込み窓を下げて僕に微笑んだ。
「三雲さん、本当にお世話になりました。このご恩一生忘れません。いつか恩返ししますので、それまでさようならはとっておきますね」
「フフ、言うじゃない」
「……ねえ、三雲さん、……言っても良いですか?」
「なにを?」
「迅さんとの勝負、やめないでください。僕がこんなこと言うの可笑しいんですが、やめちゃ駄目です」
「ああ、でももう終わりだよ。兄弟盃もしなくて済みそうだしね」
「そうじゃなくて、……三雲さんは、あの人のことを、……イロをしていた僕の口から聞くのは嫌かもしれないですが」
「良いんだよ、要。僕は良いんだ」
 にっこりと笑った僕に要は悲しそうな表情をして見せ、俯いた。
 そういえば一週間前にも四柳が同じようなことを言って、同じような表情をして見せたな。 二人とも僕のことを心配し過ぎだと思う。
 僕は運転席に座っているタクシーの運転手に行き先を告げると、窓を閉じるように要に指示をした。 なにを思ったのか要は首を左右に振ると、諦めずに僕に語りかけてきた。
「三雲さん、迅さんはああ見えてとっても寂しい人です。誰かが迅さんのことを救ってあげなければあの人はずっと独りです」
「僕じゃなくても大丈夫でしょう?」
「いいえ、三雲さん以外に務まる人はいません。僕は迅さんのことも心配なんです。三雲さん、どうか迅さんのことをよろしくお願いします」
「……考えておくよ」
「ありがとうございます。……三雲さん、どうかお元気で。次に会うときはお二人で顔を見せてくださいね」
 ゆっくりと閉まる窓。 要の言った二人という言葉が僕と四柳を指していないのはわかっていた。
 僕から遠ざかっていくタクシーを見つめながら、重い息を吐いた。
 これじゃあ要に会いに行けないじゃないか。 僕と迅が二人揃って要に会いに行く現実など、今の時点じゃ全くもって可能性としてはない。 寧ろ時間が経ったって無理に近い問題だ。
 僕の後ろでただじっとしていた四柳を振り向き、苦笑いをしながら四柳の肩に額を乗せた。
「……僕の顔、そんなに酷い?」
「ええ、酷いですね。迅さんに会いたくて仕様がないって顔をしてらっしゃいます」
「フフ、嫌だな、そんな顔は」
「私はそんな顔をする坊ちゃんも、若のときの坊ちゃんも、全部含めて坊ちゃんだと思っております」
「……四柳、そんなに僕のこと好きなの? それじゃあ結婚もできないよ」
「別に構いません。私は坊ちゃんを見た瞬間から、坊ちゃんの右腕として生きていくことを決めました。……そうですね、私の結婚は坊ちゃんの右腕です」
「ハハ、馬鹿だなあ、四柳は」
「馬鹿でも構いませんよ。……坊ちゃん、本日の夜、迅さんが歌舞伎町に視察に行くそうですよ」
「へえ」
「坊ちゃんも視察に行かれてはどうですか? そろそろオープンした店に顔を見せに行っても良い頃合いだと思います」
「……フフ、四柳も言うようになったじゃない」
 どうやって調べたのだろうか。 四柳の情報力に驚きつつ、その労力をもうちょっと他に向ければ良いのにと思った。
 なにをするにも僕のことが第一で、僕のことを思って生きている。 そんな四柳がした提案に僕は仕方なく、といった表情をしてみせ頷いた。
 本当はただ僕が迅に会いたいだけで、四柳もきっとそのことはわかっているのだろう。 四柳がそう仕向けたのか、そうじゃないのか、丁度本日の午後のスケジュールは空白だ。
 日が沈んでから歌舞伎町に出向くことを決めると、僕は四柳と一緒に仮眠をとることにした。
 ただどうしようもなく恋焦がれて、迅のことを思って日々過ごしている僕は本当に弱くなったと思う。
 あの日、強くなろうと決意したのにこの様だ。 だけどこの弱さを四柳は素敵な弱さだと、そう言った。
 人を好きになることは悪いことではないし、好きになったことで弱くなった部分は好きになった人が補ってくれる。
 僕と迅がどうこうなるかなんてのは誰にもわかりはしないが、ただ会いたかった。 勝負の終わりも、気持ちも、全て今日で終わらそうと決めた。
 僕は優しく包んでくれる四柳の腕で、遠く昔に戻ったような感覚がした。